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おいみず亭 Family & Friends

美味しい食べ物と知的好奇心、そして楽しい仲間!!

「今日という日は贈りもの」ナンシー・ウッド

2008-07-27 07:46:57 | 最近読んだ本
読みかけの本です。

この本と出会ったのは、去年の4月。
文庫本の新刊コーナーに並んでいた。
この表紙と

帯にあった城山三郎の文字に惹かれた。
城山三郎、亡くなったのが去年の3月だから、本当に亡くなって出た本、ということになります。

作者のナンシー・ウッド。
解説にると、アメリカのニュー・メキシコ州の自然の中で、ネイティブアメリカンの様に暮らし、ネイティブアメリカンのように考えるアメリカ人だそうです。
「今日は死ぬのにもってこいの日」という著書もあるので、どこかでご覧になったこともあるかと思います。

さて。
「今日という日は贈りもの」の方ですが、これは1月から12月までの月(moon)のお話。
お話というより、毎月毎に例えば
 6月 トウモロコシの穂が出る月
 7月 太陽の家の月
とタイトルがつけられて、各月ごとに「瞑想」という単文と詩が続くという構成。
例えば7月の瞑想は「7月に月が通るのは、情熱という道」とタイトルが付けられて、そのあとに詩が3編続きます。
非常に短い詩集なので、文庫の最後に原文が載っています。
翻訳前のオリジナルを読むこともできるので、1冊で2度おいしい、という感じの文庫です。

詩集なので、時間が空いたときにあちこちをパラパラとめくって読んでいるのですが、昨日出会ったのは「Spirit Brothers」という詩。

「魂の兄弟たち」
私たちはみな一つ。
 人間とハチドリ
 野生馬とイタチ
 飼い猫と赤尾タカ
 バファローと犬
 コーテと白尾ウサギ
人間の魂と動物の魂は
 理解という
 共通の根から出ている。
人間の夢と動物の夢は
 私たちの尊い母なる大地の
 限りない地平線を共有している。
人間の魂と動物の魂は
 空の円が大地の円と
 出会うところで一つになる。
この聖なる空間に宇宙の意味がある。
そして宇宙の意味とは
 葉におく露
 水の上の光のダンス
 二匹の犬の会話
 ハチドリの飛ぶ様
 それ以上のことではない。



城山三郎とナンシー・ウッドの間で交わされた書簡が掲載されています。
城山三郎からの最初の手紙の中で、非常な辺鄙な土地に暮らしていて不便はないか、という意味の質問が投げかけられていました。
ナンシー・ウッドからの返信には「私には不便という言葉の意味が分かりません。ここには私の暮らしに必要なすべてのものがあります」という回答を記していました。
自然の中で、鳥や動物たちと暮らす。
言うのは簡単だと思いますが、実行するには、今普通に持っている価値観を改めないとできないのではないかと思います。
本当は、今すぐにでも始めなくては行けないのでしょうけど、
 そこまでの勇気があるか、わかりません。




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古教会 その2

2008-06-08 09:37:44 | 最近読んだ本
畳敷きの教会がある、ということは以前聞いたことがありました。
この写真集を見て、「畳敷きの教会」が沢山あることを知りました。
こんな教会は、日本にしかないでしょうね。


宮寺教会


会津若松教会


清水教会

古教会への誘い 1


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書店での購入もできますが、兄のところから直接購入もできます。
直接購入去れる場合は、少し割引があるそうです。(ただし、1冊の場合160円の送料がかかります)
「老水亭」あてにメールを頂ければ、連絡先をお知らせいたします。
  メールアドレス masaya_es4@mail.goo.ne.jp
なお、メールのタイトルに「古教会」と記してください。

抱くことば

2008-05-13 03:25:52 | 最近読んだ本
先日家族と出かけた時のことです。
電車の中で、ふと、不思議な感覚に襲われました。
「果たして、いったい、どれぐらいの人と繋がっているのだろうか」

家族、親戚、友人、近所の人たち、会社の同僚、ブログ仲間・・・
そういう、目に見える繋がりだけじゃなくて。
例えば、今着ているこの服を作ってくれた人。
服を作る生地を作った人。
生地を作る糸を作った人、その種を蒔いて育てた人。
今朝食べたご飯のお米を作った人。その肥料や農薬を作った人。それを研究した人。

例えば、大きなシーツみたいな布の、一ヶ所をつまんで引っぱり上げると、
そこを頂点にしてシーツが引っぱり上げられるけど、全体としては一枚の布として繋がっている。

たまたま、自分自身を中心にしてみると、自分の周りにいろんな人が繋がっているけど、
シーツを積まむ場所を変えると、一枚のシーツなのに、また別の山が出来る。
別の人を中心に見ると、自分もその繋がりの中のどこかにいる。

シーツの好きなところを何ヶ所も妻見上げると、いくつもの山が出来る。
宇宙、という大きなシーツの中の気になるところを引っぱり上げて、いくつもの山を作る。
マンダラって、宇宙の中のそういう特殊な位置を表したものだ、と聞いたことがあります。
最初からマンダラの形が決まっているのではなくて、見る人の視点によって変っていく宇宙観。ていうのか。
なんだか、その繋がりを感じた時に、マンダラってそういうものなのか、って納得できたような気がしました。

