2006年。
1月1日。
いつのまにか2005年が終わっていた。
そしていまはもう24時を越えているので正確には1月2日である。
ついさきほど、昨年11月からゆっくりと書き進めていた推理小説が一応の完成を見せた。
作者の意図とは全く違う方向に話が進み、なるようになった。
もう眠いので多くは語らない。また後日ヒマがあればそのときにでも。
ともかく今は、「これで読書ができる!」という気持ちである。
今日は7年ぶりの「うるう秒」が挿入され1秒長い元日となった、というニュースを今やっている。
知らなかった。
1月2日。
またしても零時を過ぎて正確にはもう1月3日である。
早速、『本格推理委員会』を読み始めた。
乙一先生の友人、滝本竜彦氏が「居心地のいいミステリ」と言って絶賛した作品である。
その作中で小学生女子が「いえいえ」という言葉を遣っている。
去年、ある人に拙作「愛せない存在を消す方法」を読ませたとき、彼は開口一番こう言った。
「おい、この『いえいえ』ってのはおかしいだろ。笑っちゃうぜ!」
どうも彼に言わせれば「いえいえ」という言葉を遣う一般人はそうそういないらしい。
私は何度も「そうかなー……?」と唸って、「でもこれフィクションだし、いいじゃん」と反論したが、まったく取り合ってもらえなかった。
そして今日、「いえいえ」という言葉を小説内に発見したわけだ。
それも、ライトノベルという若者向けの作中に。
私はなぜあそこまで言われなければならなかったのだろう。いや、なぜ彼はあれほど「いえいえ」に過敏に反応したのだろう。
謎である。
話は変わるが、そういえば昨日書き上げた作品は、当初「長編推理小説」の予定だった。
しかし出来上がってみると、たかだか原稿用紙160枚程度だった。
中編と長編の境は出版社によってまちまちだが、さすがに160枚は長編と呼べない。
であるからして、正しくは「中編推理小説」である。
……なんだかしょぼい。
1月4日。
今日は人々の個人情報を盗むという、例の仕事がお休みである。
そして今日はちょうど、ブックマ○ケットで店内全本70%OFFという馬鹿みたいなセールの初日だった。
無論、ぼくは開店時間前から店の前に陣取った。といってもたったの五分前である。
ぼくが店に着いたときには、すでに20名ほどのお客さんが集っていた。日本人の活字離れが騒がれる昨今、彼らの目的は主にコミックとか漫画とかそういうものだろう。
無論、ぼくも漫画とかコミックは好きだ。しかし最近は立ち読みする気力も買う金も知人に借りる度胸も、なんにもないので、読んでいない。
ぼくの標的は無論、小説だった。しかし最近は買う金もなく、だからこうして特売セールのときにがっつくしかないのである。
わずか30分で買いたい物を確保したぼくだったが、そのときすでに長大な精算待ち行列が店内に伸びていた。
客が多すぎて開店30秒ほどで買い物カゴがなくなっていた。だからぼくは数十冊の本を手で持っていた。
しかし非力なぼくはすぐにギブアップを宣言し、並んでいる本の上にどかっと降ろした。このとき、なにやらミシっという奇妙な音が鳴ったが気のせいにした。
さすがにそのままでは邪魔だろうと思い、おそらく人気(ひとけ)が少ないだろう、成人向けコーナーの棚に荷物を置きなおした。
いくら待っても精算待ちの行列は減らなかった。しかし大量の本を持って並ぶのはつらいので、どうしても買い物カゴが必要だった。
ぼくは何度かその場を離れ、カゴ置き場を見に行った。その間にイタズラされやしないか、と冷や冷やしていた。
開店から3時間が経ったころ、ようやくカゴの入手に成功した。ぼくは早速それに本を詰め、列に加わった。
待っている間、昨晩読み終えた『本格推理委員会』のことを思い出した。
本当は1日で読了するつもりだったが、思いのほか長い話で、結局2日もかかってしまった。
しかし内容は思ったよりも素晴らしかった。深かった。
先日書き終えた(といってもまだ完成していない)自分の小説など、紙切れに等しかった。
しかしそれでも、ぼくは自分の作品が好きである。内容は無いに等しいがそこがグッドなのだ。
古本屋の話に戻る。
結局、家に帰り着いたのは開店から4時間後のことだった。
会計1671円。全29冊。1冊あたり58円弱。内訳は以下のとおりである。
・文庫本、全20冊。
推理小説(本格ミステリ含む)10冊。
恋愛小説3冊。
青春小説2冊。
ジャンル不明小説(カバー見ただけじゃわからん)3冊。すべて江国香織作品。
(昔の国という字が出てこないぞ、このパソコン)
エッセイ2冊。(ともに大槻ケンヂ作品)
