marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その29)大河ドラマ「徳川家康の宗教心(取り巻きの黒子達へ配慮)」

2023-01-25 17:59:56 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ※写真は僕の家の裏山にある(国幣)古四王大社の脇に鎮座している坂上田村麻呂を祭る社である。古来、ここまで来たというはっきりした記録はないようなのだが、東北地方には彼を祭る社が多数ある。様々な役目について長く東北に掛かった征夷大将軍として朝廷側から東北平定に派遣されたものの、彼の悪評が殆ど東北の地には聞かれない上に彼を祭る社が東北には多数ある。

何を強調して著すかによって日本史の理解は変わるだろうと思うが、今やインターネットなどによるグローバル化によって、古来多くの優秀な渡来人が帰化して、この山や川の美しい日本の国の土台を形成してきていた、そして多少のいざこざもあり分裂、争いもあったなどと教えられても、それはけしからんなどという人々は今はいないだろうと思う。いつの時代も第一の混乱防止は、今の判断で古代の価値基準を評価などしてはいけないということである。

天皇制が神話によって作られたなどと言ったら、ひと昔は国賊扱いだったが、その制度は不要などという人はいないだろう。内心思っている人はいるかもしれないが、明治期のように政治に利用するなということは今でも言えるが、学者さんでも左右に偏っていなくても、その制度は要らないのではないですか、などと言うとまずは一線から外される。まして、古代、天皇の家系もお隣の国から来ていた人々でなどというところまで行きすぎるとかなり問題が起こってくるだろう。

何を言いたいのか。これまで帰化人とか渡来人とか書いて来たが、この国の今までの歴史では少なくとも東京オリンピック以前と言ったら分かりやすいか、それ以前に生まれた人には決して、この国の古代に多くの大陸からの人々がこの国に来ていて、その形成期には朝廷制度が幅を占めていたから、その権威に貢献したのだなどといことは、本当のことであっても教えてもらえない。

実は坂上田村麻呂の坂上氏は後漢の霊帝(献帝という説もあり)の三代目阿知使主(応仁天皇のころの帰化族)の九代目の苅田麻呂の三男が田村麻呂であるということだ。古来、多くの優秀な?人々がこの国にやってきて、この国の統一にひたすら貢献した訳である。まぁ。そのようなことを言えば、誰でもはそれらのDNAに繋がっているようで、地名や名字などの謂れを調べると歴史的に何がしか彼らの貢献に繋がっているようにも思えてくるのだが。

先のブログの終わりに少し不思議なことを書いたと思う。家康の出生の地の松平郷というところに先に述べた徳川の姓の起源となった、徳阿弥の2mほどの大きな像が建てられている。そのお方の顔はどう見てもテルマエ・ロマエのローマ人なのである。像が作られた当時の流行りとしてローマ人の外形を模したものだと言われるが、実のところそれだけではない。これは今までブログで述べて来たことに関わるのだが、TVなどでは決して黒子の実情は明かされない。

これが時勢により西にあるあの地から代々大陸からDNAを引き連れてきていた渡来人。つまり、今まで書いて来た東を目指した黒子XたちのDNAを持つ人々であった訳だ。その深層にあるものは歴史の表舞台には決して現れない。・・・しかし、家康の時代に『時は来た!』と背後で今まで暗躍していた黒子Xらは結集したのである。家康はそれらを知っていたのだねぇ、実は。とにかく彼は読書家でもあった。3000冊以上のも書物を残していたと言われる。健康にも気を付けていたし、自分を知って今までの歴史と経験から多くを学んでいたのだった。その中に古来からの聖徳太子が未来予言して書いていたと言われる書物があった訳だ。

平安から平安、鎌倉、室町、安土、江戸・・・飛鳥、奈良から平安にかけて機内から京の都に作られてしまった王朝から、いままで神に等しいその権威に従属して、東北を平定するために使われていた東国武士が、もともとはその古来からの国つくりの統一に出自のご先祖伝来の王を建て国を建てるという思考パターンから上に従ってきたものの、島国にわたり来て、その役目も終わりつつ、東国に天皇があってもおかしくはあるまいと平将門が出てきたりしたのだが、いずれ、平定にむかい、そろそろ自覚せねばなるまいと関東武士の成立が起こってきて、鎌倉時代から織田信長、豊臣秀吉、そして長期政権の徳川家康の時代にその理想の国の実現に実を結んでいく訳なのであった。

