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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

房総遊覧四泊五日

2014-03-31 | 日記
成田山年参講「水魚会」の『房総遊覧記念寫眞帖』は、1926(T15).05.11に甲府を発った一行の房総旅行の記
録冊子で、参加者に配布された。成田山年参講と云っても、新勝寺以外の寺社仏閣も訪れ、銚子、小湊まで足
を伸ばして観光している。冊子の巻頭には貝原益軒「楽訓」の一節を掲げてある。

旅行して他郷に遊び、名勝の地、山水のうるはしき佳境にのぞめば、良心を感じおこし、鄙吝(ヒリン)を
あらひすゝぐ助となれり、是も亦、我が徳をすゝめ、知をひろむるよすがなるべし。又いひ知らぬ霊境
にゆきて、見なれぬ山川のありさまを見て、目をあそばしめ、其里人にあひて、其風土をとひ、あるは、
おくまりたる山ふところに、岩根ふみてたづね入り、もとより山水の癖ありて、山夢に入ることしりな
る人は、心をとめて歸る事を忘れぬ。あるは海べた山遠き眼界ひろきながめは、萬戸候の富にもまさ
れり、又其里におひ出でたる名産の異なる品を見て其味をこゝろむるも、いとめづらしく心慰むわざな
り、すべて勝地にあそびて、見きゝせしこと、唯一時の耳目を悦ばしむるのみならず、いく年へぬれど、
其時見聞せしありさま、老の後まで、をりをり思ひ出られて、恰も其時見聞せし思ひをなして楽しむべ
し。是を以て、世にめでたき事を思ひでと言ふも、うべなるかな。


旅程表によると、甲府を5:14amに出発して14:02pm成田着。宗吾霊堂に参詣し成田泊。
2日目は4:00amに宿を発ち、不動尊参拝並びに大護摩修行と坊入の祝宴。鉄道で佐原へ移動して香取神宮参拝。
佐原川口港より汽船に乗船し、大船津着。鹿島神宮参拝。再び汽船にて利根川を下って銚子着。
3日目は飯沼観音参詣、犬吠岬燈台見学の後、役員慰労の宴。興津町へ移動する。
4日目は誕生寺参詣、鯛の浦を見学し、勝浦より鉄道で両国へ。
5日目(05.15)朝、両国の旅館で解散。
旅は参拝や宴会など盛り沢山の強行軍。交通機関は列車、電車、汽船、自動車、馬車を利用し、それだけでも
楽しい旅となりそう。



この冊子に驚かされたのは、通運丸船内写真の掲載されていること。『川の上の近代』に船内の画はあるもの
の、船内写真は初めて見た。キャプションに「利根川下り船中の宴」とある。男性二人は猪口を手にし、中央に一
升瓶が見える。
天井の垂木はむき出しになっていて、握り棒4本の取り付けてあるのが見える。揺れる船内を、これを伝って移
動したと思われる。棟木(?)をセンターとすれば、女性の座る位置からして、客室中央に通路は無いようだ。
窓には十字の桟が付く。この画像からは、客室は前部か後部か、判らない。
夜間航行時の船内の明るさは、どんなものだったのだろうか。人々のざわめきや、パドルの水面を叩く音はどう
聞こえたのか。色々、想像を逞しくさせてくれる、貴重な画像である。



通運丸の船影も記録されている。甲板室上に見える人は、水魚會の団旗を掲げている。撮影日は1926(T15).05.12。
荒涼とした風景の中の桟橋に繋留されている。船名と撮影場所は判らない。キャプションには「利根川遊覧船にて鹿
島に向ふ」とある。斜めに設置された縁石は年月経たように見えず、1921(T10)完成の横利根閘門の近辺か。船
影は「東京通船」時代にあたる。

東京通船は1919(T8).11.30創立総会を開催。12.08設立登記を完了し、12.16内国通運より事業を継承した。船舶
の所有権は、12.30移転登記を完了した。
松村安一『利根川汽船交通の変遷』には、「‥(内国通運の経営刷新は)‥時期がおくれて日露戦争の好況を
逸し戦後の不況の中で進められた。不況は経営陣の責任ではなかったが、この時期に内国通運会社は一部の野
心家に乗取られて汽船業が譲渡され‥」「今日からみれば結果的には内国通運の廃業は経営的に適当な時期で
あったと考えられる」とある。

1926(T15).05に記録された可能性のある船を『T15船名録』『川の上の近代』から確認すると、該当するのは
次の13隻。
第壹号通運丸 4218 / JBNW、59G/T、木、1890(M23).09、内国通運(深川)
第貳号通運丸 4191 / JBNH、68G/T、木、1892(M25).11、内国通運(深川)
第四号通運丸 4178 / JBMO、77G/T、木、1890(M23).03、内国通運(深川)
第五号通運丸 6475 / JBPR、49G/T、木、1899(M32).03、内国通運(深川)
第六号通運丸 4217 / JBNV、69G/T、木、1894(M27).02、内国通運(深川)
第八号通運丸 4173 / JBMH、74G/T、木、1893(M26).07、内国通運(深川)
第拾四号通運丸 4190 / JBNG、57G/T、木、1897(M30).02、内国通運(深川)
第二十八号通運丸 17317 / MNPT、84G/T、1914(T03).08、?
第二拾九号通運丸 6514 / JPHT、67G/T、木、1900(M33).10、井上徳次(栗橋)
第三十三号通運丸 6519 / JPHW、74G/T、木、1900(M33).12、内国通運(深川)
第三十四号通運丸 8525 / JQDM、53G/T、木、1902(M35).05、石川島造船所(石川島)
第三十五号通運丸 8776 / JRFS、83G/T、木、1903(M36).04、内国通運(深川)
第三十九号通運丸 11583 / LHCG、36G/T、木、1908(M41).10、内国通運(?)
この中には船影を特定し、除外可能な船も含んでいる。



二社連名のパンフレットも残っている。銚子汽船との共同運航を思わせる内容となっているが、東京通運『第23期
営業報告書(S5)』には「‥前期に引続き銚子汽船会社との抗争止ます依然として荷客の争奪戦に没頭するを
余儀なくせられたる為め‥」と記され、激しい競合を垣間見ることが出来る。
このパンフレットは松村論文に「‥(創立の)3年後には銚子汽船系の役員四名と入れ代えて経営にあたった。‥」
とある、1922(T11)頃のものと思われる。