・新書、全2冊。ともに長編本格ミステリ。
・単行本(ハードカバー)、全5冊。
推理小説2冊。
エッセイ2冊。
批判本1冊。
・写真集、全2冊。ともに元モーニング娘。
という感じである。
今考えてみれば写真集は買わなくてよかったんじゃないか、と思う。しかしおもしろいので良しとする。
千円以上のお買い物なんて、ぼくにしては豪華すぎるが、それもそのはず。
国家公務員の仕事中に、お金持ち夫婦からお年玉をもらったのだ。
その人は自分の個人情報が闇業者に漏洩している事実を知らない。かわいそうである。
それはともかくとして。
ハードカバーとか写真集というものはなぜ中古でもあんなに高いのだろうか。ぼったくりである。
内訳を見ていると、非常にぼくらしくない。
写真集はともかくとして、なぜエッセイなんていうものを買ったのか。
ぼくは基本的にエッセイを読まない。なぜか読むのがめんどくさいのだ。いちいち他人の人生観を読むのがめんどくさい。ぼくは自分だけで手一杯なのである。
そんなぼくがエッセイを買ったのには無論、理由がある。
ひとつは知人のためである。彼が大槻ケンヂ先生のエッセイが好きだと言うので、彼の機嫌取りのために買った。
もうひとつは写真集と同じ理由である。著者が「元モーニング娘。」と「モーニング娘。の妹分」だったからである。前者は安倍なつみさん、後者は松浦亜弥さんである。
本当は矢口真里さんの『おいら』という本が欲しかったが、残念ながら誰かに先を越されてしまった。残念である。
列に並ぶ前、批判本「こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』」というタイトルの本を見つけて手に取った。そして買った。
この本の著者は山本弘先生(SF作家)である。
乙一先生の『GOTH』が「『Yahoo!JAPANユーザーが選ぶ2003年ベストミステリー』国内編第1位」に選ばれた翌年のインタビューで、
「乙一さんが2003年のベストミステリーを選ぶとしたら?」
という問いに対して、
「山本弘先生の『神は沈黙せず』です」
と答えたのは、あまりに有名すぎて知らない読者も多いだろう。
この本は――(ってどの本だよ? とツッコミを入れたキミは偉い)――かの有名なベストセラー『空想科学読本』がいかに間違いだらけか、というのを明らかにしていく批判本である。
これはおもしろそうだ、と思ってつい買ってしまった。『空想科学読本』なんて読んだことないが、買った。
まえがきを読んだのが原因だった。世の中の人は『空想科学読本』に騙されているらしいのだ。
ぼくは読んだことないので騙されていないけれど。
しかしこの本、2002年に出版されているので、もう騙されている人はいないでしょうなぁ。ぼくがここで「みなさんは騙されているんです!」と、探偵きどりで言っても、無駄なんだろうなぁ。
騙されているというと語弊があるかもしれない。別に『空想科学読本』がすべて出鱈目というわけではないからだ。数多くの間違いがある、というだけだからだ。
詳しくは本作を見て欲しい。たぶん、おもしろい。まだ読んでないけど。
そういえば、みなさんは2005年23時59分59秒を、どのように過ごしただろうか。年越しの瞬間はなにをしていただろうか。
ぼくの場合は2001―2002年のときからずっと同じ過ごし方をしている。
あれ? 2002―2003年だったかな? まぁいい。
同じ過ごし方というのは、簡単である。ジャンプするのだ。
2005年の最後の瞬間、ジャンプする。すると次の瞬間年が明け、無事、2006年に着地できるのだ。
これは言ってしまえば、ワープである。2005年の自分が2006年にワープしてきたわけである。
この画期的な年の越し方を発明したのは、ガッくんことGackt様である(たまに「Gちゃん」とも呼ぶ)。
あれはいつかの年越しの瞬間、CDTVの生ライブでのことだった。
詳しくは覚えていないが、ガッくんが「跳ぶよ」と言い出した。
あれはたぶん、トリップという意味だったのだろう。そのときライブ会場にいたお客さんたちと一部の視聴者は、一斉にジャンプし、新年へトリップした。
それ以来ずっとぼくは、年越しの瞬間、ジャンプしてトリップしている。
もう4,5回、トリップしたことになる。
トリップは楽しいので、みなさんも今年の大晦日にジャンプしてみてください。
そろそろ、「また後日ヒマがあればそのときにでも」と書いたあの話をしよう。
ぼく、というかボクの書き上げた中編推理小説のタイトルは、「ダイイングメッセージ!?」である。
まさにミステリ! 的な匂いがする。