たまたま、その時に読んでいたのが、ダライ・ラマ14世の「抱くことば」という本。
写真と大きな活字出てきた、アフォリズム?
こういう本の作りって、ちょっと苦手なのですが、
時の人、というわけではなくて、ダライ・ラマ猊下は人柄/見た目から伝わる人柄に惹かれて、前から気になっていたもので、つい手に取って読んで見ました。
「人生の目的は、幸せになることである。」
自分だけが過剰な幸せをかき集めないでも幸せに生きる。
難しいですね。
まだ読みかけなので、本の内容については、またいつか。

1982年のSFマガジン

2007-12-18 23:15:44 | 最近読んだ本
金曜から調子悪かったのですが、土日月と臥せっていました。
症状はと言うと、なにか食べると胃が痛くなる、というもので、ほとんど食べ物を口にせず寝ていました。(といっても、空腹時には元気に起き上がっていました)
寝ている間に、会社の知人から借りたMonster(浦沢直樹)を4冊ほど読んで、それでも時間が潰せなかったので、書棚から1982年のSFマガジンを撮り出して読んでいました。

ディックのSFは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を読んでから、暫くディックのSFばかり読んでいました。
といっても主著と言われている「パーマーエルドリッチ、三つの聖痕」「聖なる侵入」「ヴァリス」は読んでないので、いったい何を読んでいたのか・・・
でも、ディック以外のSFを読めないような時期があったので、継投していたのでしょう。

で、1982年7月号のSFマガジンは、ディックの追悼特集を組んでいました。
この年の3月に53才で急逝したディック。「アンドロイド・・・」の映画版「ブレードランナー」の公開が1982年。ディックの死後のことでした。
先に述べたように、ディックを読んでいたのが大学の2-3年生の頃だったと思います。1982年は卒業の年でした。

その追悼特集に1980年のディックのインタビューが載っていました。
82年に一度読んだことあるのだと思いますが、記憶はとぎれとぎれ。
でも、その中に面白いことを発見しました。
ディックは、自分の作品で、ギリシャ時代の哲人ヘラトクレイトスがいうところのイデイオ・コスモス(個人的な世界)とコイノス・コスモス(みんなが共有する世界)を対立させて考えているようです。
このイデイオ・コスモス(個人的な世界)が他人のイデイオ・コスモスによって侵害されたらどうなるか、というモチーフでSFを書いていたようです。
「私の世界」とことなる「あなたの世界」が存在し、互いに侵略し合うかもしれない。実はこんなところに惹かれて、ディックばかり読んでいたのかもしれません。

1982年というと、ワープロによる印刷が出来る前のことだと思います。
色あせたページに、なんとなく濃かったり薄かったりという印刷のばらつきがあるところが、なんとも時代を感じるとともに、有機的なイメージがあります。

それにしても「SFマガジン」というのは壮大な同人誌ですね。
読者コーナーには、SF同人のミーティングのお知らせとかメンバー募集とか載っています。
とかも、住所氏名がフルで載っていたりして・・・。このあたりも時代を感じます。

その読者コーナーに難波弘之のSENSE OF WONDERのライブの告知。
おやおや、センスオブワンダー=SFつながりかいな、と思ったら、「Sci-Fi Set」という難波弘之さんのコーナーがありました。
チラチラと読み初めてビックリ!!
 「前回、アニメのヘビー・メタルについて触れて」
と書いてあります。
でさらに読み進めると
 「ヘビー・メタルという言葉には重金属という意味などのほかに、ロック用語として、ギンギンにハードなサウンドという意味があることは、先月号でも触れた。」
6月号が読みたい!!

で、このコーナー何書いていたかというと、モリー・ハチェット(Molly Hatchet)というバンドのジャケットが、ヒロイックファンタジー路線であるということ。
難波さんヘビメタと紹介していましたが、ネットで調べるとサザンロックとのこと。
電気化されたサザンロックって、ZZトップみたいな感じかしらん?
某サイトによると、2004年のアルバムマで紹介されていました。
もしかして、まだ現役でしょうか。

ちなみに、再びディックですが、「聖なる侵入」も「ヴァリス」も翻訳されたのは、ディックの死後のことでした。
ちなみに「ヴァリス」はちょっとだけ読んで、ザセツしました。

おまけ
アマゾンに輸入盤がありました。


何曲か聞いたけど、イイ感じの南部サウンドです。
なんで、ジャケットがスペオペしているのやら???




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今度は1983年

2007-11-12 17:39:48 | 最近読んだ本
おくさんが、アレルギー性の喘息らしくて、ダウン。
しかも、腹痛(喘息との因果関係は不明)も起こして、身動きとれず状態なので、会社を早く退社して病院へ連れていきました。

待っている間に読む本を・・・と本棚をのぞいたら、ミュージックマガジン/1987年10月号の隣に「SFの本」誌の4号を発見。
発行が1983年。就職した翌年だ。学生時代に買ったと思ったのですが・・・

特集は「摩訶不思議的イギリスSF」と「追悼 寺山修司 -イメージの狩人-」「速報1983年ファンジン大賞」。
特集はともかくパラパラとページをめくっていたら、音楽ネタを発見。

その1
イベントレビューで「ブライアン・イーノ ビデオアートと環境音楽の世界」が取上げられていました。
赤坂の国際フォーラムで、イーノの環境音楽とビデオのイベントがあったようです。
イーノ自身、もっと大きなモニターがあれば、もっと面白いものになる、と語っていたようですが、レビュワーの感想としては「うーん、いまいち」みたい感じでした。
しかし、こんなイベントがあったんですね。
全然知りませんでした。

