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Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

上野千鶴子氏×爆笑問題

2011-06-17 22:09:43 | 豆大福/トロウ日記
ちょっと前の話だが、NHK「爆問学問」でゲストが上野千鶴子氏の回を観た。メイド服でのご登場、意外と似合っていた。

私はフェミニズムに明るくないし、ましてや社会学者でもない。神学の一分野としてフェミニズム神学と呼ばれる領域がある。これも私の専門とするところではないので、あまり偉そうなことは語れない。

神学校時代、結構交流を持っていたK教授がこの分野を専門にしていた。そのK教授のお家にお呼ばれの際には夕飯をみんなで持ち寄ったり、そこの暖炉の前で映画をみたり。一緒に(といっても学生と教師の混合集団でだが)エルサルバドルへも行った。しかし、いったん神学の話になると、どうしても彼女とはそりが合わない。いや、ある言葉が彼女から発せられてからは、彼女と神学の話をすることがすっかり嫌になってしまった。その言葉とは、まだ教授と知り合って間もない頃、私が学部時代にどのような神学を勉強してきたかを説明していたときの、K教授のリアクションだ。

「あなたの語る神学は、まったく西欧的男性的な視点で塗り固められているわね」(と、話にならないわという風な様子。)
フェミニズム神学が専攻とはいっても、彼女は組織神学専攻であるとも公言している。そのような人物から、こんなリアクションが返ってくるとは思わなかった。このように取りつく島なく言われてしまったら開き直るしかない。ああそうです、そのとおりです、と。それはまるで、こちらはサッカーの話をしているのに、「あなたの話には野球の視点が欠けている」と批判されたようなものだ。たとえサッカーと野球の違いはあっても、フィールド上のアスリートという点で共通することも多いのだから、両者間で深い話はできるはずなのに。

この体験で、そちら系の研究者たちとの実際上の交流、ということになると、意識的無意識的に避けるようになってしまった。しかし私が出会った机上のフェミニズム神学に対しては、知る必要性も手伝って即座に嫌悪するということはない。むしろその逆で、とくに聖書学分野でのフェミニズム神学の貢献は大きいと思っている。

神学の話はさておき、上野氏やフェミニズムの話に戻ろう。専門外の私からみると、社会学の研究対象って比較的マクロなのではないかと思っていたが、上野氏の話を聞いているとそれは間違いで、実は狭い範囲の現象が研究対象になるのか、と思われた。つまり、フェミニズムが問題にする抑圧―被抑圧の関係も、その関係性に実際が当てはまらない場合や現象にはあまり問題にならなくなってしまうものだな、と。逆に、抑圧―被抑圧関係の構造にどっぷりはまらざるを得ないような状況にある人(女性)たち、この人たちにとっては、それはなくてはならない救済の理論となり得る。

しかしその構造の外に生きる人々にとって、抑圧―被抑圧の問題の克服は、あまり必要のない理論とさえいえる。そのあたりのズレを、爆笑問題の太田さんは指摘していたのだと思う。あるいは、「非モテ」を自虐的に語った田中さんにとってもそれは同じで、彼の場合は、非モテという被抑圧者の現実に抵抗せず、それをそのまま受け入れる視点、とでもいうべきか。

思うに、自分自身が抑圧―被抑圧構造の外にある場合でも、その内側にある人々への共感の視点は失ってはならない。現実は、闘わなくてはならないこともいっぱいある。自分が被抑圧の当事者である場合にはもちろん、他者がそのような状況に置かれたときにも、そういう立場に置かれた者たちへの共感は必要だ。一方で、抑圧―被抑圧という構造的自体が、新たな抑圧を生み出す危険を忘れてはならない。この点ここが、フェミニズムはじめ抑圧者被抑圧者克服理論の、最大の落とし穴になりがちだ。

ところで田中さん、本当に非モテなの?離婚報道のときなんかの田中さん、おお、かっこいいぜ、とさえ思ったけど。それに、女性は皆、結局ジャニーズが好き、と言われてもね。「ジャニーズが好きでない私のようなオンナは(嫌いでもないけど。空気みたいなもん)、田中さんからすれば女性とみなされないのか」と、ちょっとへこんだり。一方、「オレは巨根だ」と言い上野氏を挑発する太田さん、メンドクサイです。結局太田さんは、「そういうメンドクサイところがかわいいのよね」と言ってもらえるような大人の女性にかわいがられたい甘えん坊さんなのかな?

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