ニュートラルとは、「対立する二つのいずれにも属さないこと(さま)。中立。中間。」と訳されています。この言葉の意味を十分には理解出来ていなかった頃(今でも理解できているかどうかは怪しいですが…)、私には、人間が中立などという立場を取れるわけはないと思っていました。中立であろうとすることは、要するに、目の前の人に、真に、関わることを避ける行為のように思えました。中立という言葉の意味を穿き違えていたのだと思います。ニュートラルであるとは、どちらか一方の考えには拘らない。もっと言ってしまえば、どちらの道でもいい。どちらの道にも同様の価値があるということを自然に認められる態度のことだと思えるようになりました。Aを選んだから間違いだった、とかBを選んでおけば良かったというような判断を、私たちはしがちですが、それは結果論であって、思うことは勝手ですが、思ってみても意味の無いことです。AにはAの、BにはBのそれぞれの道の味わいがあります。Aの道を選んだからこその喜びや悲しみ。Bの道を歩いたからこそ得られたものの数々。そうなんです。どっちでもいいんです。九州に行けば九州の景色が、北海道に行けば北海道の景色があります。それらの景気の価値に優劣はありません。良いも悪いも、プラスもマイナスもきっと同じ価値のものです。イコールだと思います。等しいということです。そういう、ニュートラルさが身についてくると、物事に対する執着やこだわりからは少しずつ解放されていくような気がします。そうすると、逆説的な現象が起きてきて、自分にとってのより良い方向が自然に見えてくるというか…何かに導かれているような感じになってくるから不思議です。【これでいいんだ!】あるいは、【何があっても大丈夫!】という静かな気持ちが、心の底に流れてくるようになります。話は変わりますが、私は最近、最悪の経験をしました。

命を落としていたかもしれないほどのものですから

、経験して良かったなどとは言えないはずのものです。けれど、こんな忌まわしい体験が、私にもたらした【良き事】は一つや二つではありませんでした。当初は怖いだけでしたし、一日も早く忘れたい体験としか思えなかったのですが、その恐怖体験が

、その後の私に、もたらした数々の気づきは恩寵とも言えるほどのモノでした。その事件を体験する前の私だったら、決して気にも留めなかったであろうと、自ら自覚できるほどのものなのですから、この変化には、自分でも衝撃を感じます。(ただ、この感覚がいつまで持続するものなのか

という不安はあります。また、日々のあれこれに狎れ合ってしまったら薄れていってしまうような類のものなのかもしれません。

)この出来事は、私に、人生に対する態度のありかたのバリエーションを提示してくれました。一つの価値観を持つことはとても大事なことですが、その価値観では、それ以上、歩いていくことが難しくなる時機が往々にしてやってきます。そうなった時は、潔く、使い古された価値の袋を棄てて、新しい袋を持つ気持ちを(勇気という言葉には怖気づいてしまうので…軽く、気持ちと表現してみました。)持たないと命取りになるでしょう。命を落とさないまでも、苦しくて…苦しくて、前には一歩も進めなくなります。一時の私がそうでしたから、その辺の事情は間違いないと確信できます。私は、自分ではそれと気づかずに、偏った、現在の自分には役に立たない価値に、価値があると勘違いして、まだその価値を使えると疑わずに、あるいは、自分には、その価値しか使いこなせないと盲信して、その価値にしがみ続けていたのかもしれません。ですから、日々の生活に、これといった目だった支障はないものの、何か大きな不全感や不調和に気持ちが苛立ち、その兆候に怯えを感じていたのだと思います。【自我の確立】…そうしたモノが大事だと思ってもいました。自我が確立した人は、自己主張がハッキリしていて、バリバリと風を切って生きているイメージがありましたので、もたもたしている自分は自我が確立していないのだから、それではいけないという後ろめたさを感じてもいました。自分ではない何かにならなければならない感じ…自分ではないモノにならなければ成長していけない感じ…この感じが焦燥感に繋がっていたのだと思います。【自我】は水戸黄門の印籠のように、人前に差し出して誇示しなくてもいい、それを示すことによって初めて、自分が何者であるかを証明するための通行手形でなない…そんな、これ見よがしのものではないと思えるようになりました。大事な人たちにとって、風のようであり、水のようであり、空気のようであればいい。私の存在感を、ことさらに、主張しなくても、空気や水や風ならば、人が生きる上でなくてはならないものなのですから、大事な人たちにきっと、【心地よさ】を感じてもらえるはずです。透明人間のように、いるかいないか分からない位の人間になってもいい

です。人が、私に気を遣わずに、私の傍にいても自由でいてくれれば、それが幸せと思えるようになりました。私といると楽しい・嬉しい・喜びを感じると言われるようになりたいです。そのためには、まず自分が自由で、人生を楽しいと感じられるような人になりたい!と、

やはり、最後は、またしても自分に目が向いてしまいます。私はつくづくわがままな人間に出来ているんですネ!※それから、【広島…学会開催地】の記事の冒頭に、広島城の画像を載せ忘れていました。あまり綺麗には撮れていませんが、折角の記念写真ですので、よろしければ、ご覧になってください。
★広島城のデジカメ画像