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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

旧北上河口

2012-11-30 | 東京湾汽船
荻浜からの帰路、石巻の旧北上河口に立ち、網地島ラインの入港を待った。今も「巡航船」と
呼ばれている。震災後は臨時ダイヤにて運航され、10.01より通常ダイヤに戻されていた。





網地島より田代島を経由し、15:00「ブルーライナー」は戻ってきた。130844 / JE3095、101G/T、
1988.06、三菱下関の鋼船。航海速力は18.2k/n。
「ブルーライナー」と、かつて旧北上河口で記録された絵葉書と対比してみた。キャプションに「石巻
ヨリ金華山行汽船ノ出帆」とあるが、これは入港する姿と判る。



この船は見るからに「東京湾型小型汽船」。『件名録』には「重甲板船」とある「全通船楼船」。箱形
操舵室を持ち、その頂部に補助帆の付くフォアマストが立つ。船尾はカウンタースタンにならない。M10年代後
半~20年代前半頃、東京湾内で建造された汽船に共通する特徴と見ている。これは、1889(M22)
創業の東京湾汽船に出資された汽船のスタイルと言えよう。絵葉書全盛期まで残存したそれらの船は、
房総半島や三浦半島の諸港で、数多く捉えられている。一方、大阪湾周辺で建造された同期の同
クラス船は、「ブリッジ」や船橋楼を持つ船が多い。逆に、これは東京湾型には見られない。
船名録等から作成した東京湾内建造船リストから、この海域で活躍した船を絞り込むと、該当す
るのは「第参拾号通運丸」のみとなる。この船影は、東京湾汽船による三陸航路経営当時のもの
に相違ないと考えている。しかし、絵葉書の仕様は1918(T7)郵便規則改正後のもの。写真の使い
回しなのか?



この塩釜港の画像は、東京湾汽船の十字旗と、三陸汽船の社旗及びファンネルマークを纏った船が一枚
の画に納まるという、極めて珍しい光景を記録している。船はそれぞれ纏まって係留されている。
その間の水面に火花が散っているように見えてしまう。撮影は三陸汽船創業の1908(M41)と、東京
湾汽船撤退の1911(M44)の間に限られる。煙突マーク無しは、東京湾汽船か龍丸汽船と見て良い。

16:46の「マーメイド」入港まで時間があり、中瀬へ行ってみた。この時は「石ノ森萬画館」は閉館
していたが、去る17日に再オープンしたと報道された。その際、原画は無事だったことや、震災時、
ここに孤立した人もいたことを知った。「石ノ森萬画館」北側から、西方向を記録した絵葉書がある。



写っている外輪汽船2隻は龍丸汽船。キャプションに「石巻第壹発着所」とあり、「玉龍丸」(右)、
「神龍丸」と外輪覆に読める。土蔵の妻には山に「り」の、龍丸汽船の社章が見える。この地方
の海運史を調べる際、欠かせない著作となっている武田泰氏『覚書 北上川の汽船時代』による
と、龍丸汽船の絶頂期は1912(T1)頃で、当時、「玉龍丸」は万石浦航路、「神龍丸」は臨時用と
なっている。



「マーメイド」入港時には既に陽は落ち、かろうじて撮影した。126599 / JE2640、122G/T、
1983.06、村上造船所(石巻)。日没と同時に、気温は急激に低下した。東京に向けスタートした
夜道の右手に、門脇小学校の廃墟が黒々と見えている。石巻在住の元同僚の一人は、今も行方
不明のままだ。ご冥福を祈らずにはいられない。
石巻と云う地名を知ったのは小学生の時のこと。父島に来航した「第十二共勝丸」の船籍港を
見て、どこにある港か、地図上に探した。初訪問時の目的は、船ではなく仙石線の73・72形電車。
松島湾の波打ち際を走る陸前大塚駅界隈や鳴瀬川の橋梁は、特に思い出深い。その辺りの被災
は激しく、今も高城町~陸前小野間は復旧していない。



当時の石巻駅舎(電車駅)は、戦時買収された宮城電気鉄道の建築で、天井には電鉄の社章が
残っていた。東塩釜駅付近のガーターは、今にも崩れ落ちそうな、国鉄離れした光景だった。

号鐘は残った

2012-11-10 | 東京湾汽船
今年は3回、芸予諸島に旅をした。最初はGW。「しまなみ海道」の島々を巡ってから四国北岸を歩いた。この
時、3.25に観音崎で見送った「羊蹄丸」に新居浜東港で再会した。





2回目は8月、芸予諸島西半分を目指した。自宅から9時間の走行で竹原港着。新東名の開通により体力の消耗
は軽減された。いつもの撮影ポイントに立ち、朝一番の入港船から狙い始めた。



「あさぎり」 契島運輸 32.41G/T, 1980.06, 石原造船所(高砂) 
目の前に浮かぶ契島は魅力的に映る。島旅好きの飲み友達に、契島出身の女性がいる。不思議な縁に驚いたが、
彼女は従姉妹の友人だった。契島と群馬の接点は東邦亜鉛。父親は同社社員さんと云うから、契島出身も肯ける。
大崎上島には「ないすおおさき」で渡った。2012.05.31現在人口8,342人のこの町は、瀬戸内海の架橋されない
島の内、小豆島に次ぐ人口・面積を擁する。島外との交通を船便に頼り、島の四方にカーフェリーの発着する港がある。
ここは海運・造船の島でもある。



