真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

展覧会の絵 イラストレータ大塚清六氏

2006年09月27日 16時30分33秒 | 虫プロ展覧会の絵
 朝早めに出勤していた、須崎さんも早く来ていて、部屋のカーテンを開けるのが日課になっていた。その日いつも遅刻ギリギリの宮下さんが、速く来ていた。そんな宮下さんを見て2人は「今日は雨が降るね」などと、影口を叩いていた。すると、本当に雨が降ってきて、おもわず二人は顔お見合わせ、笑ってしまった。そんな日であった。 2階から週刊誌を持って手塚先生が降りてきた、開いてあるページを見せて「電話してありますので、この方に会って来て下さい」と言うのである。 その週刊誌の小説にイラストを描いていたのが、大塚清六さんで、手塚先生の目にとまったのであった。「電話で住所も聞いてあります」とメモを渡された、そのイラストの絵を見ながら、ここの描き方がとか、この線がなどと解説する手塚先生は、少年が、大発見をしたときのように、目をきらきら光らせていました。
 さっそく、住所を頼りに大塚清六さんの家へ行きました、13間道路(新目白通り)を下落合駅の踏切を渡って早稲田通りへ、13間道路を使ったのは、この頃まだ都電が走っていて早稲田通りは使いたくなかったからで、小滝橋には都電の車庫もあったころです。

その早稲田通りを中野へと戻る感じで右折、すぐ左の郵便局の道を入っていくと、住所の場所に着いたが、高いコンクリートの塀があるだけ、周りを回ってみたが、家があるのかどうかわからない。もう一度、一回りしても、門らしき物も、入り口すらも見当たらない。 困り果てて、電話をかけようと公衆電話を探したが、近くに見つからず、1度戻って大通りから電話をする。「その塀の所へ来てください」とのことで塀のところまで行くと、塀の外で大塚さんが、待っていてくださった。なんと塀と入り口が見分けがつかないようになっていて、塀の一部が入り口になっていたのでありました。

 応接間に通されると、その客室は和室の佇まいがあって、障子の向こうには和風な庭園が見えました、明かりが取り入れられるよう、大きな窓があり、庭には、竹が植えてあり、高い塀に囲まれているせいなのか、とても静かで何処か温泉宿へ来ているような、錯覚に陥ったほどでした。

 「大まかなことは手塚先生からの電話でお話してあると思いますが、週刊誌のイラストを見て、先生がとても気に入りまして、いま制作をはじめた、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の戦場の場面に、大塚清六さんのイラストを使いたいと先生が是非にと申しておりまして。」
と依頼の趣旨をお話ししました。大塚清六さんは漫画映画にと言うことに大変興味を持たれようで、すぐに、承諾を得ることができ、社に戻って先生に「承諾を得られました」と注げました。

大塚さんは、第5スタジオに何度も足を運ばれ、手塚先生や若い作画家たちと、最後まで、参加していただきましたが、お金については、何も契約しなかったので、雑誌のイラストを描いていたほうが生活には、良かったはずだったのではと思っておりました。しかしこの頃の、もの作りの方は、「損得勘定なんてものは、まったく無かった、」よき時代であったのですね。
大塚さんは最後の打ち上げにもおいでくださり、「展覧会の絵」でたくさんの賞をもらえたことを、たいへんお喜びになって下さっていました。

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