津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

「舞鶴・境間航路」の開設

2017-04-09 | 旅行
明治40年前後の新聞紙面から、阪鶴鉄道によって開設され、官設鉄道に継承された「舞鶴・境間航路」史
を調べていた。掲載された記事や広告には、これまでに著された航路史とは、少々異なる経過が記されて
いた。また、詳細不明の「永田丸」も、真相に近づけた。

阪鶴鉄道による舞鶴・境間航路開設の経緯は、『日本鉄道史』や山本煕著『日本鉄道連絡船史』[1948(S
23).03.25]に詳しい。後者は「阪鶴鉄道時代」と「鉄道国有後」に分けて記述され、その内容は、後に著され
た文献のベースとなっている。前段の阪鶴鉄道時代を引用させていただく。

阪鶴鉄道は、福知山・舞鶴間の官線の借受けにより、宿願を達し、さらに海運を兼営して、山陰地
方をその培養圏内に入るることを企図し、舞鶴への開業と共に、舞鶴・宮津間航路を開き、さらに
明治三十八年四月には汽船永田丸を用船して舞鶴・境間の航路を開いて隔日運航をなした。
‥(略)‥
同社は本航路開設に当つて、新船の建造に着手し、大阪鉄工所とその建造を契約すると共に、鳥
取島根の両県に航路補助金の下付を申請して、その聴届を得た。
明治三十九年七月十一日、新造船阪鶴丸(七七五噸)を就航せしめて、永田丸と交替させた。


阪鶴鉄道による舞鶴・境航路の「開設日」「投入船」を探るには、その前史にも触れておかねばならない。
『日本郵船50年史』を紐解くと、1885(M18)創業時の命令航路には「神戸小樽西廻線」があり、同社第22
期(M39.10-M40.09)まで経営した。社史の航路沿革図によると、門司・敦賀間の寄港地は境のみ。後に
触れる『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル報告(第四回)』は、「参考」として「山陰道ノ海運」というタイム
リーな特集を組んでいる。神戸小樽西廻線の項には「毎週一回ノ発着ニシテ之ヲ利用スルコト稀ナリ」「阪
鶴航路ノ開始以来著シキ打撃ヲ蒙リ従来敦賀ニ出テタル郵船客ノ始ント過半ハ総テ仝線ニ奪ハレ益々
減少スルノミナリ」とある。日本郵船はダンピングしたものの、使用船に関するクレームもあり、22期を最期に
廃航した。
『大阪商船50年史』によると、従来、山陰方面における海運は加能汽船[1886(M19).05設立]によって経営
されたが、同社解散[1900(M33)]の後、境以東に汽船航路は無くなった。大阪商船は1901(M34).04.06に
「大阪舞鶴線」を開設し、「手取川丸」「金龍丸」を投入、月間5回運航した。前者は加能汽船「加能丸」の
後身であり、1900(M33)年中に取得・改名されている。大阪商船による本航路は、1904(M37).07に休航し、
1905(M38).04に廃航となった。
また、本航路史については、『隠岐航路史』『百年の航跡』(共に隠岐汽船刊)も詳しい。特に前者は年度
毎の詳細を記述している。
隠岐汽船は、隠岐~境航路の充実に併せ、新たな航路の拡張を図るため、総会決議を経て1903(M36).
03大阪で建造中の「大成丸」を購入し、「第三隠岐丸」と改名、1903(M36).05下旬より隠岐(浦郷)~舞鶴
航路を開始した。同船は、隠岐汽船最初の自社所有船である。
1904(M37).11.03官設鉄道の新舞鶴(現:東舞鶴)延伸が完成すると、阪鶴鉄道は開通区間を借受け、大
阪~新舞鶴間の直通運転を開始した。
直通運転開始の二日前、1904(M37).11.01隠岐汽船と阪鶴鉄道は、山陰東岸と京阪神を結ぶ車船連絡輸
送契約を締結した。契約締結に先立つ10月より、隠岐汽船は隠岐(浦郷)~舞鶴航路に充てていた「第三
隠岐丸」を、専ら境~舞鶴・敦賀航路に充当した。大阪商船は1905(M38).03末同航路を廃止したという。
(『大阪商船50年史』と廃航日が異なる。)



