スーザン・ヴリーランド著『ヒヤシンス・ブルーの少女』は、1枚のフェルメールの絵とその所有者たちの運命を8編の連作短編の形式で描いている。
1~6章が所有者たちの物語、7章が絵を描いたヨハネス、8章がモデルとなったマフダレーナの物語だ。1章ごとに時代が遡り、同時にリレー形式に所有者が変わり、最後に物語は絵が描かれた17世紀のオランダ、デルフトに至る。
フェルメールは亡くなった時に、11人の子供と多額の借金を残した。
その返済金の代わりに巻き上げられた26枚の絵はその後未亡人に戻されたが、フェルメールの遺産のオークションにかけられたのはそのうちの21枚だけだった。あとの5枚は誰が手にいれたのか?さらに、オークションにかけられた21枚のうち、所在が分かっているのは16枚だけだ。残りはどこに行ってしまったのか?本作の核となるヒヤシンス・ブルーの少女の絵は、行方不明のフェルメールの絵のうちの1枚ということになっている。
1章「十分に愛しなさい」(現代アメリカ)
数学教師・コルネリアスは自分を演出していた。
誰とも無難に接し、家に呼ばなければ不自然になる様な交友関係を持つことを巧みに避けていた。何故なら、家にはあの絵があるから。
ナチだった父がユダヤ人から強奪した窓辺で編み物をする少女の絵は、長年コルネリアスと父を双生児の様に分ち難く結びつけていた。父の死後、その秘密を共有できる人間はいない。コルネリアスは一度、当時の妻にその絵がフェルメールのものであることを告白したことがあった。しかし、父がどのようにその絵を入手したかを説明できないコルネリアスを彼女は嗤って信じなかった。2人は1年後に別れた。
あの絵を他人に見せることは、父の前歴の露見に繋がる。彼は長年注意深く自分を律してきた。不安に怯えながら生きてきたこの歳月が正しかったと信じたかった。それでも、あの絵を誰か…彼の言葉を嗤わず、あの絵の価値を理解する誰かと共に見る喜びを味わいたいという欲求を消せなかった。
その人があの絵をフェルメールのものだと認識すれば、絵は没収されてしまうだろう。それでも、校長の葬儀をきっかけに、失うことの苦痛より、一瞬でも誰かと喜びを共有することへの欲求が上回ったコルネリアスは、同僚の美術教師・リチャードを家に招き、あの絵を見せることにした。
2章「すべての夜と違う夜」(第二次世界大戦中のアムステルダム)
ユダヤ人の少女・ハナは、内向的な性格を無気力と誤解され、祖母や母親とうまくいっていない。
ハナの周辺が不穏になってきた。鳩を飼えなくなった。店の棚から食料が減った。胸に黄色の星をつけたユダヤ人たちが収容所に送られるようになった。
ハナが、その絵を買ってもらったのは2年前の11歳の誕生日のこと。
父がオークションで競り落としたのだ。ハナは、あの絵の少女が大好きだ。部屋の中に座って外を見ている少女は、自分と同じように生まれつき静かなのだろう。でもだからと言って、母がハナについて常々言っているように、少女が何も望んでいないことにはならない。ハナと同じで、きっと何かを望んでいるのだが、それが大切すぎてとても言葉に出来ず、考えているのだ。そして、何かにわくわくしながら外を眺めているのに違いないのだ。
3章「警句」(19世紀末のオランダ、フレーランド)
ローレンスとディフナの娘・ヨハンナが婚約した。
ディフナは、お祝いにあの絵を娘に送ろうと提案したが、ローレンスは渋った。あの絵は、彼が人生のある時期の思い出のために買ったものだからだ。
少女が窓から外を見ている様子が。誰かを待っている様子が。それに少女の手が。とても優しげな、キスをしたくなるような様子が、タンネケを思い出させるのだ。とても大切な思い出だ。ローレンスは、不要な見栄からタンネケを傷つけ、彼女を失ってしまった。そのことに悔いている。しかし、思い出がディフナと過ごした歳月の重みを超えることはない。
あやまちは覚えていてはいけない―――。自分が漏らしてしまった思い出が、ディフナを傷つけてしまった。「もし、絵の少女が窓の外を見る代わりに、中を、われわれを、見ていたら、われわれをうらやましいと思うだろうな」と語りかけるローレンスに、「長いこと見ていれば、外からだろうと、中からだろうと、自分がいまのままの自分でいてうれしいと思うことになるわよ」と返した妻の言葉が観察に基づく意見なのか警告なのか、彼は訊いたり想像したりするまいと思うのだった。
4章「ヒヤシンスの青」(フランスの支配下にあった19世紀初めのオランダ、デン・ハーグ)
フランスの上流階級に生まれたクローディーヌは、夫の仕事で移住することになったオランダの何もかもが気に入らなかった。
でも、一つだけ気に入ったものがあった。夫が買ってくれたヒヤシンス・ブルーのスモックを着た少女の絵だ。夫は、その絵はヨハネス・ファン・デル・メールという二流画家が描いたものだと言っていたが、クローディーヌにとって、それはどうでも良いことだった。少女はとても可愛らしい純真な表情の持ち主で、きっと両親に愛されていたに違いなかった。それが、クローディーヌに優しさと憂鬱の両方の気持ちを起こさせた。彼女は不妊症だったから。
夫との結婚は周囲が決めたもの。時の経過と忍耐で愛が生まれるはずもなく。すべてのことに情熱を持って行えば、その情熱が何事も正してくれるはずもなく。不妊症が決定的になってからは夫婦仲も冷え切り、お互いに不倫相手がいる状態だった。
夫婦の不倫が、醜聞になってしまった。夫も愛人も捨てて、急ぎフランスに戻ることにした彼女は、渡航費の捻出のためにあの絵を手放さなければならなくなった。
涙を流す対象があるなら、それは夫でもなければ、愛人でもなく、自分自身でさえない。彼女が泣くとしたらあの絵のためだけなのだ。
5章「朝の輝き」(歴史的な大洪水に襲われた1717年のオランダ、デルフザイル)
サスキアは、洪水2日目の早朝、小舟に乗せられた男の赤ん坊と毛布に包まれた絵を見つけた。絵についていた書類には、「この絵を売ってください。この子供を養ってください」というメッセージと共に、絵を描いたのがヨハネス・ファン・デル・メールという画家であることが記されていた。夫のステインはさっさと絵を売ることを唱えたが、美しい物への憧れが強いサスキアは絵を手放すことを渋った。
ステインは、「洪水の中に赤ん坊を置いて行くなんでどんな母親だ」と批判していたが、サスキアは、赤ん坊の母親はふしだらな田舎娘などではなく、高貴な身分の女性であると考えていた。そして、絵の少女が赤ん坊の母親であると確信していた。そんな彼女にステインは、「洪水の日にデルフザイルで若い魔女の絞首刑があった。その後、赤ん坊があらわれた。俺には疑問の余地の無いように思える」と言った。
夫は赤ん坊をあきらめろと言っているのではない。しかし、サスキアはあの絵を手放したくなかった。彼女の人生には、あまりにも美しいものが少なかったから。
そうして絵を売り渋っているうちに食料が尽き、来年の種イモに手を付けていたことを知った夫との間に溝が生じてしまった。サスキアはひとりでアムステルダムに行った。絵は高値で売れた。これで家族は生きていける。しかし、夫婦は決して今までと同じではいられないのだった。
6章「アドリアーン・クイベルズの手記から」(「朝の輝き」と同じ)
アレッタが絞首刑にされた日は、オランダが歴史的な大洪水に見舞われた日だった。
大学生のアドリアーンがアレッタと出会ったのは、彼が風車の設計を学ぶためにデルフザイルの伯母の屋敷に滞在していた時。アレッタは魔女として広場で晒し台にかけられていた。これまでも、監獄に入れられたり、鞭で打たれたり、頬にX字の傷をつけられたりしていた。奴隷商人をしているアドリアーンの伯母夫妻が、慈善活動の一環でアレッタを召使として屋敷に置いていたが待遇は悪かった。
翌日、アドリアーンは伯母の屋敷で、アレッタが1枚の絵の前で泣いている姿を見た。絵の少女はアレッタと同じ年頃だったが、穏やかで、洗練されていて、黙想的で、アレッタとはまるで違っていた。絵の少女の表情の優しさから、この絵を描いたのは、少女を愛している人物にちがいなかった。
アレッタの家系の女は代々不幸な死に方をする運命にあるという。
アドリアーンは、アレッタが迷信深い一方で、頭の回転が速く、風車の仕組みを忽ち理解したことに幸せを感じた。アレッタと親しくすることを伯母から反対されたアドリアーンは、人目につかないように彼女と会うようになり、やがてアレッタは身籠った。
