青い花

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最後の宴の客

2019-03-07 07:39:29 | 日記
リラダン著『最後の宴の客』には、ボルヘスによる序文と、「希望」「ツェ・イ・ラの冒険」「賭金」「王妃イザボー」「最後の宴の客」「暗い話、語り手はなおも暗くて」「ヴェラ」の7編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”(全30巻)の29巻目に当たる。私にとっては、9冊目の“バベルの図書館”の作品だ。

リラダンといえば、『未来のイヴ』だ。
私の部屋の本棚にも東京創元社文庫の『未来のイヴ』が収められている。が、パラパラ捲って粗筋を確認しただけで、実はちゃんと読んではいない。かれこれ14~15年くらい本棚の肥やし状態である。読んでおかなければいけない本として購入したのは良いが、私には敷居の高い作品であるような気がして、こんなにも長い年月の間、手を拱いているのである。

まず、リラダン伯爵の作品を読む前に、彼の人生についてそこそこ知ってしまったのがいけなかった。リラダン自身の人生があまりにも完成度の高い物語であることから、彼の作品に対して妙に構えてしまうのだ。
私がリラダン伯爵の作品に触れるには、短編から慣らしていく必要がある。そう感じていたところなので、“バベルの図書館”にリラダンが収められていたのは渡りに舟であった。

ジャン・マリ・マティヤス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン。
大変長い名前である。同じく大変長い名前の持ち主であるワイルドが、身軽さを求め、ただのオスカーかワイルドと呼ばれることを望んでいたのに対して、リラダンはこの長い長い名前を生涯愛した。
リラダン伯爵と名乗り、他人からもそう呼ばれることを好んだ彼は、名門の家系に生まれ、極貧のうちに51歳で世を去った。
序文には、 “一八三八年十一月七日、ブリュターヌに生まれ、一八八九年八月十八日、パリのサン・ジャン・ド・ディユー兄弟会救済院で死んだ。偶然の仕業か運命のいたずらか、彼は、マルタ騎士団の団長の末裔という名門の出であり、また、同時代の凡庸さと科学と進歩、金銭や生真面目な人々を、小気味よく軽蔑したが、いっぽうでまた、ケルト人特有のあの無責任なまでの野放図な想像力をも、その天賦の才のひとつとして授かっていた。”と記されている。

リラダン家は、ブリュターヌの名門貴族だった。
しかし、リラダン自身の人生は生まれ落ちた瞬間から、暗転に次ぐ暗転でしかなかった。祖父が革命で家財を失い、リラダンが生まれる頃には、すでに一族の命運は尽きていたのである。
文学史上最初のサイエンス・フィクション『未来のイヴ』をはじめ、前例のない作品をいくつも生み出したリラダン伯爵であるが、当時は、ボードレール、ワーグナー、シャルル・クロス、ユイスマンス、マラルメ、レオン・ブロワといった一部の先見の明のある者にしか評価されなかった。印税は雀の涙ほどしか入らず、赤貧にあえぎ、ボクシングジムで殴られ屋のようなことをして日銭を稼いだこともあったという。

人間はロマンティストか愚物に二分されると公言していたリラダン伯爵は、当然己を前者に据えていた。自意識過剰でも何でもなく、彼は誰がどう見てもロマンティストである。それも冷酷なロマンティストだ。
「王妃イザボー」では、イザボーがそう予告したら、必ずそのように事を運ばれてしまう。「暗い話、語り手はなおも暗くて」では、他人の身に起きた悲劇は、完結した物語に過ぎない。「ヴェラ」では、一度失った愛の生活を幻想の中で取り戻そうとするが、今度こそ完全に失ってしまう。
愛は死を超えられない。だからこそ甘美で美しいのだ。リラダンの紡ぎだす物語は、きっとすべてが無慈悲なロマンティストの見る夢だ。

“ポーの場合、恐怖は肉体的なものであるのに対しリラダンはもっと微妙で、精神的恐怖の地獄をわれわれに顕示する。”

“リラダンはパリで、ちょうどボードレールが悪と罪とを弄んだのと同様に、冷酷という概念を弄ぶことを望んだのだった。”

現代において、肉体的苦痛はもはや娯楽のテーマとしては色褪せてしまったのかもしれない。それらは既に、映画や漫画などでありふれた光景になってしまったのだ。
本書に収められている七つの残酷物語は、人が人である限り決して矯正することのできない残忍性を描きつつも、剽軽さや辛辣さがほど良く効いた、鷹揚で洗練された印象を読者に与える。
真の強者が存在しない現代においては、リラダン伯爵の作品は、残酷物語というよりはレトロで優雅な御伽噺と言った方が良いかもしれない。


ボルヘスは序文で、「希望」を“本巻中もっともすぐれた物語で、数ある短篇小説の中でも屈指の傑作のひとつと目される”と評している。
僅か10ページのこの短篇には、人間の心を最も効果的に打ち砕くものが何であるのかが克明に綴られている。ポーの「落し穴と振り子」との類似点が多いが結末は決定的に異なり、そこに貴族階級ならではの優雅な無慈悲を感じた。
ラストのアルブーエス裁判長の言葉が、皮肉ではなく本心から出たものだとしたら、人間の魂には救いなど無いのだと、深刻な恐怖に駆られ絶望する。

ユダヤ人ラビ・アセール・アバルバネルは、一年以上も前から異端審問所の地下牢に繋がれ、来る日も来る日も拷問にかけられてきた。

ある夕暮れ時、宗教裁判所裁判長にしてドミニコ会修道院院長のドン・アルブーエスが獄吏たちを伴い、悪臭漂う地下牢を訪れる。
ドン・アルブーエスは、ラビの火刑が決まったことを告げに来たのだ。彼等が去ると、ラビは地下牢の扉と壁との裂け目にかすかな明かりを見た。
ラビはその明かりに希望を見出した。
明かりの漏れる裂け目にそっと指を差し込むと、果たして扉を引くことが出来た。裁判長たちが鍵をかけ忘れたのだ。

先刻、ドン・アルブーエスが涙ながらに予告したラビの運命は絶望そのものだった。

“今宵は、安らかに憩うが良い。あすは、宣告から処刑に至る儀式(アウト・ダ・フエ)が行われる。すなわち、おまえは火刑台(ケマデーロ)に晒されるであろう。《地獄の業火》のさきがけとなる、真っ赤に燃えた燠火が見られるであろう。知っての通り、わが子よ、燠火というものは間を置いてしか燃え上がらない。《死》ぬまでには、少なくとも二時間(多くの場合は三時間)かかる。なぜなら、生贄たちの顔と心臓とを傷めぬよう、水で濡らした凍える様な布切れを使うからだ。火刑に処せられる者はたったの四十三名である。いいか、忘れるでない、おまえの順番は最後なのだ。だから、時間はたっぷりある。”

ラビの口は乾き、顔は苦痛にゆがんだ。
もはや後へは引けぬ。暗闇に乗じて、ラビは脱獄を試みた。

ラビは、途中二人の判事に見つかりそうになりながらも、屋外に足を踏み出すことに成功した。自由の身になれるのだ。庭に出たラビは、春の息吹と自由と生命が満ちた聖なる甘い空気に肺をふくらませた。両腕を差し伸べ、眼を天へ向け、法悦に浸った。
次の瞬間、ラビは何者かの両腕が自分の体を包み、愛情を込めて抱き締めるのを感じた。ラビは、喘ぎ、狼狽え、身を震わせて、恐怖を剥き出しにした。

逃走の果てにラビが辿り着いたのは、ドン・アルブーエスの腕の中だった。

“ラビ・アセール・アバルバネルは白目を剥き、苦行者のごときドン・アルブーエスの腕のなかで不安にあえぎながら、今夕の避け難き一瞬一瞬は、予測された責苦であり、《希望》の拷問にすぎなかったことを、漠然と理解した。”

その時、アルブーエス裁判長の眼に浮かんだ大粒の涙と悲痛な眼差しは、如何なる感情と思考から発動されものだったか。
ドン・アルブーエスは、確かに深い憐みの情に駆られて、不幸なユダヤ男を抱締めたのだ。その息は、断食で乾き燃えるようだった。

“一体どうしたというのだ、わが子よ。魂の救いが得られるかもしれぬ、その前夜に……おまえは、われらを見捨てるつもりだったのか。”

ドン・アルブーエスは、見捨てられたのは自分たちの方だと思っている。多分それは間違ってはいない。
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