その2
またまたイーノもの。
SFファンはイーノ好きなのか?
こちらは編集長の志賀隆生さんの「かたい時、やわらかい時」と題したコラムで、タイトルが「ブライアン・イーノから大江健三郎へ」。
俎上にのせられたのはイーノの「アポロ」と大江健三郎の「「雨の木」を聞く女たち」。
大江健三郎は3-4冊ぐらい読みかけて、全て挫折しました。
大江健三郎、朝日新聞のコラムは、時間があるとき読んでいて、これは読めるので、どうも小説のあの独特の文体が合わないのかもしれません。
で、レイントゥリーも挫折したうちの1冊。
3段組4ページという長いコラム(コラムというには長すぎ?)なので斜め読みなのですが、どうやら・・・
 近代科学によって容認された、均一で連続的な時間がかたい時間(つまり、一定の時間というのは常に同じ長さということか?)
 かたや「アポロ」のような身体感覚に基づいた不均質で連続的な時間が柔らかい時間。
だからそれがどうした、というところまで読み込んでませんが、どうやら、近代文学が作り出した、切り取って持ち出し可能な「かたい時間」に基づいた作品から、大江健三郎は逸脱して、身体的で連続的なやわらかい時間を生み出しつつある、ということでしょうか?
いや、だから「だから、どうした?」というところまでは読み込んでいません。

その3
映画紹介もあります。
スターウォーズ初期3部作の完結、という話題の「前」にヘルツォークの「アギーレ・神の怒り」と「フィッツカラルド」が紹介されています。
記憶の中の「アギーレ」は、密林密林また密林。その奥にあるであろう夢の王国に向かっていざ進め。(あまりにも表面的な紹介だ・・・)


雨と恐怖の中で、人間の業を描いた、とても疲れる映画でした。
音楽はもちろんポポロブフ。

「フィッツカラルド」。
こちらも「アギーレ」と同じくヘルツオーグ/クラウスキンスキーの組み合わせ。
この二人が組むと、とてつもなくコワイ映画に仕上がりますね。
クラキンのあの迫力のある顔が・・・


老水的記憶の中にある「フィッツカラルド」は、船頭多くして船山を登る、のお話。
アマゾンの山奥にゴム園を作る事を夢見たフィッツカラルド。現地に行くには、凶暴な原住民のいる密林沿いの川を蒸気船で上る必要があります。
しかも、なんの手違い(じゃなかったかも)か、その原住民の住むまっただ中を船ごと山越えしなくてはならなくなりました。
敵対するとおもわれた原住民は、快くフィッツカラルドに力を貸して、船は順調に山を登ります。
ところが、山を下って、まもなく反対側の川に船を浮かべる事ができる、というときに原住民は船を激流に流してしまいました。
原住民にとって船は川を鎮めるための生贄代わりだったのでした。
全てを失ったフィッツカラルドは、ただ笑うしかない。。。
というのが、私の記憶の中のストーリー。
本当かどうかは、もう一度映画みないとわからないです。
(webで調べてみたら、かなりちがっていました。従ってネタばれになっていないから安心して)
音楽はもちろんポポロブフ。

「SFの本」誌の紹介だというのに、SFの話が一つも出てきませんでした。


[追記]
ニューウェーブSFについて述べてある記事に、マイケル・ムアコックの名前を発見しました。
ちょっとSFな話題も載せてみました。




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20年

2007-11-11 00:09:04 | 最近読んだ本
本棚の中に、中村とうようさんの「ミュージック・マガジン」を発見。
その昔は「ニュー・ミュージック・マガジン」といってたが、ニューミュージックという分野ができ上がってから、いつしか雑誌のタイトルから「ニュー」が外れました。
高校の頃良く読んでいたのは「ニュー・ミュージック・マガジン」のころ。
記事の内容もそれなりに読んでいましたが、輸入盤屋の広告が多かったので、それが目当てでもありました。
ちなみに、当時は中村氏の仇敵である渋谷陽一氏のロッキング・オンはかかさず読んでいました。

さて、何気なく手に取ってみた本棚の中の「ミュージック・マガジン」はトッド・ラングレンの特集。
多分、この記事が読みたくて、買ったのだと思います。
何気なく表紙を見ると1987年10月号。
へえ、丁度20年前だ、と思ってパラパラとめくってみました。

巻頭特集はCDマガジン(ミュージックマガジン内にCDマガジンを含んでいました)の特集で、「ビートルズをCDで聞く」の5回目。
中井戸麗一がホワイトアルバムを、大鷹俊一がイエローサブマリンを、それぞれ1トラックずつ感想を述べています。
そもそも「CDマガジン」というのが時代を感じさせますね。

当時の音楽シーンはどんなだったかいな、という興味であちこち記事を拾い読みしました。
海外のニュースではスティングが「ナッシング・ライク・ザ・サン」のレコーディングを終わりツアーにでるとか、フリートウド・マックからリンジー・バッキンガムが脱退したとか、ジョン・エントウィスルがリンゴ・スターの息子とザ・ロックというバンドを組んだのと書いてありました。
国内はというと、エルビス・コステロが来日したり、クラプトンが若手(?)の黒人ブルースバンド引き連れて来日したりしています。
そして、この年の夏、二つの大きなイベントがあったようです。
一つはHIROSHIMA 1987-1997。
平和をテーマにしたコンサートで出演者が再結成したツイスト、安全地帯、ハウンド・ドッグ、渡辺美里、尾崎豊。
尾崎豊が活躍していた時代だったんですね。
そしてもう一つが、台風の中南阿蘇で開かれたBeat Child。
嵐の中で、機材は壊れるし、観客は倒れて救急車で運ばれるはと、大変なコンサートだったようです。
こちらの出演者はBOOWY、ストリート・スライダースと書いてあります。
フジロックフェスが始まる10年前の話です。

