おいみず亭 Family & Friends

美味しい食べ物と知的好奇心、そして楽しい仲間!!

意味がなくてはスイングはない / 村上春樹

2006-01-31 03:04:42 | 最近読んだ本
最初の出会いは、糸井重里との共作(競作?)「夢で会いましょう」でした。
当時、ちょっとばかりペンギニスト本読んでいて、糸井重里につられて読んだのですが「この村上春樹って鋭いなぁ」と思い、そこから初期3部作に浸りました。
(とはいえ、いきなり「羊」から入ったもので、「ねずみ」というのが何者か、なかなかわかりませんでした)
そこから一気に、短編集、「世界の終わり/ハードボイルドワンダーランド」「ノールウェイの森」と突き進み、「ダンス・ダンス・ダンス」を数ページ読んで突然村上春樹が読めなくなりました。長編も、短編も、エッセーも、翻訳物もとにかく村上春樹のいっさいを読む事ができなくなりました。過剰摂取によるアレルギーみたいなものだったのかもしれません。

読めなくなった、けど、気にはなるわけで、新刊が出ると、本屋で眺める事はしました。でも、買う事はありませんでした。
やっと、なぞの村上春樹アレルギーを、「読みたい」という意志が克服したのが「アフター・ダーク」。
ところが「東京奇譚集 」はこれまた、過剰反応で手に取らず、なぜか「意味がなくてはスイングはない 」なんて買ってしまいました。この本、村上春樹度が薄いのかもしれません。

こういうブログやっているので、音楽の紹介の方法に興味があったという事もあります。村上春樹が好きなミュージシャン/演奏家について、好きなように料理したこの本。じっくり時間かけて紹介するのって、いいなぁ、と思いつつもそんな余裕があるはずも無く。なにか一つ、ちゃんと文献とかあたってからブログ書いてみようかな。大変相だけど。

で、「意味がなくてはスイングはない」ですが、実のところ迷いました、買うかどうか。
なぜならば、紹介しているミュージシャンが、僕がカバーしていた範囲と全く違う。とうか知らない。かろうじて、ブルース・スプリングスティーン(でもアルバム通しで聞いた事ない)と「SMiLE」で気になっていたブライアン・ウィルソンぐらい。
もっとも、知っているミュージシャンだったら、わざわざ村上春樹に解説してもらうまでもないですよね。でも、自分でも知っているミュージシャンを村上春樹がどう料理するのかは、知りたいですよね。知らないミュージシャンであってもあの「夢で会いましょう」の村上春樹が、どう料理して紹介してくれるのかが楽しみですよね。
つまり、紹介しているミュージシャンを知っていても知らなくても、結論はおなじ、村上春樹がどのような魅力を伝えてくれるか、それが楽しみ。だったら、買ってみるしかない。なんとも自己正当化のための理論ではありますが・・・

12月25日のSMiLE / Brian Wilsonから読み始めているので(電車の中で眠りながら読んだとはいえ、1ヶ月というのは長いですね)それ以前のものと変化があったとすれば、この本の影響のはず。うーん、影響されていても、筆の力が全然及んでませんね。


1月の映画のトドメ

2006-01-31 02:39:32 | 最近見た映画
カメラやさんの店先でみつけた500円DVD。解説もなんにもついてないで、ただ箱のうらに水野晴郎さんの短いコメントが・・・
どうやら発売元はここみたいです。

タイトルは、昔の「キングコング」や昔の「オペラ座の怪人」などカメラのニイムラというところに、全商品リストが載っていました。ああ、ローレンス・オリビエのハムレットもいいですねぇ。

500円ならば、ということで、チャップリンの「街の灯」と「独裁者」を買いました。
夜も遅い時間だったので、今日は観ないつもりでしたが無理でした。つい、「独裁者」を観てしまいました。ついで、てんでその後に「街の灯」。でもこちらはいろんなことしながら見ていたので、途中で止めました。やはり落ち着いてみてみたいものです。

