「若草丸」(60544 / JQOA)1122.08G/Tは、1947.12.13日立因島で進水した。28組1000G/T型唯
一の三島型。建造時要目で目を引くのは主機で、旧佐世保海軍工廠製を載せている。艦艇用とし
て製作された機関であろう。明細書は1973版から保安庁船も掲載され、主機は「海軍22号10型」
D2100PS×1となっている。
日本内航客船資料編纂会『小型客船28隻組』(以降編纂会『28隻組』)掲載のビルダー提供画像は、
船橋楼のみ白塗装。この大阪商船発行の絵葉書は、同じ版を用いてる。公式試運転時と思われる。
1950年代の在来船が収録される『日本商船明細画報(1955刊)』には、貴重な船影が多い。この
画像にはスカジャップが無い。1952頃の姿だろうか。
「若草丸」の船歴は編纂会『28隻組』に詳しい。当初、青森~室蘭航路に投入され、次いで阪神~
沖縄航路へ転用された。「小型」「荷役が困難」な事を理由に米軍から代替要求があり、3航海で
撤退した。沖縄航路運賃同盟が結成されてからも、米軍への許可申請が必要だったことを考えると、
米軍の指示は絶対だったのだろう。
1950.04.01 800G/T以上の船舶の民営移管。
〃 .08.28 GHQ、沖縄定期航路開設許可。
1951.04.25 沖縄航路運賃同盟スタート。当初のメンバー及び定期船は次のとおり。
大阪商船 白雲丸※
三井船舶 高雄山丸※
日本海汽船 白山丸
山下汽船 金星丸
中川水産 第一照国丸※ ※28組
各社は夫々定期船一隻宛の配船権を有し、臨時船の配船を希望するときは、
定期船との関連に於いて、他の全メンバーの承認を得た上でなければ、米軍
CTSに許可申請することは出来ない。
運賃同盟の規約はとても厳しい。理由は定かでないが、中川水産は、就航前に航路権放棄申請を
行っている。
1953.11、「若草丸」は鹿児島~沖縄航路に投入された。このタトウはその案内状入れで、案内状
は次の文面となっている。
拝啓
益々ご清祥の段慶賀の至りに存上げます
陳者弊社に於きましては大島復帰による船客の激増に備へ予而より弊社に寄せられました
諸賢の絶大なる御輿望に答ふべく鹿児島~名瀬~那覇間折返へし定期航路開設を企劃致し
ておりましたが愈々来る11月10日鹿児島發建にて若草丸(1,122総屯)を配船し、月4航海
の定期運航を實施することに決定致しました 本船は12ノットの速力を以て205名の船客と
300屯の貨物を輸送致すことゝなりますが、迅速、安全、確實をモツトーとするサービスにより
必ずや諸賢の御期待に副ひ得る事を確信する次第であります
就きましては何卒従来より配船の白雲丸同様引續き御愛顧の程切に御願申上げます 敬具
昭和28年 月 日 大阪商船株式会社
キャビンプランを見てみると、二等、特三等、三等の3クラス。二等は船橋甲板(端艇甲板)の6名×2室。
特三等は船橋楼内の2室で、定員24名。船内は厳格に区分されていたようで、赤で示したドア一枚
で、二等・特三等客と、167名の三等客が交わらないようになっている。
桃色で示した部分は「医務室」。船橋甲板前部は上等級の食堂。船橋楼内後部中央の水色部分は
厨房となっている。三等客の食事は船室で供したのだろう。船内三カ所に配膳室が設けられている。
思えば、東海汽船「黒潮丸」による小笠原航も、船楼甲板(デッキ上)にゴザを敷き、並べたテー
ブルか、狭い船室で供ししていた。
中に封入された絵葉書は不明である。最後の旅客営業が沖縄航路となったことを考えると、この
姿が最末期と思われる。
当時、琉球航路を経営した船社のパンフレットを見ると、興味深い点が数々ある。これは1955.06
現在の大阪商船パンフレット。食管制度が生きていて「1食1合」の米を持参して乗船することとなっ
ている。炊飯は無料、副食費は運賃込みと記されている。当時、既に奄美群島は復帰していたも
のの、同一船に混乗するからだろうか、次の文言があり、興味をそそられる。
奄美大島・名瀬行きのお客様へ
奄美大島の名瀬迄は当航路で御自由に御渡航が出来ます。この場合、身分証明書及び入国
許可書、予防注射証明書等は勿論不必要ですから、簡単に乗船出来る訳です。但し手続き
等はたとえ簡便であっても、一応外国航路の性質を帯びておりますから手廻り品始め手荷
物については乗船港により税関旅具検査が必要です。従ってその点、普通の内地航路の取
扱いと多少違っております。
那覇の泊港で記録された若草丸の姿が数点残っているが、これはその一枚。現在「フェリー粟国」
が接岸する位置である。右手に見えるのが税関と監視詰所か。
我が国の南極観測参加は、第三回国際地球観測年の一環として決定され、観測船には砕氷構造を
持つ海上保安庁「宗谷」と国鉄「宗谷丸」が候補に挙がり、「宗谷」に絞り込まれた経緯がある。
その燈台補給船の後継船として、「若草丸」に白羽の矢が立った。
「若草丸」はS30年度予算予備費で大阪商船から購入(7,100万円)、1956.01.12引渡を受けた。