アレッタが町議会に子供を取り上げられることを恐れたので、教会の塔に籠って二人だけで出産した。子供は男女の双子だった。双子は最悪の予兆であることと、女児は自分と同じ不運な人生を歩むと信じるアレッタは、こっそり女児を埋めてしまう。しかし、折からの豪雨で女児の遺体は発見され、アレッタは絞首刑にされた。
激しい雨は彼女の手から流れ落ち、どこまでが指でどこからが雨なのかわからない。激しく引っ張られて揺れる身体、飛び散る水、激しく動きそれから静まる足。アドリアーンは、これから一生恐怖と共に生きることになる。
「神様、祝福をお与えください。わたしたちが別れる前にあなたの平安をお与えください。神様の御心を理解する力が無くても、わたしたちに平安をお与えください」
神は人間を作ったことを後悔した時に洪水をもたらした。洪水の翌日、アドリアーンは、小さな息子に最初で最後の歌を歌い、あの絵と一緒に小舟に乗せた。
ここまでが所有者たちの物語。
7章「静かな生活」(1670年頃のオランダ、デルフト)と8章「マフダレーナが見ている」(1670~1696年のデルフト、およびアムステルダム)で、絵の謎が明かされる。
生きた時代も性格も年齢も異なる所有者たちの共通点は、少女の絵を熱愛する心だ。
所有者たちの思い入れが丹念に語られているので、その絵が実在しているような、自分もヒヤシンス・ブルーの少女を見たことがあるような錯覚を覚える。1章のコルネリアスは元妻から「人間よりも物を愛する男」と言われていたが、それの何が悪い?業や痛みを孕んでいても、人間には「美しい物」が必要だ。
所有者たちは何かに不足を感じ、それを埋めるように少女の絵に執着する。そして、現実的なものと精神的なものとの葛藤に引き裂かれ、後ろ髪を引かれる思いで絵を手放す。
彼らは少女の絵を熱烈に見つめながら、彼女のことを何一つ知ることはなかった。その夢見るような眼差しの背後で実際には何が進行していたのかを知ることはなく、彼女が何を願い、何を諦めたのかも知ることはなかった。そして、自分以外の所有者がどんな思いを込めて、少女の絵を見つめていたのかも、全然違う運命を生きた自分たちがどこか似ていることも知ることもないままなのだ。
1~6章が所有者たちの物語、7章が絵を描いたヨハネス、8章がモデルとなったマフダレーナの物語だ。1章ごとに時代が遡り、同時にリレー形式に所有者が変わり、最後に物語は絵が描かれた17世紀のオランダ、デルフトに至る。
フェルメールは亡くなった時に、11人の子供と多額の借金を残した。
その返済金の代わりに巻き上げられた26枚の絵はその後未亡人に戻されたが、フェルメールの遺産のオークションにかけられたのはそのうちの21枚だけだった。あとの5枚は誰が手にいれたのか?さらに、オークションにかけられた21枚のうち、所在が分かっているのは16枚だけだ。残りはどこに行ってしまったのか?本作の核となるヒヤシンス・ブルーの少女の絵は、行方不明のフェルメールの絵のうちの1枚ということになっている。
1章「十分に愛しなさい」(現代アメリカ)
数学教師・コルネリアスは自分を演出していた。
誰とも無難に接し、家に呼ばなければ不自然になる様な交友関係を持つことを巧みに避けていた。何故なら、家にはあの絵があるから。
ナチだった父がユダヤ人から強奪した窓辺で編み物をする少女の絵は、長年コルネリアスと父を双生児の様に分ち難く結びつけていた。父の死後、その秘密を共有できる人間はいない。コルネリアスは一度、当時の妻にその絵がフェルメールのものであることを告白したことがあった。しかし、父がどのようにその絵を入手したかを説明できないコルネリアスを彼女は嗤って信じなかった。2人は1年後に別れた。
あの絵を他人に見せることは、父の前歴の露見に繋がる。彼は長年注意深く自分を律してきた。不安に怯えながら生きてきたこの歳月が正しかったと信じたかった。それでも、あの絵を誰か…彼の言葉を嗤わず、あの絵の価値を理解する誰かと共に見る喜びを味わいたいという欲求を消せなかった。
その人があの絵をフェルメールのものだと認識すれば、絵は没収されてしまうだろう。それでも、校長の葬儀をきっかけに、失うことの苦痛より、一瞬でも誰かと喜びを共有することへの欲求が上回ったコルネリアスは、同僚の美術教師・リチャードを家に招き、あの絵を見せることにした。
2章「すべての夜と違う夜」(第二次世界大戦中のアムステルダム)
ユダヤ人の少女・ハナは、内向的な性格を無気力と誤解され、祖母や母親とうまくいっていない。
ハナの周辺が不穏になってきた。鳩を飼えなくなった。店の棚から食料が減った。胸に黄色の星をつけたユダヤ人たちが収容所に送られるようになった。
ハナが、その絵を買ってもらったのは2年前の11歳の誕生日のこと。
父がオークションで競り落としたのだ。ハナは、あの絵の少女が大好きだ。部屋の中に座って外を見ている少女は、自分と同じように生まれつき静かなのだろう。でもだからと言って、母がハナについて常々言っているように、少女が何も望んでいないことにはならない。ハナと同じで、きっと何かを望んでいるのだが、それが大切すぎてとても言葉に出来ず、考えているのだ。そして、何かにわくわくしながら外を眺めているのに違いないのだ。
3章「警句」(19世紀末のオランダ、フレーランド)
ローレンスとディフナの娘・ヨハンナが婚約した。
ディフナは、お祝いにあの絵を娘に送ろうと提案したが、ローレンスは渋った。あの絵は、彼が人生のある時期の思い出のために買ったものだからだ。
少女が窓から外を見ている様子が。誰かを待っている様子が。それに少女の手が。とても優しげな、キスをしたくなるような様子が、タンネケを思い出させるのだ。とても大切な思い出だ。ローレンスは、不要な見栄からタンネケを傷つけ、彼女を失ってしまった。そのことに悔いている。しかし、思い出がディフナと過ごした歳月の重みを超えることはない。
あやまちは覚えていてはいけない―――。自分が漏らしてしまった思い出が、ディフナを傷つけてしまった。「もし、絵の少女が窓の外を見る代わりに、中を、われわれを、見ていたら、われわれをうらやましいと思うだろうな」と語りかけるローレンスに、「長いこと見ていれば、外からだろうと、中からだろうと、自分がいまのままの自分でいてうれしいと思うことになるわよ」と返した妻の言葉が観察に基づく意見なのか警告なのか、彼は訊いたり想像したりするまいと思うのだった。
4章「ヒヤシンスの青」(フランスの支配下にあった19世紀初めのオランダ、デン・ハーグ)
フランスの上流階級に生まれたクローディーヌは、夫の仕事で移住することになったオランダの何もかもが気に入らなかった。
でも、一つだけ気に入ったものがあった。夫が買ってくれたヒヤシンス・ブルーのスモックを着た少女の絵だ。夫は、その絵はヨハネス・ファン・デル・メールという二流画家が描いたものだと言っていたが、クローディーヌにとって、それはどうでも良いことだった。少女はとても可愛らしい純真な表情の持ち主で、きっと両親に愛されていたに違いなかった。それが、クローディーヌに優しさと憂鬱の両方の気持ちを起こさせた。彼女は不妊症だったから。
夫との結婚は周囲が決めたもの。時の経過と忍耐で愛が生まれるはずもなく。すべてのことに情熱を持って行えば、その情熱が何事も正してくれるはずもなく。不妊症が決定的になってからは夫婦仲も冷え切り、お互いに不倫相手がいる状態だった。
夫婦の不倫が、醜聞になってしまった。夫も愛人も捨てて、急ぎフランスに戻ることにした彼女は、渡航費の捻出のためにあの絵を手放さなければならなくなった。
涙を流す対象があるなら、それは夫でもなければ、愛人でもなく、自分自身でさえない。彼女が泣くとしたらあの絵のためだけなのだ。
5章「朝の輝き」(歴史的な大洪水に襲われた1717年のオランダ、デルフザイル)
サスキアは、洪水2日目の早朝、小舟に乗せられた男の赤ん坊と毛布に包まれた絵を見つけた。絵についていた書類には、「この絵を売ってください。この子供を養ってください」というメッセージと共に、絵を描いたのがヨハネス・ファン・デル・メールという画家であることが記されていた。夫のステインはさっさと絵を売ることを唱えたが、美しい物への憧れが強いサスキアは絵を手放すことを渋った。
ステインは、「洪水の中に赤ん坊を置いて行くなんでどんな母親だ」と批判していたが、サスキアは、赤ん坊の母親はふしだらな田舎娘などではなく、高貴な身分の女性であると考えていた。そして、絵の少女が赤ん坊の母親であると確信していた。そんな彼女にステインは、「洪水の日にデルフザイルで若い魔女の絞首刑があった。その後、赤ん坊があらわれた。俺には疑問の余地の無いように思える」と言った。