1926(T15)鹿島参宮鉄道は浜まで延伸し、1927(S02)「参宮丸」「鹿島丸」を新造して浜~鹿島大社間の運航を
開始した。
参宮丸 32889、25G/T、木、1927(S02).04、岡田造船所(東京)
後に東京通船の経営陣も水郷遊覧汽船を設立し、「さつき丸」「あやめ丸」を新造した。







1928(S03).11.30東京通船は定款変更を決議し、12.07東京通運と社名を変更した。東京通運の1929(S04).02付
史料には、新航路開設に係る収支予算書や航路図と共に、会社整理を進める苦しい事情を記した書面も添付さ
れている。
新航路とは「京橋区築地魚河岸ヨリ大河ヲ遡航千住大橋ニ至ルモノヲ根幹トシ別ニ盬入ヨリ分岐シテ鐘ヶ淵ヨ
リ綾瀬川沿岸ヲ縫航シテ東京府南安達郡花畑村ニ至ルモノヲ連絡支線トスル」を云う。
この時はまだ、利根川航路も運航されている。意外に思えるのは、両国から江戸川に入るのに、小名木川を経
由しないこと。隅田川を南下し、派流より洲崎沖を東航して放水路に入る航路と、北上して堀切から放水路に
入る航路の二本が記されている。何れも新川を経由し、妙見島の北方で江戸川に入るコース。

一方、深川高橋を起点とする浦安行徳航路は、1929(S04)秋に競合する葛飾汽船を併合し、1930(S05)東京通運
より船舶や航路権等を分離の上、葛飾汽船に合併させ、東京汽船を設立した。譲渡された船舶に外輪汽船は無
い。譲渡された航路には、浦安行徳航路の他、「隅田川新航路営業権」「お台場航行権」も含まれている。
市販の時刻表に全ての航路が記されたとは思えないが、断片的な記録から推測するに、東京通運が上川航路か
ら撤退したのは1929(S04)、下川航路から撤退したのは1934(S09)頃と見られる。



これは1927(S02).06の時刻表。両国の出発時刻は上川航路17:00、下川航路16:00となっている。

成田山と云えば、思い浮かぶは「快速成田号」。新勝寺大本堂の落慶記念大開帳に際し、1968(S43).03.28~
05.28の間、平日2往復半、休日6往復、新宿~成田間に運転された。成田線(千葉~成田)は03.26に電化開業し
たばかり。車両はスカ線での役を終え、10.01両毛電化に充当予定の70形。
先輩からいただいた写真に、秋葉原を通過するヘッドサイン付76037の姿を確認した。見に行くことのままならぬ頃、
「快速成田号」はほんの短期間、幻のように走った。
1979(S54)の学校帰り。偶々通った新宿駅北通路の鉄道部品即売会を覗いてみた。そこに「快速成田号」のヘッド
サインはあった。ポケットを探ったところ、別な目的に充てる五千円があり、後先考えず手に入れた。今も北通路を
通ると、驚いて立ち尽くしたことを思い出す。



学生当時、アルバイトを重ねても旅に新幹線は使えなかった。1980(S55)の夏休み、ヘッドサインを抱えて345Mに乗っ
た。さすがのボクも恥ずかしかった。福山駅ホームでは、運転士さんはヘッドライトを点灯して下さった。これはあり得な
い300番台「快速成田号」の勇姿。「快速成田号」の思い出は、岡フチの皆さんへの感謝の気持ちと共にある。

一枚のキップから

2014-01-18 | 日記
これは1977の国鉄のキャッチコピー。この年には、物心つく前から慣れ親しみ、生活と共にあった船舶や車輌が、次々に
終焉を迎えた。同年、引退した「椿丸」は坂越港へ廃船回航され、東京駅には80形湘南電車が来なくなった。地方
幹線系統において、吊掛けモーター音を轟かせる旧形国電が、最後の活躍をした頃にあたる。
実家には、父島の同級生M君の撮影した、坂越港に佇む「椿丸」のパネルを掲げてある。彼は乗り鉄の切符コレクター。国鉄
合理化により、無人駅化される全国のローカル線各駅へ、硬券入場券を求めに歩いていた。そんなM君も既に鬼籍に入っ
てしまった。
この度、手にした「一枚のキップ」から謎の船社名を知り、残された古絵葉書の船影の、船名特定に至った時、切符
に情熱を注ぎ、国鉄キャンペーンをジョークで笑い飛ばしていたM君を想った。



その切符には「サ」をデザインしたと思われる社旗がスタンプされていた。会社名は奥藤(オクトウ)汽船合資会社。佐藤国
汽船の社旗と良く似ている。かねてより、この煙突マークを纏った小型客船を数隻、古絵葉書上に確認していた。鮮明
な「都丸」を見た時には、撮影地から奥藤汽船の可能性を考えもしたが、同社の在籍期間は1913(T2)~1917(T6)と
短く、船社特定は保留していた。

坂越の奥藤家は古い定住伝承を持つ旧家で、江戸期より酒造業や廻船業を営んだ。坂越は「船どころ」として知ら
れ、船ぶねは、江戸期には塩の買積や城米輸送など、北国・西国航路に活躍し、明治期になると塩の買積を主とす
る東京への塩廻船となった。1857(安政4)生の奥藤研造は廻船業で利益をあげ、その財力をもって耕地や塩田を集積
し、電灯会社、汽船会社も興した。数行の銀行役員に名を連ね、自ら奥藤銀行も設立するなど、氏の経営手腕により
奥藤家は赤穂郡最大の地主となり、ミニコンツェルンを形成した。奥藤家の廻船経営最盛期はM20~30年代にかけてという。
塩廻船の終焉はあっけなかった。1905(M38)塩専売制が実施され、翌年には官費輸送が開始された。買積船は成り
立たなくなり、坂越の塩廻船業者は業態転換を迫られ、奥籐家は廻船業を廃業した。船名録から奥藤研造所有帆船
を見ると、M43版掲載は3隻、M44版2隻と減少し、M45版掲載「万全丸」を最後に姿を消している。
一方、1912(M45).02奥藤汽船合資会社を設立した。『赤穂市史』に「大阪・坂越航路の営業権は、姫路汽船会社か
ら奥藤汽船会社へ譲られ、以後は奥藤汽船会社の播州丸'(ママ)と新和歌浦丸(1915年からは千代丸)が就航すること
になった」とある。陸上交通の整備による船客減少に歯止めをかけるため、奥藤汽船は大阪・坂越航路を日生港へ
延長すると共に、相生港や木場港への寄港も開始したが、1918(T7)営業を停止した。

