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❤いつも心に詞(うた)を置いて🎤あの歌手あのartistに【new!Virtual書き下ろ詞】

2438篇超の演歌・歌謡曲 J-POPの私の書き下ろ詞!ほぼほぼ毎日【new!Virtual書き下ろ詞】

400字で綴る very short essay《遠い記憶》#12 「ウタ書き、上京の頃」

2021-01-16 | 400字のvery short essay
新年挨拶1 遠い記憶400字
東京に出てくるきっかけはちょっとしたびっくらポンの
逸話で始まる。今や何十年も前のことで事細かには
覚えていないが、結論から言うと、プロとしての作詞の
デビューは1980年美川憲一さんが唄った「さだめ川」が
評価されて、レコード会社から「東京に出てきて本格的に
詞を書きませんか」とありがたい話がきっかけだった。さだめ川CDさだめ川CD
(ここから先は後日面談した当時の制作部長の話)
発売にあたって契約等の手続きで私の許諾が必要だが
今みたいに情報やネットワークが発達していた訳でなく
とにかく住所や連絡先が皆目分からずで、それでも既に
レコード発売が何十枚かあった私を探す唯一の方法は
JASRACの作品届に目をつけたようだった。東海地方に
住んでいるようだと当てをつけ、レコード会社の支社
(営業所)に伝令が行き探しまわったと聞いた。見つ
かった、会えました、から数日後、本社の制作部長さん
から電話が入った。発売に至る経緯は東京本社で聞いた。
クラウン1昔、赤坂、クラウン本社
その後ほどなく身辺整理をして上京することになる・・・ 
注:見やすいように段落、改行をしました。  (画像をお借りしました)

400字で綴る very short essay《遠い記憶》#11 「アルバイト、始まりの頃」

2020-09-25 | 400字のvery short essay
400字アルバイトの始まりはレコード会社400-1のデスクワークとしてフル出勤、
フルタイムで働き始めたのはやっぱり音楽が好き!の
ひと言に尽きたから。業界では真新しく参入した時期で
ありながらその勢いたるや、飛ぶ鳥が何羽も落ちたほど(笑)
とはまさにその会社のことと言ってもおおげさでなく、月2回
の発売日のローテーションには注目、目玉、ヒット間違いなし、と
新曲が矢継ぎ早やに発売になるほど歌手を抱えていた。400-5
400-6 400-7
国内ばかりでなく大手外国レーベルには大物人気グループ、400-2 400-3 400-4軽音楽系からクラシックまで400-8 400-10 400-11幅広く和洋混濁、
400-12 400-13
上昇気流真っただ中で超忙しいながらも充実した仕事ができる環境
だった。当然、仕事での事務能力はUPし業界の〈今〉を知り
知識も向上した。公私ともに若さに任せ音楽市場を巡り興味を持ったらジャンルを問わずレコードを買い漁り、
400-14当時の流行ものファッションに入れあげ、食はケチるなと教えられ和洋中めぼしい店を訪ね、喰いまくっていた。そうして趣味と実益の両立を満喫し、400-16 400-15
並行してウタ書きにも集中できた20'sだった。
 (画像を多くお借りしました)

400字で綴る very short essay《遠い記憶》#10 「知りそめし着物、の頃 からの進捗」

2020-08-02 | 400字のvery short essay
400字で綴る 8月
400字で綴る very short essay《遠い記憶》も今回で10回目。《遠い記憶》が記憶であるうちに、と思いこれまで記事にしてきたが痴呆になってしまってはまさに『今そこにある危機』になってしまう。他人からすれば書こうと書かまいと〈そんなのカンケーねぇ〉
だろうがアクセス数を見るとこれが意外に読んでもらっている?!
ことに感謝して・・・

知りそめし着物の頃 からの進捗
 6月26日の記事投稿の最後に「作詞をしていることは一切伏せていた」と書いた。
一般詩は中学生の頃から書いていたが区切りとして自費で詩集
「早い朝」を出版して本格的に歌謡詞へとモノ書きの軸を移した。詩集
20代前半の若造が演歌・歌謡曲を中心に研鑽を積むにはあまりに
貧弱ゆえ、小説、エッセイ、邦画、画集、展覧会に至るまで
むさぼるように読破、鑑賞した。それらはすべて呉服店
(正確には京染店)時代に実践、現場体験を含め、培うことが
出来た。なぜなら「おとこ歌」であれ「おんな歌」であれ
「和もの」はあらゆるジャンルで知識の吸収は必要だし興味が
湧いていたからだ。そしてその効果と結果は如実に表れた。
レコードになった処女作は「涙の鵜飼船」
涙の鵜飼船N
詞を読んでもらえば分るが「和」のテイストを十分に取り入れた
ものだし、7篇の賞を得た一般詩で結果につなげた最も確固たるものは「紬の詩(うた)だった。この詩の受賞で当時の仕事と将来の目的が融合した気がして本当にうれしかった。店の人たちは私が一般詩と歌の詞を書いていることを初めて知った。そしてTVへの出演も果たした。 NHKテレビで昭和38年から60年まで続いた視聴者参加型公開番組「あなたのメロディー」には作曲も手掛け、連続5作が入賞しon-airされたのもこの時期。
あなたの
そのうちの何回かに店のお母さんを東京へ連れてスタジオ観戦し
大いに喜んでもらったことも懐かしい。勤めはわずか3年余だったが暇(いとま)を惜しんで精力的に活動した結果だった。
【参考】
G市文芸祭 入賞・受賞作 
「ふるさとのメルヘン」歌謡詞
「かもめのように」歌謡詞
「紬の詩(うた)」一般詩 「星への階段」一般詩
「退屈な少年」一般詩
「こころの鐘」歌謡詞「陽炎」一般詩
NHK「あなたのメロディー」
入選、放送作 
「花のなかから」英亜里
「まどあかり」松平純子
「わたしは女」北原ミレイ
「春を待つ花」井沢八郎
「夢ごころ」高瀬文(現:高瀬一郎)