「独裁者」ヒトラーとナチを笑い飛ばしたプロテスタント映画ですが、昨今の小泉政権末期症状的ニュースと妙にダブってみてしまいました。ナチを徹底的に笑いものにするという映画なので、笑いはちょっと表層的な感じがしました。でも、最後の演説はすごいですね。ポツリポツリと自信なさそうに話し始めて、いつの間にか力強いメッセージを述べる、床屋。そして、ふと我に返って、静かに恋人のハンナに語りかける。大勢の聴衆の前で、英雄で終わるのではなく、一人の人間として語りかけることを選んだチャップリン。ここはいつみても感動します。

「街の灯」は、トーキーでありながらも台詞無しの音楽と字幕の映画。おなじみの山高帽の放浪者チャーリーが登場します。チャーリー、かっこいいですね。それに笑いの質が上品ですね。何度みても笑えますね。

映画三昧だった1月を締めたのは、2枚で約3時間半1000円のDVDでした。
安上がりな誕生日プレゼント。

The 有頂天ホテル

2006-01-30 05:15:58 | 最近見た映画
1月の映画三昧の締めは、三谷幸喜でした。

「The 有頂天ホテル」を見てきました。
「Always 三丁目の夕日」の時は、劇場の隅の方でくすくす笑いが聞こえていましたが、この映画ではみんな大笑いしていました。劇場全体で笑う映画なんて、寅さん以来かもしれません。家にいてビデオで繰り返し映画を見るのもいいのですが、映画館でこうやって知らない人たちと笑いあうというのも良いものです。

内容はいまさら紹介するまでも無いと思います。三谷マジック満載の、ファンタジーになっています。
そのなかで嬉しかったのは、梶原善。なんだか久しぶりに三谷作品にもどってきたというたけで嬉しいですね。それにしても、西田さんを殴り飛ばす役なんて、三谷さんキツイですね。
客室係のハナさんこと松たか子。はじけてましたね。はじけっぷりに役者としての懐の深さを見たような気がします。
それと、オダギリジョー。一昨年の大河ドラマの斉藤一で見せたクールな面と一瞬出てくるコミカルな面。今回は、コミカル路線です。この人には、もっともっといろんな役を演じてもらいたいですね。

一方、気になったのがこの二人。
唐沢敏明演じる謎のマネージャー。もう少し出番が多くても良いんじゃないでしょうか。全体のストーリーに絡んでほしかった。Youが歌い始めたときの驚いた表情とかよかったじゃないですか。時間的な制約もあったのかもしれませんが、芸人さんとマネージャーの絡みがもっと描かれていても良かったかなぁと思います。(三谷さんならば、それだけで一つの作品になるほどストーリーが膨らんでいくかもしれません。そうなると、この映画の中に収めるのもたいへんですね)
もう一人は、西田敏行の演歌歌手。カウントダウンパーティーの中で、一花咲かせてあげたかったですね。

映画のパンフレット買ったら、半分ぐらいが出演者の紹介。主役クラスが山ほどでている中で、脇役(というか端役)にもいろんな人が出ているようです。エンドロールには名前が出ていたのですが、パンフレットにはありませんでした。確認するためにも、DVDで出たらもう一回見たいですが、そうやって分析的に見られるのって、三谷さんは・・・結構好きなのかも知れない。

タイムマシンをつくろう! / ポール・デイヴス

2006-01-29 06:03:44 | 最近読んだ本
著者のポール・デイヴスはオーストラリアのマッコリー大学の自然哲学の教授だそうです。自然哲学といっても物理学者。理論物理の先生のようで、一般向けの物理学書も何冊も書いているそうです。

本書では作ろうとしているタイムマシンは、ドラえもんのタイムマシンのように時間を自由に行き来できるものではなくて、宇宙の中に、たとえば「入り口出口で100年の時間差を持ったトンネル」を作るというものです。マシンというイメージではなくて、構造ですね。宇宙の土木工事。タイムマシンの作り方の説明でまるまる1章を使っています。地球規模の大金持ちのスポンサーがつけば、小さなタイムマシンを作る事もできるかもしれません(ほんとうか?)。