大阪~坂越の定期航路は『赤穂市史』『姫路市史』『網干町史』等によると次のとおり。一部、誤記誤認もある。
1883(M16)大阪の和合社により航路開設。外輪船「明龍丸」就航。
1885(M18)大阪商船会社の「佐渡川丸」就航。
     この頃、岩崎商社(坂越)の「第一赤穂丸」「第二赤穂丸」就航。
1888(M21)姫路汽船会社の「第一姫路丸」就航。
1889(M22)大阪商船と姫路汽船の競合は妥結し、「新和歌浦丸」「第一姫路丸」就航。
1912(M45)姫路汽船は奥藤汽船に営業を譲渡。「第一姫路丸」の代船として「播洋丸」「新和歌浦丸」の
     二隻にて営業。




大阪商船開業年(M17).10.01改正の航路一覧及配船表によると、坂越へ寄港するのは「第十四本線」と「第四支線」。

奥藤汽船所有船は船名録(M45版~T6版)に計6隻を確認できる。
第壹姫路丸 1124 / HGSK、130G/T、木、1888(M21).11、前田卯之助(大阪)、1911~1912
新和歌浦丸 555 / HDLN、141G/T、木、1881(M14).06、E.C.Kirby商会(神戸)、1911~1917
播洋丸 1559 / HKPJ、278G/T、木、1895(M28).10、春木藤次郎(徳島)、1911~1916 ←第貳共同丸
都丸 9117 / JSBV、88G/T、木、1904(M37).04、(株)大湊造船所(三重大湊)、1913~1917
岡山丸 14211 / LQGJ、94G/T、木、1911(M44).03、?(広島向島西)、1914~1917
千代丸 14432 / LSCF、189G/T、木、1911(M44).04、森川貞蔵(大阪)、1912~1917

安治川口で記録された船影を、上記の「在籍年」と、「1918(T7)より仕切線1/2という仕様」に当て嵌めてみると、
朧気ながら船名が見えてくる。初めて安治川口の古絵葉書を手にした頃より、一隻毎の船名を明らかにしたいと夢
想してるが、少しは安治川口に近づいたろうか。





中央部に係留された奥藤汽船の煙突マークを纏った汽船は、「播洋丸」と見られる。二枚目の『阿波國共同汽船社史』
掲載の、「第貳共同丸」当時の煙突は短い。甲板室上部に遊歩甲板を設けた為、煙突を高くしたと思われる。



こちらは下関港における「播洋丸」。単独配船なのか、それとも用船されたのか。キャプションに続いて「大正五.二.廿一
許可」とある。1916(T5)に奥藤汽船は手放したので、最末期と見られる。

安治川口の画像には、実はもう一隻の奥藤汽船の船影がある。安治川右岸に船首を川下に向けた船が係留されてい
る。この絵葉書にも、鮮明なモノクロ画像は存在していると思うが、船名は五文字。不鮮明な画像は惜しまれる。仕切
線は1/2で1918(T7)以降の発行である。奥藤汽船に在籍した五文字船名は「第壹姫路丸」と「新和歌浦丸」の二隻。
前者は1911(M44)~1912(M45/T01)にかけての在籍であり、1918(T7)以降に印刷された絵葉書に、その画像が使い
回しされたとは考えにくい。





スタンションの形状や位置、船名の書かれたブルワークの位置や文字数も同じ。ハンドレールは設けられていないが、甲板室上に
デッキを増設している。後者の絵葉書も仕切線1/2となっていることを考えると、この船影は「新和歌浦丸」に相違ない。

「都丸」は鮮明な画像を二点残している。一枚目は奥藤汽船二隻が接舷し、停泊している。キャプションには「邑久郡教員
体育會寒霞渓遊覧記念」とあり、小豆島の撮影と思われる。二隻とも奥藤汽船の煙突マークを纏っている。船体寸法は
ほぼ同一なことから、岸側は「岡山丸」のようだ。





二枚目には煙突マークがない。奥藤汽船時代は平仮名書きとなっているが、こちらは漢字。一見、別船にも見えるが、
ポールド配置は同一と確認できる。こちらには、甲板室上の遊歩甲板は無い。この改造は奥藤汽船好みなのかもしれ
ない。キャプションには「淡の輪洲本連絡船」とある。庄野嘉久蔵所有当時は、大阪湾で使用されたのか。





坂越港を捉えた絵葉書も残っている。港内には「都丸」の姿がある。今、坂越港に旅客船航路はない。最初は「椿丸」
「藤丸」の終焉の地というだけで訪れた坂越だった。この界隈に船を追う時、必ず立ち寄る地となっている。
それにしても、この静かな入江にのあったことが信じられない。久三商店家治社長のお話を聞かせて下さった、
縁側で縫い物をしていたおばあさんは、お元気だろうか。次回は、保存された街並みを歩いてみたいと考えている。

「千歳丸」から「青龍丸」へ

2013-02-03 | 日記
熊本市において発見された古写真に写る汽船は、久留米藩(以下「米藩」)の輸入した「千歳丸」
であった。勝海舟編纂『海軍歴史』(M20)の「船譜」には漏れている一隻。『明治二年殉難十志士
余録』によると、「千歳丸」は米藩輸入艦船の7隻目にあたる。1867、Renfrew(英)、Henderson &
Coulbornで建造された「Coquette」が前身。木鉄交造のスクーナーで暗車船。米藩は同年11.20長崎
において輸入した。建造後、一年も経過していない新船である。