内容は教えないが思うことを少々。
ぼくははっきり言って頭が悪い。よく勘違いや深い思い込みをして失敗する。
今年度の夏休み前に4日で書き上げた短編「愛せない存在を消す方法」を知人に見せたときも言われた。
――お前はそんなに頭よくないんだから、ミステリはやめとけって。
その作品にはひとつ大きなミスがあり、現実世界において成立しないのである。
そのような軽はずみなミステリを、ボクは堂々とインターネット上に掲載している。バカなやつである。
しかしそれでいいと思う。バカはバカなりに頑張っているのだ。
バカなのにミステリを書くようなバカだけど、許してやってください。
その経験を踏まえて、ボクはまたミステリを書いたわけである。
今回も大して考えていない。ボクの努力もむなしく、作品は作者の手を離れて勝手な暴走を始め、完結した。
いつも思うがボクは本当に小説を書いていていいのだろうか。
こんなに無計画に書き始めてよくわからないまま話を完結させていいのだろうか。
よくないとは思う。しかしこれはどうしようもないのだ。
思うにボクは一人で執筆しているのではない。たくさんの自分がボクの中にいて、それぞれが勝手な思惑を持って勝手に行動して、書いているのだ。
多重人格者か統合失調症(精神分裂病)患者が書いているようなものだ。いや、それと比べるとまだ整合性があってマシなのだが。
そのような執筆スタイルで果たしてプロになってやっていけるのかと、まだデビューのメドも立っていないのにボクは思う。
しかしこれはたぶん、どうしようもないことなのでどうにもならないのだ。
それにこれがプラスに働くことだってある。
意外性だ。
作者すら予想していなかった展開になるわけだから、意外性はあるに違いない。
事実、どこかの精神異常者さんに「最後の返しがうまい」と誉められたことがある。
返しというのはおそらく大どんでん返しの一種だろう。
ミステリには、なくてはならない要素である。
そう考えると、ある意味、ボクはミステリに向いている。
あとはこのバカな頭をなんとかすれば、それで事足りるわけである。
あぁ、脳味噌さん、どうかしわを多く刻んでください! 頭良くなってください!
……なんか自分で言っていてかわいそうになってきた。バカだ。
1月5日。
まずは近況報告。私はもう、国家公務員ではない。
任期が今日までなので、今日の仕事が終わった瞬間、国家公務員資格も消え失せた。
非常に残念である。
これからもっとヤバイ組織に情報提供してガッポリ稼ぐつもりだったが、ダメになった。
これから私はどうやって生きていけばいいのだろうか? 生活費をどうやって稼げばいいのだろうか?
とりあえずは以前からおこなっているビラ配りのバイトが明日と明後日に、ある。
もう2ヶ月以上ぶりに街でビラ配りをするのである。
私は知らなかったが、ビラ配りというのは社会の底辺のような人間がする仕事らしい。知人にこのバイトを勧めたとき、そのように言われて断られた。
たしかにビラ配りは大変だ。よくミジメな気分になる。
ティッシュならまだいいが、ビラという名の紙切れに関心を持つ人間はなかなかいない。
よろしくお願いします、と愛想良く言って渡しても、なかなか受け取ってくれない。
イケメンの男が配っても、大して効果はない。
ただ、女性のほうが見た目に華があって、受け取ってもらえる率が高い傾向にある。
だから私は、その仕事の最中だけ、女になりたい。無理だが。
これ以上書くと陰鬱な内容になるので、仕事の話はここでやめる。
ちょっとナルシストみたいだが、自分の作品についてもう少し語っておきたいことがある。
昨日の日記で、『ボクの努力もむなしく、作品は作者の手を離れて勝手な暴走を始め、完結した』と書いた。
これは毎度のことである。
私、いやボクは、いつも何も考えずに小説を書き始める。
それは特にショートショートを執筆するときに顕著だ。
パソコンの前に向かっていきなり文章を打ちはじめる。構想はほぼ皆無である。
たとえば「上る階段」という作品は、最初に「階段をひたすらのぼる」というイメージがあった。しかしそれだけだった。
ボクは書き始めたとき、ただ階段をのぼるだけ、の話を書くつもりだった。そこに物語が発生する予定はなかった。
しかし出来上がってみれば、いつのまにか変なオチがついて完結していた。短い物語が発生していた。
正直、こわい。
ボクはなんの面白味もない物語なしの小説(そういうものを小説と呼んでいいのかというとよくないとは思うが)を書こうとしていたのに、おかしな方向に話が転び、うまく完結してしまったのだ。
作者の意図と関係なく。