他の章では、時間とはなんぞや? 時間の中を移動するにはどうしたら良いか? 何故タイムマシンの研究を行うのか? ということを説明しています。タイムマシンについてのQ&Aのなから「なぜタイムトラベルを研究するのか?」という質問がありました。この質問の箇所を読んでいるのを、横から見ていた子どもが、そのまんま「なぜタイムトラベルなんて必要なの?」と聞いてきました。「アインシュタイン(のように、宇宙のなりたちを理論的に研究している人たちが居るでしょ。そういう人たちが、理論を重ねていって、タイムマシンを作る事ができるか? もしできるとしたら、今までの理論におかしな事が起きないかを調べなくては成らないし、もしできないとしたらできない理由をちゃんと考えなくては行けない。そうやって、今ある理論が正しいものかどうなのかを考える必要があるんだよ」と説明したら「あ、そうか」と納得していました。
つまり、そういう本です。

最初「パラドクス」と「自己矛盾」の区別がつかなかったのですが、論理的な矛盾が自己完結的なもの(つまり自己矛盾)であるのならば、理論全体としてはたいした問題ではない。タイムマシンの出現によって、逆説的な二つの結論のどちらもが正しいようなパラドクスを起こすようなことがあれば、理論上の危機となる。ホーキングが提唱している「時間順序保護仮説」というものがあるそうです。自然の中に存在する何らかの作用により、時間の順序は乱す事ができないとする仮説。パラドクスが起きない(起きていない)ことを考えると、この仮説に頼らざるを得ないのかもしれない。が、しかし、それで全てが説明されて「タイムトラベルはできない」と科学的に結論付けられるのもつまらないですね。つまらないけど、何によって時間の流れが保護されているのかも気になるところです。「時間順序保護仮説」については、多いに議論してもらいたいと思います。


まっすぐなへび

2006-01-28 20:49:07 | 亭主独白
もう何年も前ですが、家を片づけたときに、小学校2年生の時の感想文を見つけました。
題は「まっすぐなへび」。
どうやら「まっすぐなへび」というお話の感想文らしいのですが、当時は(そして、今も)感想文が苦手だったので、ほとんどがあらすじで終わっていました。そのあらすじによると、「まっすぐなへび」というお話は・・・
---
滝の下に、蛇と蟹が仲良く暮らしていました。
道に迷った動物達が滝を登れずに困っていると、二人は親切に道を教えてあげていました。
ところがある日、蛇が嘘をついて、迷った動物をだまして食べてしまいました。
それを見た蟹は、蛇の首をはさみでちょんぎってしまいました。
びっくりした蛇は、体をピーンとまっすぐに伸ばしてしまいました。
---
というお話のようです。
ところが、こんな話しがどこかの昔話の本に載っていたのか、教科書に載っていたのか全く記憶がありません。
どなたか、「まっすぐなへび」という話しをご存知でしたら、教えてください。

今日もマイルス

2006-01-28 06:21:57 | Miles Davis
On The Corner これも凄いです。
エレクトリック・マイルス時代のアルバムは、とにかくメンバーが沢山居て、複雑なリズムの上に分厚い音がかぶさっり、聞き手にグイグイと迫ってくる、というイメージがあります。このアルバムは、音を聴くとスカスカです。スカスカというと、手抜きみたいに聞こえますが、そうではなくて意図的にスカスカな音作りをしています。余分なものを濾しとって、やりたかった事だけを抽出したようなアルバムです。



