ロンドン野郎

カナダのオンタリオ州ロンドン市で4年半暮らしたロンドン野郎。 この度本家大英帝国ロンドン市(近郊)へ参上。

ニューヨーク独り旅⑦ - 移民局のあったエリス島

2009-07-27 21:41:02 | ニューヨーク街歩き②

自由の女神の島観光を終えるとCircle Lineの観光船は、近隣のEllis Island エリス島に立ち寄ります。 ここに何があるかと言うと、かつて新大陸を目指した移民が大西洋を渡ってたどり着いたニューヨークで、最初に入国審査を受けた場所だったんです。

Dscf0034

実を言うと、ロンドン野郎、この2004年9月の初めてのニューヨークの旅で、一番感動を覚えました。

Dscf0036

この豪壮なレンガ造りの建物がかつての移民局の本館です。 1892年から1924年迄、アメリカへの入国審査の中心として使われていました。 その後、移民局としての機能は縮小されたものの、沿岸警備隊の施設が入ったりして、最終的に1954年に島は公式に閉鎖されたのです。

Dscf0037

そして、1965年にはエリス島はアメリカの国家記念物に指定され、膨大な資金を投じて、1990年に博物館として一般に再公開されました。 移民の国アメリカ合衆国の現在の国民の中で一億人以上の先祖が、このエリス島を経てアメリカに渡ったと言われています。

Dscf0040

かつてはこの巨大なホールにはイスとテーブルが所狭しと並べられて、長い航海の末アメリカにたどり着いた家族はここで審査の順番を待ちました。 やっとの思いで辿り着いても、犯罪歴や伝染病、精神疾患などの理由で約2%の人が入国を拒否されたそうです

Dscf0039

こういった展示の中には、日系移民の歴史もありました。 入り口には有料ですが、日本語のイヤホンの案内もあるので、時間を掛けてゆっくり、移民の人たちが辿った道順を追ってゆくと、自分自身がその当時の移民になった擬似体験をしているような気持ちになります。

Dscf0042

病気持ちは必ずしもそのまま無下に追い返されるということではなく、長旅で体調を崩した人などは、この施設の中にある病院で治療を受けることができました。 そして回復後改めて移民を許されるということもあったそうです。

Dscf0043

この入り江の奥にある建物が施設内の病院。 でも、医療技術の乏しかった時代、ここまで来て、アメリカに入国することもなく、そのまま亡くなった人も沢山いたんだと思います。 そして、せっかく入国しても、なけなしの財産を悪徳業者に巻き上げられることも多々あったということが書いてありました。

Dscf0046

多くのアメリカ人にとっては、この場所は自分たちのルーツとその苦労を知る、最も感慨深い場所ではないかと思います。 でも一般の観光客にとっては自由の女神を見物した後、なんか退屈な博物館程度で、そのままスキップしてしまう人が結構多いんです。

エリス島はアメリカという国を別の視点から知る為にもとても重要な場所なので、自由の女神に会った後は、ここでの時間も是非取ってくださいね。


ニューヨーク独り旅⑥ - 自由の女神の島へ

2009-07-24 09:01:07 | ニューヨーク街歩き②

2004年9月の初めてのニューヨーク。 マニアックな部分だけじゃなく、恥も外聞もなく、定番お上りさん観光コース巡りもしっかりやっています。 当時は知識もイマイチ乏しくて、観光ガイドに載っているそのままに、Battry Parkバッテリーパークの観光船乗り場からCircle Lineサークルラインの船に乗りました。 かの有名な自由の女神を見るためです。

Dscf0014

以前、ブログで紹介したように、自由の女神を見物するだけだったら、スタテン島行のフェリーが無料でお手軽。 これはちょっとした穴場なのですが、こちらの正統派観光コースは自由の女神が立つLibertyリバティ島へ上陸できる船です。

Dscf0016

9・11以降、アメリカの最重要警備地点の一つである自由の女神。 船に乗る前に空港と同じようなX線を使った手荷物検査まであります。 この長蛇の列は検査待ちの乗船客。  普通はこんな場所で、危険物を持っている奴がいるとは思えないのですが、この日は中国人観光団のおっかさんの大きな荷物の中から刃渡り30センチの包丁が出てきて、みんなビックリ。 どう見てもテロリストとは思えないおっかさんの様子に、次の瞬間大笑い。  なんか妙に大らかです。

Dscf0017

さあ、夢に見た自由の女神見物に出発です。

Dscf0019

船の甲板は大入り満員。 老若男女、雑多な人種の集まりです。 遠くに見えるヘリコプターは自由の女神見物の遊覧飛行。 ヘリはかなり頻繁に上空を飛び交っています。

Dscf0021

バッテリー・パークからはそれほど遠くは無いので、出航後程なく船の前方には自由の女神が見えてきます。 船が交通の主流だった時代、ニューヨークへ向かう船は必ずこの自由の女神を横目に見ながら入港して行きました。 先日のカルパチア号の話もそうですが、タイタニック号も本来はそうだった筈です。 でも、結局は建造後一度も自由の女神を見ることもなく、大西洋に沈んでしまったのです。

Dscf0022

やってきましたニューヨーク。 自由の女神。 アメリカの象徴でもありますよね。 ここで初めて知ったのは、自由の女神がフランス市民の寄付でアメリカに送られたというのは有名な話ですが、自由の女神が立っている台座の建物は、アメリカ市民の寄付で建てられたんです。 フランスとアメリカの市民同士のコラボだったんですね。

Dscf0023

島に上陸すると真っ先に向かうのはこの広場。 ロアー・マンハッタンの高層ビル群を正面に眺める広場です。 これも以前一度書いたことがあるのですが、2001年9月11日までは、この高層ビル群の中に、ひときわ高いタワーが二本そびえ立っていたのです。 ここに来て、あの日のアメリカ人の衝撃というか喪失感というものを初めて実感しました。 

Dscf0026

自由の女神は中に階段があって、本当は冠の中にある展望台まで登れます。 ただ、この時も含めて9・11以降は長らく閉鎖になっていました。 最近のニュースで今年2009年7月4日からこの展望台が再開されたそうです。 そうはいってもキャパが限られている狭い空間ですから、ここに上る為にはまたまた大変な長蛇の列でしょうね。

                           Photo

古いヒッチコックのサスペンス映画で『逃走迷路』というのがありました。 最後はこのLiberty島の自由の女神が追っかけの舞台になり、悪役のスパイは、自由の女神の持つたいまつから滑り落ちて悲惨な末路を迎えるのですが、これは”自由”に対する全体主義を象徴的に表した場面でもあるのです。 『逃走迷路』は1942年の作品ですから、時代背景が分かりますよね。


アクセ80,000件越えてしまいました!!!

2009-07-20 22:50:56 | ブログ

アクセス80,000件超えました。

オンタリオ州ロンドン市を離れてから1年過ぎた今でも、しつこく続けさせて頂いているこのブログ。 ここまでたどり着きました。 見捨てずにアクセスして頂いている読者の皆さま本当にありがとうございます。

Photo 

このところ続けているニューヨーク・シリーズも今から5年も前の事なのですが、改めて撮りまくった写真を見直していると、その時の場面を色々思い出してきます。 Hotel Chelseaの怪しげな匂いさえ本当に鮮明に蘇ってくるんです。

一昔前はカメラ、写真っていう趣味はかなりお金のかかるものでした。 カメラ、レンズ自体も安くないのは当然ですが、それ以上にフイルム代、現像代、プリント代っていう変動コストが馬鹿にならない上に、少しばかり凝りだすと自分の家に暗室まで作って、引き伸ばし器に現像液、定着液、印画紙。 気が遠くなるような大作業でした。

でも今はデジカメの時代。 どんなにたくさん撮りまくってもデータに残すだけなので、画像はプリントしなくてもパソコンでいつでも、どんな形でも見ることができる。 トリミングだって、色温度の調整だって、お茶の子です。 したがって趣味としてのコストも手間も劇的に下がったんです。

Keyvisual 

ロンドン野郎は今はキャノンEOS 40Dというデジタル一眼レフをメインに使っています。 でも、ブログの中の2007年12月以前の写真は本当に小さなコンパクト・デジカメで撮ったものです。 デジタル一眼も魅力的だったのですが、コンパクトなデジカメの機動性という機能も捨てがたいものがありました。 どんな時でもバックやポケットに必ず小さなデジカメが忍ばせてありました。

そんな訳で思うのですが、やっぱり写真のコツは沢山撮ること。 撮って撮って撮りまくると、その内に1枚くらいは、これは!と思うものがあるものです。 本当に腕が付いてくると100枚、50枚、そして10枚の内に1枚くらいの割合になってくるんだと思います。 以前、あるローカル的には少々有名なプロのカメラマンが人物の写真を撮っているところを見ていたら、どのショットも必ずオートで3連写していました。 後でその方に聞いたところ、特に人の表情の写真は微妙なので、ベストショットを逃さないように必ずこういう撮り方をするそうです。

Photo_2 

それから、ロンドン野郎の経験から言うと、撮った写真はパソコンである程度取捨選択した上で、最低限撮った場所と日付が分かるフォルダを作成して、こまめに保管しておくこと。 そうすれば、自分の記憶の助けにもなるし、DVD等へ移す時も簡単です。 あまり凝った分類をすると却って訳が分からなくなります。

さあ、明日はデジカメ持って、街へ繰り出そう!