つまり、シナリオライターとその黒子達は、脈々と歴史を動かす起動力として動き続けてきた訳なのである。歴史舞台の主人公らは、表舞台には決して出て来ない取り巻きの演出家によって、作り出された時勢のブームに乗じて、政権を大いにさせるようになったという訳である。そうして今での黒子集団は時代をへて、家康の取り巻きとして背後で結集していくのであった。ひとりの為政者が思い通りに政治を動かそうとして各地の情報を得て、実際に民を啓蒙していくサポーター役に大いに活躍した。

彼らは時代の主人公には常識を超えた突飛な思考をする人物を選ぶ。当初朝廷側にあったシナリオライターの黒子らは、時代を経て新しい時代にうまく動いてくれるようにとヒーローを人選し加担する。大陸時代から部族長に時代の戦略を唱える時代の祭司たち(古来彼らは神の声を為政者と民に伝える神人<じにん>達であった)。実は社には位も与えられ、食いぶちも与えられていたが、歴史には主人公として殆ど現れない彼らの動き、神からの宣託がその部族の為政者の動きを左右していたのである。だから、どの武将も必ずと言っていい守り神、ご神体を祭っていたのである。そこで、朝廷から離れ仏の教えとして自らの言葉で、仏教哲学をもって自立した鎌倉仏教が生まれてくる。長篠の戦いだったかなぁ。あの絵巻にはダビデの星(六芒星)を掲げて戦っている武将一団があったねぇ。

時代をさかのぼり、『徐福』という人の名前を知っている方は多いだろうが、つまりは、この国の形成に多くの優秀なDNAを持った東を目指した渡来人、帰化人がこの国に同期して来たのである。ちなみに以前から書いて来た秦氏であるが、彼らは時代を経て、秦という名字の方もおられるが、波多野や羽田や畑、畠山など比較的多くみられる今の名字に分かれたと言われる。結構、御優秀な方が多いように思うけれど。さらに、・・・

太秦(うずまさ)という秦氏が天皇に絹の秦織物をうず高く献上したと言われ名付けられた地名。映画村でもあったなぁ。まさに大秦(太いではないけれど)とは、ローマのことズバリだな。世界史で習う『自省録』を書いたマルクス・アウレリウス・アントニウスは中国では、大秦王アントンと呼ばれていたことからも、大秦とはローマのことなのだねぇ。ローマは反映した時代、すべての道はローマに続くと言われた言葉が残っているように遠く東の大陸の道々もローマまで続いていたという意識があったものだ。シルクロードは記憶する民の道でもあった訳だ。

そして、正倉院にもペルシャのガラスの受け皿などがあるのだから、とおくあの地から東を目指してこの国の天皇に献上品を持参した多くの訪問者がいたのだな。八部衆の像がある(阿修羅が有名)興福寺などは、あの藤原不比等?が創建開始したのだが、八部衆には当時の渡来人であるソグド人を模した像や顔が鳥であるカルラ像(ガルーダ:インドネシアの悪い蛇を喰うと言われる航空会社のマークにもなったいる神)、顔が怖くない少年のような顔が見られるが、聖武天皇の后の光明皇后のお子さんが早逝されたのでその顔を模したものだと言われているそうな。道理で人気があるように怖くないなぁ。

古代順次この国に天地創造来からの記憶の民を産んだあの国を起源とした多く渡来し、帰化した人々がこの国に来ていて、未来を予見する天才的預言者を兼ねた人々がこの国にのストーリーを事実予見してその通りに実現化しようとしていた時代は、言葉化、文字化が地方でも起こっても、更にこの広い目で見たこの島国単位のスケールで国の統一を天皇を頂点に統一を図らねばならないと考えた政治的天才たちがいたからなのであった。(この預言者、神の言葉を取り次ぐ者たち・・・これをずーと追い求めて来たわけなのだが)

