あるアニメ監督の、独白にも似た「次に、私が考えていること」についてのお話をお聴きする機会がありました。開口一番、監督の口から発せられたのは、カタカナの「カラダ」という言葉でした。私が最近、しばしば考えている身体のことと、テーマが同じなのかと思われ、一瞬、興味が喚起されたのですが、「身体」とは異質の「カラダ」の問題について言及されているのでした。カラダとは肉体としての身体のことを言っているのではないのだそうです。「カラダ」はempty(空っぽ)のことやshell(貝殻の殻)のことをも象徴的に表す言葉でもあるそうなんです。甲冑が大好き。中身のないものがお好きなのだそうです。私には、このことの謎を読み解く力はありませんでした。この監督の言われるところの「カラダ」に開いた穴ぼこは決して埋まらないそうです。生きるということは「カラダ」を減らしていくことだとのことでした。ここまでの話で、私には「カラダ」は極めて空しい(虚しい)ものに思えて、すでに、それ以上、話を聴き続けることすら辛くなっていました。けれど、次に「何かと関わることでしか生まれてこない自分」という言葉を耳にした途端、本当にそうだなぁ…と思えました。私たちは、その存在が、一個人としてはどんなに優れたものであろうと、一人で存在していても何の意味もないように、私には思えるからです。まさに、「何かと関わることでしか…」私という個は、生きた生々しい存在として出現してくることはないだろうと思えるからです。ほとんどの人は自分というものを意識することはまれであり、社会的に反応しているだけなのだそうです。この態度は、私の有り様とはまったく異なるものでした。私はただの1秒たりとも自分という存在を意識しないでいられる瞬間はありません。ですから、人間であれば、自分を意識することは当たり前のことだと思ってきました。それがほとんどの人がそうではないと知って、だから一般的には、生きるということはヒトにとって、そんなに苦しいことではないのだな~と理解しました。これはいい悪いの問題ではなく、自意識過剰という問題でもなく、私の意識は常にどんな時でも、自分自身の内面に向かっているという、私の個体としての現実のことを表現しているだけです。私にとっては、こんな当たり前のことが万人にとっての事実ではないと知って、本当に驚きましたが、とても参考になりました。だから私は常に常に自分と対話してしまうのだと分かったからです。さらに監督は「自分が自分について考えることは不可能」とも言われました。それは私も本当にそうだろうと思います。不可能なことを、無謀にもいつもいつも試みていたからこそ、私の生きる営みはとてもきついものだったのだと分かります…監督にとって、残された興味(?)はご自分の死以外にはないそうです。ようやくそこまで来たかという感慨すらおありのようでした。今までになく楽チンに生きているし、ある種の達成感もおありだそうです。粛々と生きればいいそうです。自我も幻のようなものだと言われました。自我に執着し続けていると現実的なレベルの欲望(お金・地位・名誉など)に長けるだけ。自我を素通りして、カラダのなかに情報はどんどん入ってきている。命あるものと対峙した時にだけ生じてくるシステムがある。人間は実は、自分で生きているわけではない。生きるという現象を受け入れている存在なのだ…というようなお話が延々と繰り返されました。同じ人間でも、人はこんなにも一人ひとりが違う存在なのだと思い知った夜でした。この監督と私とはまったく異なる地平に立っています。監督は天才であり創造者でもありますが、私は凡人であり、物事を創造する力は希薄で、むしろ物事を消費し続けること位にしか能がありません。やっぱり人生って…人それぞれのものであり、人の生き方も多様なものなんですね。天才の人生も凡人の人生も、その人生の価値の重みに軽重はなく、同一の価値を有している…というこの宇宙のあり方を本当に面白いと感じます。
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