ニューヨーク独り旅⑤ - EMPIRE DINER 有名ダイナーで夕飯を

2009-07-19 08:04:56 | グルメ情報②

Diner ダイナーっていうのはアメリカの年によくある軽食堂の一つの形式です。 ダイナーと普通の軽食堂って何が違うのかっていうと非常に難しいのですが、一つの特徴は昔は本物の古い鉄道の車両を店舗に使っていた歴史から、そんな雰囲気を持った作りのお店が多いんですよ。 ちなみにDinnerディナー(晩餐)ではなくDinerダイナーですよ。

Dscf0098

EMPIRE DINER エンパイア・ダイナー。 そのらしさで、ニューヨークの中でも有名なDinerのお店です。 2004年9月の初めてのニューヨーク。 宿泊していたHotel Chelseaの近くだったので、フラリと寄ってみました。 お店の雰囲気が妙にアメリカンなのは、直前に共和党大会がニューヨークで行われた名残です。

Dscf0097

お店の外観も内装もステンレスをふんだんに使って、『うん十年前に描かれたような超近代的』なつくりで、街の中でも目立っています。  夜は食堂と言うよりもバーっぽい。 映画Men in Blackなんかにも出てきます。 開店は1976年だそうで、結構歴史はあるんですね。 観光案内なんかにもよく載っています。

Dscf0095

食べ物の写真が無いので、今となってはこの日何を食べたかどうしても思い出せませんが、このビールSAMUEL ADAMSはボストン生まれ。 どちらかというと薄味すっきり系が多いアメリカン・ビアの中では、コクがあって濃い系。 これを頼むと少しだけ通っぽく見えますので、是非お試しを。

Empire Diner 
210 10th Ave
New York 10011
(At 22nd St)


ニューヨーク独り旅④ - Pier 54 カルパチア号の桟橋

2009-07-15 22:43:23 | ニューヨーク街歩き②

ニューヨークのマンハッタン島のハドソン川沿いには、歯の抜けた櫛のように今でもいくつもの大型船が接舷できる桟橋が残っています。

Dscf0010_2

あるものはまだ現役の大型客船用の桟橋であったり、ショッピング・センターなどの観光名所的な複合施設に転用されていたり、またある桟橋はゴルフのドライビングレンジやヘリポート。 そしていくつかの桟橋は朽ち果ててただの廃墟になっていたりします。 これらの桟橋は、まだ大西洋を渡る客船がアメリカへの旅の主流であったころの名残なんです。

Dscf0012

そして、その殆ど廃墟となった桟橋の一つPIER54。 2004年9月の初めてのニューヨークの旅で、どうしても一度見て置きたかった場所の一つでした。

Dscf0003

このPIER54は現在は別に何があるわけではなく、桟橋の機能は終え、ハドソン川へ突き出た公園の一部のような風情になっていますが、ある歴史の一場面に登場します。

Dscf0006

入り口にはかつてのゲートの骨組みのようなものが赤く錆びて朽ち果てようとしています。 この桟橋の跡は、元々英国を代表するキュナード・ラインの専用桟橋だったところです。 キュナードは現代でも大型客船Queen Elizabeth 2やQueen Mary 2を運航している船会社です。

Dscf0004

そして歴史を少しだけ紐解くと、キュナード・ラインのカルパチア号は1912年4月14日タイタニック号のSOS信号をキャッチするや、深夜にもかかわらずボイラーの破裂の危険を冒して、設計速度の14ノットを大きく上回る17ノットのスピードで真っ先に現場へ急行し、705名の遭難者を救助したのです。 その後、遭難者を乗せてニューヨークのこの桟橋PIER 54に接岸しました。 映画の『タイタニック』にもそのシーンがあるんですよ。

Carpathia54_2

遭難者を乗せてPIER 54に 接岸したカルパチア号の写真をWikiで発見したので追加です。 タイタニックを運航していたホワイト・スター・ラインの社長のイズメイは運良く(或いは運悪く)助かった705名の一人だったのですが、『天下の卑怯者』呼ばわりされ、その後ホワイト・スター・ラインの社運も落ち目となり、最終的にキュナードに吸収され、歴史から消えていったのです。

Dscf0013

この朽ち果てつつあるゲートには良く見るとキュナードの名前とホワイト・スターの名前が重なりながら読むことができます。 吸収合併後の一時期キュナード・ホワイト・スター・ラインの名前だった時代の名残なんです。