「さざなみ」 大崎上島町 64G/T, 1987.03, 松浦鉄工造船所
時刻表を確認しつつ、各港を回って入港船を迎える。山越え道もバイクは機動力を発揮してくれた。撮影の合間
に「海と島の歴史資料館」に立ち寄った。廻船問屋を営んだ望月家のことや、ここに広島商船高等専門学校の
立地する理由等を知った。展示を見終え、文献を見ていた時「葵丸」の船名が目に飛び込んできた。この島に
「葵丸」の号鐘が残っているという。文献を執筆されたのは郷土史研究家の金原兼雄さん。何故、葵丸の号鐘
が‥?と疑問は膨らむも、船便の時間は迫り、後ろ髪引かれる思いで大崎上島を後にした。

帰宅してから思うは「葵丸」の号鐘のこと。金原さんをはじめ、島の方に情報をいただき、満を持して東名道
に乗った。大崎上島に平日を充てるため、先ずは土曜日に松山周辺、日曜日は八幡浜を歩いた。



「あいほく」 新喜峰/機構共有 57G/T, 1999.12, 藤原造船所



「あかつき2」(左)と「さくら」 宇和島運輸

松山から呉へ「石手川」に乗船した。警固屋の街はお祭りで賑わい、黒い面の鬼が氏子さんを追っていた。大
崎上島には、安芸津から「第十五やえしま」に乗船。号鐘の保存されている「西野公民館」の開館時刻を待ち、
念願の対面を果たした。



号鐘は公民館の玄関ホールに吊され、表面に「葵丸 昭和八年四月」と彫られていた。法定備品の号鐘に、必ず
しも船名は彫られているわけでないと、エントランスに歴代所有船の号鐘を飾っている会社の方から伺ったことがあ
る。小型船の場合、保存に際して彫ることもあったとか。事故で全損となったことを考えると、この銘は三菱
神戸により、新造時に彫られたと見られる。
館内には、金原氏による解説パネルも展示されていた。解説によると、鐘は2008(H20)廃校となった西野小学校
の教員室に吊られ、かつては始業の鐘として使用されたという。廃校にあたり鐘を取外したところ、彫られた
船名に気付き、同校卒業生の金原氏により由来調査が行われた。
お礼のお電話をしたところ、金原氏は面会に駆けつけて下さった。大崎上島出身の東京湾汽船乗組員もいたこ
とから、その一人が携えて来たのではないか‥とお聞かせ下さった。嬉しい出会いとなった。





「葵丸」は神戸の三菱造船所で1933(S8).04.12進水、6.08竣工した。この船の完成を以て、1928(S3)策定の「第1
期再建拡張計画」は完成した。遊歩甲板前部に大きな社交室が設けられ、社史は「船全体が家族的に楽しめる
ような設計で極めて画期的な構造」と記している。1939(S14).12.07 AM4:00頃、濃霧の中、大島泉の浜海岸に座
礁し全損に帰した。当初、離礁可能と見られた節のあることから、天候は急変したのか。



夏にも訪れた「この船」は、まだ、係留されていた。予定していなかったものの、時間を調整し、再訪してしま
った。着いたのは日没の間際。防波堤に腰掛け、しばし船影を眺める。公募で決まった船名や、青地に二引きの
煙突マークを眺めるたび、胸が痛む。小笠原航路用として建造されたにもかかわらず、父島二見港はもとより、東京
港への入港さえも叶わなかった船。このような哀しい船は、二度と生まれて欲しくない。夕暮れの海にカラスの群が
舞っていた。

廃品更生の王様

2012-09-08 | 東京湾汽船
gooの空中写真(S22)は、終戦後の都内の様子を眺められ、とても興味深い。ことあるごとに眺め
ている。
東京港内に東海汽船「こうせい丸」を見つけた。朝潮運河入口の沖合に係留されている船影がそれ。
特徴的な半円形操舵室や、煙突や檣の影から、容易に特定可能。豊海町や晴海5丁目の先端は埋
立てられていないため、泊地の中央に見えるものの、現在の晴海埠頭官庁船バースH2の目先である。
『世界の艦船No.275』には、豊洲埋立地に係留中の同船の写真が掲載されている。空中写真撮影
時は、豊洲埠頭の埋立は未着手。「豊洲石炭埠頭は1950年10月に埠頭の一部完成、供用を開始」
されたと記録されている。木俣滋郎氏『残存帝国艦艇』には、「終戦後、客船としてではなく、貨物
船として、東海汽船が下田~大島~東京の三角航路に投入、主として雑貨類の輸送に使用した。
昭和24年の夏には、東京深川の豊洲埋立地に、さびしく繋船されていたという。昭和28年頃に
スクラップとなった。」とある。