繰り返せば、それは時代的な隣国での動き、それは時勢と呼ばれるものであっただろうが、古代先代の大国主を神有月など、神無月などを儲けて丁重にどいてもらって(彼の出雲にある大きな社は、神々を迎えるために西を向いている)とんがりすぎた蘇我氏を荒療治で征伐して(大化の改心)、これまた、天皇をよいしょしてその背後で藤原一族の栄華を満喫させて、関東などの先陣部族らに朝廷の派遣者としてその権威の帰属意識を持たせて、東北地方の豪族の平定をするよう仕組みを作ってきた。それは大陸での彼らが先祖が学んだものであったし、まずは法律で律し、権威に準ずるよう平定し、権威と畏怖(これに大いに宗教を利用した)で大衆をまとめていくという彼らの先祖が地上の人を制定していくためのシステムであった。つまり天において歴史を動かされているのは人をも作られた神であり、その学びとして選ばれし民であったからとその経験を活かし。

朝廷側の思惑が壊れていく鎌倉時代。宗教を自らの言葉で思考する時代、鎌倉仏教徒という古来の日本の宗教の仏教として定着することになった。黒子らに選ばれた織田信長や豊臣秀吉に代わり、徳川家康の時代となるのだが、彼ほど書物を読んだ武将はいなかったのではないだろうか。先に書いたが日本の歴史で鎖国政策をとっていたが国外の書物も大いに読んでいたのである。儒教を取り込んで実際に政治も行ったし、天皇由来の神道も仏教も丁重に選んで、人民とこの国の平定を統一しようとして心がけていたのである。

それは、彼ら自身は、天皇が三種の神器を守り、神をまつり礼拝するために大社守り、再建するなり、また、大衆平定に先祖代々、仏教をも採用し菩提寺をもっていたりしたということは、彼の心底に流れていた、彼を支えてきた(今までの歴史を支えてきた)重臣たちの黒子の思いは、煎じ詰めれば、あの国、つまりイスラエルの失われた10部族らの信じていたこの天地を創造した神に繋がっていたはずではなかったのか。

浜松町の駅から東京タワー方面に歩くと海ぬ向かって防波堤のように伸びている芝公演の『増上寺』は法然の浄土宗である。今まで書いてきたブログに法然は浄土宗(これは中国で善導が唱え始めたと言われる)で、その弟子、親鸞は浄土真宗であって、これはキリスト教に近い考えであったと述べた。法然の両親はあの大陸でキリスト教に改宗した古代渡来したあの秦一族の血筋である。親鸞は漢文でマタイ伝を読んでいたというのは確からしいから、その宗教内容は非常に本来のキリスト教に近いものだった。

阿弥陀如来という方は、方便(手段)であって本願(信仰)が第一に大切なことで、生あるものは何にも差別なくひたすら念仏を唱えれば浄土に迎えられるのだ、という教えを説く。(「主の名を呼ぶものは皆、救われる」とは聖書に書かれている言葉である。)これから言えば、西方浄土とはエルサレム(西から伝えられたから)であろうか。遠藤周作とフランスに渡ったカトリックの井上洋治神父は、何とかしてこの国にキリストを伝えたいと願って追い求めたのが、法然だった。神によって創造された人の神の基に帰還する「信仰」とはそもそも何なのか、を追及していたのである。命あるもののそこには、すでに人が言葉で考える宗教と言うジャンルはないのである。

西から来て通奏低音のように流れて国の統一を目指していた黒子達のDNAが結集し背後で大いに支えられた家康の、キリスト教に対する思いはどういうものであったのだろうか。日本の国の僕らが、本当に人の言葉を超えた今も生きている歴史を動かす神を自らのものとしようとした時、この国の歴史の国の中でキリスト教を伝えんとした宣教師を拒みキリスト教の棄教を迫った真の事実を知らなければならないと思う。・・・続く



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