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歴史の中の「経緯」・・72 寄り道話

2017年12月25日 | 歴婆の勝手な解釈

ひょっとして、遷都の度に、

天皇を擁立する民族(あるいは、豪族?)が

かわっていたんじゃないか?

と、いう思いがわいてきていたのだが・・・

その「かもしれない」を

なんとなく、におわす言葉がある。

以前に書いたことであるが、

福山に沼名前神社というのがある。

これを、

ぬなくま神社と読む。

前が「くま」なのである。

文字を漢字にあてはめていくと

ぬは奴

なは名

くまは前

「漢委奴國王」

を、いっしょにかんがえているのだが、

奴名前(ぬなくま)とあてはめると

奴の名は前(の名前)。

以前の名前は「奴」だった。

と、かくしているように思える。

 

その段で、

くまを前とかんがえると

熊襲という音も

前祖という先住民をあらわす音(言葉)だったのではないかと思える。

凶暴な熊のように荒々しく、まつろわぬ民族を討伐する。と、言う言い方(熊襲征伐)は

分があるが

前祖(くまそ)(本来のその土地の住民)を討伐する。では、侵略になる。

言葉が発音とその漢字の意味とを

微妙に・・・いや、複雑にからめているのではないか?

と、思うようになったのは、

素戔嗚からだ。

素戔嗚とかくと、(挫折してしまったことを嘆く?ような、)良くない意味合いにとれる。

須佐之緒とかくと、(清い魂で人を導く要の人)と、良い意味合いになる。

******

学校で、「熊襲」という言葉を聞いた時

なにか、微妙に違和感があったのを覚えている。

漢文の読み方をすると

熊襲討伐

熊を襲い討ち伐す。

なのだから、

レ点をいれて

襲(ってくる)熊を討ち伐す。

と、なり

対象は「くま」

つまり、襲ってくる「くま」もいれば

襲ってこない「くま」もいる。

「くま」を討つのでなく

「はむかってくるーくまー」を討つ。

と、わざわざ、言葉をつかいわけているのに、

「熊襲」という部族がいるように、十把一絡げに「熊襲」と呼ぶ。

確かにまつろわぬ民を「熊」と、たとえるのもまちがってはいないが

そのうしろに、

卑弥呼・邪馬台国と侮蔑した呼称をあてはめたがる「同じ系統」の揶揄とみえてくると

なんだか、記紀が、違う民族によってかかれているのではないかと思えてくる。

ちょうど、NHKの日本のドラマのなかに、某国の挨拶の仕方で演じられるという「脚本」があり

手繰ってみれば、脚本家が某国人であったりするわけで・・・

それが、日本放送協会だ、などという茶番ににていなくもない。

********

話がずれてしまったが、

キトラ古墳の資料館でみつけた「くま」

 読みにくいのですが、キトラや、高松塚の壁画をかいた(原図?)と思われる渡来人について

ふれているのです。

その渡来人が檜隈民使博徳

ひのくまのたみのつかいはかとこ

と、もうひとり。

身狭村主青

みさのすぐりあお

この二人の子孫が東漢一族(やまとのあや一族)/となり

飛鳥文化の形成にかかわった。

と、いうことのようですが、

今に残る地名に

檜前(ひのくま)にすんでいたのではないか?

と、いうのです。

ここに、

「前」を「くま」と呼ぶと見つけたわけです。

 

地名が先だったのではないかと思うのですが

まあ、福山の高橋・・・みたいな

どこのだれべえ、と、いう風につたわったと考えると

檜前という地名は渡来人が名乗りを上げた以前から

つかわれていた地名と考えるのですが、

この「ひのくま」を同じように

音からかんがえていくと

「ひ」は「霊」「魂」

「くま」は前の住民、先住民

つまり、

前の天皇(など)の霊魂。

ところが、

漢字は檜前

すなおによむと

ひのきくま

ところが、「き」を隠している。

これも、刺す竹のところでかいたように

文字音と漢字音と漢字の意味と、複雑に絡まっていると思う。

ひのき くま 

は、前の人の 霊(ひ)の「気」(ひのき)と考えられる。

その「き」(気)が、隠れている、と、いうか、見えないけど、ある。

こういう意味合いの「ひのくま」(檜前)なのではないか、と思いたくなる。

思いたくなるのも、無理もない。

高橋の口から同じ意味合いの言葉が出ている。

ー古い気が多いのだろうなあー

先にかいた檜前の解釈をうらづけるかのような言葉である。

(前の人の 霊(ひ)の「気」(ひのき)と考えられる。

その「き」(気)が、隠れている、と、いうか、見えないけど、ある。)

 

********

その前の人というのを考える。

雄略天皇2年(457年)に渡来人がきたとされるのだが、

この雄略天皇は

応神天皇のひ孫にあたる。

応神天皇といえば、

(一応)仲哀天皇と神功皇后の子供ということであるが、

仲哀天皇がなくなった後に生まれた応神天皇は

仲哀天皇崩御後、70年もたってから、

天皇になり、40年在位していた。

110歳?

ちょっと、かんがえにくくもあるが、

神功皇后=卑弥呼ではないか?というところで、

書いているように、

なんだか、仲哀天皇、突然死、

神功皇后、70年 天皇が居ないまま

執政をおこなっていたというような?

気比神宮にて、応神が

イザサワケとの「な」の交換話。

応神の異母兄との争い。

 

なにかしら、「前」との交代劇があったと考えられる。

そして、

 古墳の時代がキトラ古墳造営のころに終わる・・・

と、ある。

埋葬者は不詳。

被葬者

誰が埋葬されているかは未だ判然としていない。年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。また、金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。

白石太一郎は、被葬者は右大臣阿倍御主人(あべのみうし)であったと推定し、その根拠として、古墳周辺の一帯が「阿部山」という名前の地名であることを挙げている。岸俊男などもその蓋然性が極めて高いと考え支持している。直木孝次郎も阿部御主人を第一に挙げ、皇族では弓削皇子も考えられるとした。阿倍御主人は大宝3年(703年)4月右大臣従二位、69歳で没した(『続日本紀』『公卿補任』)。

または、京都橘大学猪熊兼勝は、天武天皇の皇子の高市皇子という説を主張。

千田稔は、百済から渡来した百済王昌成(しょうじょう)を被葬者に挙げる。

*********

このキトラ古墳の形、円墳が最も多いということなのであるが、

キトラまでくる道のりに

纏向遺跡、他 天皇陵をみてきたが、

その説明図をみると、墓の概念というか、

「死」の概念をみるような気がする。

仁徳天皇量などは、

ヘブライのマナの壺をかたどったという説もあり

比べてみれば、取っ手にあたる部分もあり

そうなのかもしれないと思えてくるが

そうだとするなら、

「前(くま)」の交代劇の中に

ヘブライ人の存在が色濃くなってくるし

キトラの資料館を参照すれば

中国あたりからの渡来人も混在していると言う事に成る。

中国あたりの技術者が日本にわたってくるのは、

判らないでもない。

中国の美術品?は、上の人間が贅沢のためにつくらせていて

その体制は、

「良いものを作らなければ殺すぞ」みたいな、職人が使い捨てのような状態に見える。

ところが、日本に来れば

職人(技術者)は、ほめたたえられる。

非常に居心地のよい場所だったと思うので

日本に帰化する事に成ったと思える。

*******

話戻して

墓・死の概念を感じ取った場所の写真を並べる。

 

 

 纏向遺跡のすぐ横にある。なだらかな丘と掘りが見られる。

続いて・・・

 

 

 そして、

 

 纏向型前方後円墳と説明されているが、

纏向の説明図をみてみると、

最初の形。と、推定されているのだが、

この形・・・

なにか、袋の形に見えなくもない。

袋という言い方は失礼になるが

母体の子宮を表しているように思える。

(だから、おふくろさん、と、いうのか・・などとおもってしまうwww)

つまり、

この頃の「死」の観念は、

極楽浄土とかいうものでなく、

「生まれてきた処に戻る」と、いうものではないのだろうか?

だから、子宮型?の墳墓に埋葬し

羊水にまもられている「命」ということで、

その考えを発展させ堀をめぐらした。

*******

こう考えると

死は生まれたところに戻る。

と、いう縄文時代?からの観念がどこからか、

崩れてきているようにも思える。

そして、大化の改新あたりで、

墳墓の縮小(あるいは、禁止)が、はじまって

やがて、キトラあたりで、古墳時代が終わりを告げるわけだけど・・・

この辺りも、仏教思想が浸透し

死は生まれたところに帰るのではない。

涅槃・浄土に赴くとでもいうような

「あの世」という観念が成立したのではなかろうか?

キトラ古墳の四方神を考えても、

真ん中に棺を置くということは、そこが、すなわち「あの世」の出入り口ではなかったのかと。

*****https://ugaya.jimdo.com/2017/06/15/中国の-陰陽五行-は日本の-四元-がルーツ/****

それでは、中国の「五行論」と日本の「四元論」では、どこが違っているのか?
もっと具体的にみてみましょう。

 

(1)構成要素の違い
中国の「五行論」では、【木】、【火】、【土】、【金】、【水】の5つを構成要素と考えます。

これに対して、日本の「四元論」では、上記のとおり、【息(風)】、【火】、【土】、【水】の4つが構成要素です。

つまり、【金】(ごん)という要素は日本には存在しません。
【金】は中心点だと考えられていたので、要素にはカウントされませんでした。
だから、方位においても東西南北の4方向しか存在せず、中心は要素ではないのです。

********

上は四方神とは違うのですが

渡来人の考えでは四方神の配置の中心こそが、

世界の基だったろうと思えるのです。

そう考えると

古墳の終わりになってくるというのも判る気がします。

「世界の基」=あの世というものがあり

そこから、人が生まれてくる、死して、帰る。

と、なってくれば、

大きな子宮の象りはいらなくなってくる。

*********

まさに

「前(くま)」のひのき(霊の気)を・・・

「前」の観念を変えてしまったのが、

技術・技巧の導入であるといえる。

こういう技術の進歩により、

前の観念・認識が変わってくるのも

例えば、

天動説が、地動説にかわっていくのとにており、

いたしかたがないことであるのだろう。

とは、いえ、

それでも、明日香の野辺には、

古い気がおおくある。という

高橋&代理がかんじたことも事実であるように思える。

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