実は長い間、船名由来を理解していなかった。「厚生」若しくは「恒星」と思い込んでいたところ、
Y氏より「更生ですよ」と伺った時には、意外な思いをした。
その後、『寫眞週報S16.10.01』を手にし、当時、戦争遂行上から、「更生」と云う言葉は多用され
たことを理解した。記事を引用する。

廃品更生の王様
家庭からは鐵瓶や看板が、會社や工場からは鐵柵や銅鐵屑が回収されて爆弾に、砲車に、
軍艦に更生する金属特別回収運動が大々的に展開されることになりましたが、わが海運界
ではこのほど海の底からとてつもない大きな廢品を回収してこれを立派に更生、活用しま
した。(略) 世界に誇るわが沈没船引上技術はこの引上に美事に成功、大阪のドックで
大修理を受けるとあの骸骨のやうな船が嘘のやうに白色瀟洒なこうせい丸に生れ變り、面
目一新、このほどから東京近海で就航してゐます。


「白色瀟洒」とある塗色はどんな色だったのか。戦後に登場の28隻組「あけぼの丸」「黒潮丸」は、
絵画によると船体部はベージュ、甲板室は白色となっている。この塗装は「こうせい丸」を踏襲し
たものか。『寫眞週報』掲載の写真は、塗り分けられているように見えない。背後に見える建物は、
芝浦の本社兼船客待合所。この時、「こうせい丸」は今も使用される浮き桟橋に係留されている。
(画像を加工してみたら、甲板室は全体的に明るく見える。ここのみ「白」か?)

裁決録「汽船屋島丸遭難ノ件」を読んでみた。台風の進路や乗組員の過失はさておき、「諸出入
口ノ防水装置比較的十分ナラサル第三級船」という記述が興味深かった。前日に別府を発ち、大
分、高浜、高松を経て、神戸に寄港し大阪に向かう途中、1933(S8).10.20、13:05「和田岬燈臺ヨ
リ約二百四十度半五粁四許ノ地點」において、神戸入港を前にして「左舷ニ傾倒シタル儘船尾ヲ
下方ニシテ沈没シタリ」。



岡田組の発行した絵葉書が残っている。キャプションには「岡田組ノ屋島丸浮揚作業」とある。さすがに、
煙突マークは「大」とはなっていない。その煙突や檣は左舷に倒れている。海上には起重機船4隻、沈
んだ「屋島丸」左舷側にはタンク4基が描かれている。
大阪鉄工所社内報に、岡田組社長岡田勢一氏並びに武久部長へのインタビュー「屋島丸引揚の苦心談」
が掲載されている。この記事はとても面白い。70フィートの海底から浮揚させるにあたり、屋島丸の水中
重量850噸と算定。使用したタンク12個の浮力600噸、起重機船4隻の浮力250噸、本船ボイラー2個の浮力
75噸、合計925噸と算定し、75噸の余裕を見込んで取組んだと記録されている。岡田社長は次のよ
うに語っている。

屋島丸が沈没した當時から私は出来るなら引揚げて見たいと思つていましたが、當時は現今と
違つて鋼材価格も安くはあるし、そう大した船でもないから、餘り問題にして居なかつた。今
の様に船腹不足と云ふ事もなかつたのですから、費用を掛けて引揚げても果して採算がとれる
かどうか頗る疑問でありました。(略) 然し私共の極く手近に在るもののことですから、成
る可くは他に委さず自分の手にかけて見たいものだと思つてゐました。

工事には相當の自信を持つてをりますし、それに是は左程難工事でもない。第一海浅く波穏か
である。時は一年中の最好時期で萬事好都合でありましたが、衆目注視の中で萬一失敗したら
大變ですから萬全の用意をせねばならぬ。そこに多少の苦心があつたわけであります。浮揚の
當日妙法寺海岸は見物の黒山で、中には小蒸汽を仕立てゝ見物に来る者もあつたりしましたか
ら、岡田組として手際の悪いことは出来ないと云ふ氣持ちから大いに緊張いたしました。

失敗せぬと云ふ保證はないのです。そこで一切の準備工作を終り、いよいよ起重機のエンヂン
に馬力を掛けて、ロープに物凄い緊張を與へた時が私共の心の緊張のクライマックスに達する
時です。此の時萬一1本のロープでも切れた忽ち全體のバランスを失つて一切の道具建が破壊
されます。船底の吸着を押し切つて少しでも船が揚つたら、海面に泡を吹くから直ぐ判ります。
全馬力をかけて船底の吸着を挘ぎ離すのに30分を要しましたが兎に角無事に吊上げたときには
期せずして萬歳を絶叫した次第であります。

何が楽しみでこんな仕事をするかと云ふことになりますが、あらゆる困難に打克つて無事に引
揚を完成させた時の會心的味ひが到底忘れられないからでありませう。




船名を書き込んでいる写真も残されている。社史によると、燃料油規制強化に伴うディーゼル船運航補助
や船腹不足解消のため、1941(S16).07.31スチーム船「こうせい丸」は購入された。東京湾汽船は翌年08.28
東海汽船と社名変更したため、東京湾汽船最後の所有船となった。前歴や徴用時の動向は省略する。

我入道の義魂碑

2012-06-10 | 東京湾汽船
M30年代前半に三陸航路の整備を進めた東京湾汽船は、後半に、伊豆半島沿岸航路を経営する競合船社を
次々合併した。具体的には1904(M37)06.12東豆汽船、1905(M38)10.09相陽汽船、1906(M39)03豆州共同汽
船の各社で、既出の「第二徳山丸」は相陽汽船が運航した。買収により、東豆汽船3隻、相陽汽船2隻、
豆州共同汽船4隻が東京湾汽船の船隊に加わった。
伊豆半島沿岸航路史を辿るとき、松崎の依田一族を記さない訳にはいかない。依田佐二平や分家の依田善六
は、江戸期から、所有する廻船を伊豆~江戸間に就航させていた。佐二平は1883(M16)豆海汽船会社を設立、
沼津~伊豆半島沿岸諸港~東京航路を開設した。初代「豆海丸」828 / HFNQがこれで、伊豆半島沿岸航路に
おける汽船の嚆矢である。1886(M19)遭難により失われ、1888(M21)二代「豆海丸」1094 / HGQKを下田で建
造して再投入するも採算が取れず、1890-1891に売却された。東京湾汽船は伊豆半島東岸諸港の回漕店の
要請により、1891(M24).01伊豆航路を開設したというが、豆海汽船廃航によるものと思われる。
一方、沼津~下田を結ぶ伊豆半島西岸航路は、依田善六「松崎丸」1041 / HGLTにより1887(M20)開設され、
後に松城兵作「伊豆浦丸」1894(M27)2隻が参入した。既に触れているが、造船工長佐山芳太郎により戸田
で建造された船である。依田も船隊を増強し、両者は激しく競合したが、仲介人の斡旋により1900(M33)豆州
共同汽船が設立された。
東京湾汽船による豆州共同汽船買収の早3年後の1909(M42)に駿河湾汽船が設立され、そこへ依田善六は
所有船を無償貸与したり、「愛鷹丸」事故後は船や航路を依田汽船が継承し、競合が続いたという。



下田港に係留された「豆州丸」は、船首部にアルファベットで「ZUSHIU MARU」と確認出来る。城山の下、ペリー艦隊
来航記念碑の建つ辺りと思われる。後に帆船も係留され、重なってしまっているが、特徴は確認できる。
「豆州丸」 8559 / JQLT、95G/T、1904(M37).07、関善太(松崎)。現在も松崎町には「関」姓が多い。豆州
共同汽船発注による初の新造船であり、唯一の建造船となってしまった船である。





新島前浜沖合に集結した汽船群で、壮観な光景である。最も右側に見えるのが「豆州丸」である。これだけの
船が、同時に来航した貨物は何だろう。絵葉書の仕様から大正後期と見られる。

静岡地区日本水難救済会沼津救難所のHPに「沼津救難所の歴史」と言うページがあり、海難救助で亡くなら
れた8人の顕彰と霊を慰めるため、義魂碑が建立されたことが紹介されている。大正11年3月23日、東京湾汽船
「豆州丸」は強い西風による激浪と悪潮のため、河口の浅瀬に座礁。その救助にあたった4名の若者が犠牲に
なった。HPには「入道水難救助部の歌」も掲載され、歌詞には「豆州丸」の船名も詠み込まれている。
以前からこの義魂碑が気になり、いつかはお参りしたいと考えていた。時間は経つも情報は入らず、日本水難
救済会に照会し、沼津支部をご紹介いただいた。





沼津支部の方に碑の建つ場所をご教示いただき、5月の休日に出掛けてみた。狩野川の河口、「八幡神社」
参道入口右手にその碑はあった。持参した豆州丸の写真を添え、手を合わせた。





現在の沼津港は掘込式港湾となっているが、元々は狩野川河口に港湾機能があり、八幡神社の前には古い
石造倉庫も残っている。絵葉書には、八幡神社の鎮座する丘の下、狩野川河口に2隻の小型汽船が停泊して
いる。遠くに停泊する方は、どうも月島工場製のようだ。乗下船は艀で、左手の家並み辺りで乗り込んだと
思われる。
芹沢光治良記念館にも立ち寄った。二回目となる。前回訪問時は、義魂碑の所在は判らぬまま帰宅した。
高校生の頃、数日間で『人間の運命』を読了した覚えがある。今思うと、驚くべき早さだ。芹沢光治良が
『人間の運命』を執筆した自宅は、今、住んでいる街に程近いことを、ここを訪れて知った。そこは良く散歩
する界隈で、若き日の周恩来も、その辺りに下宿していたという。





「ホワイトマリンⅡ」戸田運送船、19G/T、150名、鈴木造船所。
「第一伊豆丸」千鳥観光汽船、13G/T、99名。
沼津港にやって来る小型客船2隻を、効率良く撮影することができた。

