日々のあわ

毎日の生活の中で見つけたもの、考えたこと、感じたことなどなど、つれづれなるままに・・・。

アマデと銀の小箱

2007-12-19 | 観ました
2度目の『モーツアルト』観劇~。
おもしろかった。前回よりも楽しめた。
そして、よくできているなーと改めて思いました。
劇場にて友人Cちゃんと遭遇。さすが、ファンは通っているんだ。もう何回目なのだろう。

今回は、モーツアルトの影であるちびっ子「アマデ」の存在と「銀の小箱」の意味について考えることが課題だった。・・・っていうか、娯楽なのになんで課題設定してるんだろう・・・。
割とどんなお芝居をみても、ミュージカルをみても、気になることが生じて演出家に直撃したくなってしまう性格なのです。

幕間にCちゃんをつかまえて、聞いてみました。
「アマデも小箱もいろんなとらえ方がある・・・。」

小箱のふたが開けられるのは、最初のシーン(神童とみんながたたえるところ)と、モーツアルトが息絶えたあと。これにも意味があるんでしょう。
「小箱」はあふれ出る才能の象徴・・・っていうのは単純すぎると思うけど、モーツアルト自身なのかな。
途中でアマデから箱を取り上げて開けようとするとアマデが怒る・・・みたいなシーンがあったことから考えると、天才でありながら開放されない自分自身そのものとか?
そして、完全なものというか、完璧なもの。
だからアマデだけが持つことができるってことなのだと思いました。

今回のアマデ役・・・かわいかった。3人いるみたいだけど、みんな女の子。
一言も言葉は発しないけど、重要な役割で難しいはずなのに、とてもうまい。

アマデは白い羽ペンをもって作曲しているのですが(モーツアルトが歌っているそばでカリカリとペンを走らせている)、最後の曲『レクイエム』のときだけは高い位置からモーツアルトを見下ろしている。
レクイエムこそが自分の影から逃れて、初めて自分自身を解き放つことができたってことなのかなー。

「神童」と作り上げられてしまったけれど、モーツアルトは生身の人間。
そのせめぎあいがアマデとモーツアルトの間で繰り広げられているわけですね。
モーツアルトが歌う「子どものままの僕が僕のなかにいる・・・」「自分の影からのがれられない・・・」この二つが今回特に心に残りました。アマデと小箱のナゾはこの歌の中に・・・。

はあ~・・・観劇日記としては、なんか重い。そしてくどい。自分でも何を言っているのかわからなくなってきました。
でも、それだけ見ごたえのあるよい作品だってことです。

男爵夫人は涼風真世さんでした。透明感のあるきれいな歌声。美しかった。でも私は前回の香寿たつきさんのほうがいいかな。
あと、前回なんじゃこりゃ?と思った大司教役の山口祐一郎氏・・・実はものすごくすばらしい役作りをしているということがCちゃんのお陰でわかりました。

そうそう・・・客席にSPEEDの上原多香子ちゃんがいた・・・と思う。hiroの応援にきたのかな・・・?


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