13日(月)にNPO法人知的生産の技術研究会主催の北康利氏の講演会が赤坂の日本財団A会議室にて行われました。
「北さん+白洲次郎」の組み合わせでの講演は今まで何度も聴講しておりますので、今回はサラリーマンだった北さんがどうやって時間をやりくりして二足の草鞋生活をしていたのか?、また作家一本になった本当のところを初めて明かしてくださいましたので、そこに絞ってご報告したいと思います。
まず、彼のプロフィールを張っておきますね。
【昭和35年12月24日名古屋市生まれ、東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。資産証券化の専門家として大東証券証券営業部副部長、富士証券投資戦略部長、みずほ証券財務開発部長等を歴任。平成20年6月末でみずほ証券退職。本格的に作家活動に入る。】
実は昨年五月末T工大図書館に再就職が決まったことを北さんにお知らせすると、「実は僕も六月末で会社を辞めます」とさらりと書いてこられたので、すごく驚きました。筆一本の生活は危険じゃないかと、私は、「大学の客員教授でしたよね?それを充分活かしてください」と余計な心配をしてしまいました。(今となっては笑い話ですが・・・)
彼の最初の著作は『ABS投資入門』(シグマベイスキャピタル)。専門書です。これを書いたとき、社長に会社の宣伝になるからどんどん書いてくれと言われたそうです。さい先良い滑り出しでした。
その後、お父さんがスキルス性胃ガンで亡くなり、遺志を継ぐ形で兵庫県三田市の郷土史を始めます。で、この時北さんが思ったのは、「郷土の偉人を全国区にしよう。そうすれば自ずと世間の目が向いて三田の活性化に繋がる」ということでした。そこで書きだしたのが川本幸民であり、九鬼隆一でありました。でも、ここで問題が起こります。白洲次郎の原稿を神戸の新聞社に持っていったところ、ページ数が多すぎて出版できないと断られました。折角の意欲作です。お蔵入りは勿体ないと、学生時代の先輩の講談社編集者に相談します。その結果、かなり内容をそぎ落とした形ですが、本になりました。これが『白洲次郎―占領を背負った男』の誕生になりました。もし神戸の新聞社が採算を度外視して白洲次郎を出版していたら、北さんは多分全国区にはなれなかったでしょう!
人生はどう転ぶか分かりません。
ところで、当時北さんは千葉県に一戸建て住宅を持っておりそこから都心に出勤していました。小一時間立ちっぱなしで、彼は前夜書いた原稿に赤入れチェックをしていたそうです。行き帰りで合わせて二時間。結構使い勝手がある時間だったそうです。
ただ、そうしていると体力的にしんどくなります。仕方なく都内にマンションをかり家族でそこに引っ越して、そこから通勤しはじめました。で、仕事が進んだかというとそういうことではなかったようです。一五分では何も出来ないで終わったと。
ところで、そんな中勤め先の富士銀行がみずほに統合されます。元富士(それぞれ会社はカルチャーを持っているわけで…)の人間として組織の中でどう生きていこうか、また、リストラする側に立ってしまい、辛い思いもなさったようです。みずほ証券財務開発部長の最後の頃、会社がたまたま証券のトラブルで大赤字を出してしまい、全社的に早期退職者を募りました。それ以前に部下達を外部に送り出す(ある意味リストラ)ことをして北氏は、この際だから会社を辞めようという思いに至ったそうでした。これが昨年六月。
ここからは私の思いですが、北さんの退職後わずか3ヶ月でリーマンショックが起こります。
今までの北さんの人生の流れを見ていますと、一見マイナスに見えることが結果的には人生の好転機になっています。この勘の良さを是非学びたいものと思いました。
「北さん+白洲次郎」の組み合わせでの講演は今まで何度も聴講しておりますので、今回はサラリーマンだった北さんがどうやって時間をやりくりして二足の草鞋生活をしていたのか?、また作家一本になった本当のところを初めて明かしてくださいましたので、そこに絞ってご報告したいと思います。
まず、彼のプロフィールを張っておきますね。
【昭和35年12月24日名古屋市生まれ、東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。資産証券化の専門家として大東証券証券営業部副部長、富士証券投資戦略部長、みずほ証券財務開発部長等を歴任。平成20年6月末でみずほ証券退職。本格的に作家活動に入る。】
実は昨年五月末T工大図書館に再就職が決まったことを北さんにお知らせすると、「実は僕も六月末で会社を辞めます」とさらりと書いてこられたので、すごく驚きました。筆一本の生活は危険じゃないかと、私は、「大学の客員教授でしたよね?それを充分活かしてください」と余計な心配をしてしまいました。(今となっては笑い話ですが・・・)
彼の最初の著作は『ABS投資入門』(シグマベイスキャピタル)。専門書です。これを書いたとき、社長に会社の宣伝になるからどんどん書いてくれと言われたそうです。さい先良い滑り出しでした。
その後、お父さんがスキルス性胃ガンで亡くなり、遺志を継ぐ形で兵庫県三田市の郷土史を始めます。で、この時北さんが思ったのは、「郷土の偉人を全国区にしよう。そうすれば自ずと世間の目が向いて三田の活性化に繋がる」ということでした。そこで書きだしたのが川本幸民であり、九鬼隆一でありました。でも、ここで問題が起こります。白洲次郎の原稿を神戸の新聞社に持っていったところ、ページ数が多すぎて出版できないと断られました。折角の意欲作です。お蔵入りは勿体ないと、学生時代の先輩の講談社編集者に相談します。その結果、かなり内容をそぎ落とした形ですが、本になりました。これが『白洲次郎―占領を背負った男』の誕生になりました。もし神戸の新聞社が採算を度外視して白洲次郎を出版していたら、北さんは多分全国区にはなれなかったでしょう!
人生はどう転ぶか分かりません。
ところで、当時北さんは千葉県に一戸建て住宅を持っておりそこから都心に出勤していました。小一時間立ちっぱなしで、彼は前夜書いた原稿に赤入れチェックをしていたそうです。行き帰りで合わせて二時間。結構使い勝手がある時間だったそうです。
ただ、そうしていると体力的にしんどくなります。仕方なく都内にマンションをかり家族でそこに引っ越して、そこから通勤しはじめました。で、仕事が進んだかというとそういうことではなかったようです。一五分では何も出来ないで終わったと。
ところで、そんな中勤め先の富士銀行がみずほに統合されます。元富士(それぞれ会社はカルチャーを持っているわけで…)の人間として組織の中でどう生きていこうか、また、リストラする側に立ってしまい、辛い思いもなさったようです。みずほ証券財務開発部長の最後の頃、会社がたまたま証券のトラブルで大赤字を出してしまい、全社的に早期退職者を募りました。それ以前に部下達を外部に送り出す(ある意味リストラ)ことをして北氏は、この際だから会社を辞めようという思いに至ったそうでした。これが昨年六月。
ここからは私の思いですが、北さんの退職後わずか3ヶ月でリーマンショックが起こります。
今までの北さんの人生の流れを見ていますと、一見マイナスに見えることが結果的には人生の好転機になっています。この勘の良さを是非学びたいものと思いました。