何の準備もして来なかったが、まだ陽も高く、東名に入って藤枝市の田中城址を目指す。512人いる9代前
の先祖の一人は1680年生れで、家臣録に「大井川御普請御用相務申候」とある。「本国阿州、生国摂州」
というこの先祖、どんな経緯で田中に来たのか判らなかった。その息子(8代前)は「生国駿州田中」となっ
ている。
田中城は平城で、市街地に掘跡や土塁が残り、公園に整備された下屋敷には本丸櫓が移築・復元されて
いた。展示によると、田中城は戦略的に重要な地にあり、藩主に任じられた者は、老中や大阪城代、
京都所司代など、幕府の要職に出世したという。
土岐氏は田中城で2代続き、土岐伊予守頼殷は大阪城代から田中藩主となり、続く土岐丹後守頼稔は田中
藩主を世襲し、大阪城代となり田中を離れている。主な実績に「大井川堤普請」「後に老中となる」とあった。
展示を見たことで、摂津生れの訳や重用の経緯を理解した。土岐丹後守頼稔は大阪城代の後、京都所司代
を経て東国に配置された。先祖の一家は付き従うのである。

十馬力船「日泰丸」

2012-03-15 | 東京湾汽船
1853(嘉永6)ペリー艦隊が浦賀へ来航、同年幕府は大船建造を解禁した。1854(嘉永7)日米和親条約締結、1858
(安政5)日米修好通商条約締結と続き、翌1859(安政6)横浜は開港した。横浜に東西の波止場を築造し、運上所
が設けられた。この年著された「横濱御開地明細之圖」(1859)には水面を囲むように築造された二本の突堤が
見え、「御開港横濱之圖」(1860)は右手の突堤を「東ハトバ」と記している。「象の鼻」の原形となった。



これはペラ紙に印刷された画像で、裏面には小さく広告(?)が印刷されている。日露戦争当時のグラフ誌と、印刷
が似ている。キャプションには「開港時の横浜港全景」とある。沖合遠くに汽船や帆船が浮かび、その手前に見える
のは「東ハトバ」の先端。突堤がカーブしているのが判る。この船溜りは今も機能していることになる。

横須賀製鉄所は1865(慶応1)着工され、翌1866(慶応2)には一部創業を開始、30馬力船(「横須賀丸」)と10馬
力船(後の「海運丸」)の建造に着手した。この年、米国商人が所有していた小蒸気船を購入し、1866.06より
横須賀横浜間の通船が運航される。横浜側発着場所は、この波止場であろう。後に「十馬力船」や「横須賀丸」
が通船として活躍する。
画集『横須賀造船所』は十馬力船(後の「海運丸」)について、「慶応3年に進水したのが、十馬力船・海運丸
である。横須賀製鉄所に於ける第一号船である。主機械は横浜製鉄所で製作された。」と記し、民間払下げ後の
写真も掲載されてる。この「海運丸」は、1899(M32)に不登簿船から登簿船となり、「3648 / HVGP」が点付され
ている。『M24船名録』までは1867(慶応3).11建造になっているが、『M25船名録』から1866(慶応2)となる。これ
は錯誤で『M45船名録』から再び1867(慶応3)に戻っている。

『横須賀海軍船廠史』には「横須賀丸」「十馬力船」の図面が収録される。両船の建造に先立ち、首長ウエルニーは、
医師のサバチエーが植物学に明るいことから、用材選びに深川の貯木場へ派遣した。「横須賀丸」の機械はフランスか
ら輸入され、「十馬力船」用は横浜製鉄所にて2隻分を製作した。「十馬力船」は、1867(慶応3)建造船が一隻目
(仮称「10NHP:No.1」)、明治元年に於いて「製造に着手中歩合不詳」となっている「十馬力小汽船」は二隻目
(「10NHP:No.2」)であろう。

山高五郎著『日の丸船隊史話』『図説日の丸船隊史話』は、挿絵と共に山高氏自らの乗船経験を記されている。
前著には「(十馬力船は)続いて出来た数隻の同型船と共に番号で呼ばれた」「明治12年になって、使用船を
東京の藤倉五郎兵衛に貸し下げて運航せしめた」「明治の末期、横須賀工廠に実習に行った当時、工廠の通船
に使用されていて、屡々御厄介になった」「少なくとも大正初期迄は健在であった筈と思ふ」とあり、後著には
「(横須賀丸に)続いて10馬力のもの6隻を造ったが(慶応2年起工)これは船名はなく番号で呼ばれていた」と
ある。
また、元綱数道著『幕末の蒸気船物語』には、「10馬力船は通船や所内の雑用に使用され、明治以降に建造され
た分も含めて全部で5隻建造された」と記される。

画集『横須賀造船所』には、明治初期の横須賀製鉄所(1871(M4)「横須賀造船所」と改称)の写真が数多く収録
されている。P145の写真には、横浜方面行き乗船場に「横須賀丸」、金沢方面行き乗船場に「十馬力船」が着桟
している。船影はごく小さくしか写っていないが、細い煙突やその付近の開口部、窓三枚、煙突と前後のマストは
間隔のバランスを欠く等の特徴が見て取れる。



前掲画像の中央に見える小型汽船は、『横須賀造船所』の写真と対比すると、特徴が一致する。5隻若しくは6隻
建造された「十馬力船」の一隻と見て良かろう。

『船名録』に「十馬力船」を探したところ、5隻確認された。
M20~26版不登簿船の項には「一號十馬力船」「三號十馬力船」「五號十馬力船」があり、番号は建造順に付番
されていない。藤倉五良平所有「海運丸」も掲載されている。また、登簿船の項に掲載の「日泰丸」も、要目等
はほぼ一致する。

