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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

生まれは「東湾八郎丸」

2015-05-06 | 東京湾汽船
時折、職場にお立ち寄り下さる東海汽船OB氏は1960年代後半のご入社という。その当時、ハイシーズンの勝山へ応
援に入ったお話を伺った。
房総西線千倉電化(1969(S44).07)や道路整備の進展などから、船便を利用しての海水浴客は減少し、夏期の
内房航路は1970(S45)を最後に休航した。
OB氏の応援に入った頃の勝山には、既に飛行塔や観覧車は無かったという。「橘丸」等の客船は、勝山港に「出
船」で接岸した。岸壁に接するのは船体後部のみで、オモテの係船索を岩礁のビットに掛けるご苦労や、島から持ち
込んだバスで船尾の係船索を引き、クラッチを焼き切りそうになったことなど、思い出話を伺った。勝山地区レジャーランド
化の先鞭を付け、地下足袋町長として有名な平田未喜三氏も、毎朝、姿を見せていたという。

『鋸南町史』は勝山の観光施設整備について「この近くの浮島に、昭和10年ころ、平田未喜三が始めて観光施
設を設置したのが最初」と記している。後に平田氏は、浮島の対岸にスポーツランドや水族館を設けた。続いて「昭
和28年3月になると東海汽船は町内の観光資源の豊かさに着目し、平田朗・未喜三と共同経営により、岸壁を構
築し、ヘルスセンター、頼朝荘が建設され、多くの遊戯施設が造られて、房州地方における一大遊園地に発展しました」
とある。





いかにも昭和の味わいのパンフレットは、本社所在地・乗船場所共に月島としている。『100年史』から発行年を探っ
てみたところ、竹芝船客待合所の使用は1953(S28).08.15、本社の銀座移転は1954(S29).09.01であることから、
勝山地区レジャーランド化のごく初期(1953?)に印刷されたものと判った。『100年史』には次のとおり記されている。

戦後、要塞地帯としてのヴェールを脱いだ東京湾内唯一の海洋公園たる千葉県
勝山鋸南地区の観光開発に当社は着目し、地元町村の絶大なる協力を得て、
27年初めより開発計画を立て夏期海水浴場としてオープンするため、休憩所、
脱衣所、売店、貸ボート、カヌー、水族館その他の諸施設を夏前に整備すること
とした。7~8月の間は東京~勝山海水浴航路を運航し、秋には観光定期船
を就航させた。更に、28年に勝山と保田の中間に在る亀ケ崎を「パールアイランド」
と呼称し、真珠の養殖や海女による海水の水槽内で魚の餌付け実演を行う
等多様な施設を次々と整備し、宣伝誘客に努めた。
28年勝山町平田未喜三町長と契約し、勝山港内に定期船用の桟橋と船客待
合所の建設資金を寄付し、これの専用使用権(30年間)を取得灯標等桟橋関
連施設の整備を行った。また、海浜付近一帯に亘り子供用の遊戯施設やクジ
ャク、猿等の小動物園を設けたスポーツランドを造り、その背面に聳える大黒山に
は山頂行きのエレベーターを設置した他、山裾の岩屋を利用した水族館も建設し
た。


『80年史』は「1953(S28).03千葉県勝山地区に観光開発を行う。岸壁、遊園地、水族館、ヘルスセンター、頼朝荘を順
次建設。」とだけ記している。パンフレットに掲載された案内図を見てみたい。







地図には「勝山丸」という船名が、舟形の記号と共に記入されていた。東海汽船に「勝山丸」という船名は在籍
していない。海水浴場の演出効果を高めるため(?)、漁船でも陸揚げしていたのだろう‥と考えていた。





「勝山丸」は突然に姿を現した。用途は判らないものの、舷側と船尾に階段を設け、砂浜から船内に入れるよ
うになっている。浜辺の演出効果だけではなく、実用されていたと判った。そしてその船影から、「勝山丸」は
「鶴丸」の船体を流用していたと判明した。左手に見える船は、パールアイランドとターザン島を結んだ遊覧船らしい。



「鶴丸」(2代)は貨物船改造の貨客船。船名の読み取れる「鶴丸」の画像は、一枚見つかっている。絵葉書の仕
様から1933(S8)以降の記録と見られる。貨物船当時、旅客定員を取っていたかは、判らない。
鶴丸 36228、44G/T、木、1930(S5).09、下田船渠

「鶴丸」の前身は「東湾八郎丸」と云い、1933(S8)に改名されている。この時点で貨客船に改造されたとみられ
る。小型貨物船の故か、東湾○○丸10姉妹(この場合兄弟と言うべきか?)の船影は、1930(S5)建造にもかか
わらず、『80年史』掲載の画像以外に見当たらない。『100年史』には次のとおり記録されている。

昭和3年の第1期新船建造計画8隻の中には貨物船は2隻のみで、ディーゼル
貨物船が不足のため5年に第2期新船建造計画を策定し、ディーゼル貨物船の
建造を決めた。
‥(略)‥
これらの貨物船は林専務による海上トラック構想に基づき建造、購入されたも
ので速力アップに重点をおいたため船体の割に機関部が大きく、船倉は小さ
いが甲板上に貨物が多く積めるようになっており、また、喫水を浅くして伊
豆及び房州の何処の漁港にも入港出来て、積込みも容易であり、東京の
魚河岸に直接運び込み着岸出来るという特色を持たせて、話題となった。


10姉妹のネーミングは異色かつ秀逸と考えている。太郎から六郎の6隻は藤永田造船所建造の鋼船。「太郎・次郎」
と「三郎~六郎」の2タイプそれぞれが同型船。下田造船所建造の「七郎・八郎」は同型の木造船。「九郎」「十郎」
は買収した木造船であった。
社史によると、戦後の1948(S23)には浦賀~竹岡航路に就航。1951(S26).02.01付『現況』によると、浦賀~金谷
航路に「花丸」と共に就航している。この時点の「鶴丸」旅客定員は三等82人となっている。1952(S27).04.01の
東京湾輸送設立の際、湾内横断航路と共に西伊豆航路は譲渡され、「鶴丸」は沼津~松崎航路に使用された。
『S30船名録』まで東海汽船所有と掲載され、『S31船名録』から抹消される。船名録で追う限り、東京湾輸送に
は移籍されていない。『戦時船名録』を確認したところ、1955(S30).09.07付抹消であった。

10姉妹で最も長命を保ったのは「東湾太郎丸」。1932(S7).11.14に襲来した台風により爪木崎で座礁大破したが、
1933(S8).09.16貨客船「高砂丸」(2代)として再生、新たな船舶番号を付与された。大久保正一船長の著作『伊
豆七島の特殊な悪条件』には、「高砂丸十年の思いで」として、10年間もの長きに亘って船長として乗船され、
1970(S45).01月、へ無事に送り届けた思い出が綴られている。





先日、「小原謹一郎碑」調査に館山を訪問した帰途、勝山へ立ち寄った。パンフレットに「大遊園地」とある飛行塔
のあったと思しき一角は、予想以上に狭い。水族館跡地手前には、そのことを記録する看板が立っていた。
1961(S36).07-08月に266.7千人の輸送実績を記録した勝山航路。佐久間川河口周辺にレジャーランドがあったと
は想像つかず、夢幻泡影といった趣の勝山だった。

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