言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

弁護士自治を弱めてもよいかもしれない

2009-12-05 | 日記
 弁護士自治、および、弁護士懲戒権を弁護士会から奪うべきである、という意見について、さらに考えます。

 弁護士懲戒権を弁護士会から奪うべきである、という見解は、弁護士の間で、信頼が失われつつあることが、根拠になっていると思います。

 私は弁護士ではないので、弁護士同士で、信頼が失われつつあるのかどうか、それがわからないのですが、

 外部者であっても、多少は思うところがありますので、それについて書きたいと思います。



 私は以前、「弁護士こぐまの日記」 に、こぐま弁護士に対して、「こぐま弁護士を思いやった、親切な内容の」 コメントをつけたことがあります。そのコメントにおいて、

   特定の弁護士について、当該弁護士本人に対し、
   事実を公表してもよいか、と 「確認したうえで」 言及した

のですが、こぐま弁護士 ( ブログ主 ) によって削除されたことがあります。

 こぐま弁護士は、「す、すみません」 と書き、「特定の方」 について書くのは非常識である、と私を非難したうえで、私のコメントを削除されたのですが、こぐま弁護士が誰かに、「怒鳴りつけられた」 可能性が高いと思われます。

 こぐま弁護士が、誰に対して謝っていたのか、それが疑問なのですが、

 「特定の方」 は事実を公表することを 「承諾していた」 はずであり、また、名前を明示された 「特定の方」 以外の方が、こぐま弁護士を 「怒鳴りつける」 ことは、考えられないと思います。



 今日、ひさしぶりに、こぐま弁護士のブログに行ってみると、いつの間にか、「す、すみません」 などが削除され、次の通り書き換えられていました。

弁護士こぐまの日記」 の 「コメント欄凍結のお知らせ

本日から、コメント欄を凍結致します。

一部、私のブログに掲載が不相当と思われるコメントがありましたので、削除しました。

私のブログですので、具体的な方の批評等を放置することはできません。又コメント欄の管理をする時間の捻出も困難です。

以上、お知らせでした。


 こぐま弁護士が、「怒鳴りつけられた」 ことを 「隠したい」 のではないか、とも思われるのですが、「具体的な方の批評」 は、「本人の同意を得ていれば、まったく問題ない」 と思います。そのあたりの事情を私に確認もせず、一方的に、

   「不相当と思われるコメント」 であるとか、
   「具体的な方の批評等を放置することはできません」 などと、

コメントした者 ( 私 ) を非難することは、間違っていると思います。こぐま弁護士に対して、その点を問い質したいのですが、一方的に私を非難し、コメント欄を閉鎖されたくらいですから、こぐま弁護士からの回答は期待できないものと考えております。



 そこで考えるに、弁護士だからといって、つねに 「正しい」 とはかぎらず、また、「公正な態度をとる」 とはかぎらない、と考えられます。したがって、

正直なところ、最近の弁護士同士の対立、たとえば上でも引用されているような債務整理の仕事の取りあいのようなことをみていると、力を握ったほうが相手方を些細なことで懲戒にしたり、変なきまりをつくって仕事をしにくくしたり、よくないことに自治が使われそうな気がします。


という指摘は、もっともだと考えられます。

 弁護士だからといって、「公正な態度をとるとはかぎらない」 とすれば、弁護士自治を弱める方向の改革、すなわち、弁護士懲戒権を弁護士会から奪う方向の改革を行うべきだとも考えられます。

 この問題については、さらに考えますが、とりあえず、「弁護士自治を弱めてもよい」 と考える余地が十二分にあることを、( 今後の考察のために ) 述べておきたいと思います。



■追記
 この記事には、「こぐま弁護士」 という 「具体的な方の批評等」 を記載しておりますが、それはあくまでも、弁護士自治制度、および弁護士懲戒制度について検討・考察するために記載しているにすぎず、「こぐま弁護士」 という 「具体的な方の批評等」 が当記事の目的ではありません。当記事は内容が、法的にも社会的にも、「不相当と思われる」 記事にはあたらないと考えております。
 わざわざ明言するまでもなく、あきらかではありますが、「こぐま弁護士」 が勘違い ( あるいは意図的な誤読 ) をされては困りますので、明記しておきます。

