ブライアン・マスターズ著『死体と暮らすひとりの部屋』は、連続殺人犯デニス・ニルセン自身がしたためた膨大な一次資料に、著者の取材、分析を加え、ゴールド・ダガー賞を受賞したノンフィクションである。
模範的な軍隊生活、正義感と責任感あふれる警察官、公務員としての職業生活を送ってきた男。殺されかけた被害者でさえ、「彼は本当に親切だった」という男。そんなデニス・ニルセンがどういうわけで約5年に渡り15人もの男性を殺害し、死体との同居生活を送るようになったのか?
ニルセンの半生を支配したトラウマとしての愛する祖父の死。渾然一体となった愛と死の概念。愛を獲得し続けるための死の空想。欲望の対象が死体であるという歪められた自己愛が膨れ上り現実生活を侵食していく過程が綴られていく。
犠牲者たちは、家族や故郷には縁がない孤独な青年ばかりだった。全国紙で行方不明を報じられたのはただ一人だった。ニルセンは犠牲者の遺体を洗い清め服を着せ、一緒に音楽を聴いたりテレビを観たりした。ベッドに入り遺体を抱きしめた。そして囁きかけた。
「だいじょうぶ、何も心配はいらないから、ゆっくりおやすみ」
犠牲者たちにとっては甚だ迷惑な話であるが、ニルセンは彼らを他人とは思えなかったようなのだ。そこには快楽殺人者に顕著なサディズムはおろか性交欲求すら見られない。彼はしばしば自分と犠牲者たちを同じ立場において語っている。自分と同じように彼らもまた孤独な生より穏やかな死を望んでいたのだと。犠牲者の一人、スティーブン・シンクレアについてはこう述べている。
「ただもう、彼の行く末を案じ、彼の人生の苦境に同情していたんです。(中略)彼が永久に、こうして心安らかなままでいられますように、と願いました。」
相手に良かれと思ってやった、相手もそれを望んでいたに違いないという感情の前に、相手に危害を加えたという事実が消し飛んでいるのである。
また、死体の処分方法に対する世間の非難も彼にとっては理解できないことだった。彼は死体の解体には何のときめきも感じなかったし、亡骸を冒涜したという意識もなかったのだ。彼は死体の腐敗や死体の切断は嫌でたまらなかったと述べている。殺人そのものは許し難い行為であることは認めるが、死体を処分したのは人を殺した成り行きでせざるを得なかったというのが彼の持論である。
私には、犯行に至るまでのニルセンの人生が特別に不幸であったとは思われない。彼は安定した職に就き、少数ながらも誠実な友人を得ていた。容姿が劣っている訳でもなかった。ただ、彼はすべてにおいて過剰なのだ。残業や休日出勤を厭わない働きぶり、組合活動へののめり込み具合、親切すぎるほどに世話好きな面、生活のすべてにおいて手を抜くことが出来ないのである。そして思うような評価が得られないと深く傷つく。彼の恋愛は大抵相手に逃げられて終わるのだけど、さして親しくもない相手に対してさえ全力で親切にしてしまう彼のこと、恋人に対しては息苦しいまでの愛情の押し付けがあったことは想像に難くない。彼は次第に鏡の儀式と呼ばれる独特の空想世界にのめりこんでいくのだが、その過程も最初の頃は「姿見をベッドの傍らに横に置き、自分が寝そべっている姿を眺めて」いただけだったのが、次第に「自分の顔におしろいを塗って、生きている人間の肌のつやを消す。目の下に木炭で隅を作り、暗くうつろな表情を強調する。(中略)わたしは自分の死体に恋しているにちがいなかった。」という単なるナルシストでは済まないレベルにまで発展し、終いにはタルカム・パウダーを自分の体に塗って、犠牲者の死体に寄り添い「彼はなんて美しいんだろう、自分もなんて美しいんだろう」と感嘆する始末なのである。
フロムによれば、死体愛とは自己愛が極端に押し進められたものなのだそうだ。それならば、ニルセンの犯行は愛の本能が想像を絶するほど道を踏み外したことから生じたものなのであろうか?彼は祖父を愛していた。祖父が死んでしまい、祖父の死を擬することによって、ついには他人の死によってしか、愛を感じられなくなってしまったということなのだろうか?本書はきわめて興味深い力作なのであるが、最後まで読んでも、人はいかにすればデニス・ニルセンにならずに済むのかは解らず仕舞いであった。
有名なシリアルキラーであるテッド・バンディはこう述べている。「世間の連中は凶悪犯や悪人を見分けられると信じたがっているが、決まったタイプなどありはしない。」と。
この言葉の前には絶望するばかりである。
模範的な軍隊生活、正義感と責任感あふれる警察官、公務員としての職業生活を送ってきた男。殺されかけた被害者でさえ、「彼は本当に親切だった」という男。そんなデニス・ニルセンがどういうわけで約5年に渡り15人もの男性を殺害し、死体との同居生活を送るようになったのか?
