声の仕事とスローライフ

ただ今、仕事と趣味との半スローライフ実践中。遠方の知人友人への近況報告と、忘れっぽい自分のためのWeb忘備録です。

最後の歌

2019-08-31 18:11:12 | Diary



実父の葬いと実母の七回忌…

すでに郷里の島根には家もなく

実母の菩提寺がある広島が私にとっても第二の故郷となった。


今日は島根から到着した従兄妹たちと法要の後で会食し、

昔ばなしに花を咲かせた。


一番年下の従妹が、

中学の卒業アルバムを持ってきていた事もあって、

中学時代の話で盛り上がった。

卒業前に写した集合写真の中から、お世話になった音楽のA先生の顔を見つけたとき、

従兄が

「A先生は亡くなったよ」と言った…

「えっ!…いつ?」

と訊くと

「去年だったかな…」

と言う。

A先生と最後に会ったのは、確か

私が高校の合唱部OBOGが集う「歌の同窓会」に出演したときだった…

あれは2010年だったから、今から9年前だ。

あの時、
コンサートが終わってロビーに出て行くと
A先生が、手を振りながら駆けてきてくださった…

思いがけない再会に嬉しくて泣いたことを憶えている。

その後、何度か年賀状のやり取りをしていたのだが、

三、四年前あたりから年賀状が途絶えた…


A先生は、

初めて合唱の楽しさを教えてくれた“恩師”だった。


中学入学当時は、

絵を描くのが好きで美術部に入っていた私が、
合唱部に入ったのも、A先生の影響だった。


先生が、初めて私たち生徒の前で歌ってくれたのは、

トスティの「L'ultima canzone」“最後の歌”だった。


音楽の授業中に、先生のような高い声はどうしたら出るのかと思いながら、

ファルセットで甲高い声を出していた私に近づいてきて

「あなた、歌をやってみない?」

と言って声をかけてくれた。

そのひと言で合唱部と美術部をかけもちする事になった。


卒業時、私は

A先生のご主人が美術の先生だった事を知らずに、

リストやショパンの手型を真似て
自分の作った手型の彫塑を贈ったのだが、

その後、A先生から

「ユミさんのくれた手の彫塑を夫が美術の授業で手本にさせてもらいたい、と言っているのよ、いいかしら?」

との電話をもらって、慌てたことがあった。


中学卒業後もA先生との個人的な付き合いは続き

美大か音大かと迷い、

高校卒業後の進路の相談をした事もあった…

高校2年になって音大受験を決めたとき、

慌ててピアノの指導者を、自分の教え子の中から紹介してくれたのもA先生だった。


社会人になってからも、

何かあるごとに、心配して手紙をくれた…

あのA先生が、亡くなっていた…。


故郷が、だんだん遠くなっていく…





もう一度、先生の歌を聴きたいなぁ…。





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