路面に凍結剤をまくころになると、
特に山側の道をはしることができなくなるということで、
晩秋か、初冬か?
そのころに、短距離走行を行ってきました。
どこにいくのか?
と、たずねると
だいござくらをみにいこう。
ん?
代理の記憶の中にあるのは、
岡山市近くの国道沿いのお寺?神社?
そこに「醍醐桜」とかかれた看板(とは、ちがうが)がちらりとみえた。
てっきり、そこに行くのかと思い、
桜の季節でもないし
国道沿いから、ちらりとみえた桜も
ま~~、わざわざ、みにいくほどのものでもなさそう・・・・
と、思いつつ、機嫌をそこねさせてはいけないと
黙って成り行きにまかせることにしたのですが・・・
おりょ?
道がちがうやん・・・
やっと、そこで、きがつく。
醍醐寺?の桜ではなく、
あの「醍醐桜」だ!!
TVでやってたのを思い出した。
1本だけ、ずば~~~~と立つ、でかい桜だ♪
そして、到着し、
代理も持ち主そのままのちょいぼけカメラで
一写!!
(高橋がもっていったのがあるので、ブログアップ用に・・・)
後 醍醐天皇が壱岐に流される時に桜をみに、立ち寄ったという話から、
醍醐桜の名がついている。
まず、後醍醐天皇がいつのころか、判らない。
鞆の七卿落ちと同じころだっけ?
と、たずねてみるものの
七卿落ち の時代も把握していない。
いや~~~。
歴婆などと豪語しているが、
元々は明治維新あたりから入って、
いきなり、古代史にのめってしまって、
あいなかが、さっぱりわかっていない!!(いばるな?)
醍醐天皇もいたよね?
後鳥羽上皇もいたな・・
鳥羽上皇というのもいたのか?
などと、馬鹿をかんがえていると
高橋、
鎌倉幕府のあとから南北朝のころの天皇で・・足利尊氏が云々・・
と、説明?考えて、1300年あたりかなあ・・という。
1300年あたりとして、700年。
すでに観桜できたとかんがえると
後醍醐天皇がみた桜は200年~くらいの樹齢か?
桜の樹齢って、そんなにあるか?
などと、疑問をもちつつ
すでに1000歳くらいの桜?
・・・・・
切って年輪をかぞえるしかないのだろうから、
諸説あって、900年とか1200年とか1000年とか、
いわれているようだが、
わざわざ、後醍醐天皇が立ち寄ったか?
壱岐までいく道のルートにたまたま、あったか判らないが
それでも、観ようというのだから
その時すでに、立派な桜だったのではないか?
立派なさくら、みごたえのある桜が、樹齢何年ころかわからないが・・・
200年~くらいの桜といわれているものをみているが、
1本だけだったら、う~~ん、どうだろう。と、いう微妙な線。
と、なると、後醍醐天皇がみた桜は300年~400年という風に思う。
花がない状態で、圧倒的であるのだから、花の時は見事であろう。
だが、ふと、思う。
これほど、見事でも
現代・近代の天皇は、御行されていないだろうか?
*******
流刑になった天皇が愛でたという経緯もあるから、こないのかなあ?
などと、つぶやいていると・・・
南北の違いもあるかもしれない。
と、いう。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。
後醍醐天皇は南朝の初代天皇。
南北朝以降、近代まで、北朝の天皇。
法的には、南朝は亡命政権であり、日本の支配権は北朝と室町幕府にありました。その亡命政権も、四代目の御亀山天皇が実質的な降参をして、南朝の三種の神器を北朝に差し出したことによりその命脈は絶え、南朝の子孫は皇位に就く資格を永久に失いました。
南北朝合体の時点で南朝は終焉しており、南朝の皇族の子孫が残っていて代を重ねて現代に至っていたとしても、皇位の望む資格は一切ありません。
もともと明治天皇が北朝の子孫であることは明白な事実であり、北朝が正統で少しも構わなかったはずなのに、明治の終わりのころに南北朝正閏論が勃発して、南朝の正当性を認めるべきだという国民運動が起きて、北朝を正統とする学者は勿論のこと、両朝並立論を言う学者さえも、国賊乱臣賊子と決め付けられ、大学から追われるような騒ぎになりました。
明治天皇が南朝を正統と認めることでようやく事態は沈静化しましたが、歴史の教科書にあった南北朝時代は吉野朝時代と書き換えられました。
*********
このあたりのことを、いうのだろうか?
南朝の初代天皇が観桜したところに、北朝の天皇は、いかない?
天皇は厳密には、国家ではないが、
国家が、二分してしまった世界の国々も、
大本のいうところの
「日本はひな型。日本におきたことは、世界におきる」
と、いうところが当てはまってくると思うし
もっと、いってしまえば
記紀によれば、
素戔嗚と天照で二分されたところもあるわけだから、
これが、本来のひな形であろうか?
こういう意味でも、
今回、出雲大社宮司に天皇家の系統が嫁いだということは、
二分されたものが、元に戻ったように思う。
このひな型が、世界におきていくことになるのだろうと
願う。
醍醐桜は、まるで、この世界を見守り、見届けようとしているかのように
山の頂に凛とそびえていて
もしかしたら、後醍醐天皇が立ち寄った時も
南朝・北朝どちらがどう、と、いうのでなく
ひとりの人間の行く末やら
この先のことなど、じっと、見つめていたのかもしれない。
あるいは、代理にでも、
そんな目を向けていてくれていたかもしれない。
そんな不思議な「思い」の存在感と
なにもかもを包むこんでしまう抱擁感があるように思ってしまった。
おそらく、春にいったら、
花に目をうばわれ、気が付かなかったかもしれない「邂逅」だったのかも。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます