下の子がスイミングを習い始めた。
シャワーすらもイヤがっていたくらいだから、当然顔を水につけるのもイヤがる。
何度かプールで、なだめたりすかしたりおだてたりモノでつったりしてみたのだが、一二度やっとポチャンと顔を水につけるのが精一杯。
これはヤバイ…というわけで、急遽YMC○で夏期スイミングに参加させることにしたのだ。
結論から言うと、その効果はすばらしかった。
私があれだけ方策をつくしても拭い去れなかった「顔付け」の恐怖心が、あっという間に消し飛んでしまったのだ。
思うに、私は少し性急過ぎたようだ。
一生懸命彼に
「泳げるようになったら楽しいよ!」
とか
「そのためには顔を水につけられるようにならないといけないんだよ」
とか、分かるように説明していたつもりだった。
(…結果彼に「じゃあ泳げるようにならなくてもいい」などと返されて、二の句が告げなくなったりしていた…(-o-;)
結局それは、リクツでは「正しい理由付け」だったのかもしれないが、実際には何の進歩も生みださなかったのだ。
その点YMC○での教え方は全く違う。
特に最初のうちは、ただ「遊ぶ」だけ。
「泳げるようになる」という目標や向上心など、子どもには全然意識させないのだ。
大小の輪っかや、楽しいフロート、数々の「ごっこ遊び」やゲームをやっているうちに、いつの間にか水に対する抵抗が薄れていっている。
たとえば、ただ子どもたちに小さな輪っかを持たせるだけの「ドライブごっこ」。
たったこれだけの仕掛けで、先生の作るトンネルを楽しそうに水に潜ってくぐれるようになったりしているのだ!
その子どもたちの楽しそうな様子を見ていて、自分がいかに「リクツ」に染まっていて、リクツで子どもを動かそうと躍起になっていたかを痛感した。
結局のところ人間を動かす一番の原動力は「快感」なのかもしれない、と思い始めている。
人生における成功は、
「さまざまな感情を、いかにうまく快感に結び付け、行動を起こすか」にかかっているのかもしれない。
そのためには、時には
「目標から目を離して回り道してみる」ことが、かえって目標到達への近道であることもあるのだろう。
シャワーすらもイヤがっていたくらいだから、当然顔を水につけるのもイヤがる。
何度かプールで、なだめたりすかしたりおだてたりモノでつったりしてみたのだが、一二度やっとポチャンと顔を水につけるのが精一杯。
これはヤバイ…というわけで、急遽YMC○で夏期スイミングに参加させることにしたのだ。
結論から言うと、その効果はすばらしかった。
私があれだけ方策をつくしても拭い去れなかった「顔付け」の恐怖心が、あっという間に消し飛んでしまったのだ。
思うに、私は少し性急過ぎたようだ。
一生懸命彼に
「泳げるようになったら楽しいよ!」
とか
「そのためには顔を水につけられるようにならないといけないんだよ」
とか、分かるように説明していたつもりだった。
(…結果彼に「じゃあ泳げるようにならなくてもいい」などと返されて、二の句が告げなくなったりしていた…(-o-;)
結局それは、リクツでは「正しい理由付け」だったのかもしれないが、実際には何の進歩も生みださなかったのだ。
その点YMC○での教え方は全く違う。
特に最初のうちは、ただ「遊ぶ」だけ。
「泳げるようになる」という目標や向上心など、子どもには全然意識させないのだ。
大小の輪っかや、楽しいフロート、数々の「ごっこ遊び」やゲームをやっているうちに、いつの間にか水に対する抵抗が薄れていっている。
たとえば、ただ子どもたちに小さな輪っかを持たせるだけの「ドライブごっこ」。
たったこれだけの仕掛けで、先生の作るトンネルを楽しそうに水に潜ってくぐれるようになったりしているのだ!
その子どもたちの楽しそうな様子を見ていて、自分がいかに「リクツ」に染まっていて、リクツで子どもを動かそうと躍起になっていたかを痛感した。
結局のところ人間を動かす一番の原動力は「快感」なのかもしれない、と思い始めている。
人生における成功は、
「さまざまな感情を、いかにうまく快感に結び付け、行動を起こすか」にかかっているのかもしれない。
そのためには、時には
「目標から目を離して回り道してみる」ことが、かえって目標到達への近道であることもあるのだろう。