改装の後「若草」と改名、4月より燈台補給船業務を開始した。
一の三島型。建造時要目で目を引くのは主機で、旧佐世保海軍工廠製を載せている。艦艇用とし
て製作された機関であろう。明細書は1973版から保安庁船も掲載され、主機は「海軍22号10型」
D2100PS×1となっている。
日本内航客船資料編纂会『小型客船28隻組』(以降編纂会『28隻組』)掲載のビルダー提供画像は、
船橋楼のみ白塗装。この大阪商船発行の絵葉書は、同じ版を用いてる。公式試運転時と思われる。
1950年代の在来船が収録される『日本商船明細画報(1955刊)』には、貴重な船影が多い。この
画像にはスカジャップが無い。1952頃の姿だろうか。
「若草丸」の船歴は編纂会『28隻組』に詳しい。当初、青森~室蘭航路に投入され、次いで阪神~
沖縄航路へ転用された。「小型」「荷役が困難」な事を理由に米軍から代替要求があり、3航海で
撤退した。沖縄航路運賃同盟が結成されてからも、米軍への許可申請が必要だったことを考えると、
米軍の指示は絶対だったのだろう。
1950.04.01 800G/T以上の船舶の民営移管。
〃 .08.28 GHQ、沖縄定期航路開設許可。
1951.04.25 沖縄航路運賃同盟スタート。当初のメンバー及び定期船は次のとおり。
大阪商船 白雲丸※
三井船舶 高雄山丸※
日本海汽船 白山丸
山下汽船 金星丸
中川水産 第一照国丸※ ※28組
各社は夫々定期船一隻宛の配船権を有し、臨時船の配船を希望するときは、
定期船との関連に於いて、他の全メンバーの承認を得た上でなければ、米軍
CTSに許可申請することは出来ない。
運賃同盟の規約はとても厳しい。理由は定かでないが、中川水産は、就航前に航路権放棄申請を
行っている。
1953.11、「若草丸」は鹿児島~沖縄航路に投入された。このタトウはその案内状入れで、案内状
は次の文面となっている。
拝啓
益々ご清祥の段慶賀の至りに存上げます
陳者弊社に於きましては大島復帰による船客の激増に備へ予而より弊社に寄せられました
諸賢の絶大なる御輿望に答ふべく鹿児島~名瀬~那覇間折返へし定期航路開設を企劃致し
ておりましたが愈々来る11月10日鹿児島發建にて若草丸(1,122総屯)を配船し、月4航海
の定期運航を實施することに決定致しました 本船は12ノットの速力を以て205名の船客と
300屯の貨物を輸送致すことゝなりますが、迅速、安全、確實をモツトーとするサービスにより
必ずや諸賢の御期待に副ひ得る事を確信する次第であります
就きましては何卒従来より配船の白雲丸同様引續き御愛顧の程切に御願申上げます 敬具
昭和28年 月 日 大阪商船株式会社
キャビンプランを見てみると、二等、特三等、三等の3クラス。二等は船橋甲板(端艇甲板)の6名×2室。
特三等は船橋楼内の2室で、定員24名。船内は厳格に区分されていたようで、赤で示したドア一枚
で、二等・特三等客と、167名の三等客が交わらないようになっている。
桃色で示した部分は「医務室」。船橋甲板前部は上等級の食堂。船橋楼内後部中央の水色部分は
厨房となっている。三等客の食事は船室で供したのだろう。船内三カ所に配膳室が設けられている。
思えば、東海汽船「黒潮丸」による小笠原航も、船楼甲板(デッキ上)にゴザを敷き、並べたテー
ブルか、狭い船室で供ししていた。
中に封入された絵葉書は不明である。最後の旅客営業が沖縄航路となったことを考えると、この
姿が最末期と思われる。
当時、琉球航路を経営した船社のパンフレットを見ると、興味深い点が数々ある。これは1955.06
現在の大阪商船パンフレット。食管制度が生きていて「1食1合」の米を持参して乗船することとなっ
ている。炊飯は無料、副食費は運賃込みと記されている。当時、既に奄美群島は復帰していたも
のの、同一船に混乗するからだろうか、次の文言があり、興味をそそられる。
奄美大島・名瀬行きのお客様へ
奄美大島の名瀬迄は当航路で御自由に御渡航が出来ます。この場合、身分証明書及び入国
許可書、予防注射証明書等は勿論不必要ですから、簡単に乗船出来る訳です。但し手続き
等はたとえ簡便であっても、一応外国航路の性質を帯びておりますから手廻り品始め手荷
物については乗船港により税関旅具検査が必要です。従ってその点、普通の内地航路の取
扱いと多少違っております。
那覇の泊港で記録された若草丸の姿が数点残っているが、これはその一枚。現在「フェリー粟国」
が接岸する位置である。右手に見えるのが税関と監視詰所か。
我が国の南極観測参加は、第三回国際地球観測年の一環として決定され、観測船には砕氷構造を
持つ海上保安庁「宗谷」と国鉄「宗谷丸」が候補に挙がり、「宗谷」に絞り込まれた経緯がある。
その燈台補給船の後継船として、「若草丸」に白羽の矢が立った。
「若草丸」はS30年度予算予備費で大阪商船から購入(7,100万円)、1956.01.12引渡を受けた。
改装の後「若草」と改名、4月より燈台補給船業務を開始した。