津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

「天城丸」と「天龍丸」

2014-05-08 | 東京湾汽船
昨年より、東海汽船グループには新造船の登場が相次ぎ、6.27には「橘丸」登場も控えている。東海汽船(東京
湾汽船)史を概観する時、期間の長短はあるものの、幾度かの新造船導入期のあったことに気付く。その最初
は1897(M30)。東京湾汽船にとって初の新造船4隻の登場を見た。
東京湾汽船は1889(M22).11.14創立総会を開催し、翌日より営業を開始した。当時の在籍船は同年末において
25隻。厳密に云えば11.15に20隻で創業し、12.05に5隻加わり、25隻になったと見られる。12.05に出資された
5隻には、創業時からの所有船とされる「館山丸」「天津丸」も含まれる。
創業6年目の東京湾汽船に、思わぬ増収がもたらされた。『M28下期報告書』に「横須賀航路ハ引續キ好況ニシ
テ殊ニ収容軍艦鎮遠號從覧ノ爲メ著シク収益ヲ増加セリ」とある。『65年史』には「軍艦(鎮遠)見物の旅客輸送は
連日空前の殺到を見るに至り思わぬ大増収を得たのである。会社はこれを機会として倍額増資(ママ)をはかり‥(略)
‥スクリュー船を建造することになった」とある。『80年史』によると5日間で2万人もの東京市民を輸送している。
『100年史』には「日清戦争当時の当社所有船は‥(略)‥小型船のみで、他の汽船会社の如く運賃高騰による海
運ブームの恩恵に与ることはなかった‥」ものの、1895(M28).08.05から5日間、「鎮遠」見物に向う東京市民の交
通手段として「霊岸島、芝浦、品川から10余隻の船で輸送にあたったが、それだけでは捌ききれず五大力船を曳
航して運ぶという思わぬ恩恵に与った」とある。
1896(M29).01.05株主総会において、初の増資(15万円)が決定され、資本金は40万円となった。





上は「鎮遠」の甲板とされる画像。
下は横須賀港に停泊する東京湾型貨客船。「鎮遠」見物から時代は下り、明治末期に記録された画像。フォアマスト
に東京湾汽船の赤十字旗を掲揚している。「第拾参号通快丸」に比べると大柄に見える。若干高い操舵室と、そ
の後部の甲板室の間にはフォアマストが立ち、補助帆を張った名残のブームが斜めに見えている。上甲板後端部にコン
パニオンを設け、船尾の第二甲板後端部の稜角から鈍重な印象を受ける。画像から割出した「長さ」(Lr)は約28m。

増収により計画された、最初の新造船4隻組の登場経緯を、日付を追って確認してみたい。
1896(M29)
03.15石川島造船所と、汽船二隻の新造契約を締結。
05.13石川島造船所へ発注の新造汽船に係る製造方監督願書を、同所と連書で東京司検所へ提出。
09.29汽船二隻の新造を、大阪の岡崎栄治郎・梶原午之助2氏へ発注を決定。社員を大阪に派遣して契約を締結。
10.21石川島造船所にて建造中の二隻を「第一東海丸」「第二東海丸」と命名。
11.24石川島造船所にて「第二東海丸」進水。
12.02同所にて「第一東海丸」進水。
1897(M30)
01.21「第一東海丸」試運転。
01.27「第二東海丸」試運転。
02.10「第一東海丸」を受取り、11日房州向け初航海。
02.12「第二東海丸」を受取り、14日房州向け初航海。
03.15梶原造船所にて建造中の二隻を「天城丸」「天龍丸」と命名。
03.20梶原造船所にて「天城丸」進水。
05.16同所にて「天龍丸」進水。
07.27大阪にて「天城丸」試運転。
08.04「天城丸」東京回着。
1115大阪にて「天龍丸」試運転。
1120「天龍丸」東京回着。

