真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

8月30日

2010年08月30日 15時53分57秒 | Weblog
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昨日の歩数:10263歩
起床時間 :6時50分
血圧   :112    72
脈拍   :66
体温   :36.2℃
体重   :66.1kg

7時30分家を出る歩いて8時15分昭和病院へ
献血受付を済ませ、皮膚科にかかろうと教えてもらう。
予約自動受付機でカードを入れするとの事。
来たときには長い列が出来ていたが、今はすいていた。
カードを入れるが皮膚科がない。係の人に聞いてみる「向こうご年間に皮膚科にかかったことがありますか」と聞かれあると答えた。
「カードをお預かりして検索してきます」というのでカードを渡し暫く待つ。
緑の書いた用紙を持って来てくれこれを皮膚科の受付に出すように言われる。
皮膚科受付に出す。「ブドウ糖負荷試験をこれから2時間受ける」というと
それが終わってからの方が良いでしょうと言われ。2時間後に来ることにして診療券など預ける。
最ける室前に行く。8時半になると一番に呼ばれた。
まずは空腹時の採血4本を取る。
そしてブドウ糖を1本飲む。次は9時09分に採血、2分前には此処に来て腰掛けていてくださいと言われる。
待合室の椅子に座り「父」手塚治虫の素顔 手塚眞 を読む。
 あまり苦にならないうちに時間となり今度は右腕から採血をする。
そしてまた待合室で続きを読む。
9時39分に採血。貼った絆創膏をはガスト地が出てきたがそのそば出また最けるをする。
そして待合室で続きを読む。
祖母の話で祖母がバンドと活動していた件。私が所属していたバンド。
お母さんはいわゆるサポーターでいろいろ援助してもらった。練習場所に水野英子先生の清瀬時代の自宅を借りることが出来たのは手塚先生のお母さんが世話してくれたから。
 ただ本には若い男の子とバンド8(当時だとフォークグループ)に参加していました。
と書いてあるが、どっこいエレキーバンドであったのだ。それもビートルズやモンキーズ、など通り越してもっと激しくなりグランドファンクレイルロードやバニラファッジ、アートロックにと向かっていた。水野先生は「小野ヨーコ」に浸透していたそんな時代で、手塚先生のお母さんは、消してフォークなどという生やさしいものでは無かったのだ。
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