ボクとしては、勝手に小説になってしまった、という感じである。
いったい誰がこんな風に話を展開させたのか? と考えてしまう。
もちろん執筆中の記憶はちゃんとある。しかし書いている途中に、ボクではない何者かの手がボクの代わりに物語を紡いでいる気がするのだ。
その何者かは当然、ボク自身なのだが……。
日記にしても同じだ。たいてい何も考えずに文章を打ちはじめる。そしたら、なるようになるのだ。
同じようなことが短編小説を書くときにも起こる。
ボクの場合、短編というとだいたい80枚~110枚程度の作品になる。
それだけ長いともちろん、構想が必要である。プロットというのを組まなくてはならない。
しかしボクはプロットを書かない。いや、書けないのだ。
なぜなら、小説を書き始めた段階ではまだ、話の内容が出来上がっていないからだ。
プロットというのは、あらすじである。物語の内容をポイントだけ押さえて箇条書きにして書く。その物語がきちんと展開されてきちんと完結するかどうかの確認にもなる。
要するに、プロットというのは物語がきちんと出来ていないと書けない代物なのである。
ボクのように物語の核心しか決めずに書き始める人間には、プロットは書けない。
ミステリには必ずプロットが必要である。
作者が物語の全てを知った上で書かなければ、ほころびが生じる。
ミステリというのは構造が重要なのである。
ボクはミステリの知識が非常に浅いが、それくらいのことはわかる。
ミステリには非常に緻密なプロットが必要である。
犯人の行動、主人公の行動、その他の登場人物の行動、全てを把握し、どこでどの伏線を張るか、どの部分が推理に結びつくのか。主にそういう諸々のことを頭に入れておかねば書けないのだ。
そういう意味で非常にめんどうくさいジャンルである。めんどくさがり屋のボクには向いていない。
だからボクは、めんどうくさくないミステリを書いた。
プロットなしのミステリである。
いや、これはもうミステリとは呼べないのかもしれない。伏線なし、推理なし。作者の一方的な奇術。完全なアンフェア。
それが「愛せない存在を消す方法」と「ピンポンだっしゅ」という作品である。
この2作でボクが書きたかったのは、ミステリではない。だからミステリでなくていい。
ボクはただ、読者を騙して笑いたかったのである。
そしてもうひとつ。完全犯罪をやってみたかった。
それだけである。
読者のみなさん、騙してしまって申し訳ありませんでした。そして騙されてみたいと思ったそこのあなた、読んでください。
さりげなく宣伝したところで、中編推理小説の話をしよう。
前述のように、ボクはプロットが書けない。プロットを書けないということはミステリが書けないということである。
しかし今回、ボクは推理小説=ミステリを書いたと報告した。
つまり、プロットを組んでから書き始めたということである。
初プロット、初ミステリ、である。
苦労した。めんどうくさかった。
しかしやはりボクは普通の書き方をしなかった。
ラストをどうするか、それだけは決めていなかった。それに、書いている途中でいろいろ思いついて取り入れたり取り入れなかったりした。
伏線のタイミングも考えなかったし、推理の手順も方法も一切考えていなかった。
ただ事件の過程だけ、殺害方法とかトリックだけ考えて書いていた。
だから正直、探偵がどのようにして事件を解決するのか、作者にはわかっていなかった。
もう一度言う。
作者には探偵の行動が予測不能だった。
ありえないですね。ありえないですよ。
バカですね。こいつはバカですよ。
客観的に考えてこの作者は頭が悪い。
そんな安易な方法で書いたミステリが、きちっとしたミステリに仕上がっているはずがないのだ。
はずがないのだ……が、まぁ、いいではないか。
ボクは普通のミステリが書けない。だから変なミステリを書いた。
それだけだ。
幸運なことに、ボクの創造した優秀な探偵は、事件を解決してくれた。
ボクは事件を用意するだけで良かった。
だから普通のミステリを書くときより数段ラクだった。
物語はいつものように作者の意図せぬ方向に転び、おかしな完結を見せた。
衝撃のラストを思いついたとき、作者が一番驚いたに違いない。
こんなことでいいのか、自分。
1月6日。
いま、麻耶雄嵩氏のデビュー作『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』を読み進めている。
(今、ためしに「こく」と打って変換してみたら昔の国という字「國」が出た。1月4日の日記は、「江國香織」が正しい表記なので間違えないように!)
