天使の図書館ブログ

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詩の定義☆

2011-09-20 | 作品☆Pick Up!!
(アレクサンドル・カバネル【ヴィーナスの誕生】1863年、パリ・オルセー美術館所蔵)


 詩とは何でしょう?だれか知っていますか?
 バラではなく、バラのかおり、
 空ではなく、空のかがやき、
 虫ではなく、飛ぶ虫のきらめき、
 海ではなく、海のたかなり、
 わたし自身ではなく、何かをわたしに見せ、聞かせ、感じさせてくれるもの、
 散文ができないことをするもの、
 それはなんでしょう?だれか知っていますか?

(「エリナー・ファージョン~その人と作品~」、アイリーン・コルウェル著・むろの会訳/新読書社より)


 エリナー・ファージョンは、「ムギと王さま」や「リンゴ畑のマーティン・ピピン」などで知られるイギリスの童話作家です♪(^^)

<詩>というものを定義するのは難しく、詩人が自身の詩の中で「これこそ詩である」ということを書いていたとしても――詩人でもそうでない人にも共通して、「うんうん、そのとおり!」みたいに説明するのってすごく難しいと思うんですよね。 

 詩人によっては<詩論>みたいなものを書いていたり、詩の中で「詩とはこういうもの」ということを表現したりしてると思うんですけど、わたし自身はファージョンが書いていることが<詩>というものにもっとも近い、と感じています。

 つまり、疑問形で問いかけていつつ、いくつか彼女が例をあげているように――「バラではなく、バラのかおり、空ではなく、空のかがやき……」っていう、そういうことなんじゃないかな~という(^^)
 
 あ、ちなみにわたし、自分のことは<詩人>とかなんとか、そういうふうにはあまり思ってません

 というより、風のそよぎとか海のさざめきとか、そうしたものの中に<何か>を感じられるという人は、みんな詩人といってもいいんじゃないかな、みたいに思っているというか(^^;)

 そしてその<何か>をうまく言語表現できる人が詩人と呼ばれる人なのかな~と。


 絵を描こうとは思わない
 それより私が一枚の絵になろう
 その輝く不可能の上に
 心地よく住み
 そしてその感触を自分の指で味わうのだ
 その類いまれな天上のそよぎは
 この上なく快い拷問を
 華麗な絶望を 私に思い起こさせるのだ

 コルネットのように話そうとは思わない
 それより私がコルネットになろう
 天空に向かいゆるやかに舞い上り
 さらにエーテルの村を通り抜け
 軽々と上りつづけるのだ――
 私は思いのままに力を与えられた気球と同じだ
 ただ一枚の金属の唇弁によって
 私の浮橋への橋脚を得たことによって――

 詩人になろうとは思わない
 耳を持つことの方がすばらしい
 魅惑され 力を奪われ 満ち足りる
 それは尊ぶべき許可証だ――
 なんて恐ろしい特権なのだろう
 その技術を身につけ
 もし私が自分自身の気を失わせるとしたら
 旋律の稲妻でもって!

(「エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~」、中島完さん訳/国文社刊)


 ディキンスンは、「もし私がある本を読んで、身体全体がどんな火でも暖めることが出来ないくらい冷たくなったら、私にはそれが<詩>だとわかります。まるで私の頭の先が取り去られるように体で感じたら、それが<詩>だとわかるのです。これだけが、私が詩を知る方法です。他に方法があるでしょうか」とヒギンスンに語っているのですが、確か詩人のシルヴィア・プラスもディキンスンの言葉に似たことをどこかで言っていたような気がします。

 そして、<詩>というものの定義は「これこそまさにそうだ!」と万人に通用するよう説明するのが難しいだけでなく、詩人によってその定義がまちまちだったりもするんですよね(^^;)

 以下は、わたしがディキンスンの他に尊敬する詩人である、フェルナンド・ペソアの言葉です。 


     1

 詩人はふりをするものだ
 そのふりは完璧すぎて
 ほんとうに感じている
 苦痛のふりまでしてしまう

     2

 詩人であることは、私の野心ではない。
 それは、一人でいようとする私のあり方にすぎない。

     3

 詩人とは、つねに自分ができることの彼方へと向かう者のことだ。

     4

 私は韻など気しにしない。
 隣りあった二本の樹が同じであることは稀だ。

     5

 一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。

     6

 良い散文を書くためには、詩人でなければならない。
 というのも、よく書くためにはいずれにしろ詩人であることが必要だからだ。

     7

 表現することをほんとうに感じたかどうかが重要なのではない。
 そう思って、感じたふりをすることができれば十分なのだ。

     8

 文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分ではないことの告白である。

     9

 人生において、唯一の現実は感覚だ。
 芸術において、唯一の現実は感覚の意識だ。

     10

 私は自分自身の旅人
 そよ風のなかに音楽を聴く
 私のさまよえる魂も
 ひとつの旅の音楽

     11

 感情のひとつひとつに人格を与えること、魂の状態のひとつひとつに魂を与えること。

     12

 深淵が私の囲いだ。
「わたし」という存在は測ることができない。

     13

 私はもはや私のものではない。私は、打ち捨てられた博物館に保存された私の断片なのだ。

     14

 もしほんとうに賢ければ、ひとは椅子に座ったまま世界の光景をそっくり楽しむことができる。
 本も読まず、誰とも話さず、自分の五感を使うこともなく。
 魂が悲しむことさえしなければ。

     15

 私に哲学はない。あるのは感覚だけだ。
 私が自然のことを語るのは、私がそれを知っているからではなく、
 自然を愛するからだ。それで自然が好きなのだ。
 愛する者が愛しているもののことを知っているためしはない。
 なぜ愛するのかも、愛がなになのかも。

(「不穏の書、断章」澤田直さん訳/思潮社より)


 ペソアの書いてることって、ある部分は散文的かもしれなくても、やっぱり<詩>だと思うんですよね。

 そしてペソアにとっては「夢見ること」がもっとも大切であり、そしてこの夢っていうのものが、言葉の表現として<詩>と分かち難く結びついている、というか。

 言い換えるなら、夢見たことをそのまま自動筆記状態で書けるのが最上の表現形態ということなんだと思います。

 やっぱり、「夢見ること」の内には、一種の<憑依>現象があって――これはディキンスンもそうですが、この<憑依>現象は、「来た」ことのある人間だけにしかわからないわけですよね(^^;)

 そして、一度、あるいは数度だけ<それ>がやってきて、それ以降詩神(ミューズ)がぱったり来なくなったというタイプの詩人とか作家さんも多くいらっしゃると思います。

 でもディキンスンやペソアのような天才タイプの詩人って、<それ>自体に人生の中心を支配されてしまい、他者との交流すらほとんど断つ以外にないくらい孤絶するようになったり……まあ、孤絶といっても、本当の意味での孤独とは違って、ペソアもディキンスンも「目に見えない存在」といつも一緒にいて、彼らと会話したりすることに忙しく、それに比べて浮世の凡人たちの相手などよほど暇でもない限りしてられないという側面があっただろうと思うんですけどね(^^;)

 ディキンスンとペソアには、似てないようで似たところが結構あると思うんですけど、このふたりを比較した詩人論的なことを書きだすと長くなりそうなので、今回はこんなところで記事の終わりにしたいと思います。

 それではまた~!!





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