第三隠岐丸 8700 / JQTL 185G/T、木、1903(M36).03、片岡彦次(大阪)、119.50尺[M37版]

隠岐汽船による境~舞鶴航路は、貨客とも日増しに増加し、「第三隠岐丸」一隻のみでは船腹不足を来
した。そこで隠岐汽船と阪鶴鉄道は共同し、1905(M38).03.19に「浮世丸」(9127 / JSCN、356G/T)の用船
契約を締結した。同船は高崎謙二所有、同所建造[1904(M37).07]の新船。大阪商船の用船により、大阪
~熱田、大阪~内海(宮崎)等に使用されていた船。しかし、「浮世丸」は本航路にそぐわない不採算船と
判り、1905(M38).10末に用船契約を解除した。隠岐汽船は、この解除に併せ航路を隠岐~舞鶴と改め、
「第二隠岐丸」も追加投入した。さらに、翌年度からは「隠岐丸」も就航させている。隠岐汽船が山陰東部
沿岸航路の全てを廃止したのは、山陰線全通の1910(M43).03.01であった。



「浮世丸」の最初に現れる出帆広告[1905(M38).03.29]と、その直前の広告[同年03.04]を対比する。
因みに、「浮世丸」は1908(M41).07.28アムール河口の露領「ニコライスク」(現:ニコラエフスク・ナ・アムレ)において炭庫
より出火、水線上全部を焼失して河底に沈没した。彼女の渡った浮世は、僅か4年の短いものとなった。
広告には、就航は「不定期」、寄港地は「橋津、賀露、濱坂、津居山、宮津舞鶴行」「但積荷都合ニ依リ
敦賀迄延航スルコトアル可シ」とある。

次に、連絡船史等に「永田丸」と記される汽船について触れたい。『船名録』の「M39版(M38.12/31現在)」
と「M40版(M39.12/31現在)」に、「永田丸」という登簿汽船は見当たらない。『船名録』に載る「番号付の
永田丸」は次のとおり。
39・40 第貳永田丸 6877 / JCQV 1163G/T M33.03 (御用船として使用中)
39・40 第四永田丸 2570 / HPSR 40G/T M31.09 
39・40 第八永田丸 6924 / JCRW 360G/T M33.11 
39・40 第九永田丸 7068 / JDBF 20G/T M34.05 (御用船として使用中)
39・40 第十永田丸 7067 / JDBC 39G/T M34.06 (御用船として使用中)
39・40 第十壹永田丸 8356 / JDBR 414G/T M34.10 大阪~境
39・40 第十二永田丸 8386 / JDCV 522G/T M35.03 神戸~東京 (御用船として使用中)
39・40 第十三永田丸 8803 / JRFH 569G/T M36.10 神戸~小樽 (御用船として使用中)
39・40 第十四永田丸 9275 / JSLK 668G/T M37.11 (御用船として使用中)
39・40 第十五永田丸 9112 / JRSM 361G/T M37.06 神戸~仁川
-・40 第十七永田丸 10300 / LBMK 70G/T M39.05

1905(M38)から1906(M39)にかけての永田三十郎所有「永田丸」は上記のとおりで、右に記した航路等は、
『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル報告(第三回)』(M37年中)による。



新聞記事や広告は、「永田丸」の総トン数を「415噸」と記している。阪鶴鉄道の用船した「永田丸」は、
「第十壹永田丸」と特定して間違いあるまい。船名録は表示単位未満は切捨てだが、切上げたと思われ
る。また、当該船の航路は「神戸~下関~境航路」とある。推測になるが、全く見ず知らずの船ではなく、
境港に姿を見せていた同船を、阪鶴丸登場までの繋ぎとして用船したものと思われる。