島田荘司先生、綾辻行人先生、法月綸太郎先生という、新本格ミステリの大先生3氏の推薦文を得て、ミステリ界に衝撃を与えた伝説的作品である。
しかも当時、著者は弱冠21歳だった。
とまぁ、ものすごい作品なのである。
ボクがミステリにハマった理由は、長い話を割愛して元を辿るならモーニング娘。ファンだったからなのだが、それはまた別の機会に詳述しよう。
短く言うなら、乙一先生のデビュー作を誉めた我孫子武丸先生と法月綸太郎先生と綾辻行人先生の新本格ミステリ・トリオの所属していた京大の推理小説研究会というサークルの後輩が、麻耶雄嵩氏なのである。
と、よくわからない説明はさておき。
この『翼ある闇』という作品、まだ半分しか読んでいないが非常に手が込んでいる。
作者は間違いなくミステリ狂だし、クラシック音楽やアンティークなどの芸術に詳しい。さらに言うなら数学にも詳しい。
だからなのか、はっきり言って文章が意味不明だ。小難しいというか大難しい話ばかりするので、とてもついていけない。
私のような無知識人は、そういう高尚な部分は無視して読むしかない。
どうもすみません。
1月1日。
いつのまにか2005年が終わっていた。
そしていまはもう24時を越えているので正確には1月2日である。
ついさきほど、昨年11月からゆっくりと書き進めていた推理小説が一応の完成を見せた。
作者の意図とは全く違う方向に話が進み、なるようになった。
もう眠いので多くは語らない。また後日ヒマがあればそのときにでも。
ともかく今は、「これで読書ができる!」という気持ちである。
今日は7年ぶりの「うるう秒」が挿入され1秒長い元日となった、というニュースを今やっている。
知らなかった。
1月2日。
またしても零時を過ぎて正確にはもう1月3日である。
早速、『本格推理委員会』を読み始めた。
乙一先生の友人、滝本竜彦氏が「居心地のいいミステリ」と言って絶賛した作品である。
その作中で小学生女子が「いえいえ」という言葉を遣っている。
去年、ある人に拙作「愛せない存在を消す方法」を読ませたとき、彼は開口一番こう言った。
「おい、この『いえいえ』ってのはおかしいだろ。笑っちゃうぜ!」
どうも彼に言わせれば「いえいえ」という言葉を遣う一般人はそうそういないらしい。
私は何度も「そうかなー……?」と唸って、「でもこれフィクションだし、いいじゃん」と反論したが、まったく取り合ってもらえなかった。
そして今日、「いえいえ」という言葉を小説内に発見したわけだ。
それも、ライトノベルという若者向けの作中に。
私はなぜあそこまで言われなければならなかったのだろう。いや、なぜ彼はあれほど「いえいえ」に過敏に反応したのだろう。
謎である。
話は変わるが、そういえば昨日書き上げた作品は、当初「長編推理小説」の予定だった。
しかし出来上がってみると、たかだか原稿用紙160枚程度だった。
中編と長編の境は出版社によってまちまちだが、さすがに160枚は長編と呼べない。
であるからして、正しくは「中編推理小説」である。
……なんだかしょぼい。
1月4日。
今日は人々の個人情報を盗むという、例の仕事がお休みである。
そして今日はちょうど、ブックマ○ケットで店内全本70%OFFという馬鹿みたいなセールの初日だった。
無論、ぼくは開店時間前から店の前に陣取った。といってもたったの五分前である。
ぼくが店に着いたときには、すでに20名ほどのお客さんが集っていた。日本人の活字離れが騒がれる昨今、彼らの目的は主にコミックとか漫画とかそういうものだろう。
無論、ぼくも漫画とかコミックは好きだ。しかし最近は立ち読みする気力も買う金も知人に借りる度胸も、なんにもないので、読んでいない。
ぼくの標的は無論、小説だった。しかし最近は買う金もなく、だからこうして特売セールのときにがっつくしかないのである。
わずか30分で買いたい物を確保したぼくだったが、そのときすでに長大な精算待ち行列が店内に伸びていた。
客が多すぎて開店30秒ほどで買い物カゴがなくなっていた。だからぼくは数十冊の本を手で持っていた。
しかし非力なぼくはすぐにギブアップを宣言し、並んでいる本の上にどかっと降ろした。このとき、なにやらミシっという奇妙な音が鳴ったが気のせいにした。
さすがにそのままでは邪魔だろうと思い、おそらく人気(ひとけ)が少ないだろう、成人向けコーナーの棚に荷物を置きなおした。
いくら待っても精算待ちの行列は減らなかった。しかし大量の本を持って並ぶのはつらいので、どうしても買い物カゴが必要だった。
ぼくは何度かその場を離れ、カゴ置き場を見に行った。その間にイタズラされやしないか、と冷や冷やしていた。
開店から3時間が経ったころ、ようやくカゴの入手に成功した。ぼくは早速それに本を詰め、列に加わった。
待っている間、昨晩読み終えた『本格推理委員会』のことを思い出した。
本当は1日で読了するつもりだったが、思いのほか長い話で、結局2日もかかってしまった。
しかし内容は思ったよりも素晴らしかった。深かった。
先日書き終えた(といってもまだ完成していない)自分の小説など、紙切れに等しかった。
しかしそれでも、ぼくは自分の作品が好きである。内容は無いに等しいがそこがグッドなのだ。