さて、新譜はというと、ザ・スミスの「ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム」、ミック・ジャガーのソロの2枚目、P.I.L.の「Happy?」カーズの「ドア・トゥ・ドア」等が紹介されています。
で、これが全てLPの時代。
曲の紹介にA1とかB2とか書いてあります。

新譜紹介の中で小さく取上げられているのがガンズ・アンド・ローゼズの「アペタイト・フォー・ディストラクション」。
ガンズのデビューアルバムですね。
評者の小倉エージさんは「これから伸びそうなバンドである」として8点をつけています。

そしてCDマガジンの方でも紹介されているのが、デッドの「イン・ザ・ダーク」。
こちらでは「日本発売がCDだけなんて時代は変ったもんだ」と書いてあります。
つまり、ちょうど「アルバム」がLPからCDに切り替わる時代だったという事でしょうか。
レコード会社の広告を見ても、CDでの再発ものが半分(マデイッテナイカナ?)ぐらい。
この頃から。過去の遺産がぞくぞくとCD化されはじめたというとところでしょうか。

たまたま、この月だけがそうなのかもしれませんが、あるいは雑誌のカラーなのかもしれませんが、この月の「ミュージックマガジン」読み返した限りでは、なにか新しい方向への動きって感じられないですね。
むしろ、レコード会社はCD化による過去の遺産で食っていけるでも思ったのでしょうか、今の時代に起きている新しい事や面白いことが、マスコミの網の目からスルリと抜け落ちている、そんな感じもします。

さて、「ミュージック・マガジン」では、国内の歌謡曲にも目を向けていたようです。9月7日付けのオリコン・シングルチャートが載っていました。
1位は話題の光GENJIの「Star Light」で2位はおニャン子クラブの「ウェディングドレス」。
20年前って、そうだったのか・・・
「歌は世に連れ、世は歌に連れ」とは良く言ったものです。

広告の中に、WAVEを発見。
ネットで調べたら六本木のWAVEの開店は1983年。
ちなみに、タワーレコードは札幌店が1980年で渋谷店は1981年。
HMV渋谷はというと1990年だそうです。
大型店舗の進出。
1987年というと、丁度バブル景気のまっただ中だったんですね。






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ナラ・レポート / 津島佑子

2007-09-26 03:03:30 | 最近読んだ本
カテゴリーの「最近読んだ」が、既に時制の狂いを生じています。






この物語は、歴史が澱のように積み重なっている、象徴的としてのナラが舞台となっています。
行き詰まるような現実から逃げ出すために、鹿を殺した少年。シングルマザーとして少年を育てた母親は、既に亡くなっていて、ハトとなって少年の前に現れます。
この小説は、このハハとコが、時の中を登り下りしながら、象徴としてのナラを受け入れ/破壊する物語です。
そこにかいま見られるものは、破壊者と創造者としての母性と、ハハとコの愛。
ハハ、というのは、体内で生命を育み、生み出します。そのハハとコの繋がりというのは、チチには計り知れないモノがあると思われます。
が、その一方、誰でもが嘗ては/今でも誰かのコである以上、コとハハの関係というのは普遍的なものではないでしょうか。
コとハハの普遍的な愛は、男性社会の刹那的な時の区切りとしての歴史/時代の中を貫いて存続します。

そして、コとハハの普遍的な愛情は、大仏を破壊するという行為によって、男性社会/刹那的な権力の象徴としてのナラと対峙します。
ナラの完成を象徴する大仏開眼のその時に、その愛は、クライマックスに達し、よどみの無い現実の世界に子を生み出します。

ハハのコにして、コのハハでありえる、女性にしか生み出せない物語、ではないか、と思いました。

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ネットを検索していたら、津島佑子さんの紫式部文学賞受賞の言葉というのを発見しました。
http://www.city.uji.kyoto.jp/pics/photo/7051_1.pdf
ヤマトと関東、という関係は、思いもつきませんでした。

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本屋に行ったら、文庫が出ていたので、思い出しながら記事にしてみました。

古教会への誘い

2007-09-24 00:23:19 | 最近読んだ本


身内の宣伝です。
兄が、写真集出しました。
本業は歯医者なのですが・・・
この兄弟のカメラいじりは、父親譲りの趣味です。

多摩信用金庫の冊子に、多摩の教会の写真と文章を寄せていたのが切掛で、この写真集を作る事になったそうです。
ちなみに、多摩信の冊子に寄稿するようになった切掛は、きいていません。

このての本は、そんなに冊数印刷していないので、見かける事も少ないでしょぅが、どこかで見かけたら、手に取ってみてください。
歯医者らしく、手堅くも美しいく仕上げた(?)写真が満載です。

新書で入門 ジャズの歴史 / 相倉久人

2007-02-21 04:23:45 | 最近読んだ本
月曜は、大阪まで日帰りの出張でした。
東京駅の本屋で「新書で入門 ジャズの歴史」を買って、往復の新幹線の中で読みました。
タイトルにあるように、ジャズの発祥から現在までの流れを、ジャズマンのおかれた文化的/社会的な背景とともに俯瞰したジャズの入門書。いや、入門書というよりは、ジャズに詳しい方が読んでも楽しめると思います。
相倉さんが洗足学園で受け持ったジャズの講座を山下洋輔さんが聞いて、講義録を本にするように勧めたことが、この本のできたきっかけになったそうです。いろいろな理由(詳細は本書に詳しく書いてあるので、そちらを読んでください)で、書き下ろしの本書ができたとの事。ジャズを志す学生向けにジャズの大きな流れを紹介した内容なので、現在にいたるまでの時々のジャズ音楽を、時の流れを縦糸に、そして先に述べた文化的・社会的背景を横糸に紡いだ解説書となっています。

