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任那日本府否定説が日韓の共通認識?

2010-03-27 02:28:26 | Weblog
日韓の共同歴史研究の委員会が任那日本説否定説で共通の認識をもったとの報道があった。
古代史マニアからすると、興味深い話なんだが、門外漢には何のことやらであろう。
日本書紀の記述によれば、4世紀から6世紀にかけて倭国が朝鮮半島南部の「任那」を支配し、「任那日本府」という統治機関があったとする。この「任那日本府肯定説」は戦前から1970年代まで日本では通説的見解であったが、韓国側からの歴史研究、特に戦前の征韓論、韓国併合の正当化として利用された「任那日本府肯定説」は批判が多く、否定説が有力となってきて、日本においても否定説が主張されてきた経緯がある。

韓国のナショナリズム的歴史観の誇張はさておき、冷静に検証すると、以下のことが日本の学会の了承を得られる事項である。

「任那」という名称は、8世紀に成立した日本書紀のほか、5世紀頃に成立した中国の歴史書「宋書」、7世紀に成立した「梁書」等にあらわれる。
さらに五世紀に建立された広開土王碑にも「任那加羅」の記載がある。
ところが、韓国側で「任那」が現れる資料は少なく10世紀に成立した鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文、12世紀に成立した三国史記に1カ所記載があるのみである。
日本書紀の記載が政治的意図から史実を正確でないとの戦後の歴史学の批判的検証から、「任那日本府」の実在について、疑問が呈される中、韓国側の資料が乏しいこと、広開土王碑の碑文が旧日本軍に改ざんされた等の否定説の主張に影響を受けて、日本の左翼的学説からは同様に否定説が主張されてきた。

しかし、話は、また反転する。朝鮮半島南部に古代日本の特色である前方後円墳がいくつか発見され、中国資料から広開土王碑の改ざん説が否定されたのである。
そうすると、古代朝鮮半島に倭国(古代日本)の政治的軍事的勢力、影響力があったことは確かということである。
日本書紀でいう「任那」の範囲は、広狭があり、現在では狭義の「任那」は金官伽耶(金官加羅、任那加羅)ではないかとされる。また、大和朝廷が「日本」を号したのは7世紀であるので、実際には「倭府」という名称であったのではないかとの主張もある。さらに倭国の政治的統治機関(これは戦前の朝鮮総督府をイメージし韓国の反日ナショナリズムを刺激する)というより、ゆるやかな「大使館」「外交機関」と主張もある。このように現在の日本の学説を総括すると、古代朝鮮半島南部に倭国の政治的軍事的影響力が及び、倭人の機関、拠点、集団があったということであろう。そうすると、これは統治支配の強弱の差や地域場所の範囲の広狭の差があるが、なお「任那日本府」肯定説(広義)といってもよいであろう。
そうすると日韓共同研究の日本側の研究者は否定説論者が多数派ということだったのであろうか。(実際には韓国側発表の誤解ではないか。安重根没100周年のナショナリズム高揚ムード中での韓国マスコミの勇み足の可能性がある)

私は、日本書紀をひとまず、脇に置き、中国資料及び考古学資料を中心に検証すると、日韓のイデオロギー、ナショナリズムをぬきに客観的にみれば、肯定説のほうが妥当ではないかと思う。ただし、その実体というのは、近代的な植民地のような継続的な強力な広範囲での統治支配があったかは疑問ではあるが。
倭国を構成していた一部の倭人集団は、「任那」と同族であったのかもしれず、まだ、「韓国人」も「日本人」といった区別、概念も成立していなかった時代に現代のナショナリズムの観点から歴史を眺めるのは偏頗な感じがする。

かつての日本の皇国史観もナショナリズム史観であるが、ナショナリズム史観は、主観性が強く客観性をみうしなう危険性がある。
また、ナショナリズム、民族主義は、東アジアにおいても近代以降の思想であり、近代以前の世界認識をフィルターにかけてながめることは、真実を見失うのではないか。

古代中国が楽方郡など朝鮮半島を支配していたことも韓国ナショナリズム史観では否定説になってしまうのであろうか。古代において、中国、韓国、日本の交わりはときに支配被支配、ときに対等、対立の中、文化交流をすすめ、中華風東アジア文化圏をつくり、漸進的にナショナリズムが形成されていったのではないか。古代の方が、中国、韓国、日本は、実は今以上に密接で政治的文化的に身近だったのかもしれない。

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