古本屋の話に戻る。
結局、家に帰り着いたのは開店から4時間後のことだった。
会計1671円。全29冊。1冊あたり58円弱。内訳は以下のとおりである。
・文庫本、全20冊。
推理小説(本格ミステリ含む)10冊。
恋愛小説3冊。
青春小説2冊。
ジャンル不明小説(カバー見ただけじゃわからん)3冊。すべて江国香織作品。
(昔の国という字が出てこないぞ、このパソコン)
エッセイ2冊。(ともに大槻ケンヂ作品)
・新書、全2冊。ともに長編本格ミステリ。
・単行本(ハードカバー)、全5冊。
推理小説2冊。
エッセイ2冊。
批判本1冊。
・写真集、全2冊。ともに元モーニング娘。
という感じである。
今考えてみれば写真集は買わなくてよかったんじゃないか、と思う。しかしおもしろいので良しとする。
千円以上のお買い物なんて、ぼくにしては豪華すぎるが、それもそのはず。
国家公務員の仕事中に、お金持ち夫婦からお年玉をもらったのだ。
その人は自分の個人情報が闇業者に漏洩している事実を知らない。かわいそうである。
それはともかくとして。
ハードカバーとか写真集というものはなぜ中古でもあんなに高いのだろうか。ぼったくりである。
内訳を見ていると、非常にぼくらしくない。
写真集はともかくとして、なぜエッセイなんていうものを買ったのか。
ぼくは基本的にエッセイを読まない。なぜか読むのがめんどくさいのだ。いちいち他人の人生観を読むのがめんどくさい。ぼくは自分だけで手一杯なのである。
そんなぼくがエッセイを買ったのには無論、理由がある。
ひとつは知人のためである。彼が大槻ケンヂ先生のエッセイが好きだと言うので、彼の機嫌取りのために買った。
もうひとつは写真集と同じ理由である。著者が「元モーニング娘。」と「モーニング娘。の妹分」だったからである。前者は安倍なつみさん、後者は松浦亜弥さんである。
本当は矢口真里さんの『おいら』という本が欲しかったが、残念ながら誰かに先を越されてしまった。残念である。
列に並ぶ前、批判本「こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』」というタイトルの本を見つけて手に取った。そして買った。
この本の著者は山本弘先生(SF作家)である。
乙一先生の『GOTH』が「『Yahoo!JAPANユーザーが選ぶ2003年ベストミステリー』国内編第1位」に選ばれた翌年のインタビューで、
「乙一さんが2003年のベストミステリーを選ぶとしたら?」
という問いに対して、
「山本弘先生の『神は沈黙せず』です」
と答えたのは、あまりに有名すぎて知らない読者も多いだろう。
この本は――(ってどの本だよ? とツッコミを入れたキミは偉い)――かの有名なベストセラー『空想科学読本』がいかに間違いだらけか、というのを明らかにしていく批判本である。
これはおもしろそうだ、と思ってつい買ってしまった。『空想科学読本』なんて読んだことないが、買った。
まえがきを読んだのが原因だった。世の中の人は『空想科学読本』に騙されているらしいのだ。
ぼくは読んだことないので騙されていないけれど。
しかしこの本、2002年に出版されているので、もう騙されている人はいないでしょうなぁ。ぼくがここで「みなさんは騙されているんです!」と、探偵きどりで言っても、無駄なんだろうなぁ。
騙されているというと語弊があるかもしれない。別に『空想科学読本』がすべて出鱈目というわけではないからだ。数多くの間違いがある、というだけだからだ。
詳しくは本作を見て欲しい。たぶん、おもしろい。まだ読んでないけど。
そういえば、みなさんは2005年23時59分59秒を、どのように過ごしただろうか。年越しの瞬間はなにをしていただろうか。
ぼくの場合は2001―2002年のときからずっと同じ過ごし方をしている。
あれ? 2002―2003年だったかな? まぁいい。
同じ過ごし方というのは、簡単である。ジャンプするのだ。
2005年の最後の瞬間、ジャンプする。すると次の瞬間年が明け、無事、2006年に着地できるのだ。
これは言ってしまえば、ワープである。2005年の自分が2006年にワープしてきたわけである。
この画期的な年の越し方を発明したのは、ガッくんことGackt様である(たまに「Gちゃん」とも呼ぶ)。
あれはいつかの年越しの瞬間、CDTVの生ライブでのことだった。
詳しくは覚えていないが、ガッくんが「跳ぶよ」と言い出した。
あれはたぶん、トリップという意味だったのだろう。そのときライブ会場にいたお客さんたちと一部の視聴者は、一斉にジャンプし、新年へトリップした。
それ以来ずっとぼくは、年越しの瞬間、ジャンプしてトリップしている。
もう4,5回、トリップしたことになる。
トリップは楽しいので、みなさんも今年の大晦日にジャンプしてみてください。
そろそろ、「また後日ヒマがあればそのときにでも」と書いたあの話をしよう。
ぼく、というかボクの書き上げた中編推理小説のタイトルは、「ダイイングメッセージ!?」である。
まさにミステリ! 的な匂いがする。
内容は教えないが思うことを少々。