一號十馬力船 M11.11   55.11×14.38×4.78  37.00G/T  40NHP
三號十馬力船 M元     55.11×14.38×4.78  37.00G/T  40NHP   ←「10NHP:No.2」
五號十馬力船 M10.12   55.11×14.38×4.78  37.00G/T  40NHP
海運丸     慶応3.11  53.10×13.00×5.80  31.00G/T  10NHP  ←「10NHP:No.1」
日泰丸     M07     54.35×14.00×4.70  49.31G/T  10.5NHP

後に東京湾汽船の所有となり、『明治28年船名録』を最後に抹消された「日泰丸」は、「十馬力船」の後身と
見て間違いなかろう。造船工長「チブリー」は、横須賀製鉄所副首長「ティボディエ」である。M02.03.10雇入、
M10.03末迄横須賀造船所に在籍した。『横須賀海軍船廠史』には「佛國海軍大技士チボジー」と記録される。
当時の表記は、やはり、船名録の記載に近いものになっている。
東京湾汽船には、こんな船もいたのか‥と、改めて創業間もない頃の船隊に思いを巡らせた。

館山湾の「第拾参號通快丸」

2011-10-31 | 東京湾汽船
十年近く前になるが、「第拾参號通快丸」画像を初めて目にした時、遂に通快丸に出会えた‥と
いう感慨と共に、その見慣れぬ外観に、驚きを禁じ得なかった。「東京湾型」とも云うべき、一連の
小型汽船群を知る前のことで、私にとって、東京湾汽船創業時の船隊を探る、端緒となった船影で
もある。



「第拾参號通快丸」は石川島造船所建造ではない。深川鶴歩町で建造された。付近には海軍用材木
置場もあった。鶴歩町は木場の運河沿いで、部材を直ぐに調達できる場所で建造されたのだろう。どう
隅田川へ引き出したのか、首を傾げてしまうような江東区木場2丁目、鶴歩橋東詰辺りである。
1074 / HGPB、65.80G/T、24.43×3.50×1.56(M)、19NHP。 1888(M21).05製造、造船工長櫻井亀二、
建造時の船主は稲木勝。終末期の旅客定員は三等一室75名。この垂線では、湾内に少しでもうねり
が入れば、館山へ向けるのは大変だったろう。JRの通勤電車が20m車であることを考えると、小さ
な船体を実感できる。
櫻井亀二は三崎航路に関わりが深く、東京湾汽船創業時は造船所を経営した。氏は東京湾汽船創立
発起人に名を連ね、後に長く役員を務め、社長にも就任した。船主の稲木勝は1882(M15).09.10に逝去
した稲木嘉助の未亡人で、櫻井亀二は稲木家の後見人でもあった。
目を引くのは、マグロ漁船を思わせる独立した箱形の操舵室。操舵室と甲板室間の頂部に立つフォア
マストも特徴的だ。前後のブームには補助帆が付き、纏められている。楕円形船尾の上部船尾傾斜角
は90度あり、鈍重な印象を受ける。この船尾形状を持つ船には、明治前半に建造されたものが多い。
上野喜一郎氏は『船と型』に次のように記している。

上部船尾及び下部船尾の傾斜は船體の肥瘠とも関係がある。貨物船の如く肥った船では
概してこれらの傾斜角は大きいが、客船の如く瘠せた船は概して小さいのが普通である。
大體に於て上部船尾の傾斜は水平線に對して約45乃至50度、下部船尾は約30度のものが
多く、この位の傾斜が外観上良いやうである。


船尾の全通船楼甲板上には半割カマボコ状の構造物がある。「第貳號三盛丸」の場合片方は便所、もう
一方は船内への乗降口と記録される。変型もあるが、「東京湾型」はこれら特徴を備えている。

有難いことに、自宅に居ながらにして閲覧できるようになった国会図書館蔵『石川島造船所製品図集』
(M36.12)には、同系に見える汽船が2隻、掲載されている。スクーナーの「美國丸」と「蓬莱丸」である。
この2隻の船尾形状は、軽快なスタイルとなっている。時代も下り、石川島製の故か。
「第拾参號通快丸」や前掲の「第貳號三盛丸」は、経年により、原形を崩していると思われる。
しかし、製品図集の船影が建造当初の姿と考えれば、それ程、大がかりな改造が行われたように見
えない。だた、後者はスループとなっている。
船の科学館刊『幕末・明治の洋式船』には、緒明造船所建造の、シアが大きな「第八観音丸」が掲載
されている。「第拾参號通快丸」にも云えるが、石川島造船所建造船に比べ、どことなく垢抜けない。
同様に「東京湾型」である。