写真の余白には、手書きによる注記が記されていた。

(右)筑後久留米藩有馬中務大輔慶頼手船
(上)於長崎飽ノ浦
(下)千歳丸 船長前野雅門
(左)後三潴県庁ノ船トナル 青龍丸ト改 船長右同

有馬慶頼(よしより)(1828-1881)は久留米藩第11代藩主。殖産興業と富国強兵を骨子とする藩政
改革を推進し洋式海軍を創設した。明治以降、久留米藩知事を経て東京に移り住み、子爵となる。
渋谷区広尾祥雲寺に墓所はある。
長崎飽ノ浦は1861長崎製鉄所(造船所も併設)の置かれた所。「千歳丸」は長崎港において輸入
されている。
奇妙なのは、最後の一行であった。「千歳丸」には三潴県所有の時期があり、前野船長のまま
「青龍丸」に改名されたと読める。この船は、久留米藩から直接、明治政府へ移籍されたのでは
なかったのか。また、「青龍丸」と改名したのは日本国郵便蒸気船会社ではないのか。幕末~維
新の動乱期に、どんな船歴を辿ったのだろう。

この船を調べるにあたり多くの記録に出会った。国会図書館に所蔵されている『梅野多喜蔵先生』
『久留米藩幕末維新資料集』等から改名の時期は明らかになった。また『巷説軍艦千歳丸』とい
う歴史小説も面白く読んだ。
米藩の洋式艦船購入は、洋式海軍整備と供に、藩米の大坂廻漕も目的の一つではないかと『梅野
先生』の著者浅野陽吉氏は記している。各史料からは、地方政府たる「藩」による艦船輸入の経緯
を知ることができ、大変に興味深かった。

先ず「千歳丸」の読み方が疑問となった。『日の丸船隊史話』は本文中に「千歳丸」に触れた個所
があり、索引P7にのみ「センザイ」とルビがふられている。また、地元で刊行された郷土資料や人物誌
も、同様に「せんざいまる」としている。
久留米藩域を流れる大河「筑後川」は、古には流域に住む人々から「筑間川」や「千年(ちとせ)川」
「千歳(せんざい)川」と呼ばれていたが、幕命により「筑後川」と改名された経緯があるという。何
れにせよ、船名の読みは「せんざいまる」と考えられる。





大阪商船「こがね丸」を描いた絵葉書の表面には、次の文言がある。

天保山は天保二年安治川改修の際、浚渫した土砂を堆積して船舶航行の目標としたにより
この名があります。また明治元年畏くも明治大帝御親閲のもとに我國最初の観艦式が舉行
せられた處で、丘上には記念碑が建ってゐます。


『日の丸船隊史話』にも1868(慶応4).03.26天保山沖で行われた我国最初の観艦式に肥前藩「電流
丸」、長州藩「華陽丸」、肥後藩「萬里丸」、薩州藩「三邦丸」、藝州藩「萬年丸」と共に、米藩「千歳
丸」も参列したと記されている。
同年07.13米藩「千歳丸」は朝廷御用船を命じられ、鹿児島へ回航。北越征討に向かう薩摩兵170
名や弾薬を積み、新潟松ヶ崎に入港した。粟島への避泊を経て秋田の土崎、船川に将兵を輸送し
ている。その後、1869(M2).10迄は軍務官又は藩命により藩地~大坂~東京を航行した。品川沖に
停泊中、軍務官の命により大橋兵部大亟一行を小樽に送っている。1870(M3).01.10御用船を解か
れ、帰藩した。

函館戦争も終結し、国内情勢は安定に向った。久留米商人の間で、乗組員ごと「千歳丸」借受け、
国内沿岸貿易を行う計画が起こり、北航商社は設立された。計画は許可され「千歳丸」は買積船と
して航海することになった。蒸気船ではあるが、運航形態は北前船そのものである。1870(M3).04.19
「千歳丸」は久留米絣を積込んで出港し、長崎に寄港して砂糖や毛布を仕入れ、交易を行いながら
日本海沿岸を函館まで北上。江差にも寄港し、下関まで南下した。再び日本海を北上し、函館、厚岸
と寄港し、最後は太平洋側を南下して12.16若津港へ帰港した。北越征討に際し、兵員を輸送した地
へ、沿岸貿易船として航海したことになる。北航商社のことは『史話』にも記されている。ただ「明治四
年」とあるのは錯誤と思われる。
『境港市史』には「明治三年六月、筑後久留米藩の汽船千歳丸が北海道から鯡鮫粕700本、胴鯡
500束、角田干鰯2000俵を搭載し入港、境港で貨物を売り捌いた。これが、汽船貨物売買の始まり
であった」と記録されている。

1871(M4).07.14廃藩置県で米藩は「久留米県」となり、米藩海軍は廃止された。同年09「翔風丸」
「玄鳥丸」「千歳丸」の3隻を商船に転用し、商人に下渡す願いが久留米県から政府に提出されたが、
10.05になり願いを取消し「千歳丸」のみ稲益彦三に下渡す再願書が提出されている。11.20「青龍
丸」と改名し、正式に商船となった。
同年11.14「久留米県」「柳川県」「三池県」は廃止・統合され、「三潴県」が設置された。確かに、
改名は三潴県になってから行われている。
1873(M6)になり、「青龍丸」は「大蔵省の収むるところとなった」とある。明治政府による接収であ
る。いつの時点で日本国郵便蒸気船会社に下渡しされたかは、判らない。

1872(M5).08廻漕取扱所を日本国郵便蒸気船会社と改称。
1875(M8).06政府による日本国郵便蒸気船会社持船の買上げ。
      09..20日本国郵便蒸気船会社解散。
      09.23旧日本国郵便蒸気船会社所属船18隻を郵便汽船三菱会社に無償で下渡す。
1885(M18).09.29日本郵船会社設立。