まずジャケットがファンキーですね。
パーソネルは
 マイルス・デイヴィス(tp)
 カルロス・ガーネット(ts,ss)
 テオ・マセロ(sax)
 デヴィッド・クリーマー(g)
 ハロルド・ヘンダーソン(b)
 ビリー・ハート(ds)
 ドン・アライアス(ds)
 アイアート・モレイラ(perc)
 ハービー・ハンコック(key)
 チック・コリア(key)
 ジョン・マクラフリン(g)
 デイヴ・リーブマン(ts.ss)
 マイケル・ヘンダーソン(b)
 ジャック・ディジョネット(ds)
 ムトゥーメ(perc)
 バダル・ロイ(tabla)
(タワーレコードより)
とても沢山居ます。そして、とても沢山のリズムがあります。
マイルスが濾し出したのは、リズムとグルーブ感だったようです。
でもそれは圧倒されるようなものではなくて、緩やかな緊張感というか・・・。
アルバム全体を通して、複雑なリズムが緩やかに流れていて、その流れを楽しむように時々メロディー楽器が顔を出すような、聞いてて楽しいアルバムです。
実際に、iPodで聞きながら、微笑んでしまいました。マイルスのアルバムで、おもわず微笑んでしまうなんて、このアルバムぐらいかもしれないです。

今日のマイルス

2006-01-24 05:38:44 | Miles Davis
iPodのプレイリストに「Milese Davis」というのを作りました。
「フィルモアライブ」「ライブイヴル」「ジャックジョンソン」「オンザコーナー」「ダークメイガス」「ゲットアップウィズイット」「セーラドアセッション」が入っています。エレクトリックマイルスを一気に聞くという苦行にも近いことに喜びを感じています。今日聞いたのは「ダークメイガス」と「ゲットアップウィズイット」。

「ダークメイガス」ライブ当日にギターとサックスをメンバーに追加したという、離れ業セッション。しかもギターは3本も入っているそうで、大所帯。リズム楽器はもとより、ギターやましてやマイルスのワウワウ・トランペットまでがリズムを刻む大ファンク大会。今でも通じるグランビート。リズムの渦渦渦渦・・・
このアルバム「禍々しい」とか「重たい」とか言われますが、もともとおもっ苦しいプログレ聞いていたせいか、確かに、マイルスのアルバムの中では重量級ですがそんなに重たくは感じませんでした。かなりヘビーメタルな感じではあります。変なたとえですが、キングクリムゾンの「アースバウンド」でメンバーがジャズロックしているのですが、それに似てなくも無いです。もちろん、マイルスの方がオリジナルなのでしょうが、当時のジャズロックバンドってエレクトリック・マイルスに影響されていたのかな、って思いました。



「ゲットアップウィズイット」ディスク1の1曲目「He Loved Him Madly」。デューク・エリントンを追悼して作曲されたこの曲は、とても美しいバラードに仕上がっています。さすがに30分を超える大作なので、そうそう繰り返し聞いてもいられないのですが、じっくりと聞き入る事のできる曲です。
2枚目の小品「Red China Bluse」では、いきなりブルースハーモニカからはじまるブルース。この時期の大作主義の中の、隠れた名作だと思います。
このアルバムでは、ジャズあり、ブルースあり、ロックあり。バラエティーに富む一方、様々な時期に録音された音源を集めているせいか、アルバム全体の印象が薄い。圧倒的なライブの音源を使った他のアルバムと、スタジオ録音の熱の違いかもしれない。

雪の花

2006-01-22 05:14:40 | 庭の草花
雪国の方には、大変申し訳ないのですが、
今日(もう昨日ですね)東京にも雪が降りました。
屋根も庭もそして庭の木も、白く染まりました。
電車の窓から見た、井の頭公園の、葉を落とした木々の枝には
どこもかしこも白い花が咲いていました。
久々に見た、美しい雪景色でした。

夢の後さき(その2)

2006-01-22 03:31:20 | 亭主独白
無味乾燥な出来事の連続になってしまった、夢の「イパネマの娘」セッションを救い出すために、日本の誇る知の巨人・南方熊楠に登場してもらう事にしましょう。南方熊楠は明治期に和歌山県で生れ、大英博物館の調査部員をやっていたこともあり、後に粘菌の研究者としても世界的に有名になりました。しかし、熊楠の知識は生物学だけにとどまらず、多岐に広がっています。南方曼荼羅と呼ばれる、こんなものも書いています。
詳細は、このあたり
 http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/books/jiten.html
を読んでいただいたほうが良いと思います。