「第十壹永田丸」投入時期も、新聞記事から判明した。M39.01.10付紙面は米子港トライアル(?)入港の状況
を、また同01.12付紙面は舞鶴・境間航路開設に関し、次のように報じている。

阪鶴鉄道連絡汽船初航海
阪鶴鉄道連絡汽船永田丸は米子深浦初航として去五日満船飾を以て入港せしに依り荷客取扱所
員は勿論米子町大字大工町塩町の全体は出迎の上船員一同を倉庫内の宴席に招待し歓待を為し
たるが汽船は同夜一泊せり爾後隔日に入港し荷扱所は米子は大字日野町立林喜太郎宅に大阪は
西横堀相生橋角梅田停車場構内の両荷物取扱所にて取扱を為す由にて旅客運賃は米子より大阪
まで金三圓八十銭速達便は目方五貫目にて運賃三十銭普通荷物も非常の勉強を為すべしと披露
せり

舞鶴境間の直航開始
阪鶴会社においては従来舞鶴と境港との間を浮世丸及び隠岐丸を以て連絡運航し来たるか今回
新たに汽船永田丸(四百十五噸)を専用船となし去九日を初航に以来三日目毎の直航を開始し
僅々十四時間にて境港に着するを以て松江大社米子安来等の乗客及び貨物の運輸上には至大
の便宜を得ることとなれり尚ほ津居山浜坂鳥取橋津への往復は従前通り第二第三両隠岐丸を以
て運航する筈なりと


これら紙面や広告から、阪鶴鉄道の用船した直航船は「第十壹永田丸」が最初であり、境港発上り初航
はM39.01.09からで、就航は三日毎であると判った。
同じ01.12付の紙面には「馬潟近況」という記事もあり、浚渫船を用いた馬潟港浚渫工事の進捗と共に、
「阪鶴連絡汽船永田丸は遠からず来航すべく又阪神往来船も碇泊すべし」と報じている。
これまで、連絡船史等に記された「M38.04」という年月を採るなら、3月中に初便の運航された可能性は
残るものの、当初の使用船は隠岐汽船と共用の「浮世丸」となる。さらに「第十壹永田丸」就航までの間、
二ヶ月強の休航期間もあった。
一方、使用船を「永田丸」とするなら、就航は「M39.01」からとなる。運航頻度は「隔日」ではなく「三日毎」。
新聞広告によると、永田丸は「阪鶴鉄道新造船(来ル六月竣工)開航準備トシテ」の投入であった。





隠岐汽船は、前述の航路以外にも、舞鶴~津居山線や、津居山~網代線を運航した時期もある。そのた
め、津居山港を記録した絵はがきに、隠岐汽船は船影を残している。一枚目は「第二隠岐丸」。二枚目の
白い船体の船は、「第二隠岐丸」に比べると小形に見える。「隠岐丸」か「第二船穂丸」と見られる。

第二隠岐丸 1525 / HKMC 228.89G/T、木、1895(M28).04、森川卯三郎(大阪)、128.10尺[M29版]

津居山港を訪れた時、海はシケていた。城崎マリンワールドを見下ろす撮影ポイントまでバイクで登り、日和山観
光の遊覧船の出港を待ったが、その日、遊覧船は欠航となった。船だけは見ておこうと、円山川沿い係留
場所へ向かった。





「マリンビュー2」は津居山のガソリンスタンドの前に、「マリンビュー1」は個人の庭先のような所に係留されていた。た
またま、撮影のお許しを願った方が、関係者であった。ヤマハ発動機(蒲郡)建造の姉妹の話を伺ったが、特
に印象深かったのは、同じヤマハ発動機製の「かいげつ11」を見に、的矢湾へ行かれた話。船や海の話に、
時の経つのを忘れた一時だった。
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