中国に公私混同はない

2009-12-05 | 日記
田代秀敏 『中国に人民元はない』 ( p.10 )

 「公」 の代表は国家である。だから、少しでも権限があれば、国有資産を流失させ、私物化する。中国共産党の機関紙 『人民日報』 によると、二〇〇四年の一月から二月にかけて、中央銀行にあたる中国人民銀行が、農村での建設投資に八一〇億元を拠出したと報じるが、中国国家統計局が発表したデータによれば、同じ時期に農村で実際に建設された公的施設は一〇億元だった。差額の八〇〇億元は、関係した党幹部、党官僚、国家官僚、国家公務員、地方ボスたちの懐に 「流出」 してしまったのである。
 国家と並ぶ 「公」 の代表は会社である。中国では会社のことを 「公司 ( コンス )」 と呼ぶ。会社は、働きに応じた報酬を支払わないで、労働価値を搾取するから、「公司」 なのである。そう考えれば、「公司」 から奪われた自分の取り分を取り戻すために、会社資産を流失させ私物化するのは、道理にかなっているのだろう。

(中略)

 公私混同ではなく公私敵対に基づく私物化が、日常的であることを示すのは、「能力」 という言葉の意味の違いである。
 中国で 「能力」 とは、自分が勤務先の資産をどれだけ私物化できるのかを意味する。たとえば、調査部の部長が調査部の備品を自宅に持ち帰るのは、自分の 「能力」 の範囲である。しかし、調査部の部長が経理部の部品を持ち帰るのは、その 「能力」 を超えた違反行為である。組織のトップになれば、組織のものは全て自己の 「能力」 の範囲である。中国共産党の最高幹部の 「能力」 がどれほどのものかは、日本人の想像を超える。


 中国では、公私混同はあり得ない、と説いたうえで、中国人の感覚がもたらす現象が、解説されています。



 著者は、「公私混同」 とは、公私が区別されている社会に成り立つのであり、区別されていない社会では、原理的に 「公私混同」 はあり得ない、と説いています。

   中国でみられるのは、「公」 に奪われた自己の 「取り分を取り戻す」 行為

であり、それは 「公私混同」 ではない。したがって、日本人が中国人の 「公私混同」 だと思っている行為は、中国人にしてみれば、倫理的に 「正しい」 行為である、となります。



 ここから、中国人にとっての 「能力」 とは、「仕事をこなす能力」 の意味ではなく、「取り分を取り戻す能力」 の意味になっている、と考えられます。

 同じ漢字を使っていながら、意味が異なるので、誤解が生じやすいのだと思います。



 さて、上記引用には、

 「『人民日報』 によると、二〇〇四年の一月から二月にかけて、中央銀行にあたる中国人民銀行が、農村での建設投資に八一〇億元を拠出したと報じるが、中国国家統計局が発表したデータによれば、同じ時期に農村で実際に建設された公的施設は一〇億元だった。」

とあります。

 中国の報道のみに頼っていると、「八一〇億元」 と報じられれば、建設投資に 「八一〇億元」 が使われたと考えてしまいがちですが、実際には、建設投資に 「一〇億元」 が使われたにすぎない。とすれば、ここにも、誤解が生じる余地があります。「八一〇億元」 と 「一〇億元」 では、金額が大きく異なるので、注意が必要かと思います。

 なお、いうまでもないことですが、これは、中国人の 「公私混同」 ではなく、倫理的に 「正しい」 行為、すなわち、「公に奪われた自己の取り分を取り戻す」 行為によって生じた現象である、と考えなければなりません。



 上記のように、中国については、誤解が生じやすい面がある、と考えられます。そこで、今度は 『中国に人民元はない』 を引用しつつ、中国について考えます。