その熊楠が「縁」と「起」というものを説明しています。
一つの因果律で結ばれた事象と、別の因果律で結ばれた事象が交差することを「縁」、お互いの事象が影響しあて何かが始まる事を「起」と呼びました。中沢新一は「森のバロック」の中では、たしかこんな説明をしていました。
 山の中を東から西に向かって歩く人と、同じ山の中を南から北に向かって歩く人がいる。
 この二人が山の中で出会って別れるのが「縁」
 二人が出会う事により、二人そろってどちらかの家に行く事を「起」
この考えが夢の「イパネマの娘」セッションを救ってくれないでしょうか。

1)nakapageさんが夢を見る
2)同じ時間にoimizuがコメントを書く
これだけだと「縁」。
1)nakapageさんが夢を見る
2)同じ時間にoimizuがコメントを書く
3)nakapageさんがブログに夢の話を書く
4)それに対してoimizuがコメントを書く
これが「起」。
たとえば
1)oimizuがブログに「イパネマの娘」の事を書く
2)だれか知らない人が夢の中で「イパネマの娘」のセッションを行う。
これもなにかの「縁」かもしれませんが、これを機会に何かが始まる「起」には成りえません。
つまり、夢の「イパネマの娘」セッションに関して言えば、偶然の出来事の中でnakapageさんとoimizuが出会う。そしてnakapageさんとoimizuでプログでの話しを盛り上げていく。偶然の中出であった二人の意志が一つの方向に向かう事により「縁」を「起」に変える事ができたのではないでしょうか。

こう考えると、出会いというものはとても不思議なものに思えてきます。
もしかしたらnakapageさんとoimizuはどこかで出会っても、それだけで通り過ぎてしまっていたかもしれません(つまり「縁」はあっても「起」には至らない)。ところが、同じような背景を持っていたり、同じような考え方をしていたりというこれまた偶然の一致があったからこそただ通り過ぎず、お互いを知りあう事ができるようになった(つまり「縁」から「起」に変わった)
夢の「イパネマの娘」セッションに関して、nakapageさんとoimizuを結びつけたのは、得体のしれない精霊の力ではなくて、nakapageさんとoimizuが持っていた共通の考え方とか、共通の理解なのではないかと思います。

大きな事を言えば、宇宙。ひとりの人間から見れば、永遠とも無限とも思えるこの時空の中で、またまた同じときに同じ場所でお互いが出会えたという事、これはとても重要な出来事のように思えないですか。

夢の後さき(その1) / シンクロニシティ

2006-01-22 02:50:11 | 亭主独白
nakapageさんから、1月18日のブログに謎のコメントをいただきました、
nakapageさんの1月19日のブログ
 http://diary.jp.aol.com/j8ghr4/302.html
を読んで、謎が解けました。どうやら、夢の中でoimizuとnakapageさんが「イパネマの娘」をセッションしたようです。
出来事を簡単にまとめると
事象1.oimizuが14日明け方にnakapageさんのブログにコメントをつけた事をnakapageさんが感じ取って、nakapageさんの夢の中にoimizuを登場させた。
事象2.oimizuがnakapageさんのブログに「イパネマの娘」に関するコメントを書きかけた(結局キャンセルしてしまった)その日(18日)のoimizuのブログに、nakapageさんが「イパネマの娘」セッションのコメントを書いた。
ユングは、科学では説明できないような偶然、因果関係を持たない複数の「事象」が「同時」に発生する事をシンクロニシティ(共時性)と呼びました。上に述べた二つの事象は、まさに共時性を示しているように見えます。

