Michiyo Kamei "Shape of life"いのちのかたち  

画家 亀井三千代 記
「身体曼荼羅」春画と解剖図
michiyokamei diary

亀井三千代 HP/Michiyo Kamei official web site 

https://michika-6.wixsite.com/michiyokamei

「去る」について

2022年02月24日 10時34分56秒 | 日記

2年ぶりの東京都美術館。
「第45回人人展」のハガキが出来上がりました。
コロナ禍でメンバー同士会えない中、どうなることかと思っていましたが
もともと地方の作家が多いのでこれを機にオンライン会合に切り替え、
SNS機能も駆使してなんとかここまで来た。ある意味感無量です。

ところで先日、長年共に仕事をしてきた仲間が去る際に
「亀井さんはやることが多すぎるから気をつけて」と言われた。
その時はピンとこなくて何となく聞き流したが、
後から思えば、去る人に言われたくはないかなぁ。
心配してくれてるのかわからないけど
上から目線だし他人ごとすぎる。
でもまぁ思えばその程度だったかなぁ、と振り返る。





去る、というのは感慨深い。

私も様々なコミュニティを去ってきた。
もちろん「去れ」と言われたこともあった(笑)
でも大抵は次の所属先があって去るのだ。
去る、というのは必ずその人にとって去るメリットがあるわけで
いろんな言い訳をしたところでそれは変わらない。

私の去り方はどうだったろう。
最低限、相手の意向をのんできっちりけじめはつけてきた。
業種によっては仕事のマニュアルを作って引き渡したこともあった。
もちろん、そこへは戻らないことが大前提だ。
自分が去ったコミュニティについては、後々繁栄していると嬉しく思う。
決してなくなってほしくない。
とはいえ「去る」というのはいずれにせよ恨まれることは必須だ(笑)。

例え暴言を吐いて去っても、居場所を残してくれていたのは家族だけだった。
私の家族には無条件な許しがあった。
二十歳を過ぎて家に居場所を見いだせず、家を出る決心をしたときに
父が「ここはおまえの家だからいつでも戻ってこい」と言ってくれたのを
今でも思い出す。
あれはなんて大きな言葉だったろう。。




このコロナ禍で訃報も多い。
「いずれは会えなくなる、だから生きている間はできる限り会うのがいい」と
昨日電話で先輩作家から言われた。
その時は何となく「そうかな」って思ったけど
私は「会わない繋がり」もあると思う。
「去る」こともそんな繋がりの一つの形じゃないかと思った。


いずれにしても不自由

2022年02月01日 19時25分16秒 | 日記

人の身体は、
身体だけを見るならそれはなんてこの星に根ざしたものかと思う。
この世界やこの宇宙にしっかり根ざしていると思う。
他生物同様の根源を持ち、たまたまこの人間と言われるものになった。
やっかいなのは心や精神だ。

「心は自由だ」なんて言えるだろうか?
私、全く違うと思う。
身体が生物の進化の中で出来上がり生まれ来るのに対して
(私たちの意思にかかわらず)
心のありようは後天的だ。
産まれてから国や両親や時代背景や教育などによってどんどん規定されていく。
人の身体の構造がほぼ変わらないのに対して心のありようは個々によって何て違うんだろう。

そして、この自然の中で人間が他動物と圧倒的に違ってしまうのも、この心せいだ。

心がものを造り、技術を発展させ、富に執着し、戦争を起こす。
同様に愛し、笑い、団結し、悩む。
心のせいで人はなんて豊かで不自由なんだろう。

私、アートはこの「心の不自由」からほんの少し解放されるためのものではなかろうかと、
思う。
それは警告や啓蒙ではなくて解放だ。
アート作品もロジックがあるので人間による人間のためのものだけど
日常の心のロジックとは全く違う方法が求められる。
一旦言葉から離れて、規制を忘れて、視覚と刺激と身体を直結させて
何かがつなぎ替えられて、現れる。
アート言語のようなものを私は信じている。
なんちゃって。