岡崎栄治郎とは、大阪で木綿商を営み、市内は今宮に商業倶楽部を設立した者と思われる。どのように関わった
かは判らない。

東京湾汽船の伊豆航路は、喫水の深い「館山丸」「天津丸」を用い、1891(M24).01より月12回の運航を開始した。
東京~熱海に9時間、熱海~網代~伊東~稲取~見高~下田に10時間を要し、駿足の大型船の登場が待たれた。
上記のとおり、「東海丸」姉妹は房州航路、「天」姉妹は伊豆航路に投入された。船腹の充実した1897(M30)は、
航路開拓のなされた年となっている。
05.17「高島丸」は半田へ初航海し、05.25東京帰港。(尾州航路)
06.02「高島丸」は三陸地方へ初航海し、06.11東京帰港。(三陸航路)
06.18「大の浦丸」も三陸地方へ初航海し、06.26東京帰港。
伊豆航路は新船投入により、東京を朝6時に発つと夕刻には下田へ入港出来るようになり、当初は両港より毎日
出帆している。直後に減便している理由は、無配転落と同じと思われる。
1898(M31).03.29より3回/月、伊豆航路の新島延航を開始した。M31上期においては、伊豆航路は12回/月と記
録され、下期は24回/月となっている。09.08小田原寄港を開始した。『100年史』は「天城丸と天龍丸の当時とし
ては大型で、高速の船が伊豆航路に就航して、漸く伊豆七島への進出も可能となり‥」と記している。

1900(M33).12.15東京商船学校の練習船「月島丸」は大島沖にて沈没し、不明者捜索に「天城丸」を派遣。
1911(M44).08.27 / 21:20「天龍丸」は旅客及び貨物を搭載し東京より下田へ出帆。
1916(T05).08.24 / 18:40「天城丸」は鉱石約1900俵を搭載し河津より東京へ出帆。
1917(T06).08.17 / 13:22「天龍丸」は旅客及び貨物を搭載し八丈島へ向けて東京霊岸島河岸を抜錨。
1924(T13).04.15 / 19:40「天龍丸」は雑貨及び魚類を搭載し伊東より東京将監河岸へ出帆。
1924(T13).09.16 / 18:30「天城丸」は貨客及び郵便物を搭載し下田より沼津へ出帆。



明治中期建造船の形態を留めながら、東京湾汽船フリートらしからぬ船影を、大正後期の絵葉書に見ていた。上甲
板に甲板室があり、その上部にブリッジを設けている。フォアマストは前部上甲板に立つ。目にした当初、このようなス
タイルなのに、何故、伊豆大島において記録されたのか首を捻った。その船影に付されたOB氏のメモには「天城丸」
とあった。伝馬船の腹に書かれた船名も「東? 天城丸」と読めそうだ。しかし、半信半疑で断定を避けてきた。
1928(S3)より推進された客主貨従方針により、「天城丸」は01.30廃船処分された。この年、「天龍丸」は島航路
(東京~大島~各島~御蔵島)に使用されている。続いて決定された第一期拡張計画において「天龍丸」は廃船
となり、1930(S5).01.31売却された。同年末までに抹消されている。





この画像により「天城丸」は特定された。OB氏のメモは正鵠を射ていた。キャプションに「月島商船学校附近」とある。
天城丸 1682 / HLCP、168.79G/T、木、1897(M30).07、梶原午之助(大阪)
天龍丸 1709 / HLFK、168.79G/T、木、1897(M30).11、梶原午之助(大阪)
石川島造船所で建造された二隻の「東海丸」は、「東京湾型」と思われる。石川島造船所製品カタログ掲載の「蓬
莱丸」(1894)に近い姿ではないか。

小野正作氏の個人伝記『ある技術家の回想』に興味深い記述がある。氏は大阪鉄工所にも勤務し、船名録には
「御代島丸(初代)」の造船工長として記録されている。
小野工業事務所時代の1897(M30)に、東京湾汽船社長櫻井亀二氏が小野氏を訪ねてきたという。当時、東京湾
汽船は梶原造船所に「天城丸」「天龍丸」の建造を、機械類は木村鉄工所に発注していた。小野氏が東京で手掛
けた「天津丸」のベアリングの出来が良く、東京湾汽船社内で評判になっていると云う。櫻井氏としては、機器につい
ては小野氏に発注したかったが、社員が事前に発注してしまっているので、「クランクベアリング」と「メインシャフトベアリング」
だけは、小野氏に技術指導を願いたいという用向きであった。いかにも技術者らしいやり取りの後、木村鉄工所
で完成させて納入している。この項の最後に「‥入念ニ仕上ケヲサセテ機械ヘ取付ケテ後試運転モ無事ニ済ンテ
東京ヘ回船セシカ其後同氏ニ面会ノ機会カ無カツタノテ「ベアリング」ノ結果ヲ知ル事カ出来ナカツタカ何ノ沙汰モ聞
カナカツタカラ好結果テアリシト思フ」と結んでいる。
「天城丸」「天龍丸」は共に30余年活躍した。小野氏の関わりもあり、優れた船に仕上がっていたことも、姉妹で
長きに亘る活躍をした理由の一であろう。
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