1.佐倉城址におかれた佐倉連隊
城址に、軍隊が駐屯する例は多い。例えば、白鷺城といわれた姫路城には、陸軍第十師団が駐屯した。千葉県でも、市川の国府台城址には高射砲部隊が駐屯したが、佐倉城址の場合は、軍の草創期から軍隊の駐屯が行われた。 すなわち、1874年(明治7年)には陸軍歩兵第二連隊が当佐倉城址に駐屯、1877年(明治10年)の西南の役に出動、1894年(明治27年)~1895年(明治28年)、および1904年(明治37年)~1905年(明治38年)の日清日露の両戦役にも参戦した。日露戦争では、旅順、二百三高地の戦闘にも加わり、多くの戦死者、戦傷者を出した。1909年(明治42年)に陸軍歩兵第二連隊は水戸に移転、二七旅団に属し、第一四師団隷下となった。この陸軍歩兵第二連隊の佐倉駐屯以降、十ニもの連隊が佐倉で編成され、これらを総称して「佐倉連隊」と呼んでいる。
<佐倉城址にたつ佐倉連隊の碑> 佐倉城址にて撮影
陸軍歩兵第二連隊移転後に、陸軍歩兵第五七連隊が佐倉の兵営に移った。この部隊は1905年(明治38年)に青森で創設されたが、決まった衛戍地はなく、青森、山形、仙台に分屯、日露戦争末期に出征し、北朝鮮の守備についた。その後、1907年(明治40年)に第一師団隷下となり、内地帰還(習志野)、衛戍地は佐倉、徴兵区域は千葉県一円とされた。その翌年にかけて、東北出身者の除隊、千葉県出身者の徴兵が進められ、名実ともに、第五七連隊は郷土部隊となったわけである。そして、1909年(明治42年)、陸軍歩兵第五七連隊は習志野の仮営から佐倉の兵営に移り、朝鮮守備、第一次大戦の青島包囲攻撃にも加わった。1923年(大正12年)関東大震災に出動、1936年(昭和11年)に狂信的な陸軍将校らの指揮で、東京の一部が占拠された二・二六事件に際しては、鎮圧出動している。
同年5月22日 陸軍歩兵第五七連隊は旧満州移駐を命ぜられ、佐倉を出発、宇品港を出港して、大連港に着き、さらに5月30日駐屯地であるチチハルに到着した。1937年(昭和12年)7月、日本軍の謀略による蘆溝橋事件に端を発した日中戦争が勃発すると、第三大隊は張家口の戦闘に加わっている。その後、陸軍歩兵第五七連隊主力は、11月5日旧北満州の孫呉に移駐、1939年(昭和14年)7月~9月、日本軍のモンゴル・ハルハ河地区への侵入に端を発する、ノモンハン事件に参戦。その後も、連隊は孫呉駐屯を続ける。
一方、1937年(昭和12年)第一0一師団に動員命令が下ったとき、佐倉の歩兵第五七連隊留守部隊が母隊になり歩兵第一五七連隊が編成され、9月中国長江河口の呉淞に上陸、上海付近の戦いに参加、多くの戦死者を出した。翌1938年(昭和13年)杭州作戦、南昌作戦などに参加、それぞれの警備についた。1940年(昭和15年)2月内地帰還。その5ヶ月後、歩兵第五七連隊留守部隊から新たに第二次歩兵第一五七連隊が編成された。1943年(昭和18年)長江流域を転戦、警備の任についた後、1945年(昭和20年)上海に移駐、米軍上陸に備えたが、その陣地構築の最中に敗戦となった。
1936年(昭和11年)に中国旧満州に渡った歩兵第五七連隊は孫呉に駐屯を続けていたが、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦以降、戦局が著しく暗転した戦争末期である1944年(昭和19年)2月、第三大隊はグアム島行きを命ぜられ、大隊長谷島大尉以下、グアム島にて米軍と交戦、激しい戦闘で大隊628名中、大部分が戦死、生還できたのはわずか63名であった。
さらに、7月24日第一師団のフィリピン、レイテ島への動員下命があり、8月20日歩兵第五七連隊(連隊長:宮内大佐)は孫呉を出発。上海を経由して、フィリピンへ向かった。11月1日にレイテ島オルモックから上陸、11月初旬リモン峠で米軍と戦闘、ここで約2,500名のうち約2,000名もの戦死者を出した。12月21日、第一師団はりモン峠を棄て、その西のカンギポット山方面へ敗走、1945年(昭和20年)1月15日、軍命令で、レイテ島からセブ島に連隊長以下198名移転、レイテ島に間宮大尉以下115名残留した。セブ島ではかろうじて回りの房飾りの部分だけになった、連隊旗が保持された。戦闘に参加した2,541名のうち、戦死2400名以上、8月15日現在の生存者114名となったいう。連隊旗は、のちに生存者によって分割保管され、内地帰還後に結合されて、現存している。その話は「人間の旗~甦った血と涙の連隊旗~」(岩川隆)に書かれている。「レイテ島で戦った将兵は、終戦を迎えたとき、戦友の血と涙にまみれた軍旗を奉焼するにしのびず、ひそかに切り刻んで分配した。……そして戦後三十有余年、苦心のすえ幻の連隊旗は復元されたのだ」(光文社の解説より)
<現在のセブ島>
<佐倉連隊の案内図~12階段地点のもの> 佐倉城址の案内板写真を拡大 2.佐倉連隊の戦争遺跡
現在、佐倉連隊の跡に残る遺構は少なく、敗戦後しばらく残っていて、映画「真空地帯」の撮影にも利用された兵舎は既になくなっている。だが、一部の建造物、石碑などは残っており、以下紹介する。まずは、営門跡から。
①営門跡
田町から歴史民俗博物館へ上る坂の途中、「臼杵磨崖仏」の出入り口付近にあった。現在は、門柱、衛兵所などの遺跡は残っていない。
<営門跡> 佐倉城址にて撮影
②兵営トイレ跡
歴史民俗博物館の西の馬出しのさらに西側の、堀に向ってのびる細い道沿いにある。コンクリートの残骸は、兵営のトイレ跡である。ここは家庭を離れ、厳しい訓練に耐えた兵士が唯一安堵できる場所であった。
<コンクリートの兵営トイレの土台部分> 佐倉城址にて撮影
③佐倉陸軍病院跡
駐車場西側一帯に、陸軍病院があった。しかし、現在は跡形もなくなっている。初代院長は佐倉順天堂の佐藤舜海が就任。戦後は国立佐倉病院として江原台に移転。現在は聖隷佐倉市民病院。
<陸軍病院跡> 佐倉城址にて撮影
④夫婦モッコクの兵士の落書き
落書きも戦争遺跡になるのであろうか。佐倉城本丸跡に夫婦モッコクという、二本の幹のあるモッコクの木がある。昔は本丸跡とて訪れる人もなく、時々江原新田の農民が生い茂った木を切りに来たそうである。この落書きとは、貴重な県の天然記念物である夫婦モッコクの木に兵士が書いた落書きで、本丸からみて裏側の幹中央に「佐野」と大書され、もう一つの幹裏側にも「十八年十月 砲隊」と書かれたもの。「佐野」とは兵士の名前か、佐倉・野戦砲隊の略か不明。他にも「本丸」という字も見える。本来はけしからん行為であるが、寂しい本丸跡で、兵士は何を思って落書きしたのであろうか。十八年とは昭和十八年であろうが、当時佐倉連隊の本隊ともいうべき五七連隊は中国は旧北満州の孫呉に駐留しており、佐倉にいたのは留守部隊、野砲兵隊などである。おそらく野砲兵の誰かが書いたと思われるが、書いた本人はその後どうなったのであろうか。
<夫婦モッコクに刻まれた兵士の落書き~左に「佐野」、右に「砲隊」とある> 佐倉城址 本丸跡にて撮影
<「十八年十月 砲隊」の文字> 佐倉城址 本丸跡にて撮影
⑤「車道」の碑
三逕亭の東の大きなシラカシの木の根元近くに、「車道」(くるまみち)の碑がある。1920年(大正9年)8月に石碑前の道ができた記念に建てられた。碑の表に「車道」の字と建設に関わった軍人2名の名(大城戸仁輔、峠又三)が刻されている。その側面にはびっしりと寄付者、御用商人や地元有力者の名前が刻まれている。
<「車道」記念碑> 佐倉城址にて撮影
⑥佐倉連隊の碑
現在、この碑がある場所には、かつて練兵場があった。その市民自由広場から植物園、佐倉中学にかけてあった広大な練兵場跡の西南隅に連隊の記念碑がある。「佐倉兵営跡」と書かれ、碑の裏側には歴代連隊長の名が刻まれている。碑の後壁の塀に「ジェラール瓦」という洋式瓦が嵌めこまれている。元々石碑は1966年(昭和41年)に酒保跡に建てられたが、歴博建設に伴って現在地に移された。
<「佐倉兵営跡」の碑> 佐倉城址にて撮影
⑦弾薬庫の跡
