「勉強」するではなく、学び(勉強は辛いことに対して勉めて強いる)、知識を積み重ね、知識を教養と知恵に高めていけるならば、学習に退屈しなくなります。
そのような人には、学習したことに関係するすべてのことがらがいっそう興味深くなってくるからです。
同じことを聞いても、見ても、何気ないことがらから、意味をみつけたり、教えにしたりできます。考えのすき間を埋めるものを発見します。
かりに、挑戦して失敗しても、その失敗の意味を考えることができます。
この失敗は、自分にもっと準備をするべきと教えてくれているのではないか。
失敗により、自分が試されているのではないか。
ならば、「転んでも、なにかをつかんで起き上がるべきだ」という考えかたを得ることができます。
その人の毎日は、疑問を解くことの面白さに満ち、充実してきます。
学びを退屈なものとは、考えなくなります。
中学時代に、ここまで深く考えおよぶのは難しいでしょう。
でも、中学時代は、そのような学びの基礎をつくる年齢であると、わたしは考えます。