ところで、この夢に関する一連の出来事の中にいくつの「事象」があるでしょうか? 上では「2つ」と書いていますが
 事象1.oimizuが14日明け方にnakapageさんのブログにコメントをつけた
 事象2.nakapageさんがoimizuと夢の「イパネマの娘」セッションを行った
 事象3.18日にoimizuがnakapageさんのブログに「イパネマの娘」のコメントを書きかけた。
 事象4.oimizuが18日にブログを書いた。
 事象5.nakapageさんが19日にoimizuのブログに夢の「イパネマの娘」セッションのコメントを書いた。
5つになりました。
やりかたによっては、もっと別の事象に分ける事ができるでしょう。つまり共時性をもって起こるとされる「事象」とは、最初から「事象」として独立したものではなくて、人の見かたによって、いくつにも分ける事ができます。つまり一連の出来事の中から「これが事象だ!」と切り出す事ができるのは、実はそれを見ていた人間の解釈によるものであり、決して解釈に先立って純粋な「事象」がころがっているわけではありません。
さらに「同時」に起きるというのは、どれぐらいの時間差があっても「同時」と呼べるのでしょうか? この「イパネマの娘」に関する一連の出来事は、1月14日の明け方から、19日の未明まで続いています。これも、見かたによっては、別の区切りかたができるかもしれませんが5日間を「同時」と呼ぶのは長いような気がします。では同時に起きていたものは何かというと・・・
 事象1.oimizuが14日明け方にnakapageさんのブログにコメントをつけた
 事象2.nakapageさんがoimizuと夢の「イパネマの娘」セッションを行った
この二つは同時に起きていたかもしれません。でもoimizuがnakapageさんのブログにコメントつけたのはこのときが最初ではないし、コメント書くたびに夢の中にもお邪魔しているとは限りません。つまり、14日は「たまたま」nakapageさんの夢にoimizuが登場しただけと考えたほうがよいのではないでしょうか。

oimizuとnakapageさんが、スピリチュアルな強い絆を持っていて、その力によって夢の「イパネマの娘」セッションを行ったという解釈は大変ロマンチックなものだと思います。
しかし、これはいくつかの事象を意図的に結びつけて、約5日間という時間を「同時」と言ってしまう、恣意的な解釈だと思います。
14日から19日の間に「たまたま」起きた事象を何か一連の「意味がある事」のようにひと括りにして見ただけです。

何故、たまたま起きた事象を、あたかも関連性のあるもののように解釈してしまうのでしょうか。
そりは、多分人間が、物事に対して後から意味を与えているからだと思います。
つまり、一連の出来事に何らかの関連性があるかのように見えているのは、人間がそのように解釈しているから、であって、そこで起きている事象はお互いが無関係に存在しているだけなのだと思います。
つまり、人がそのように見たいから、そのように見えるだけであって、「事象」の中に「意味」なんて存在していないのです。

え、なに? つまり、夢の「イパネマの娘」セッションというのは二人の間のスピリチュアルな絆によるロマンチックな話しではなくて、無味乾燥な事実の偶然の重なり合いだったというわけ? nakapageさんとoimizuの関係も、ただの無味乾燥な偶然ということになってしまうの? それはなんだか寂しくないですか? これではnakapageさんとの人間関係も悪くなってしまうし、やはりこの解釈はoimizuの心にも伝わってこない。なにかもう少し心に響くような解釈はできないものでしょうか・・・
(ということで、続きます)

セーラードアセッション/マイルス・デイビス

2006-01-18 05:53:05 | Miles Davis
マイルスのセーラドアセッション。
昨日渋谷のHMVで試聴しました。
そもそも試聴した時点で、気持ちの上ではもう購入決定でした。
でもさすがに1.5万円は高いので、買わずに帰ってきました。

今日、新宿のディスクユニオンに行ったら、輸入盤の中古品が1万円で置いてありました。
これは即決で買ってしまいました。
輸入盤なので、ライナーノウツは英語を読まないと行けないのですが、
6枚組CDとあわせてゆっくり楽しみます。

普段では聞けないエレクトリックピアノ弾くキースジャケットも素敵です。

エレクトリック・マイルス

2006-01-16 03:17:51 | 亭主独白
以前から気になっていた、ビッチズ・ブリュー~アガルタ/パンゲアまでのマイルスを聞いてみようと思って、近所のTSUTAYAから何枚かまとめてアルバムを借りてきました。
マイルスが復活してからの作品、特に「スター・ピープル」「デコイ」「ユー・アンダー・アレスト」あたりは良く聞いていたのですが、エレクトリック時代はあまり聞いてませんでした。というか、この時代やはりよくわからない。マイルス自身、未整理な部分もあったのではないでしょうか? アルバム事にメンバーも異り、かっちりした音作りというより、いろいろと試行錯誤していたのかもしれません。「スター・ピープル」「デコイ」あたりは、この時代の実験の結果として生れた名盤のような気がしていました。

