*********
元に戻ろう。
奴奈宣破姫を美穂津姫にしなければならなかった理由と
建御名方神を美穂須々美にしなければならなかった理由と
*********
御穂須須美命(みほすすみのみこと) - 神魔精妖名辞典 (maji.asia)
御穂須須美命
「出雲国風土記」に見える神。「大国主神=所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)」と「沼河比売=奴奈宜波比売命(ぬながわひめのみこと)」との間に生まれた御子神であり、島根郡の美保郷(現在の島根県松江市美保関町あたり)はこの神が坐す地であることから「美保」と呼ぶようになったという。この神社は現在の「美保神社(みほじんじゃ)」のことと考えられるが、現在でこの神社の主祭神は「三穂津姫(みほつひめのみこと)」とされており、御穂須須美命は境外社である地主社に祀られるのみである。これは祖先に土地の神と思われる意支都久辰為命を持つ御穂須須美命より、天津神である高御産巣日神を祖先とする三穂津姫を重要視する動きがあったと考えられる。神名の解釈には諸説あり、「日本書紀」に言及される「火進命(ほすすみのみこと→火須勢理命の別名)」との類似が指摘される。
*******
ほのすそり-の-みこと 【火闌降命】 日本書紀にみえる神。瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子。海幸・山幸神話の海幸。隼人族の始祖。火酢芹命(ホノスセリノミコト)。火進命(ホノススミノミコト)。古事記では火須勢理命(ホスセリノミコト)とされ,海幸・山幸神話の役割から外れる。
******
御+ほすすみのみこと=みほすすみのみこと
******
海幸彦は海で魚を釣る
事代主は美穂埼で、魚を釣る。
********
海幸彦の習性?が、でてしまう事代主
と、考えるとwww
海幸彦=事代主と思えてくる。
で、あるなら、後々、事代主の系譜が
皇室に降嫁する(することを許される)理由が成り立つ。
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子なのだから・・・
*******
もうひとつ思うのは、
饒速日の十種神宝。
十種神宝の内容は以下の通りである。
- 沖津鏡(おきつかがみ)
- 辺津鏡(へつかがみ)
- 八握剣(やつかのつるぎ)
- 生玉(いくたま)
- 死返玉(まかるかへしのたま)
- 足玉(たるたま)
- 道返玉(ちかへしのたま)
- 蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
- 蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
- 品物之比礼(くさぐさのもののひれ)
山幸彦のほうの神宝?
山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い・・・
「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」は
沖津鏡(おきつかがみ)辺津鏡(へつかがみ) と、同じ働き。
海を沖にしてしまう鏡。海を野辺にしてしまう鏡
*********
『物部氏十種瑞寶秘傳』
鳥獣之災を撥之以て打つと、即ち痛さが止る也。鳥獣とは毛荒物毛柔物を謂う、惣べて品物と謂う也、此比禮三者は八握劔同気、亦事代主所掌也。
『物部氏十種瑞寶秘傳』
八刀握劔也、星辰之劔、在人者肺、金蔵魂也、治邪気の禳の金気也、事代主神所掌也、且高皇産霊尊之子、(中略)是即天地人萬物金気所掌也。
『物部氏十種瑞寶秘傳』
鳥獣之災を撥之以て打つと、即ち痛さが止る也。鳥獣とは毛荒物毛柔物を謂う、惣べて品物と謂う也、此比禮三者は八握劔同気、亦事代主所掌也。
**所掌をどう解するかというところなのだけど、
他の神宝は御気都神所掌也 大宮賣神所掌也 生玉死反玉同體異名也、両玉者神皇産霊尊之子、生産霊尊所掌也。
とあり、
『物部氏十種瑞寶秘傳』によると、
此比禮三者
八刀握劔
の4っが事代主所掌とある。
別名は八重言代主神、八重事代主神とも表記し、『古事記』において大国主神と神屋楯比売命との間に生まれたとされる。
葦原中国平定において、建御雷神らが大国主神に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主神が答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主神は「承知した」と答え、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。この天ノ逆手は一般に手を逆さに打つことだと考えられている。
これは、
- 品物之比礼(くさぐさのもののひれ)を使った?
