小林良暢 『なぜ雇用格差はなくならないのか』 ( p.208 )
要素価格均等化の定理 ( ストルパー=サミュエルソンの定理 ) により、世界各国の賃金は等しくならざるを得ない、と書かれています。
この定理は、( 賃金の安いアジア諸国と競争すれば ) 日本やアメリカでは、労働者の賃金は安くならざるを得ない、と説いています。これはいわば、当然のことであって、わざわざ、「定理」 といわれるまでもありません。
現在、日本で非正規雇用が増えたり、正規雇用であっても待遇が悪化し続けている原因は、まさに、この 「要素価格均等化の定理」 が説くメカニズムによるものだと思います。
ここで重要なのは、このさきです。
(1) 日本では労働者の賃金が下がるのが自然である。それはわかった。そしていま、その原理によって賃金が下がっている。それもわかった。しかし、それでは困るじゃないか。どうやって暮らすのか。それに答えよ。
(2) 理論上、賃金は下がらざるを得ない。それはわかった。しかし、賃金を下げずに切り抜ける方法はないのか。その方法を探しだすのが、経営陣の役割ではないのか。どういう方法を考えているのか。それに答えよ。
上記、(1) は政治に突きつけられた問いであり、(2) は各企業の経営陣に突きつけられた問いです。また、両者は経済学者に突きつけられた問いでもあります。
どちらも、答えるのがとても難しい問いだとは思いますが、答を探しだすのが、彼らの役割であり、使命なのです。現在の状況は、問いに答えるべき人々が、問いに答えていない、あるいは、答えられないからこそ、だと思います。問題の根源は、
「いわゆる」 エリートが、エリートの役割を果たしていない
ところにあります。
上記、「定理」 の存在が示しているのは、労働者 ( とくに非正規雇用の人々 ) の苦境は、
自己責任ではなく、構造的な原因によるものである、
ということなのです。もちろん、なかには、自己責任だと言わざるを得ない労働者もいるとは思います。しかし、原因が構造的なものである以上、
自己責任を問われるべきなのは、いわゆるエリートである、
といってよいのではないかと思います。
しかし、もともと答が存在しない、すなわち、「要素価格均等化の定理」 を打ち破ることが不可能である、とすれば、
誰にも責任はないが、全員が、( それぞれ ) 手を打たなければならない
ということになるはずです。おそらく、これがもっとも 「正しい」 のではないかと思います。
なお、「エリート」 という言葉は、あまり好きではありませんが、社会で一般的に通用している言葉なので、わかりやすく表現するために用いました。「いわゆる」 エリート、という表現で、そのあたりのニュアンスを表現しています。
国際経済学の理論に、「要素価格均等化の定理」というものがある。国際経済学の教科書には「ストルパー=サミュエルソンの定理」などと書かれているが、一言でいえば「低賃金国からは低価格品が大量に流入して、賃金の高い国の労働者は、生産要素が等しくなるところまで賃金の引き下げを免れない」というものである。これを、もっとやさしく言い換えると、アジアの国々から安い商品が入ってくると、日本の労働者の高い賃金も引き下げざるを得ないということである。しかし、いったん上がった賃金はなかなか下げられないので(これを「賃金の下方硬直性」という)、結局は「低賃金国からの低価格品」に負けて、経済停滞が長期化するということになる。九〇年代の日本は、まさにこの要素価格均等化の衝撃に見舞われて、「一〇年不況」に陥ったのである。
こうした状況は日本に限らず、世界各国でも雇用を巡る事情は同じであった。グローバリゼーションは、日本ばかりでなく先進各国にも要素価格均等化の圧力を与えた。その表れ方はバブルの後遺症を抱えた日本と諸外国では異なるが、相対的に恵まれた先進諸国の労働者の安定した雇用と賃金に対して「破壊圧力」をかけた、という点では共通していた。
要素価格均等化の定理 ( ストルパー=サミュエルソンの定理 ) により、世界各国の賃金は等しくならざるを得ない、と書かれています。
この定理は、( 賃金の安いアジア諸国と競争すれば ) 日本やアメリカでは、労働者の賃金は安くならざるを得ない、と説いています。これはいわば、当然のことであって、わざわざ、「定理」 といわれるまでもありません。
現在、日本で非正規雇用が増えたり、正規雇用であっても待遇が悪化し続けている原因は、まさに、この 「要素価格均等化の定理」 が説くメカニズムによるものだと思います。
ここで重要なのは、このさきです。
(1) 日本では労働者の賃金が下がるのが自然である。それはわかった。そしていま、その原理によって賃金が下がっている。それもわかった。しかし、それでは困るじゃないか。どうやって暮らすのか。それに答えよ。
(2) 理論上、賃金は下がらざるを得ない。それはわかった。しかし、賃金を下げずに切り抜ける方法はないのか。その方法を探しだすのが、経営陣の役割ではないのか。どういう方法を考えているのか。それに答えよ。
上記、(1) は政治に突きつけられた問いであり、(2) は各企業の経営陣に突きつけられた問いです。また、両者は経済学者に突きつけられた問いでもあります。
どちらも、答えるのがとても難しい問いだとは思いますが、答を探しだすのが、彼らの役割であり、使命なのです。現在の状況は、問いに答えるべき人々が、問いに答えていない、あるいは、答えられないからこそ、だと思います。問題の根源は、
「いわゆる」 エリートが、エリートの役割を果たしていない
ところにあります。
上記、「定理」 の存在が示しているのは、労働者 ( とくに非正規雇用の人々 ) の苦境は、
自己責任ではなく、構造的な原因によるものである、
ということなのです。もちろん、なかには、自己責任だと言わざるを得ない労働者もいるとは思います。しかし、原因が構造的なものである以上、
自己責任を問われるべきなのは、いわゆるエリートである、
といってよいのではないかと思います。
しかし、もともと答が存在しない、すなわち、「要素価格均等化の定理」 を打ち破ることが不可能である、とすれば、
誰にも責任はないが、全員が、( それぞれ ) 手を打たなければならない
ということになるはずです。おそらく、これがもっとも 「正しい」 のではないかと思います。
なお、「エリート」 という言葉は、あまり好きではありませんが、社会で一般的に通用している言葉なので、わかりやすく表現するために用いました。「いわゆる」 エリート、という表現で、そのあたりのニュアンスを表現しています。