今回借りてきたアルバムは「ライブ・アット・フィルモア」「ゲット・アップ・ウィズ・イット」「オン・ザ・コーナー」「ダーク・メイガス」。まだ全部聞いたわけではありませんが、「ビッチズ・ブリュー」「~フィルモア」辺りで外向きだったマイルスのエネルギーが、「オン・ザ・コーナー」かたりから自分の中に向かい始めて「アガルタ」「パンゲア」に行き着いてしまったのかな、という気がします。自分でコントロールできない夢の世界とか、自我の世界にうかつに入り込むと、ドーンと落ち込んじゃう事ありますが、マイルスも即興的な音楽を突き詰めていって、次第にそういうコントロールできない領域に入り込んでしまったのではないかと思います。

今まで聞いたエレクトリック・マイルスの時期のアルバムで比較的気に入っているのは「ジャック・ジョンソン」と「ライブ・イブル」でした。どちらも上り調子のバンドのまとまりのようなものを感じます。「~フィルモア」はLP時代に聞いたのですが、実はよくわかりませんでした。今回あらためて聞き直すと、マイルスが実に気持ちよさそうに演奏している事がわかりました。50年代・60年代のマイルスのバンドとは姿形は違っても、マイルスの演奏に対する自信というか、先の読み方・・・展望? がきちんとしていて、それが聞いていて気持ちよいです。ちゃんと聞き込めば、それぞれのアルバム事の良さ/悪さがはっきりしてくるかもしれません。しばらくは、苦行のようにマイルスに浸ろうかと思います。

・・・と、考えていた矢先、久しぶりに吉祥寺HMVに行ったら、「ライブ・イブル」の音源になっているセラー・ドアのコンプリート版というのが出ている事を知りました。「ジャック・ジョンソン」のコンプリート版も聞いてみたかったのですが、これはセッションの寄せ集めだったので、自分を言い聞かせて買わなかったのですが、セラー・ドアはライブ・ステージを治めたボックスセット。6枚組で1.5万円もするので、さすがに躊躇しました。しかし、amazoneで調べたところ、輸入盤は8,800円。これはちょっと魅力。明日の帰り、渋谷のHMV寄ってみようかな・・・


村田エフェンディ滞土録/梨木香歩

2006-01-14 23:24:25 | 最近読んだ本
この話は、ムハンマドが鸚鵡と出会うところから始まる。
この鸚鵡、人の気持ちを知ってるかのように、辛辣な言葉をずばりと発言する。しかし、そこは鸚鵡が発した言葉、いちいち目くじら立てるわけにも行かず、見ているものは苦笑いするばかり。悪意を持たずに、人の笑いをさそう、いわば道化役のような登場人物(?)である。

梨木香歩の作品「家守綺譚」に名前だけ出てくる村田青年がトルコに留学したときの話である。時代は、「家守綺譚」同様明治後半、第一次世界大戦が始まる直前。トルコがヨーロッパ列強に対抗して近代化を図り、その一環としておこなっている遺跡発掘を行っている。

村田青年が宿泊したディクソン夫人の屋敷は、梨木さんがエッセイの中で述べている、ご本人がイギリスに留学したときの下宿がモデルのようだ。各国から遺跡発掘のために集まってた人々が一つ屋根の下に暮らしている。イギリス人のディクソン夫人、ドイツ人のオットー、ギリシャ人(自らビザンツの末裔という) ディミトリス、そして村田。ムハンマドはディクソン夫人の家の召使いである。