本書をまとめるにあたって、相倉さんの目指したものは、ジャズの新しい歴史的な視点を確立する事。名盤紹介のようなデジタル(離散)的な入門書ではなくて、連続(アナログ)した歴史のなかで捉えて、その流れの中で理解して欲しいというもの。網羅的なカタログでは無いので、紹介されているミュージシャンの数は限られていますが、それこそジャズの初期から、サッチモ、ベニー・グッドマン、チャーリー・パーカー、マイルス、コルトレーンから菊池成孔、さらにはラウンジ・リザーズなんていう名前まで登場してきます。

実はこの本を読み進めていて思い出したのが、中村桂子さんの「生命誌」という考え方。
「生命誌」という考え方に初めてであったのはいつのことだったでしょうか・・・。生化学の研究者として遺伝子の研究をされていた中村先生が、生命を捉えるために唱えたのが「生命誌」という考え方。実はまだ生命誌に関する著書は読んでいないのですが、つまり、遺伝子を理解するためには、ここの遺伝子だけを調べても理解はできない。生き物がたどってきた歴史の中で、他の生物との前後左右の関係の中で捉える必要があるのではないか、ということだと思います。

相倉さんがこの本の中で示したのも、この「生命誌」の方法論だと思います。ここでいきなり自分の事でおこがましいのですが、このブログで紹介する様々な音楽。一体、何をどのように紹介したら良いのかと悩んだ事がありました。それで思いついたのが、今の時代から旧作を見たときには、その前後が見渡せるじゃないか、ということ。そのアルバムがどこから来て、どこに行くのか。今という時から過去を振り返れば、「誌」という流れの中で捉える事ができるのではないか。とてもまだまだその域まで達していませんが、そうやって古い音楽に自分なり新しい見かたが一つでも発見できればうれしいなと思っています。

さて、実は新書って苦手です。
なぜなのかあのサイズ、さしてあの厚さ、なのにいつも途中で挫折しちゃいます。なんのせいなのかわからないのですが、途中で飽きちゃうんです。
それが、この本はのぞみ号で東京-大阪を往復する間に(しかも往きは途中まで同行者と話をしていたにもかかわらず)読む事ができました。iPodでマイルスの「アガルタ」「パンゲア」を聞きながら読んでいたのですが、両アルバムを聞き終わる前に、読み終わってしまいました。
あっという間に読めますが、内容としては濃いと思います。ジャズに少しでも興味のある方にお勧めです。

されにしても、ジャズの大きな流れ、コルトレーン後が混沌としているのがちょっと心配です。歴史的な視点で見ると、時代の近いところは見えにくいものではありますが・・・

JT生命誌研究館: 中村先生が館長をされています。




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夢十夜

2007-02-14 16:53:09 | 最近読んだ本
夢十夜が映画化されるという事で、改めて漱石の「夢十夜」を読んでみました。
以前読んだのは学生の頃だと思います。当時(も今同じですが)SFやファンタジーに入れ込んだ時期があって、その流れで読んでみました。一夜目の亡くなった恋人(?)を100年待つ話や、運慶が仁王像を彫っている話は覚えていましたが、まるっきり忘れていた話もありました。

実は、漱石はあまり読んでいません。「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」それと「夢十夜」ぐらいだと思います。
高校の国語の教科書には「こころ」の一節が載っていました。ちょうどその頃、生とか死とか、そいうい話題がとても苦手になった時期がありました。自分自身の中で「生きる」という力が弱かったんですかね。そんな時期に「こころ」を読まされたものですから、話の展開にびくびくしていました。それが漱石に対するトラウマになってしまったのかもしれません。それ以来漱石は、なんだか作品に「死」の影が感じられてしまい、なかなか読む気になりませんでした。

「夢十夜」なんとも不思議な短編です。
文庫本の解説(平岡敏夫)によると、この作品は漱石を含めた明治文学のターニングポイントとなった作品だそうです。
「夢」と題していますが、要するに漱石の作り上げたイメージの世界。短編が10作という短い作品ですが、自然を写し取る文学から、強烈な虚構の世界を描く文学への転換期の作品なのではないでしょうか。

第一夜
先にも述べた、なくなった恋人(?)を100年待つ話です。夜明けに、白百合の芽が伸びて花が開くシーンがとても鮮明なイメージとして記憶されていました。大好きな作品です。

第二夜
悟りを開こうとする侍の話。暗い夜と赤い色の対比が、緊張感を醸し出します。が、この話は全く覚えていませんでした。第一夜の女性的なイメージと、第二夜の男性的なイメージの対比も見事だと思います。

第三夜
100年前の殺人の罪を背負って歩く話。暗く、恐ろしい景色の描写は、怪談のようでもあります。殺した相手が子どもとして生まれ変わり、最後に石地蔵となって咎の償いを強いているのですが、石地蔵になったことによって許しが得られたような気がします。

第四夜
前夜の石地蔵が、正体不明の爺さんになって現れたような作品。爺さんは最後に川に入って行方しれずとなってしまいます。「深くなる、夜になる、真直になる」と歌いながら川に入る様は、「ハーメルンの笛吹き」を連想します。

