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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

自然治癒力

2005年07月10日 | 日々の泡
自然治癒力がどこに備わっているかなんて…問われてみなければ、改めて考えてみたこともなかったことに気づきました。心には自然治癒力はないんだそうです。正直言ってびっくりしました。そうとは知らなかった…という感じです。自然治癒力は身体にしかないのだそうです。心の自然治癒力に見えるものは、実は、脳の自然治癒力だとのこと。本当に「納得」がいったと感じられる状態には、身体の治癒力が触れていて、瞬間に身体が変化しているんだそうです。(そうだったんですね~。)心は自然には変わらなくて、自然な欲求は身体から出てくるものなのだそうです。身体は地球の自然の一部で、心はそこから芽生えた幻の一つなんですって…でも、そう言われてみれば、思い当たるふしがあるような気もします。だから、私たちは頭で考えたことに騙されたりしないように、心こそが実態だなんて思ったりしないように、もっともっと身体の声に耳を傾けることを習慣付ける方が賢明のようです。静かになって耳を傾ければ、身体が一生懸命物語っていることに気づくようになれるかも知れません。

「満遍なく(あるいは、平等に)漂う注意」

2005年07月10日 | 日々の泡
武道では、一ヶ所に注意がいってしまっていることを「病気」と言うのだそうです。(気功教室でもそれとまったく同じことを教えられました。一所に気が滞って、それが高じれば病気になってしまいます。)「病気」になれば必ず切られるそうです。ぼんやりとしっかり見ていなければいけないのだそうです。(ぼんやりとしっかりは一見矛盾する概念のような気もしますが、それがそうではないところが面白いですネ。)ぼんやりとしっかり見てさえいれば、自分の背後にまで注意が向けらるそうなんですね~。精神分析の世界でもこれと同じような考え方があります。分析者は、被分析者の自由連想を助けるためには、「平等に漂う注意」を維持していることが大事という概念がフロイトによって提唱されています。顕微鏡の中の微生物を観察をするようにではなく、全体を万遍となく且つぼーっと眺める…物事を俯瞰で捉えるということなのでしょうか?そうした態度が大事な要素のようです。白紙の状態でありながら、自分の無意識プールに蓄えられている情報はある時、ふっと出て来てはすぐにまた沈んでいく。そういうあり方のことを「正気」あるいは「無心」と言うのだそうです。含蓄が深いエピソードですね。そういえば、我が友(blissさん!あなたのことですヨ!)は、いつか、自分は世界をただ「見ている」だけ…と言っていましたよね。あなたは、その言葉の深さを知ってか知らずか…。「見ている」って、すごいことなんですよ!だからなんですね。あなたがいつでも、どんな時でも正気でいられるのは…。

たんとうこう(站粧功)

2005年07月10日 | 羅漢気功
立って行う禅でもあるので、立禅とも言います。座って、足の裏に意識を集中させる気功を励行するだけでも万病にかからないと言われている位ですが、たんとうこうは、膝を(線で囲んだ部分です。)少し下に落として、図にある手の位置より、もう少し両手は近づけるようにします。最大で1日15分位出来るようになれば上々ですが、最初は1分も辛いかもしれません。たんとうこうは少しやってみるだけでも如何に大変な気功かがすぐに分かります。姿勢を維持することで精一杯で心の中で他のことを考えられなくなります。嫌でも、たんとうこうの姿勢を崩さないようにということ以外のことは考えられなくなるのです。たんとうこう終了後は椅子に座れることがこんなにも有難いことだったのかという驚きの気持ちに襲われるほどです。図の絵の女性は目を瞑っていますが、テレビを観ながら行ってもいいそうです。いずれにしても、足裏は第2の心臓とも言われるくらいですので、足が丈夫になれば、本当の心臓の調子も整うようになるそうです。足は健康を支える役割を担っています。たんとうこうを行い、姿を調整することによってすべてが調整されていくことになります。とりわけ特徴的なことは、この姿勢によってサプリメントでない天然のカルシウムが生成されることにあります。(たんとうこうの「とう」という字は本当は【きへん(木偏)】のようです。日本にはない字なのでIMEパッドでも変換されませんでしたが、粧という字を使っておられる方もいらしたので便宜上、その字を使っておきました。【きへん(木偏)】の「とう」という字は「切り株」という意味だそうです。)