Michiyo Kamei "Shape of life"いのちのかたち  

画家 亀井三千代 記
「身体曼荼羅」春画と解剖図
michiyokamei diary

亀井三千代 HP/Michiyo Kamei official web site 

https://michika-6.wixsite.com/michiyokamei

リーディングとドローイング ― 『海神別荘』初体験

2018年08月20日 09時57分07秒 | 日記

『月あかり』 ↓5巻7号 で亀井をご紹介下さった 桑原茂夫さん からのご案内で、初めて”リーディング”公演を観た。

 

桑原さんにはさんざんお世話になっていながらも
公演の演出・構成までされているなんて全く知りませんでした(^_^;

ダンスや演劇を見るのは大好き。
リーディングは初体験。

鏡花名月会主催
劇団唐組 による『海神別荘(かいじんべっそう)』は泉鏡花の戯曲

この世とあの世がひっくり返った魔の国の幻想譚。
日本の昔話的な懐かしさもありました。
俳優陣は毒があってとにかく魅力的。豊かな空間に堪能いたしました。





が、それはともかく
そもそもリーディングって何?

見た感じをメモします(僭越ながらすみませんm(__)m)
二つの意味が常に同時に進行しているように思いました。

一つは俳優が演技によってストーリーを伝え、演劇空間を創り上げる通常の芝居

もう一つは、
そのストーリーは俳優が手に持つ台本が常に進行・指示していて
それに「目を落とす」行為が常に介入する、芝居がそれに縛られる(ように見える)。
俳優は演技をしたい生き物かもしれませんので
台本はその足を引っぱる「装置」「仕掛け」になっているように思われます。
そのせいで、完全な芝居になる一歩手前でこちら側と繋がったままストーリーが進行するといった、
摩訶不思議なことになるわけです。

台本が登場する以上、
主体(主役)は台本、泉鏡花かもしれません。
俳優は媒介者、いやそもそも演技とはそういったものかもしれませんが
リーディングではその媒介的な性質はより押し進められるように思われました。

ふと、下図やドローイングのことを考えながら帰りました。
下図には最初のイメージ、混沌としたアイデアが線になっていて
実はとても面白いものなのですが、
本画が完成に近づくにつれてどんどん絵具で覆われて、あるいは整理されて
最終的には見えなくなるわけです。

私はそれがもったい(笑)ので
最初に引いた最初の線は必ずどこかに残すよう、見えるように
薄塗りで仕上げていきます。

ドローイングはそれをもっと押し進めて
最初の、線の状態で手をとめて、それを見せる、
そこには宙づりになった未完の意外性があるわけです。

何となくリーディングにおける「台本」の役割と
絵画における下図の「線」の共通性を思いつつ…
最終的には、作家はどれだけ媒介者になれるか、かもしれんなぁ。。。等々

ところで、注として
未完の「線」の面白さを逆手にとって
未完を狙って未完を創り上げる作品
それはつまり完成品じゃん。陥らないよう要注意。






知的好奇心がおおいに刺激を受けた一日でした。
そういえば桑原さん、

「通常のリーディングは全然違うよ。これはリーディングを超えている」
??(((@_@;)(@_@;)))??

桑原さんとはまたいつか、このことについて話してみたいです。