ぼくははっきり言って頭が悪い。よく勘違いや深い思い込みをして失敗する。
今年度の夏休み前に4日で書き上げた短編「愛せない存在を消す方法」を知人に見せたときも言われた。
――お前はそんなに頭よくないんだから、ミステリはやめとけって。
その作品にはひとつ大きなミスがあり、現実世界において成立しないのである。
そのような軽はずみなミステリを、ボクは堂々とインターネット上に掲載している。バカなやつである。
しかしそれでいいと思う。バカはバカなりに頑張っているのだ。
バカなのにミステリを書くようなバカだけど、許してやってください。
その経験を踏まえて、ボクはまたミステリを書いたわけである。
今回も大して考えていない。ボクの努力もむなしく、作品は作者の手を離れて勝手な暴走を始め、完結した。
いつも思うがボクは本当に小説を書いていていいのだろうか。
こんなに無計画に書き始めてよくわからないまま話を完結させていいのだろうか。
よくないとは思う。しかしこれはどうしようもないのだ。
思うにボクは一人で執筆しているのではない。たくさんの自分がボクの中にいて、それぞれが勝手な思惑を持って勝手に行動して、書いているのだ。
多重人格者か統合失調症(精神分裂病)患者が書いているようなものだ。いや、それと比べるとまだ整合性があってマシなのだが。
そのような執筆スタイルで果たしてプロになってやっていけるのかと、まだデビューのメドも立っていないのにボクは思う。
しかしこれはたぶん、どうしようもないことなのでどうにもならないのだ。
それにこれがプラスに働くことだってある。
意外性だ。
作者すら予想していなかった展開になるわけだから、意外性はあるに違いない。
事実、どこかの精神異常者さんに「最後の返しがうまい」と誉められたことがある。
返しというのはおそらく大どんでん返しの一種だろう。
ミステリには、なくてはならない要素である。
そう考えると、ある意味、ボクはミステリに向いている。
あとはこのバカな頭をなんとかすれば、それで事足りるわけである。
あぁ、脳味噌さん、どうかしわを多く刻んでください! 頭良くなってください!
……なんか自分で言っていてかわいそうになってきた。バカだ。
1月5日。
まずは近況報告。私はもう、国家公務員ではない。
任期が今日までなので、今日の仕事が終わった瞬間、国家公務員資格も消え失せた。
非常に残念である。
これからもっとヤバイ組織に情報提供してガッポリ稼ぐつもりだったが、ダメになった。
これから私はどうやって生きていけばいいのだろうか? 生活費をどうやって稼げばいいのだろうか?
とりあえずは以前からおこなっているビラ配りのバイトが明日と明後日に、ある。
もう2ヶ月以上ぶりに街でビラ配りをするのである。
私は知らなかったが、ビラ配りというのは社会の底辺のような人間がする仕事らしい。知人にこのバイトを勧めたとき、そのように言われて断られた。
たしかにビラ配りは大変だ。よくミジメな気分になる。
ティッシュならまだいいが、ビラという名の紙切れに関心を持つ人間はなかなかいない。
よろしくお願いします、と愛想良く言って渡しても、なかなか受け取ってくれない。
イケメンの男が配っても、大して効果はない。
ただ、女性のほうが見た目に華があって、受け取ってもらえる率が高い傾向にある。
だから私は、その仕事の最中だけ、女になりたい。無理だが。
これ以上書くと陰鬱な内容になるので、仕事の話はここでやめる。
ちょっとナルシストみたいだが、自分の作品についてもう少し語っておきたいことがある。
昨日の日記で、『ボクの努力もむなしく、作品は作者の手を離れて勝手な暴走を始め、完結した』と書いた。
これは毎度のことである。
私、いやボクは、いつも何も考えずに小説を書き始める。
それは特にショートショートを執筆するときに顕著だ。
パソコンの前に向かっていきなり文章を打ちはじめる。構想はほぼ皆無である。
たとえば「上る階段」という作品は、最初に「階段をひたすらのぼる」というイメージがあった。しかしそれだけだった。
ボクは書き始めたとき、ただ階段をのぼるだけ、の話を書くつもりだった。そこに物語が発生する予定はなかった。
しかし出来上がってみれば、いつのまにか変なオチがついて完結していた。短い物語が発生していた。
正直、こわい。
ボクはなんの面白味もない物語なしの小説(そういうものを小説と呼んでいいのかというとよくないとは思うが)を書こうとしていたのに、おかしな方向に話が転び、うまく完結してしまったのだ。
作者の意図と関係なく。
ボクとしては、勝手に小説になってしまった、という感じである。
いったい誰がこんな風に話を展開させたのか? と考えてしまう。
もちろん執筆中の記憶はちゃんとある。しかし書いている途中に、ボクではない何者かの手がボクの代わりに物語を紡いでいる気がするのだ。
その何者かは当然、ボク自身なのだが……。
日記にしても同じだ。たいてい何も考えずに文章を打ちはじめる。そしたら、なるようになるのだ。
同じようなことが短編小説を書くときにも起こる。
ボクの場合、短編というとだいたい80枚~110枚程度の作品になる。
それだけ長いともちろん、構想が必要である。プロットというのを組まなくてはならない。