これは、館山湾で大正期に記録された絵はがきである。中央に見えるのは鷹ノ島。極洋船舶工業の辺
りだ。右の汽船は、舷門の位置やマストと煙突の間隔等から「第拾参號通快丸」である。オーニングが設けら
れ、補助帆は取り外されている。左の汽船はシアが大きく、緒明造船所建造船だろうか。東京湾汽船
には緒明造船所が建造した「第六観音丸」「第七観音丸」が在籍した。絵葉書の仕様から、1918(T7)
以降の発行である。
手前に見えるのは、海水浴を楽しむ親子連れ。明治末期から大正期にかけて、館山は東京市民の避暑
地、海水浴場として注目され、関東大震災で壊滅するまで賑わいを見せた。1906(M39).07に投入の
「鶴丸」は、観光客増に対処するため純客船となった。当時の東京~館山運賃は、純客船利用「普通
88銭、二等1円50銭」、通快丸など魚荷と一緒の貨客船利用「68銭」であった。
「第拾参號通快丸」は、1920(T9).09.30、館山湾で僚船「豆相丸」、摂津汽船「関東丸」と三重衝突
し、共に沈没した。絵葉書に記録されて間もなくと思われる。
房総や三浦の諸港で捉えられたこのスタイルの小型汽船(「東京湾型」)は、東京霊岸島とを結んだ定期船
と見て良いようだ。

石川島修船所の造った船

2011-10-16 | 東京湾汽船
「東京湾汽船創業時に出資された汽船は、一体、どのようなスタイルをしていたのか?」 東海汽船史に関心
を持って以来、長年、抱いてきた疑問であった。創業当初の船隊を構成したのは、汽船が登場した明治
前期に、隅田川河口周辺で建造された汽船であった。明治前期における、東京湾内航路への汽船導入や
建造に関しては、福沢諭吉「祝辞」や櫻井八郎右衛門「新汽船」があり、平野富二伝、東海社史3部作、
各市町村史などから明らかになるものの、利根川水系の外輪汽船に比べ、画像や遺産は極めて乏しい。
しかしながら、建造年や造船所など、夫々違いはあるものの、船名が特定された数少ない画像から見えて
きた一連のスタイルは、「東京湾型」とも云うべき、特徴的なものであった。



この絵葉書に写る小型汽船は、初見時より、操舵室周りや船尾の造作から、明治前期に建造された船で
はないかと見ていた。発行は、仕様から1918(T7)以降である。
数年前、驚くべき史料に出会った。執筆者は、三盛丸に相当な思い入れのある地元の地方史研究者で、
この船名を「第貳號三盛丸」と特定していた。俄には信じがたい事であるが、これが事実なら、船名録に
前船名が記されるとおり、何と海軍省石川島修船所が1876(M9).07に建造した「横須賀丸」の後身なのだ。
建造時の船主は熊本県徳永彌内。民間発注による建造船である。幕末~明治初期、「横須賀丸」は2隻
建造された。もう一隻は、横須賀造船所が横須賀~横浜間の通船として建造(1866)した船である。
徳永が発注した「横須賀丸」の船名由来は何だろうか。船名録には、製造地「石川島」、造船工長「横須
賀造船局」とある。また、後述するが、徳永が居留した豊橋近郊にも、「横須賀」という地名があるのだ。

1876(M09).07  横須賀丸建造。
  〃  08.31 海軍主船寮廃止、石川島修船所閉鎖。
  〃  10.30 石川島平野造船所設立。
  〃  11.03 通運丸建造に着手。
1877(M10).02.04 通運丸完成。
1878(M11).01.07 通快丸進水。福沢諭吉が祝辞。

「横須賀丸」は1885(M18).01時点で、豊橋と神社を結ぶ伊勢湾横断航路に投入されている。船主は徳永
彌内。建造当初と変わっていない。現在の豊橋市船町居留となっている。
1885(M18)年中に柴谷休次郎(大阪府下堺)に売却され、大阪湾内の堺~神戸で使用された。
1887(M20)水橋吉兵衛(大阪府下堺)、1889(M22)三上勝江(駿河国江ノ浦)、1890~91頃中北福松
(東京)に売却された。1892(M25).10中北より三浦共立運輸が購入し、「第貳號三盛丸」と改名された。
三浦共立運輸(1891(M24)設立)と東京湾汽船の確執は、同社設立前から伏線があった。地元資本対
東京資本という図式は各地で見られるが、ここでは、語り継がれる事件となって結末を迎えている。
長く続いた競合を脱し、両社は営業協定を締結した。その協定が発効する1917(T6).05.28を控えた27日、
悲劇は起こった。三浦共立運輸、ひいては三崎町民自慢の優秀船「第三號三盛丸」が、ナカ瀬という暗礁
に乗揚げ、沈没したのだ。
地元では「デマが流れ飛んだ」と記録されている。「いつも3号は通運丸の右舷ギリギリを抜いていくの
で、航路いっぱい、幅寄せしてやろう」という通運丸船員の話を、耳にしたというのだ。事の真相はわか
らない。裁決録によると、東京湾汽船側は「第貳拾五號通運丸」。
翌日から、東京湾汽船との営業協定はスタートした。しかし、三浦共立運輸にとって、最優秀船を失った
痛手は大きかった。前掲の船影は、「第三號三盛丸」が失われた後、撮影されたものである。その当時、
三浦共立運輸が所有したのは、「第貳號三盛丸」と「第壹三盛丸」(7136 / LTBV)の2隻。後者は1912
(M45).06建造であるから、まず、その2隻を誤認することは無かろう。