「萬國滊舩出港定日附」より両社の社旗。印刷は1873(M6)~1875(M8)の間と思われる。

「青龍丸」は開拓初期の小笠原へ、郵便汽船三菱会社定期船として渡航している。辻友衛編『小笠
原諸島概史』には1878(M11).03.08父島二見港入港、10出港との記録がある。
裁決録によると「青龍丸」は1913(T2).03.03下関港を発ち、佐渡島小木港に仮泊の後、03.16柏崎港
へ向った。04:25頃同港海岸沖約500mの浅瀬に乗揚げ、強風激浪のため全損に帰した。北越征討
に加わり、買積船として航海した日本海に消えたという船歴に、どこか因縁めいたものを覚える。
最後の船主は鹽谷合資会社(伏木)であった。

「木津川丸」と「御代島丸?」

2012-12-31 | 日記
四阪の美濃島側から家ノ島の製錬所を眺めた絵葉書に住友汽船「木津川丸」は船尾側から俯瞰された
姿を残している。



大阪商船の発注した「木津川丸」は、初出の『M23船名録』によると1080 / HGPL、132G/T、鉄、1888
(M21).03、攝津国兵庫。建造は川崎造船所。『住友別子鉱山史』には、「木津川丸」の鮮明なサイドビュー
が掲載されている。この社史から、画像の撮影された年代はごく限られた期間と判った。家ノ島頂部に
6本煙突と、煙に隠れてはいるものの、右から3本目の煙突の背後に、使用を止めた大煙突が見えてい
る。これが撮影年代特定の決め手となった。

新居浜惣開に設けられた洋式銅製錬所は、1888(M21)操業を始めた。1893(M26)煙害問題の発生を
みたことにより、住友は1895(M28)四阪島の買収を完了。1897(M30)製錬所建設工事を着工し、1905
(M38)本格操業を開始した。四阪島に移転後も、周辺地域に煙害を及ぼしたことにより、煙害減少を図
るため、鉱毒調査会の案出した「鉱煙稀釈法」採用を政府から命じられた。大煙突を廃止し、代わりに
6本の煙突を建設し、送風機により空中に放出し、鉱煙を稀釈すると云うものであった。
6本煙突は1915(T4).03から通煙を開始した。ところが、結果は大失敗となった。温度の低下により亜硫
酸ガスは拡散せず、凝集したまま被害地に達し、四阪島も被った。社史には「四阪島全体が硫煙に包
まれ、遠方からは見えにくくなり」「在住者は、言語に絶する困苦を強いられた」とある。このため、
1917(T6).10わずか2年半で6本煙突は使用を停止、再び大煙突を使用することになった。
この画像を良く見ると、6本煙突は煙を吐いている。これは、在住者が困苦を強いられた二年半の間の
光景となる。



1892(M25)住友による定期航路経営の復活は、山陽鉄道の尾道開業を契機とした。鉱山用度品運搬
を目的とし、新居浜~尾道間定期航路を開設し、「御代島丸」(初代)を投入した。1893(M26)大阪商船
「木津川丸」を購入し、置き換えている。四阪島製錬所起工を控え、1896(M29).12より「木津川丸」は
四阪島へ1日一回の寄港を開始した。



この住友汽船「木津川丸」運航時刻は1920(T9).07のもの。大正初期から変更は無く、画像の記録され
た当時もこのダイヤにて運航されている。光線の当たり具合から、復航の四阪島出港時刻(15:55)直前と
思われる。



直江津において記録されている船影について、触れておきたい。手にしてから30年近く経過する絵葉書
の、読めるようで読めない船名に、長い間、もどかしい思いをしてきた。先頃「高砂丸」の船名を検証し
た際、アルファベットの「MARU」四文字は、「全体の文字数」や「文字の潰れ具合」を判断する上で、重要
かつ有効であることを知った。改めてこの画像を検証したところ、何と、画像は裏焼きされていたこと
に気付いた。



『T11船名録』より船舶番号順から五十音順に改められている。『T11版』『T12版』には「御代島丸」は
2隻並記となっている。
初代「御代島丸」(住友トク)1272 / HJLF、60.15G/T、木、1891(M24).12、攝津国川北村、小野正作で
建造されている。この船については『佐越航海史要』に詳しい。「M25.05佐渡二見村古藤亀太郎が、御
料局佐渡鉱山用途受命の目的の下に購入」して以来、「T3佐渡商船会社が優秀船二隻を建造する段取
りをつけるや、それと対立抗争すべき事の甚だ無駄であることを覚」り、越佐海峡航路から退役している。
直江津において絵葉書に記録されて、何ら不思議はない。阿部泉のまま1914(T3)に船籍港は出雲崎か
ら小樽に変わり、1922(T11).12.05北海道大鼻岬沖にて「同栄丸」と衝突し失われた。最後の所有者は
樺太工業株式会社(小樽)とある。
断定は避けたいものの、この船影は、M20頃に大阪湾方面で建造された船の特徴を備えていることから、
初代「御代島丸」と見ている。

「Japanese Wine」

2012-08-18 | 日記
着色絵葉書のキャプションには「Warehouse of Japanese Wine at Shinkawa, Tokyo」とあった。一瞬、何のことか
訝ったものの清酒と気づき、思わず笑ってしまった。画像を良く見ると、伝馬船上に酒樽が満載されている。
この樽酒こそ、上方から運ばれてきた有名な「下り酒」か。陸上には酒樽を扱っている人物も見える。平板な
着色となっているが、原板のコロタイプ印刷はとても鮮明だ。これは「Shinkawa」の何処なのだろう。運河「新川」
は、万治3年(1660)河村瑞賢によって開削され、両岸は河岸として賑い、酒問屋が集中したことで知られる。





参謀本部陸軍部測量局作成『五千分一東京図』を手にした。「傑作」と賞賛される地図とあって、個々の家屋形状
や材質、橋梁や護岸の材質、渡船の種別まで読み取れる。このあたりから、(財)日本地図センターによる解説書は
「一抹の政情不安による新政府の本拠である東京市街の内戦用市街図が必要とされたのではなかろうか」として
いる。『東京東部』は1884(M17)、『東京南東部』は1883(M16)の測量で、市区改正前の東京の街並みは、江戸の
延長と見て良いようだ。霊岸島は日本橋川と亀島川によって区画され、周囲は河岸地になっていた。今の有明
10号地埠頭を思わせる。