実はこの作品、他の梨木作品に比べてお話があまりにも日常的すぎて、途中で一度投げ出しました。投げ出して「アースダイバー」を読んで再びこの本に戻ってきたときに、やっと気がつきました。本来一神教であるイスラム圏で、イギリス人、ドイツ人、ギリシァ人それぞれ微妙に違うキリスト教国の人や、神道の日本人が暮らしている。「アースダイバー」に出てきそうな地霊・精霊が出てくるし、日本からイタリアに向かう木下が持ち込んだ「稲荷」が登場するや否や、そこは一気に多神教的な世界になって行きます。ここで、トルコという東西の交流点を舞台にした設定のうまさに、うなってしまいました。たとえ、一人一人が信じる神が違っていようとも、こうやって仲良く暮らしていく事ができる。ディミトリスが言うように人間として、他の人間に関わる事に関心を持っているからこそ、このように心を通じ合わせることができるのでしょう。

しかし、しだいに戦争の影が近づき、村田は日本に帰らざるを得なくなります。
帰国後、村田の転がり込んだ先が「家守綺譚」の高堂の家。家守の綿貫の居ない間にあがりこんだところに高堂が現れる。
ここからが、「家守綺譚」の続きの話となる。

やがて、村田の許にディクソン夫人から手紙と、少し遅れて鸚鵡が届く。
手紙には、懐かしい同居人の悲しい顛末がつづられている。
人間が人間として、他の人間に関心を持たなくなったときに、戦争のような悲劇が起こり、
そして二度と取り戻す事のできない大切なものを失ってしまう。
梨木さんの叫びが聞こえるようだ。




そうそう、「家守綺譚」で予告だけされている龍は村田が遥か土耳古から持ち帰る事になります。
この龍がいかなる役割を果たしているのかよくわかりませんでした。
「家守綺譚」をもう一度読み直してみよう・・・

消えた投稿・・・

2006-01-14 22:37:22 | 亭主独白
消えてしまった。
2時間(推定)もかけて書いたブログが、投稿前に操作ミスできえてしまった。
立ち直れず、今日に至る。
(というわけではなく、書き込む時間がない)

アースダイバー/中沢新一

2006-01-10 02:15:07 | 最近読んだ本
曼荼羅というものがあります。
人間が、直感では理解できないほどの大きなものを理解するためには、特徴を抜き出してメモを作り、次に個々の特徴を寄せ集めて全体を理解しようとします。つまり、細分化された部分から、全体を再構成して、その時に全体を「わかった」と感じる事ができます。曼荼羅というのは、仏様の並びを表したものではなくて、宇宙を理解するための物だと聞いた事があります。宇宙(世界全体といっても良いかもしれませんが)という巨大なものを理解するために、細分化した部分に仏を置いていく。そうやって、宇宙全体を再構成したも、それが曼荼羅なのではないかと思います。

神話というもの。これは、古代から語り継がれてきたもので、そこには古代の人々がとらえた宇宙観が凝縮されています。神話の成り立ちを検証する事によって、我々の先祖がどのような精神活動を行っていたのか、その部分部分を知る事ができると思います。「アースダイバー」で中沢新一は、古代人の精神活動の部分を検証するために、縄文時代の地図を手がかりとして、神話のよりどころである遺跡を巡ります。そして不思議と、縄文時代の地形が、縄文人の精神活動と深く結びついていた事を発見します。

縄文時代から地形が変わるぐらい時が流れると、海が退いたあとに新しい土地が作られて、次第に現在の東京の姿ができ上がっていきます。古代からあった土地は高台として残り、その坂の下には新しい湿った土地が形作られていきました。新しくできた、湿った土地に住み着いた人々と、古代からある高台に住んでいる人々。この坂の上と下で、様々なドラマが生れ、そして新しい伝説が作られていきます。作られた時代の異る2つの大地と、そこに集まった人々の生活。それが不思議と現在の東京の姿と一致して見えます。

はたして、何千年も前の地形と、そこに住んだ人々の精神活動が、現在の東京にも影を落としているのか。それは、決して解決されない謎なのかもしれません。しかし、東京という街を縄文時代の地形に基づいてとらえ直すということは、ある種の知的ゲームとして楽しむ事ができると思います。

(写真は、「アースダイバー」のなかにも出てくる尾崎(お・さき)の丘に建つ母校です。)