兵庫造船局の造った船

2011-09-22 | 東京湾汽船
太湖丸の項でリストにあがった「第二徳山丸」に触れてみたい。この船は、工部省兵庫造船局
において、佐山芳太郎が造船工長として建造に携わった。発注したのは共栄社(徳山)。同社
二隻目の新造船で、1885(M18).05、890、HFSR、128.51G/T、木造船である。
一隻目は「第一徳山丸」で、こちらは1884(M17).11、大阪鉄工所建造。918、HFVP、169.17G/T、
木造船。造船工長はジェームズ・エラートン。



徳山には大津島巡航という古めかしい社名の船社があり、度々、愛らしい小型客船に会いに、
立ち寄っている。画像は「鼓海2」。59G/T、2007.03、瀬戸内クラフト。機構共有船。



徳山港の撮影ポイントとなる公園には、「共栄社」と刻まれた大きな石灯台が聳えている。
1893(M26)年11月、光永又之丞によって建立された。共栄社は、徳山の紳商と云われた光永ら
5名が1884(M17)設立した会社で、光永は社長に就任した。大阪商船の徳山寄港も、同年に始った
ばかり。続く地元資本の共栄社による大阪~博多航路の開航で、鉄道が未開通だった徳山の物流
は活発になり、経済は大いに刺激された。共栄社は船腹増強と共に博多航を鹿児島に延航し、
また、東京、函館、小樽にまで航路を延ばした。1891(M24)本社を大阪に移転し、1894(M27)共栄
汽船株式会社に改組。続いて、1896(M29)日本汽船と社名変更。単独経営は困難となり、同年、
高知の帝国商船と合併して消滅した。余りに急激な、航路延伸や船腹増強が響いたようだ。本来、
大阪商船との合併が得策だったが、長年の対抗関係から、別な途を選んだ。紳商らしく、何やら
最期もスジを通してる。

帝国商船は1897(M30)「第二徳山丸」を吉田義方に売却する。吉田は小田原町長、町会議長、神奈
川県議を歴任した名士で、交通や教育の発展にも尽力した。吉田が社長を務めた相陽汽船は1898
(M31)に設立された。航路は、東京~横浜~国府津、国府津~小田原~真鶴~吉浜~熱海~網代
~伊東の2定期航路と、不定期の伊東~大島があり、「第二徳山丸」「第一海運丸」を投入、運航
を開始した。
後者は1897(M30).05、龍野巳之助(東京)で建造。6485、JBQG、63.47G/T、木造船。以前から、
「第一海運丸」は事情ある船と見ていた。明治34年版船名録(M33.12.31現在)に初掲載されたにも
かかわらず、汽機及び汽缶製造者は不明というのも妙なこと。中古品を流用したのか?
相陽汽船と東京湾汽船は、小田原寄港について協定を交わし、航路不可侵を建前としていた。相陽
汽船は大島延航も行っていたため、東京湾汽船の大島進出は遅れることになった。

東京湾汽船は、1904(M37).06東豆汽船、1905(M38).10相陽汽船、1906(M39).03豆州共同汽船と、
伊豆半島沿岸で競合する船社を、相次いで吸収合併した。
相陽汽船を吸収した東京湾汽船は、東京~横浜~国府津~小田原~熱海~伊東(寄港地一部略)
の「小田原航路」と、国府津~小田原~熱海~伊東(同前)の「国府津航路」に再編し、1906(M39).
04.15、小田原航路船が大島へ初延航した。社史はこれが「当社の大島定期航路の嚆矢」としている。
小田原航路に投入された「第二徳山丸」は、大島航路定期船のパイオニア、東京湾汽船(東海汽船)
にとって、記念碑的な船となったのである。



これは東京湾汽船籍となってから、小田原で記録されたもの。画像から船名が読み取れる。工部省
兵庫造船局が建造した汽船としても、貴重な船影と思われる。
1912(M45)、幸田露伴は「第二徳山丸」で伊豆大島を訪れている。1月1日に霊岸島から乗船し、
翌2日、岡田、本村、差木地と寄港の後、波浮に上陸している。帰路は「千代清丸」という帆船
(薪炭船)に便乗するが、その航海記は実に面白い。1940(S15)になり、回想記が新聞に連載された。
幸田露伴が乗船した年の2月21日19時15分。伊豆大島へ向けて「第二徳山丸」は霊岸島から出港した。
岡田、波浮、野増と寄港した後の24日、荷役のため元村沖に錨泊した。午前中は北西の微風であった。
が、午後から南西の強風に変わり、波浪も高くなってきた。17時、激浪により元村南方の海岸に打上げ
られ、「第二徳山丸」は全損に帰してしまう。



共栄社の船ぶねは、目標とした徳山港石灯台の灯りを、殊に明るく暖かく、眺めたことだろう。
灯台建立から10年経たずして、船ぶねは、散り散りになってしまった。灯台下に佇むたび、そんな
小型汽船の航跡を、たぐり寄せたくなるのである。