夫は赤ん坊をあきらめろと言っているのではない。しかし、サスキアはあの絵を手放したくなかった。彼女の人生には、あまりにも美しいものが少なかったから。
そうして絵を売り渋っているうちに食料が尽き、来年の種イモに手を付けていたことを知った夫との間に溝が生じてしまった。サスキアはひとりでアムステルダムに行った。絵は高値で売れた。これで家族は生きていける。しかし、夫婦は決して今までと同じではいられないのだった。
6章「アドリアーン・クイベルズの手記から」(「朝の輝き」と同じ)
アレッタが絞首刑にされた日は、オランダが歴史的な大洪水に見舞われた日だった。
大学生のアドリアーンがアレッタと出会ったのは、彼が風車の設計を学ぶためにデルフザイルの伯母の屋敷に滞在していた時。アレッタは魔女として広場で晒し台にかけられていた。これまでも、監獄に入れられたり、鞭で打たれたり、頬にX字の傷をつけられたりしていた。奴隷商人をしているアドリアーンの伯母夫妻が、慈善活動の一環でアレッタを召使として屋敷に置いていたが待遇は悪かった。
翌日、アドリアーンは伯母の屋敷で、アレッタが1枚の絵の前で泣いている姿を見た。絵の少女はアレッタと同じ年頃だったが、穏やかで、洗練されていて、黙想的で、アレッタとはまるで違っていた。絵の少女の表情の優しさから、この絵を描いたのは、少女を愛している人物にちがいなかった。
アレッタの家系の女は代々不幸な死に方をする運命にあるという。
アドリアーンは、アレッタが迷信深い一方で、頭の回転が速く、風車の仕組みを忽ち理解したことに幸せを感じた。アレッタと親しくすることを伯母から反対されたアドリアーンは、人目につかないように彼女と会うようになり、やがてアレッタは身籠った。
アレッタが町議会に子供を取り上げられることを恐れたので、教会の塔に籠って二人だけで出産した。子供は男女の双子だった。双子は最悪の予兆であることと、女児は自分と同じ不運な人生を歩むと信じるアレッタは、こっそり女児を埋めてしまう。しかし、折からの豪雨で女児の遺体は発見され、アレッタは絞首刑にされた。
激しい雨は彼女の手から流れ落ち、どこまでが指でどこからが雨なのかわからない。激しく引っ張られて揺れる身体、飛び散る水、激しく動きそれから静まる足。アドリアーンは、これから一生恐怖と共に生きることになる。
「神様、祝福をお与えください。わたしたちが別れる前にあなたの平安をお与えください。神様の御心を理解する力が無くても、わたしたちに平安をお与えください」
神は人間を作ったことを後悔した時に洪水をもたらした。洪水の翌日、アドリアーンは、小さな息子に最初で最後の歌を歌い、あの絵と一緒に小舟に乗せた。
ここまでが所有者たちの物語。
7章「静かな生活」(1670年頃のオランダ、デルフト)と8章「マフダレーナが見ている」(1670~1696年のデルフト、およびアムステルダム)で、絵の謎が明かされる。
生きた時代も性格も年齢も異なる所有者たちの共通点は、少女の絵を熱愛する心だ。
所有者たちの思い入れが丹念に語られているので、その絵が実在しているような、自分もヒヤシンス・ブルーの少女を見たことがあるような錯覚を覚える。1章のコルネリアスは元妻から「人間よりも物を愛する男」と言われていたが、それの何が悪い?業や痛みを孕んでいても、人間には「美しい物」が必要だ。
所有者たちは何かに不足を感じ、それを埋めるように少女の絵に執着する。そして、現実的なものと精神的なものとの葛藤に引き裂かれ、後ろ髪を引かれる思いで絵を手放す。
彼らは少女の絵を熱烈に見つめながら、彼女のことを何一つ知ることはなかった。その夢見るような眼差しの背後で実際には何が進行していたのかを知ることはなく、彼女が何を願い、何を諦めたのかも知ることはなかった。そして、自分以外の所有者がどんな思いを込めて、少女の絵を見つめていたのかも、全然違う運命を生きた自分たちがどこか似ていることも知ることもないままなのだ。
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