船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて 品物を変える?ともとれる。
『日本書紀・神武紀』には、神武天皇の皇后となる媛蹈韛五十鈴媛命に関して
事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。
『事代主神、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ、陶津耳)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)ともうす。』とあり、事代主神は神武天皇の岳父となっている。これは『古事記』で大物主神が三嶋湟咋(みしまのみぞくい、陶津耳命)の娘・勢夜陀多良比売(せやだたらひめ、活玉依毘売)との間に比売多多良伊須気余理比売を生んだことと一致する。また『日本書紀』で三輪氏の祖・天日方奇日方命を生んだことと、『古事記』で三輪氏の祖・櫛御方命を生んだことに一致する。
その他、綏靖天皇の皇后は、『日本書紀』本文では事代主神の女、『古事記』では師木県主の祖河俣毘賣となっていることからも、神武東征以前の大和在地豪族で、磯城縣主を任じられた弟磯城(おとしき、黒速)は天日方奇日方命と同一人物であり、また事代主神については、その系譜や世代関係(神武天皇の父母世代)からも実態は大物主神と同一神であると考えられる。
『先代旧事本紀』では、大国主神と高津姫神(宗像三女神の多岐都比売命とされる)の子として記述されている。なお偽書の疑いが濃い海部氏勘注系図には高津姫神は「神屋多底姫」(かむやたてひめ)の別名としており、『古事記』の大国主神が神屋楯比売命を娶って生んだとする記述と一致する。
********
『石切劔箭神社』の社史によれば、天照大神から大和建国の神勅を拝し『十種の瑞宝』を授かった饒速日尊が船団を組み、自らも『布都御魂劔』と日の御子の証である『天羽々矢』を携え天磐船に乗り込み、物部八十の大船団を率いて高天原を出航した。途中、豊前国の宇佐に寄港すると船団を二つに分け、息子の天香具山命に『布都御魂劔』を授け船団の一方を預けた。宇佐から瀬戸内海を渡ると饒速日尊は河内・大和に、一方の天香具山命は紀伊に向かった。天磐船が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(たけるがみね『生駒山』)に着くと、饒速日尊は辺りを見渡し「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じた。これが日本の国号の始まりとなった。当時の河内と大和の一帯は鳥見の里と呼ばれ、穏やかな自然と海や山の幸に恵まれた豊な土地であった。この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術がないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに優れ、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で「長髄の者」と恐れられていた。その頃の鳥見一族の長、長髄彦は饒速日尊の徳の高さに打たれ、尊のもたらした稲作や織物、製鉄の道具・武具に文化の差をみると、争う事の無益さを悟り、一族こぞって饒速日尊に従った。この時二人の間を取り持ったのが長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)で後に尊との間に宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)をもうけた。
こうして鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、水が豊かで稲作に適したこの土地に水田を拓き、大きな実りをもらすようになった。これが近畿地方の稲作文化の初めとなった。一方、鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、磐余彦(後の神武天皇)が日向の高千穂から東へ進行を続け(神武東征)、やがて河内に上陸し孔舎衙坂で長髄彦と対峙した。戦いに敗れた磐余彦は紀伊方面に退却、紀伊半島を迂回し再び長髄彦と対峙する。この頃、既に饒速日尊は亡くなり、代わって鳥見の長となっていたのは宇摩志麻遅命だった。宇摩志麻遅命は「天羽々矢」と歩靭(かちゆき)を、日の御子である証として磐余彦に差し出した。すると磐余彦からも同じものが示され天孫であることが明らかになった。宇摩志麻遅命は長髄彦に磐余彦への帰順をさとし自らも一族を率いて磐余彦に忠誠を誓い、広大な稲作地や所領のすべてと天照大神から授かった『十種の瑞宝』を磐余彦に捧げた。こうして大和の統一が成し遂げられ磐余彦は始馭天下之天皇(神武天皇)に即位した。
*******
『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」といい天忍穂耳尊の子で瓊瓊杵尊の兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。また物部氏、穂積氏、尾張氏、海部氏、熊野国造らの祖神と伝える。
*******
『古事記』及び『日本書紀』の一書によれば、天火明命は天忍穂耳命と高木神の娘万幡豊秋津師比売命との間に生まれた子としている。これらの伝承において邇邇芸命は弟だが、『日本書紀』の別の一書では父としている。
******
奇妙なのは、
兄弟闘争といっていいか。
その相似形に見えてくる。
邇邇芸命は弟
天照大神から大和建国の神勅を拝し『十種の瑞宝』を授かった饒速日尊
瓊瓊杵尊の兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神
兄が負ける?