地図上に、以前から気になっていた倉庫を探したところ、亀島川沿いに見つかった。間口の違いさえも地図は
表現していた。遠く左手に見える霊岸橋は地図上の位置ではなく、現在の永代通りと一致している。望楼のよ
うな二階を持つ白壁の建物の手前は新川入口。護岸の食い違いも見て取れる。この河岸風景は、今、どうなっ
ているのか。現在の永代通りの位置を、嘗ての所有者は赤鉛筆で微かになぞっている。



ほぼ同じ位置に立ってみた。絵葉書は、亀島川に架かる新亀島橋の西詰からの光景だった。新亀島橋は1882
(M15)初めて架橋されたことが、橋の袂に建てられた碑に記されていた。碑には次の文言があった。

新川側は、菱垣廻船や樽廻船が往来し、上方から来る下り酒と呼ばれる酒を扱う酒問屋で賑わいを見せ
「江戸新川は酒問屋をもって天下に知られ」と言われるほどでした。




新川大神宮を参拝した。敬神会御芳名板には、国内の名だたる酒造・醸造会社、酒販会社が名を連ねていた。
境内には記念碑があり、読み下し文が解説板になっていた。

新川大神宮再建由来誌
新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧慶光院所蔵古文書「慶光院由緒」並に江戸名所図絵に詳しい。
当宮は慶光院周清上人が寛永二年(1625年)徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢
両宮の遙拝所を設けられたのに始まり、其後明暦三年(1657年)江戸の大火で類焼したので、この年
替地を霊岸島に賜り社殿を造営、以来実に三百年を経た。
爾来統治は河村瑞軒が隅田川に通ずる水路を開いて舟揖の便に利するに至って新川と称し、当宮を中
心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。
当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を聚め、特に酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くとこれが初
穂を神前に献じ、然る後初めて販売に供した。
明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋して来たが、昭和
二十年(1945年)三月九日の戦火に罹り社殿を烏有に帰した。
その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び繁栄を恢復しつつあるのは全く当宮御神威の賜
ものである。 (以下略)




明治末期の地籍図から霊岸島6番地の地主を確認したところ、太田ハナエ(愛知県碧海郡)となっている。
『東京酒問屋沿革史』を読んでいたら、「太田蔵」と呼ばれた倉庫群であることが判った。紋は「太」で
あった。この沿革史には、絵葉書が記録された頃の、活気に漲る新川の情景が、古老の思い出話として描
かれている。
新川散策の帰途、図書館に寄り、菱垣廻船及び樽廻船に関する書籍を手当たり次第読んでみた。菱垣廻船
から分離した樽廻船、その両者の関係については『日本海運競争史序説』が詳しく、面白かった。
また、樽廻船の「番船」という競争の慣習については、『神戸海運50年史』や地元刊行『中央区の昔を語る』
で知った。19世紀中頃、中国から英国へ茶葉を輸送した、ティークリッパーによるティーレースを思わせる。

高校生の頃のこと。当時、初期の小型鋼船は終末期を迎えていた。『船の科学』のバックナンバーを揃え、造船
所による相違点や形態の変遷を確認しては、日曜日になると船見に東京港を歩いた。特にエンクローズド・ブリッジ
の499G/T型貨物船に夢中になり、一瞥して来島型、今治型、波止浜型など見当を付け、双眼鏡を覗いてメー
カーズプレートを確認して悦に入るという、かなり怪しい趣味活動をしていた。
何かあると、内航船社に照会のお便りをさせいただいた。霊岸橋近くにある鋼材船オペレーターK社からは、懇切
丁寧なご返事と共に、自社船の進水記念カードやGAをお送りいただいた。直ぐに1/100の水上模型を製作し、
お届けしたところ、「そんなに船が好きなら‥」と、同社貨物船Y丸に東京~水島間を便乗させていただく
という、またとないプレゼントを与えて下さった。窓口となったHさんは、社内・本船との調整や保険など、業
務以外の多くのご苦労をされたと、後に伺った。社会に出てからも幾度かお会いし、港内をご案内いただい
たり、食事をご馳走になるなど、船社の東京所長としてエネルギッシュに活躍される眩しい方だった。
屡々バイクで永代通りは走るものの、久しぶりに歩いて霊岸橋を渡り、橋上からK社を望んだ。あらためて、妙
な高校生の面倒を見て下さったHさんへの、感謝の気持ちがこみ上げてきた。悠々自適の生活をされるHさ
んには、今も時折お会いしている。

三檣スクーナー「高砂丸」

2012-04-14 | 日記
八戸港に売船待ちで係留されていた漁船「第十一漁運丸」124460/JD2513は、3.11東日本大震災で被災し、
無人のまま北米アラスカ州沖まで漂流した。抹消登録した船が漂流していたのである。04.05午後(日本時間
04.06午前)米コーストガード警備艇の砲撃により、沈没処分されたことは記憶に新しい。
『2011船舶明細書』には、同船は「(売却)」とあり、「八戸港に係留し、売却先を探していた」との報道に合
致する。発見の報を聞いたオーナーの心境も複雑だったことだろう。同船の信号符字は2011(H23).06.17取消
され、07.29国籍証書無効の告示がなされている。

この報道を耳にし、抹消されてから数年後に発見された無人船発見譚を思い出した。『日の丸船隊史話』
『図説日の丸船隊史話』に掲載される「高砂丸」の後身「CENTENIAL」のそれである。
「高砂丸」は、前掲「兵庫丸」と同様、征台の役に際し、政府が香港において購入した外国船13隻中の一
隻。山高五郎氏の著作には、実に興味深い、波瀾万丈の船歴が紹介されているので参照されたい。華麗な
船歴の結末は、抹消後7年目に氷に閉ざされた船体が発見されるという、謎に満ちたものとなっている。

1859建造当初、本船の前身「DELTA」は鉄製外輪汽船(2檣スクーナー)であった。1874(M7)日本政府に購入さ
れ「高砂丸」と改名。郵便汽船三菱会社当時、上海で暗車汽船(3檣バーカンティン)に改造された。この当時の
絵画が『史話』に掲載されている。『社史』等の側面図も3檣バーカンティンである。
日本郵船歴史博物館に「高砂丸」の模型があったことを思い出し、見に出掛けた。1875(M8)に開設された
我が国初の外国定期航路(横浜~神戸~下関~長崎~上海)に、「東京丸」「新潟丸」「金川丸」と共に
投入されている。この模型は、図面をもとに製作したように見えなかった。



M20.09日本郵船神戸函館間定期船発着一覧表には、4段めの便に「高砂丸」と赤文字で加筆されている。往
航:神戸(9/12正午発)~横浜(9/13午後着、9/15正午発)~荻ノ浜(9/16午後、9/17午前)~函館(9/18午前)、
復航:(略)~神戸着(9/24午後)となっている。上段より、僚船名は「和歌浦丸」「新潟丸」「長門丸」と
読める。イラストにある直立船首の3檣バーカンティンは、日本郵船創立時の株券に刷られた船と同一の「横濱丸」か。



「高砂丸」ではないかと思われる、鮮明な画像(写真)がある。さすがに船名は読み取れない。写真の索具
は三檣スクーナーとなっている。「高砂丸」の索具について、最も遡れるのは『汽船表』(M18.01.01)で、郵便
汽船三菱会社末期は既に3檣スクーナーとなっている。
船名は漢字3文字。アルファベットはMARUが4文字とすれば、8文字と見られ、文字の輪郭から最初の「TAK」と
6文字目当たりに「A」が見え「TAK**A** MARU」となる。



「高砂丸」の最も鮮明な絵画は『GOLDEN JUBILEE HISTORY OF NIPPON YUSEN KAISHA 1885-1935』(1936刊)
に掲載されている。この絵画と、左右反転した写真を対比すると、舷門の位置や数、船尾部分の10個連る船窓
など、合致する点が多い。前檣前部の甲板室は「太湖丸」の絵画に似る。写真では「ブリッジ」が設けられてい
る。比較検討する写真が無いため、現時点の断定は避けたいが、九分九厘、「高砂丸」に相違ないと思われる。

のっぺらぼうの船

2012-02-19 | 日記
ここのところ、『CAPACITY PLANS of JAPANESE CARGO STEAMERS』にかかりきりになっていた。この資料
には索引も奥付もなく、貨物船758隻の図面が綴られているだけ。まずは索引を仕上げ、『件名録』との対照を
進めているが、遅々として進まない。同書を紐解いていた時「五洋丸」に気付いた。バウスプリットの付く「五洋丸」
と云ったら「さくら丸」の後身である。



以前から「どうも変だな‥」と思いながら、調べていなかった「さくら丸」の写真がある。この写真には煙突が
見えない。最初は「光線の具合で飛んでしまっているのか‥?」程度に考えていたが、良く見ると、まるで目
鼻を取ったようかのような、異様な船影である。撮影場所は不明。港内通船と思しき船上から見上げた姿だ。

我が国海事史上、義勇艦隊整備を忘れることはできない。『近代日本海事年表』から1904(M37)に艦隊創設
決議の行われた頃を見てみたい。
02.06 政府、ロシアに国交断絶を通告。
02.08  陸軍先遣隊、仁川上陸開始。連合艦隊、旅順港外のロシア艦隊を攻撃。
02.09 砲艦「コーレツ」、巡洋艦「ワリヤーグ」、汽船「スンガリ」を撃沈。
02.10 ロシアに宣戦布告、日露戦争始まる。
同日 帝国海事協会、第四回総会で義勇艦隊創設を決議。平時は商船として、戦時は国の命令により、海
   軍の補助船舶として活躍させるのが目的。

義勇艦隊建設の募金活動は、戦時ムード高揚の中で進められたことが、海事協会各年史や建設趣旨書に見
える。大口拠金者の内に「台湾における本島人の多くが含まれている」と、特筆されている。
しかしながら、第一船「さくら丸」、第二船「うめが香丸」は、平時の商船として、不経済船に仕上ってしま
った。両船は、当初の目的である戦時の仮装巡洋艦として活躍することもなく、長期係船の後に「さくら丸」
は貨物船に転用され、「うめが香丸」は沈没後に浮揚するも用途を失った。
山高五郎氏は『図説日の丸船隊史話』の中で、両船を「国民の熱意の結晶ともいうべき貴重な船」とするも、
「(さくら丸は)沈没して除籍された頃には、国民からも全く忘れ去られてしまっていた」と記されている。
生まれが華やかなだけに哀れを誘う、貴種流離譚を地でいくような船である。





第一船「さくら丸」は三菱長崎造船所で建造。11088、LFMH、Lr=103m、3204G/T、21.19k/n、タービン船。
1906(M39).05.12 契約。
1908(M41).06.06 進水。
  〃 .10.09 竣工。竣工後に各地巡航の途に就き、東京では皇太子殿下(大正天皇)行幸啓。
  〃  .11.17 神戸沖観艦式に参列。
1909(M42).02.03 神戸港で大阪商船に貸与引渡。台湾航路に就航。
1911(M44).04.01 鉄道院に貸与。「うめが香丸」と共に関釜連絡の欧亜連絡急行便に投入。前方からの
           画像はこの当時のもの。
大正初め頃より長崎港に係船。

「さくら丸」の画像は、何故か黒煙を噴き上げている写真ばかりだ。最初は、迫力ある絵にするための修正と
考えていた。しかし、『図説日の丸船隊史話』によると「大型スチームヨットの船容を示し、他にはない美船だった
が、石炭の燃え方が不完全だったのか、盛大に黒煙を吐くことで評判にもなった」とあり、また「主機は国産
第1号のパーソンス式タービンであった」とも記録されている。『日の丸船隊史話』には「船形少に過ぎ動揺多く」と
も記される。第一船と第二船は、余りに軍艦型に過ぎたようだ。
「さくら丸」に関し「神戸基隆間一往復に1000噸以上の石炭を要する」と世評が立つに至った。海事協会も調
査に入り、1909(M42).09.30付報告書には「一往復毎に200噸以上の濫費するが如き事実あるものと認め候」
とある。やはり、石炭消費量に問題があったのだ。

70形電車を追っていた頃、SLから電機に転向した年上のファンから、撮影ポイントの選択には、風景、足場、光
線と共に、上り勾配であるかどうかも、重要な条件だったと聞かされた。機関車は蒸気圧を高めるために投炭
され、煙を上げ、絵になる写真が撮れたとのこと。電車好きには思い至らぬ話であった。同様に、煙を上げて
いる船もまた、絵になっている。「さくら丸」を調べていて、三十数年前の撮影地での雑談を思い出した。





1917(T06).10.30大洋商会に売却。横浜船渠で2948G/Tの貨物船に改造され、「五洋丸」と改名された。『新造
船写真史(三菱横浜)』には、迷彩色を施した同船の写真が掲載されている。主な改造内容として「明治41年
(1908)長船建造船の客載設備撤去、貨物設備新設、3軸タービン計8,732馬力を、2軸レシプロ計1,820馬力に主機
換装」「1918年改造」とある。前掲の画像は、1918(T7)の横浜船渠での改造時、煙突を撤去されたところを、偶々
撮影されたのであろう。1921(T10)靱商船に売却、1929(S04)座礁沈没。

夢ならて 見ぬ世のことをみつるかな
むかし書きおく 筆のすさみを

これは六代前が安政3年に詠んだ和歌。この先祖、江戸の様相や社会の動向を、多くの文書に残している。歌
の解説に「古い記録を大切にすると共に自らもまた後世のために筆まめに現在の事件や見聞を書き残そうとし
た心構えが感じられる」とある。この歌が心から離れない今日この頃である。

清津港の小型客船

2012-02-06 | 日記
30年近く前になると思うが、刊行直後に手にした『凍土の共和国』から受けた衝撃は、今も忘れられない。
故郷訪問団に加わった著者の金元祚氏は、「ドボルスク」「クリリオン」が投入されていた頃に帰国した親族の
追体験をするかのように、「MANG GYONG BONG」でチョンジン港に上陸する。神戸港の賑わいを知る著者は、
山腹に掲げられたスローガンの目立つ、うら淋しい港としてチョンジン港を描いている。著者の故郷訪問は、副
題にあるように「幻滅紀行」となってしまう。
インターネットの普及で、地球上どの地域も見ることが出来るようになろうとは、思いもよらぬことだった。
グーグルアースで見ると「MANG GYONG BONG 92」は、ウォンサンとナムポに船影が確認できる。チョンジンには3つの
港が見える。市街西側のキムチェク製鉄所に隣接する港と、中央部の軍港(?)は掘込みだ。東側にある港が
戦前からある商港である。





1925年前後に発行されたと思われる絵葉書と、1930年発行「地理風俗大系17」に掲載の清津港。1930
には、内港に作業船の姿があり、防波堤建設が進んでいる最中と思われる。埋立は未着手である。



1935.06発行「朝鮮郵船パンフレット」に掲載の港湾地図を見ると、防波堤は完成し、大型船は埋立地の
岩壁(赤印)に接岸する。第一次帰還船として1959.12.16チョンジン港に入港した「ドボルスク」「クリリオン」
や、1971就役の「MANG GYONG BONG」は、残された画像を見ると、ここに接岸したようだ。





大型船接岸岩壁完成後の清津港で、2隻の小型客船が記録されている。手前に見える国際運輸「新興丸」
は清津~羅津~雄基航路に活躍した。2隻はほぼ同じ大きさに見える。『造船55年(名村造船所)』には、
1933北鮮運輸100G/T型鋼製旅客船「新興丸」を建造したとある。
船名録S9~16版(S12除く)によると船主は田宮善三。S12版、17、18版では佐藤良三となる。佐藤良三
は「第一國運丸」も所有する。S17、18版は関東州籍としての記載もあり、ダブル記載になってる。こちらは
国際運輸所有となっている。佐藤良三の「國運丸」は国際運輸の略と見られ、いずれにせよ、二者は国際
運輸関係者と思われる。





羅津港仮桟橋に着桟した「新興丸」。操舵室前面には行先が表示されている。社紋はこのとおり。1934.07
のスケジュールは清津10:00発~羅津13:30着発~雄基15::00着/15:30発~羅津17:00着発~清津20:30着。
「毎月3日定期休航」となっている。

観音崎Express

2011-12-14 | 日記
自宅から観音崎灯台まで、約1時間半。湾岸線から支線経由で横横に入るのが最も早いが、光線が
回る頃を目指すなら、第三京浜から横浜新道経由で出掛けてる。

12.04は大気が澄み、北関東の山々まで遠望できた。JFEスチール東日本製鉄所の紅白市松塗装ガス
ホルダーと、首都高速鶴見つばさ橋の間に、特徴的な3つの峰が見えていた。以前、うっすらした山影
を望んだこともあったが、この日は間近に見えたため、山名を調べてみた。



観音崎より、JFEガスホルダーとつばさ橋主塔の間に向けて引いた線を延長してみたら、何と、山々は日光
連山だった。左から男体山2486m、大真名子山2375m、女峰山2483mである。直線距離は約170㎞。
その手前には、1500m弱のピークを持つ足尾山地があるはずなのに、見えていない。地平線に隠れて
いるのか。横浜港大桟橋を14時に解纜した「にっぽん丸」が浦賀水道航路を南下してきた。



その少し前、東京港竹芝桟橋を12:40に発った「セブンアイランド愛」が、第一海堡と第二海堡の間を
抜けてきた。筑波山は冬晴れの日には大概見える。標高は877mあり、直線距離は約110㎞。



早来工営「早来丸」がやって来た。同社のHPによると、川崎工場(産業廃棄物中間処理施設)で
無害化並びに再資源化した土質系廃棄物や土壌を、セメント工場等へ運搬する貨物船である。云わ
ば海上輸送における「白ナンバー」の自家用船。内航登録船ではない。692G/T、1988.08、函館どっく
(函館)。オレンジ色に塗られた15t×2のジブクレーンは、とても目立つ。
この船を見る度、2隻の「播磨丸」を思い出す。播磨造船所が建造した海上トラックのモデルシップ(試作船)
で、一番船は1957.06.28に竣工した。