記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

2007年新春抱負と最新寄稿

2007年01月03日 18時51分32秒 | まちづくり
あっという間に2007年を迎えた。
仕事柄、毎日山のような体験や出会いがある。
その一端でも記そうかと始めたブログであるが、日々の仕事の
中で思うように書き進めることができないのが残念だ。
今年こそは日々に余裕をもって従来通り朝5時起床(今は6時
起床)でゆとりの日々を過ごそう!

2006年は色々あった。年末に40歳になった昨年は、春に腰を
痛め、続けて左脚筋、右手甲と夏までに次々に身体に変調を来
し、治療を続けつつの仕事で思うような活動ができず終いであ
った。今年は本厄だし、早速厄払いに行くつもりだ。

年末、寄稿した日本地図センターの月刊誌「地図中心」1月号
が届いた。昨年は計6回、予定通り2ヶ月に1回ペースで寄稿
した事になるが、そのテーマは「地域活性化」と「昭和の地図」
の2点が主なものである。最新の寄稿文は「地図が教えてくれ
た商店街再生・豊後高田昭和の町」。テーマとしては前者に属
するものだが、題材として提案してから2年。ようやく陽の目
をみた文章だったりする。

豊後高田市「昭和の町」はここ数年、昭和30年代をテーマに
した商店街興しで「犬か猫しか歩いていない」状態だったもの
が年間30万人にものぼる観光客で息を吹き返し注目されてい
る町である。私は偶然、この豊後高田市に関わりが多く、立ち
上がる前から度々現地を訪れていた。

私の生まれた宇佐市はこの隣町であり、祖父は昭和30年代に
豊後高田郵便局の役職(局長待遇)だったそうだ。電電公社に
入社した当時の叔父も最初の赴任地が豊後高田局だったそうで
昨秋、叔父と同地を訪れた際に懐かしそうに語ってくれた。

昭和の町が再生する前からどうして注目していたかと言えば、
前述の背景がある上に、70sアンティーク人形収集が趣味の妻
が足げく通った太宰府天満宮参道沿いにあった「駄菓子の資料
館」の小宮氏が、豊後高田からの誘いに迷っているとの話を妻
伝いにいつも聞いていて、興味を持った事が発端だった。

偶然?妻の父母とも豊後高田の出身。私自身はずっと弓道をや
っていて、豊後高田にある若宮八幡の秋祭り弓道大会は毎年の
ように参加していた事もあって、親しみもあったのだ。弓道大
会ではこの地で何度か入賞した事もあり、賞品にもらった蒲鉾
の味が忘れられなかった事もこの地へ久しぶりに行きたいと思
った理由である。

昭和の町の仕掛け人、金谷氏に以前聞いていた「昭和の町」を
実行する際にゼンリンの昭和35年の住宅地図(当時は住宅案
内図)が偶然発見されて弾みがついたという話も、ずっと記事
にしたいと思っていた理由のひとつ。今回はそれ以前の、昭和
の町プロジェクトに至るまでの取り組みを詳しく聞いて、地図
を視点に記事に仕上げた次第である。

(財)日本地図センター「地図中心」
2007年1月号(通巻412号)掲載 1月10日発売
http://www.jmc.or.jp/book/mapcenter/index.html
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