ニルセンの半生を支配したトラウマとしての愛する祖父の死。渾然一体となった愛と死の概念。愛を獲得し続けるための死の空想。欲望の対象が死体であるという歪められた自己愛が膨れ上り現実生活を侵食していく過程が綴られていく。
犠牲者たちは、家族や故郷には縁がない孤独な青年ばかりだった。全国紙で行方不明を報じられたのはただ一人だった。ニルセンは犠牲者の遺体を洗い清め服を着せ、一緒に音楽を聴いたりテレビを観たりした。ベッドに入り遺体を抱きしめた。そして囁きかけた。
「だいじょうぶ、何も心配はいらないから、ゆっくりおやすみ」
犠牲者たちにとっては甚だ迷惑な話であるが、ニルセンは彼らを他人とは思えなかったようなのだ。そこには快楽殺人者に顕著なサディズムはおろか性交欲求すら見られない。彼はしばしば自分と犠牲者たちを同じ立場において語っている。自分と同じように彼らもまた孤独な生より穏やかな死を望んでいたのだと。犠牲者の一人、スティーブン・シンクレアについてはこう述べている。
「ただもう、彼の行く末を案じ、彼の人生の苦境に同情していたんです。(中略)彼が永久に、こうして心安らかなままでいられますように、と願いました。」
相手に良かれと思ってやった、相手もそれを望んでいたに違いないという感情の前に、相手に危害を加えたという事実が消し飛んでいるのである。
また、死体の処分方法に対する世間の非難も彼にとっては理解できないことだった。彼は死体の解体には何のときめきも感じなかったし、亡骸を冒涜したという意識もなかったのだ。彼は死体の腐敗や死体の切断は嫌でたまらなかったと述べている。殺人そのものは許し難い行為であることは認めるが、死体を処分したのは人を殺した成り行きでせざるを得なかったというのが彼の持論である。
私には、犯行に至るまでのニルセンの人生が特別に不幸であったとは思われない。彼は安定した職に就き、少数ながらも誠実な友人を得ていた。容姿が劣っている訳でもなかった。ただ、彼はすべてにおいて過剰なのだ。残業や休日出勤を厭わない働きぶり、組合活動へののめり込み具合、親切すぎるほどに世話好きな面、生活のすべてにおいて手を抜くことが出来ないのである。そして思うような評価が得られないと深く傷つく。彼の恋愛は大抵相手に逃げられて終わるのだけど、さして親しくもない相手に対してさえ全力で親切にしてしまう彼のこと、恋人に対しては息苦しいまでの愛情の押し付けがあったことは想像に難くない。彼は次第に鏡の儀式と呼ばれる独特の空想世界にのめりこんでいくのだが、その過程も最初の頃は「姿見をベッドの傍らに横に置き、自分が寝そべっている姿を眺めて」いただけだったのが、次第に「自分の顔におしろいを塗って、生きている人間の肌のつやを消す。目の下に木炭で隅を作り、暗くうつろな表情を強調する。(中略)わたしは自分の死体に恋しているにちがいなかった。」という単なるナルシストでは済まないレベルにまで発展し、終いにはタルカム・パウダーを自分の体に塗って、犠牲者の死体に寄り添い「彼はなんて美しいんだろう、自分もなんて美しいんだろう」と感嘆する始末なのである。
フロムによれば、死体愛とは自己愛が極端に押し進められたものなのだそうだ。それならば、ニルセンの犯行は愛の本能が想像を絶するほど道を踏み外したことから生じたものなのであろうか?彼は祖父を愛していた。祖父が死んでしまい、祖父の死を擬することによって、ついには他人の死によってしか、愛を感じられなくなってしまったということなのだろうか?本書はきわめて興味深い力作なのであるが、最後まで読んでも、人はいかにすればデニス・ニルセンにならずに済むのかは解らず仕舞いであった。
有名なシリアルキラーであるテッド・バンディはこう述べている。「世間の連中は凶悪犯や悪人を見分けられると信じたがっているが、決まったタイプなどありはしない。」と。
この言葉の前には絶望するばかりである。
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