第五夜
古の戦に敗れ、捕虜として捕まった自分に会いに、裸馬に乗ってやってくる恋人。夜明け前にたどり着ければ会う事ができるのですが、アマノジャクの悪戯により、傷心し谷底に落ちてしまいます。
馬に乗って走ってくる様子が、遠野物語の中の一話とイメージが重なります。それでいながら、どこかヨーロッパの昔話のようでもあります。ヨーロッパ留学による影響でしょうか。

第六夜
運慶が護国寺の山門で仁王像を彫るお話。時空を超えた不思議な構成は、完全にSFです。「ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った。それで運慶が今日(きょう)まで生きている理由もほぼ解った。」目の前にあるものをなぞるだけでは小説ではないという、漱石自身の小説観でしょうか。

第七夜
大洋を航海する船の上から、波間に身を投げた男の話。西洋風な船の中で、身の置き場の無い男は、ヨーロッパ留学時の漱石の分身でしょうか。

第八夜
床屋で髪を切りながら、鏡に映った外の世界を眺めている話。限られた視野に切り取られて現れる断片的な世界。そこに映し出されたものは、移り変わりゆく明治という社会か、漱石の頭の中に描き出される虚構の世界か。そういえば夢分析では髪を切る事は、無意識を整理する事とか。漱石の頭の中では、バラバラに現れる虚構のイメージを猛烈な勢いで整理していたのでしょうか。なにしろこの床屋、鏡が6枚もあり、理髪師は3-4人もいるのですから。

第九夜
戦に出たきり帰らない父親を待つ、若い母と幼い子。父親の無事を祈りお百度参りに向かう母親。夜の静けさが、心の不安をかき立てます。

第十夜
町内一の好男子の庄太郎が豚に襲われる話。水菓子屋の店先という日常から、豚の襲ってくる崖淵という非日常に一気に飛んでいきます。
底も見えないような深い影淵に庄太郎を追いつめる数万の豚の大群。庄太郎のステッキに打たれて、列を作って淵に落ちていく豚の描写。考えてみれば恐ろしい話なのですが、どことなくユーモラスな作品です。

漱石の写真を見ると、随分年を取っているように思います。が、実際は49歳で亡くなっています。38歳でホトトギスに「吾輩は猫である」を発表してから「明暗」まで、本当に短い時間に、素晴らしい作品を沢山残したものだと改めて驚きました。「夢十夜」は41歳の時に朝日新聞に連載されています。

青空文庫: 夢十夜




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水晶の扉の向こうへ(思潮社)

2007-01-17 02:17:25 | 最近読んだ本
「最近読んだ」本かというと、眺めただけ。昔読んだ本。カテゴリーに偽り在りですね。

奥付によると1989年7月31日刊。
写真にも写っていますが、作家やミュージシャンが、ロックの歌詞を訳してエッセイを一つ寄せている、それを集めた本です。
どんな人が誰を訳しているのかというと、
 村上龍/ドアーズ
 高橋源一郎/フランク・ザッパ
 山川健一/ロッド・スチュワート、U2、ポリス
 友部正人/トム・ウェイツ
 遠藤ミチロウ/P.I.L.
 遠藤賢司/ラモーンズ
 あがた森魚/エブリシング・バット・ザ・ガール
 忌野清志郎/エルビス・プレスリー、エディ・コクラン
 高橋佐代子/ニナ・ハーゲン、プリンス
といったところ。なんだか、それぞれ「あ、この人ならピッタリだね」という組み合わせになっています。高橋源一郎とフランクザッパなんて最高です。
ちなみに、忌野清志郎のは例の「タイマーズ」のあれです。

訳というより、もうみんな勝手に思い込みで自分の世界に置き換えています。
例えば、村上龍版の「水晶の船」冒頭を引用します。
 
 暗黒の、豊かなる海を見つけるまで
 俺は冷たいただの彫像に口吻し
 見せかけの祝福を受ける幼児にすぎなかった
 しかし、それらの日々は、輝きと聖なる痛みの予兆に充ちて、甘い雨が俺の肩を少しずつ濡らしていったのだ

誰も彼も、訳と言うより、お題をかりたオマージュになっています。
ああ、こういう方法もありなんだ、

この本「ロック・オリジナル訳詞1」というサブタイトルがついています。
ということで、「ロック・オリジナル訳詞集2」というのも存在していて、こちらのタイトルは「魔法の鏡の中へ」となっています。
「魔法の鏡の中へ」は伊藤比呂美など6人の詩人がオリジナル訳詞をしています。伊藤比呂美はキングクリムゾンの訳詞をしていました。
もちろん「魔法の鏡の中へ」も読んだのですが、なぜか本が手元にありません。どこかにしまい込んでしまったのか、見当たりません。ひょんなところから、出てきてくれればいいのですが・・・

それで、1と2があるので3も出るのかと期待していたのですが、どうもそんな様子もありませんでした。期待していたのに、これは残念でした。

webであちこち検索してみたのですが、どうも現在廃盤・・・じゃない絶版なんでしょうか、あまりみあたりません。あ、ジュンク堂に1冊残っていると書いてありました。
どこかでみかけたら、手に取ってみてください。



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憲法九条を世界遺産に / 太田光・中沢新一

2007-01-06 00:59:04 | 最近読んだ本



反芻するのに、時間のかかる本でした。

読む前に思ったこと。「世界遺産」じゃ、現在から置き去りにされちゃうじゃない、ということ。

内容的には、護憲でも改憲でもありません。
強いて言うなら、太田光の「私は、護憲派なのか、改憲派なのか?」という問いを整理する本。そして「派」に属するとはどういうこと? 属さないとはどういうこと? という本。
さらに、憲法九条が今書き換えられることによって、この国はどうなっていくの? ということを哲学的に検証してみようという本。

ビートたけししかり、島田紳助しかり、そして太田光も、目に付くもの全てをギャグにしてしまうというタイプの芸人だと思います。それは物すごい量の「知」に裏打ちされたものだとも思います。この本では、(あちこちで書かれているように)太田光の「知」があふれ出ています。そういう意味で、太田光もたけし・紳助系列の芸人なのだな、となんだか余計なことに感心してしまいました。

今の日本国憲法について、戦後のアメリカの理想主義が色濃く出たものだという話をしています。アメリカの理想主義と、日本国民の希望が共作した希代の憲法、それが現在の日本国憲法だと述べています。
そして、そもそも、そのアメリカの理想主義の原点となったのが、ネイティブアメリカンの思想。つまり、モンゴロイドの血(だか「知」だか書いていて良くわからなくなりました)を引くアメリカの理想主義が、極東の島国に、言うなれば、お里帰りしたものが日本国憲法である、と。これは、ちょっとばかり中沢マジックといった感があります。

日本国憲法、特に9条とはなんであるか。
どう考えても、不可能な理想主義である。しかし、その不可能な理想主義の役目とは何か? を考えたときに、たとえとして上げられたものが「丘の上の修道院」。
修道院というところ、普通の人間じゃちょっと考えられないほど、理想主義に基づいた修業の場である。普通の人間がうかうか近づけないし、実践もできないようなことをしている場である。
にもかかわらず、平凡な人間は、そこに修道院があるということを意識することにより、理想の姿を感じ取り、安心することができる。
憲法9条は、修道院と同じ。平凡な市民にとって「あるだけで何かを感じ取れる」そういう場である、と。これも、中沢マジックですね。
でも、この例え、ちょっと気に入りました。

そして、問題の世界遺産。
世界遺産というのは、単に「過去の遺産」として「保存」とおくだけのものではない。
それは、もし、誰も守らなくなってしまったら、人間が誤って壊してしまうかもしれないもの。過ちを犯しかねない人間に対する警鐘という意味を持つもの。
つまり、憲法9条があることによって、人間(日本人に限らず)は、先の大戦のから学んだことを、思い出すことができる。過ちを繰り返さないための要石としての存在。
そのためには、少しぐらい、理想像に偏っていても良いのではないかと思います。

そもそも憲法とは・・・国民が国の理想像を描くもの。
理想の国のあり方として、どうあって欲しいかを述べたもの。
太田光と中沢新一の対談の中でも、国を守るという現実の力と、非戦という理想の姿について話が及びます。
その結論は、本の中にあるのではなく、国民の一人ひとりが考えなくてはならないのではないでしょうか。

たとえば、日本がどこかの国に侵略されたとします。
日本人(凄く抽象的な表現ですが)としては、侵略される前の日本を取り戻そうとして戦うと思います。さて、そこで問題となるのが、では「取り戻したい日本」とはどのようなものであるのか。国としての独立を勝ち取り、日本国を再建したときに「我々の国家の理想像として、こういう国を建国したぞ!」と宣言するときに、憲法9条について、どのようにしたいと思うでしょうか。
「勝ったぞ!!」「侵略者を排除したぞ!!」と勇んで独立を宣言したとしたら「もっと強い国になるぞ!!」と謳うのではないかと思います。
ただ、そのときに、独立のために命を落した何百万人のこと。そしてそれを悲しむもっと多くの人々のことを考えると「この国を強くするのに、武力以外の方法を探そう」と思うのではないでしょうか。

先日、安倍総理が、年頭のインタビューで、戦後60年という区切りの年でもあるので、参院選のテーマを改憲としたい、というようなことを話していましたが、「区切りだから」とか、そういう軽い気持ちで改憲していいものなのでしょうか。
国家100年の計といいますが、100年後、この国がどうあって欲しいか。どういう立場で、国際間の地位を得ようとしているのか。そういう理想を持たなければ、どんなことをしても、日本の国際的な地位というものは保てないと思います。




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佐賀のがばいばあちゃん

2006-12-12 04:14:17 | 最近読んだ本

少しずつ、少しずつ読んでいたのですが、読み終わりました。
というか、とうとう終わったちゃいました。
ばあちゃんと別れるの、寂しいよ。

終電まで仕事して、電車が無くなるから仕方なく、という感じで帰って来ました。
さすがに疲れた、ということでiPodでキース・ジャレットの「The Melody at night with you」聞きながら。
終電間際にホームにたどり着いたのに、電車は運良く座れてしまいました。いやしかし、これが侮れない。先日はこのまま寝込んでしまい、終点まで。終電といっても、30分も歩けば家に着けるので、たいして困らないのですが。
それでも、寝らないように、と電車の中で「がばいばあちゃん」読み始めました。
BGMと全くあってないじゃん!!

それで、図らずも、読み終わってしまいました。
Macの横に置いといて、ブログ書く前にちょっとずつ読んでいたのに。
電車の中の時間というのは、Macが起動する時間とは、比べようも無いぐらい長い時間です。そこで、この本を読むと、あっという間にページが進んでしまいます。
ああ、もったいない。

それにしても、洋七さんのおばあちゃん、凄いものです。
うちにいたばあちゃんも、足掛け3世紀に渡って生きて、相当な貧乏と苦労して、子どもたち(父親とおじさんだ)を立派に育てた、それなりに凄いばあちゃんだったはず。
ああ、もっといろいろ話聞いとけば良かったなぁ。きっと話してくれなかったろうが・・・

それにしても凄いばあちゃんだ。
先祖代々の貧乏で、娘達も嫁いでいってしまって、一人暮らし。そうとう辛いこともあったことでしょう。
そこに幼い洋七さんが突然現れた。孫ですよ、孫。かわいくないはずが無いじゃないですか。きっと嬉しかったんだろうなぁ。

そして、とても気品のあるばあちゃんだ。
懐が寒いからって、心も冷えているわけじゃない。
筋を通した、凛とした誇り高い潔さ。
品とか格とか言う言葉があるならば、こういう人こそ品がある人。
こういう人が「美しい」人。

こんなばあちゃんは、昔のばあちゃんだけなのか?
今のばあちゃんはどうなんだ? そして、将来のばあちゃんは?
あれ、じいちゃんはどうなるんだ!!

思わず本に集中し、今度はそれで降りるのを忘れてしまいそうになりました。




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蟹塚縁起 / 梨木香歩

2006-11-21 01:16:29 | 最近読んだ本
梨木香歩の絵本シリーズ。
何冊か出ている中で、この本に惹かれました。
暗い絵と「あなたがその恨みを手放さぬ限り」というなぞめいた言葉。

梨木香歩というと「りかさん」「西の魔女が死んだ」「裏庭」という児童文学を思い浮かべます。でも、そのファンタジーの世界の裏には、こういう暗いドロドロした力が潜んでいて、そのパワーが表の世界をさらに引き立てているように思えます。

この「蟹塚縁起」の主人公「とうきち」は薮内七右衛門という武将の生まれ変わり。何百何千という殺生を繰り返して生きていた大将だったのでしょう。その薮内大将、死ぬ間際に戦場の大地に横たわり「土と親しんで生きたかった」と願ったため、貧しい農民の子「とうきち」として生まれ変わったもの。
「とうきち」自身は、前世のことなど知る由も無かったのですが、とある事件から、薮内某の無念をはらすため、かつての家臣が現れて敵の大将に襲いかかり・・・
「とうきち」の中に、かつて戦場で見た修羅場が思い出されます。
そのときに、これは土とともに生きた「とうきち」がそうさせたのか、家臣思いの薮内大将の声がそうさせたのか、「もう終わったのじゃ」。

恨みを晴らすのではなく、手放す。
力と力のぶつかり合の中で武将として生きた薮内七右衛門では、恨みを手放すなんていうことはできなかったことではないでしょうか。
土とともに生き、多くの命を育み、その命の恵みを頂く農民となった「とうきち」だからこそ、多くの家臣の恨み、そして「とうきち」となった薮内七右衛門の恨み、そして敵の大将の恨みまでをも解き放つことができたのではないでしょうか。

絵本なので、お話はそんなに長くはありません。
とてもとても短いお話だからこそ、そこに梨木香歩さんの思想が、ぎゅっと詰まっているようです。






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ブラッカムの爆撃機 / ロバート・ウェストール

2006-10-28 03:33:26 | 最近読んだ本



クリスマスの猫」からほぼ10ヶ月、2冊目のウェストールは「ブラッカムの爆撃機」
久しぶりのウェストールですが、我家では梨木香歩と並んで「出たら買う」作家です。とはいえ、この作家を知ったのはかなり最近、一昨年子どもが塾からもらってきた受験のための推薦図書。そこに「ゲド戦記」などと並んでウェストールの作品が何冊か載っていました。

ウェストールの作品は、戦争を扱ったものが沢山あります。第二次世界大戦を背景とした児童文学、それがウェストールのイメージです。本の装丁もなんとなく古くさい(?)感じがします。てっきり第二次大戦で従軍した年齢のかたかと思っていました。作品を読むと、それぐらい戦争の時代をリアルに感じることができます。
ところが、実際は1929年生まれ。10代で第二次世界大戦を体験しています。現代の作家だと知ったときは、びっくりしました。イメージと実際のギャップ。それだけ実直で力強い作風なのかもしれません。

「ブラッカムの爆撃機」は、宮崎駿のマンガによる作品紹介と解説が本文を挟んでいるます。一粒で2度おいしい作りになっています。さらにウェストールのパートナー(?)だったリンディ・マッキネルによって、彼の生い立ちが語られています。お買い得感いっぱいの一冊です。

全部で222ページ、前後に宮崎駿と解説があるので、本文だけだともっと薄い本です。本は薄いのですが、中身は厚みがあります。表題作はウィンピーというイギリス空軍の爆撃機でドイツまで夜間爆撃に出撃するクルーの通信士が主人公。常に死と隣り合わせという切迫感。ドイツ軍の戦闘機のパイロットの死によって、主人公にとって死はより現実感のあるものとして迫ってきます。

ウェストールは、戦争の悲惨さを描くわけでもありません。もちろん、ヒトラーと戦うイギリス軍を美化するわけでもありません。まるで、実際に経験したこと語るかのように丁寧に描いています。その丁寧な描写によって、読者も個性豊かな爆撃機のクルーとして、一緒に出撃しているかのような気分になります。
クルーと一緒に出撃し、ああ今日も生きて帰って来ることができた、と感じる瞬間。でも、自分の生きている代わりに亡くなっていった人がいます。生と死の取引。一歩間違えば、今度は自分が死のカードを引くことになります。気がついたら、戦争の中で生きるということを、主人公と一緒に考えていました。さすがにウェストール。派手なところはありませんが、骨太の児童文学です。




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