海幸彦・山幸彦も 兄が負ける。
ほぼ同じ構成といっては、言い過ぎだが
これは、なにをなぞっているのか?
失われた十二支のうち、
二支族が日本に来た。
その兄弟関係のような支族を象徴しているのか?
天照と須佐之男命も、同じように思う。
******
と、なると、
高皇産霊神と天照も支族が違う?
*******
話がぞれていっているのだが、
二支族のうち、先に日本にたどり着いた(仮に)N支族
これが、饒速日で、
じつは、こちらが天照大神「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」
籠神社について
この水は籠神社海部家三代目の天村雲命が神々が使われる「天の眞名井の水」を黄金の鉢に入れ、天上より持ち降った御神水です。
*マナの壺ではないかといわれる*
主祭神 彦火明命
別名を天照国照彦火明命ともいい天孫邇邇藝命の兄弟神。天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り、海の奥宮である冠島に降臨され、丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め開拓された神様。

邊津鏡
(学名 内行花文昭明鏡)

息津鏡
(学名 内行花文長宜子孫八葉鏡)
昭和62年10月31日に二千年の沈黙を破って発表し、世に衝撃を与えた。 邊津鏡は前漢時代、息津鏡は後漢時代のものである。この二鏡は、その由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、二千年に亘って元伊勢の祀職たる海部氏が当主から次の当主へと代替わりごとに口伝を以て厳重に伝世してきた。
豊受大神
産業、衣食住の神様。
月神の一面をお持ちであり、天御中主神と同神であると伝えられる。
衣食住守護・諸業繁栄
相殿
罔象女命
彦火火出見尊
:眞名井神社の裏には古代の祭祀形態である磐座(いわくら)が鎮座し、その磐座(神が宿る石)で神祀りが行われてきました。神を祀る常設の社殿(神社)が無い時代の人々は大きい木や岩石、島や川などに神々が籠もると考え、それらを崇拝対象として神祀りを行っていました。眞名井神社境内地には縄文時代から人々が住んでいた証である縄文時代の石斧や掻器などが出土し、また弥生時代のミニチュア祭祀土器破片や勾玉が出土しています。そのため眞名井原一帯は縄文時代から神聖な地と考えられ人間が生活を営み、神々をお祀りしていたことが窺えます。
籠神社は、元伊勢と呼ばれる神社でもある。
あとから日本にたどりついた(仮に)A支族。
おそらく、記紀は、だれかがいっていたように、
ウガヤフキアエズ王朝の歴史をなぞって書いたところが多いと思う。
A支族が実権をにぎるため、
N支族という兄弟支族を追討していったというところだとは思う。
が、
神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮の地眞名井原に匏宮(よさのみや)と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号で四年間ご一緒にお祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。その故事により当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で「元伊勢」と呼ばれております。
*****
匏宮(よさのみや)ヨシュアの宮という説がある。
ヨシュア(ヘブライ語: יְהוֹשֻׁעַ, Yehoshuʿa)は『旧約聖書』の「民数記」や「ヨシュア記」に登場するユダヤ人の指導者。新約聖書のイエスと同じ名前。יהוה(ヤハウェ/ヤフア)は救いという意味。
モーセは120歳になると、自分の後継者としてヨシュアをたてて亡くなった。
ヨシュア=饒速日とはいわないが、
A支族にすれば、同族争い・惨殺などはモーセ・ヨシュアに逆らうがごとくであっただろうので、
なんとなく、饒速日を同族のように扱いつつ、その存在をうやむやにしただろうと思われる。
*********
もう一度、元に戻ろう。
奴奈宣破姫を美穂津姫にしなければならなかった理由と
建御名方神を美穂須々美にしなければならなかった理由と
*********
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます