私が何故、最近、「身体」のことが気になるようになったかと言えば、「心は幻」…とか「心は容易に嘘をつく」とかの言葉に出会うようになったからです。心理学の分野にフォーカシングという療法があります。意識にはまだ浮上していないけれども、前意識の周辺をうろうろしていて、意識の世界に顔を出そうとしている、まだ、言葉にはなっていない感情や感覚を身体で捉えようとする試み…というか、そのやり方(療法)のことを私はフォーカシングと理解しています。また、まだ形にはなっていない感覚や感情を捉える場合のセンスを、「フェルトセンス」というのだと認識していますが、そのセンスが鋭敏になるということが、すなわち、身体の声に敏感になるということと同義語でもあるのかなぁ…と、素人考えですが、思ってもいます。私は身体の智恵を信じていますので、(もしかしたら、信じたいということなのかもしれませんが…)身体が、私たちに発信してくれる情報をきちんと受け止めることが出来るようになれば、幻に惑わされることも少なくなると予感しているのですが…それにしても、私たちの智恵の宝庫の在り処は本当はどこに存在するのでしょうか?詮無いこととは言え、己の愚鈍であることに甘んじるばかりではなく、折角、生かされているうちに、‘能力の限界の壁’を透明人間のようにすっと飛び越えて、聡明になりたい!豊かな智恵を持てるようになりたいという切望…しきりの昨今です。
あるアニメ監督の、独白にも似た「次に、私が考えていること」についてのお話をお聴きする機会がありました。開口一番、監督の口から発せられたのは、カタカナの「カラダ」という言葉でした。私が最近、しばしば考えている身体のことと、テーマが同じなのかと思われ、一瞬、興味が喚起されたのですが、「身体」とは異質の「カラダ」の問題について言及されているのでした。カラダとは肉体としての身体のことを言っているのではないのだそうです。「カラダ」はempty(空っぽ)のことやshell(貝殻の殻)のことをも象徴的に表す言葉でもあるそうなんです。甲冑が大好き。中身のないものがお好きなのだそうです。私には、このことの謎を読み解く力はありませんでした。この監督の言われるところの「カラダ」に開いた穴ぼこは決して埋まらないそうです。生きるということは「カラダ」を減らしていくことだとのことでした。ここまでの話で、私には「カラダ」は極めて空しい(虚しい)ものに思えて、すでに、それ以上、話を聴き続けることすら辛くなっていました。けれど、次に「何かと関わることでしか生まれてこない自分」という言葉を耳にした途端、本当にそうだなぁ…と思えました。私たちは、その存在が、一個人としてはどんなに優れたものであろうと、一人で存在していても何の意味もないように、私には思えるからです。まさに、「何かと関わることでしか…」私という個は、生きた生々しい存在として出現してくることはないだろうと思えるからです。ほとんどの人は自分というものを意識することはまれであり、社会的に反応しているだけなのだそうです。この態度は、私の有り様とはまったく異なるものでした。私はただの1秒たりとも自分という存在を意識しないでいられる瞬間はありません。ですから、人間であれば、自分を意識することは当たり前のことだと思ってきました。それがほとんどの人がそうではないと知って、だから一般的には、生きるということはヒトにとって、そんなに苦しいことではないのだな~と理解しました。これはいい悪いの問題ではなく、自意識過剰という問題でもなく、私の意識は常にどんな時でも、自分自身の内面に向かっているという、私の個体としての現実のことを表現しているだけです。私にとっては、こんな当たり前のことが万人にとっての事実ではないと知って、本当に驚きましたが、とても参考になりました。だから私は常に常に自分と対話してしまうのだと分かったからです。さらに監督は「自分が自分について考えることは不可能」とも言われました。それは私も本当にそうだろうと思います。不可能なことを、無謀にもいつもいつも試みていたからこそ、私の生きる営みはとてもきついものだったのだと分かります…監督にとって、残された興味(?)はご自分の死以外にはないそうです。ようやくそこまで来たかという感慨すらおありのようでした。今までになく楽チンに生きているし、ある種の達成感もおありだそうです。粛々と生きればいいそうです。自我も幻のようなものだと言われました。自我に執着し続けていると現実的なレベルの欲望(お金・地位・名誉など)に長けるだけ。自我を素通りして、カラダのなかに情報はどんどん入ってきている。命あるものと対峙した時にだけ生じてくるシステムがある。人間は実は、自分で生きているわけではない。生きるという現象を受け入れている存在なのだ…というようなお話が延々と繰り返されました。同じ人間でも、人はこんなにも一人ひとりが違う存在なのだと思い知った夜でした。この監督と私とはまったく異なる地平に立っています。監督は天才であり創造者でもありますが、私は凡人であり、物事を創造する力は希薄で、むしろ物事を消費し続けること位にしか能がありません。やっぱり人生って…人それぞれのものであり、人の生き方も多様なものなんですね。天才の人生も凡人の人生も、その人生の価値の重みに軽重はなく、同一の価値を有している…というこの宇宙のあり方を本当に面白いと感じます。
世間一般で言われている「心の病気」というものも脳の異変が原因であるならば、厳密に言えば、「心の病気」と言われるものの実態は、根本は身体の病気ということになるという考え方を、私の中では採用しています。脳内の物質のバランスの過不足が原因で、心の病気様現象が容易に起こってくるのですから、心の病気を一概に、心の脆弱さや意志の問題だけに摩り替えてしまうとしたら、いたずらに、当人を苦しめるだけになってしまうと推察されます。(ただ性格や心の持ち方の問題も分かちがたく絡み合ってくるので、純然たる「身体の病気」だけの見方では済まされずに、実相は錯綜してしまうのが実情かとも思われます。)その点、神田橋先生は随分以前から、心の病気と言われるものは脳の病気であることを言明されてきていますし、脳の状態の改善を念頭に、患者さんと共に、当人を苦しめる元凶にどう向かい合って、少しでも生き易くするか…という観点から、患者さんの意見を取り入れながら、患者さんと相談しながら(患者さんの感じたことや考えたことを一番に尊重しながら、患者さんの、余分な想念にはいたずらには深入りせずに…)内服療法・精神療法の両面から縦横無尽の治療を繰り返しておられます。このやり方は、非常に正当で折り目正しく、患者さんに対して礼を尽くした態度であろうと、私には思えます。昨年の夏、縁あって、先生の診察に陪席させていただく機会を得ました。どの患者さんも一様に、先生を‘友’のように慕って、生活の丸ごとの相談をされている実態には本当に驚かされたものです。そんな診察現場を目の当たりにしたのは初めてだったからです。先生の頭の中には、患者さんが、この苦しみに満ちた人生を、その人の元々の資質を最大限に生かしながら、少しでも自分らしく生きていくための工夫(コツ)を提示してあげようというお考えしかないように見えたからです。‘利他’の精神とはこういうあり方を言い表すのでしょうか?その先生の現在の(目に見える)もっぱらの治療の道具が、「漢方」であり、「Oリング」であり、「指タッピング」であるという、この現状に、私は「人生とは?」という大問題をつくづく考えさせられてしまうのです。生きることに真に役立つことって…本当は何なんでしょうか?多分、すごくプリミティブな‘何か’なのではないかと思ってしまうのです。