姥が池の南側、「車道」の碑のある高所へ行く途中、平場があるが、そこに土塁で囲まれた一角がある。そこに弾薬庫があった。土塁は、城址遺構であるが、それを利用して建てられたものであろう。現在は、建物は取り壊され、土台のコンクリートの残骸が転がっている。ここでは、初年兵の歩哨が昼夜問わずに警備をおこなった。ちなみに、よく心霊関係の興味本位の番組やビデオなどで、近くの十二階段が取り上げられるが、そちらには何の怪談話はなく、実はこの弾薬庫にこそ、軍隊でつきものの怪談話が存在する。筆者は信じる者ではないが、確かにあまり気持ちの良い場所ではない。
<弾薬庫の建物の残骸> 佐倉城址 姥が池南側の斜面途中にて撮影
⑧訓練用の十二階段
日清、日露両戦役の教訓で、高いところから飛び降りる訓練が全国的になされた。これはそのため訓練用の設備である。旧陸軍の正規の体操・運動用具の一つで「跳下台」と呼ばれた。大抵木製であったが、佐倉連隊の場合はコンクリート製で重く、搬出困難であったため、戦後も残されたようだ。くだらない心霊番組などで、再三処刑台であるかのごとく取り上げられてきたが、真相は全く違う。案内板にも兵士たちが順番に、飛び降り訓練をしている写真が付されている。
<十二階段> 佐倉城址 姥が池脇にて撮影
⑨軍犬・軍馬の墓
歴博の駐車場南奥の窪地にある。小さい軍犬の墓は1932年(昭和7年)安藤一能軍曹が建てた「軍犬房号之墓」である。その後ろの軍馬の方は1943年(昭和18年)斃死した「軍馬北盤之墓」で、近衛連隊あたりの高級将校の馬であったと思われる。
<軍犬・軍馬の墓> 佐倉城址 国立歴史民族博物館前の駐車場奥にて撮影
⑩脂油庫
弾薬庫の少し東側にある。鉄の扉で、通風孔はあっても、窓のないコンクリート製の建物で、銃の手入れ用の油を保管していた。
<脂油庫> 佐倉城址 姥が池南側の斜面途中にて撮影
⑪兵舎土台に転用された佐倉城礎石
陸軍病院跡の南側にある。かつて兵舎が建てられる際、明治初年まであった佐倉城の建物が壊され、残った礎石が土台に転用されたもの。一辺50cmから1mほどの石がごろごろしている。
<佐倉城礎石> 佐倉城址にて撮影
(追記)
ちょっと失念していましたが、国立歴史民族博物館の学芸員の方の指示に従い、写真に撮影場所の注釈を入れました。なお、本取材にあたっては国立歴史民族博物館の学芸員他の方々に、色々便宜をはかっていただきました。ありがとうございました。
番外.歩兵第五七連隊比島戦没者慰霊塔
こちらは、佐倉市内ではなく松戸市小金であるが、佐倉の歩兵第五七連隊のレイテなどフィリピンで戦没した将兵の慰霊塔がある。知りえた事実で関連するので、記載しておく。
それは、かつて小金宿のあった水戸街道沿いの市街地で、JR北小金駅の南側の東漸寺の道をはさんだ向かい位にある妙典寺の境内にある。
妙典寺は山号を正覺山といい、日蓮宗の寺院で、中山法華経寺の末寺である。周囲はそれなりに交通量の多い道路や市街地であるが、寺に入ると静かな感じである。ただし、あまり大きな寺ではない。この寺で有名なのは、松朧庵探翠が1825年に建てたという芭蕉の句碑で、「しはらくは 花のうへなる 月夜かな」という句が刻まれている。その句碑の横に、墓石のようなものがあり、それが歩兵第五七連隊比島戦没者慰霊塔である。
なぜ、佐倉と離れた当地にあるかといえば、それはこの寺の住職自身が歩兵第五七連隊だったため、激戦のレイテ島などで戦死、戦病死した戦友の死を悼んで、その遺族などの協力を得て建立したそうである。遺族が寺に戦没者の慰霊碑を建てるのはごく一般的であるが、住職当人が部隊出身者で、遺族と一緒に寺に慰霊碑を建てたというのは珍しいケースだろう。
<妙典寺の慰霊塔>
慰霊塔の脇に碑文をしるした黒い石碑があり、「大東亜戦争」などと必ずしも適切な用語ではないが、「この塔は大東亜戦争の天王山と言われたレイテ決戦に参加して戦死された佐倉、歩兵第五十七聯隊勇士の英霊を慰めるため、生存戦友、遺族等有志により建立されたものである。云々」とある。思えば、レイテ島での悲惨な戦いは、佐倉連隊所属の将兵の多くを死に追いやり、戦闘に参加した2,541名のうち、戦死2400名以上という類をみないものとなった。あらためて、日本軍国主義の侵略戦争の犠牲となった、わが軍の将兵、敵軍将兵ならびにアジア民衆の冥福を祈りたい。