400字で綴る very short essay《遠い記憶》#9  「知りそめし着物の頃」

2020-06-26 | 400字のvery short essay
遠い記憶
400字で綴る very short essay《遠い記憶》も今回で9回目。
《遠い記憶》というだけにそこそこ年月をかさね生きてくれば
良いこともそうでないことも当然両手に足りぬほどある。
折に触れ〈衣食住〉のポイント箇所を決めて身の回りの〈断捨離〉を心がけ ①未練たらしくモノに執着しない ②3か月 手にしていないモノはいさぎよく処分する ③最低限の数あれば足りる生活用品以外は処分する を念頭にして躰を動かしていれば一石三鳥くらいの効果があろうと思うと、まさに〈ふり返れば遠い記憶〉〈よみがえる遠い記憶〉があれやこれやとアタマをかすめる。
てなわけで、それらをいざ文章にと考えると本当は最も腹の立つ人物や事柄を真っ先に書いて吐き出したいこともあるが、そんなことは読み手にはかけらの興味も湧かないだろうし、だから何?って
こと。歌の文句じゃないけれど〈腹におさめた一途な〉なんとか、も必要だ(笑) 以下、400字で綴る・・・へ

知りそめし着物の頃
 —— 駅前からメインの繁華街を基点に四方に広がって電車路面電車が走るG市に住んでいた頃
ふと一枚の貼り紙を目にした。店員募集、着物に興味のある方歓迎
とあった。翌日もう一度おもむき直接面接を願った。
店構えは大きくはないが老舗だった。
あをやま旦那さん以下身内3人で・染め洗い張り、
反物、仕立て、外商など呉服一般を手掛けていた。
現代詩から歌謡詞に代わろうとしていた頃で着物・和服の知識が
欲しいと興味はあったが実践など無かった。採用されて新しい職に
就いた。厳しいことは何もなく興味のあることから始めれば
よかった。毎朝の掃除を終え店内の一角の棚に絹ちりめん、紬、
綸子などに分かれて積まれた反物を整頓がてら興味を持って
ひととき眺めまわし染め関係の見本帳や雑誌など厭きず見たりする
時間もあった。
反物ほどなく店主と郊外へお得意さん廻りに同行するようになった。反物を柳行李幾つかに入れ車に積み込みポイントを絞って訪問し、いろんな要望、注文も聞き入れ〈繋ぎ〉を持つ店の方法だった。まったく家族的雰囲気の中、ほどなくして裏手にある店の持ちアパートの一室に引越したら、と願ってもない厚遇を受けるまでに馴染んで着物の奥深さに一歩づつ踏み込んでいく日々だった。  ・・・作詞をしていることは一切伏せていた。
   (以下次回につづく) ——

Distant memory 400字で綴る very short essay 《遠い記憶》  「親父よりオヤジだった」#2

2020-04-21 | 400字のvery short essay
Distant memory 400字で綴るvery short essay 
《遠い記憶》 「親父よりオヤジだった」#1からの続き


ラウンジ 片山
なにごとかといぶかりながらの店内は豪華なラウンジ風でホステスが常に15.6人はいた。そして紹介されたのが前述の作曲家だった。いつからどんな詞を、どのくらいの数を、と矢継ぎ早の会話のそばでオヤジは嬉しそうな表情だった。間を置かず作詞のオファーがきて、クラウンのちに某レコード会社から本格的に作詞を勧められ上京するまでの数年間、コンビを組んで20数篇をレコード化していった。そのきっかけはオヤジの、なにげない《作詞をしている息子がわりの若いのがいる》のひとことだったそうだ。もうひとつはクラブ経営者のママ(作曲家の奥さん)がどの詞もたいそう気に入ってくれてその詞に合う歌手をさがし、強力に後押ししてくれた。
松尾 yjimageZB26SCH8 市長の肝入りの
「涙の鵜飼船」から始まってご当地もの、酒場もの、青春歌謡、ハワイアン、デュエット、ムード歌謡と詞作の幅も限りなく広がっていった。 
東京にいたある日、電話が入った。
奥美濃N 地元の観光地をテーマに書いた作品の
評判がいいと、聞きつけたディレクターから競作にしたいとの話が持ち上がった。それが「奥美濃ブルース」 唄ったのは箱崎晋一郎さん。この曲はのちに八汐亜矢子、山田ちゑ子 さんらが競作、リメイクして作品化してくれた。
書いて渡せばレコード化になった20代後半の青臭い私だった・・・。

【おくやみ】大切なこの楽曲の作曲者、片山隼先生、オリジナル編曲の
曽根幸明先生、リメイク競作で唄った 箱崎晋一郎さん、山田ちゑ子サン、そして新装再吹込み盤を編曲していただいた前田俊明先生が
4月17日、脳腫瘍で亡くなった・・・
前田4 みなさんが逝去されたが歌は生きて
生きて今なお唄い続けてもらって・・・すべてに感謝です。【哀悼・追悼】
 (多くの画像をお借りしました)