しかしボクはプロットを書かない。いや、書けないのだ。
なぜなら、小説を書き始めた段階ではまだ、話の内容が出来上がっていないからだ。
プロットというのは、あらすじである。物語の内容をポイントだけ押さえて箇条書きにして書く。その物語がきちんと展開されてきちんと完結するかどうかの確認にもなる。
要するに、プロットというのは物語がきちんと出来ていないと書けない代物なのである。
ボクのように物語の核心しか決めずに書き始める人間には、プロットは書けない。
ミステリには必ずプロットが必要である。
作者が物語の全てを知った上で書かなければ、ほころびが生じる。
ミステリというのは構造が重要なのである。
ボクはミステリの知識が非常に浅いが、それくらいのことはわかる。
ミステリには非常に緻密なプロットが必要である。
犯人の行動、主人公の行動、その他の登場人物の行動、全てを把握し、どこでどの伏線を張るか、どの部分が推理に結びつくのか。主にそういう諸々のことを頭に入れておかねば書けないのだ。
そういう意味で非常にめんどうくさいジャンルである。めんどくさがり屋のボクには向いていない。
だからボクは、めんどうくさくないミステリを書いた。
プロットなしのミステリである。
いや、これはもうミステリとは呼べないのかもしれない。伏線なし、推理なし。作者の一方的な奇術。完全なアンフェア。
それが「愛せない存在を消す方法」と「ピンポンだっしゅ」という作品である。
この2作でボクが書きたかったのは、ミステリではない。だからミステリでなくていい。
ボクはただ、読者を騙して笑いたかったのである。
そしてもうひとつ。完全犯罪をやってみたかった。
それだけである。
読者のみなさん、騙してしまって申し訳ありませんでした。そして騙されてみたいと思ったそこのあなた、読んでください。
さりげなく宣伝したところで、中編推理小説の話をしよう。
前述のように、ボクはプロットが書けない。プロットを書けないということはミステリが書けないということである。
しかし今回、ボクは推理小説=ミステリを書いたと報告した。
つまり、プロットを組んでから書き始めたということである。
初プロット、初ミステリ、である。
苦労した。めんどうくさかった。
しかしやはりボクは普通の書き方をしなかった。
ラストをどうするか、それだけは決めていなかった。それに、書いている途中でいろいろ思いついて取り入れたり取り入れなかったりした。
伏線のタイミングも考えなかったし、推理の手順も方法も一切考えていなかった。
ただ事件の過程だけ、殺害方法とかトリックだけ考えて書いていた。
だから正直、探偵がどのようにして事件を解決するのか、作者にはわかっていなかった。
もう一度言う。
作者には探偵の行動が予測不能だった。
ありえないですね。ありえないですよ。
バカですね。こいつはバカですよ。
客観的に考えてこの作者は頭が悪い。
そんな安易な方法で書いたミステリが、きちっとしたミステリに仕上がっているはずがないのだ。
はずがないのだ……が、まぁ、いいではないか。
ボクは普通のミステリが書けない。だから変なミステリを書いた。
それだけだ。
幸運なことに、ボクの創造した優秀な探偵は、事件を解決してくれた。
ボクは事件を用意するだけで良かった。
だから普通のミステリを書くときより数段ラクだった。
物語はいつものように作者の意図せぬ方向に転び、おかしな完結を見せた。
衝撃のラストを思いついたとき、作者が一番驚いたに違いない。
こんなことでいいのか、自分。
1月6日。
いま、麻耶雄嵩氏のデビュー作『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』を読み進めている。
(今、ためしに「こく」と打って変換してみたら昔の国という字「國」が出た。1月4日の日記は、「江國香織」が正しい表記なので間違えないように!)
島田荘司先生、綾辻行人先生、法月綸太郎先生という、新本格ミステリの大先生3氏の推薦文を得て、ミステリ界に衝撃を与えた伝説的作品である。
しかも当時、著者は弱冠21歳だった。
とまぁ、ものすごい作品なのである。
ボクがミステリにハマった理由は、長い話を割愛して元を辿るならモーニング娘。ファンだったからなのだが、それはまた別の機会に詳述しよう。
短く言うなら、乙一先生のデビュー作を誉めた我孫子武丸先生と法月綸太郎先生と綾辻行人先生の新本格ミステリ・トリオの所属していた京大の推理小説研究会というサークルの後輩が、麻耶雄嵩氏なのである。
と、よくわからない説明はさておき。
この『翼ある闇』という作品、まだ半分しか読んでいないが非常に手が込んでいる。
作者は間違いなくミステリ狂だし、クラシック音楽やアンティークなどの芸術に詳しい。さらに言うなら数学にも詳しい。
だからなのか、はっきり言って文章が意味不明だ。小難しいというか大難しい話ばかりするので、とてもついていけない。
私のような無知識人は、そういう高尚な部分は無視して読むしかない。
どうもすみません。
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