真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

昭和42年

2006年10月04日 15時25分13秒 | 虫プロ
昭和42年1月9日の月曜日 空は晴ていた、漫画部が中村橋スタジオから第4スタジオへ引越しをした。中村橋の漫画部では、深夜仕事が終わると帰ることができないので、誰か一人社長室の者が母屋の社長室で待機しなくてはならなかった、そのことを手塚先生が心苦しく思われたからであった。第四スタジオは第三スタジオの先にあったので、じゅうぶん歩いて行ける距離にあった、このスタジオは企画室などで使われており、山本暎一さんが「ヤマト」などの企画をしていた。
この当時の冬は寒くて、母屋の庭の池の氷がだいぶ厚くなっていた、なかまが氷の上に乗って遊んでいたが、調べてみると15から20センチぐらいの厚さがあったのだ。 今では想像できないであろう、まったく氷が張っているのを見ることはなくなった、外にある水道は、布を巻いておかないと凍り付いて使えなくなる、また凍りついた水道に、やかんのお湯をかけてとかしたり、凍りついた水道栓を、うっかり開けたままにしておくと、日が当たって水道の氷が解け、勢いよく水道の水が流れている光景を、よく目にしたものであった。
今では見かけなくなったこの光景、温暖化という言葉でで済ませて良いのであろうか?老婆心ながら  である。

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