天使の図書館ブログ

 オリジナル小説サイト「天使の図書館」の付属ブログです。

カルテット。-14-

2012-12-26 | 創作ノート
【ヴィーナスの誕生】アレクサンドル・カバネル


 独りでわたしはいられない
 大勢客が訪れるから
 記録のないこの仲間たちには
 鍵は役立たない

 かれらは着物もない 名前もない
 年鑑もない 気候もない
 ただ小人のように
 雑多な家がある

 かれらが来るのは
 心のなかの急使で知れるが
 去るのはわからない
 かれらは決して去らないから

(エミリー・ディキンスン/新倉俊一さん訳)


 え~と、今回もまあ特にこれといって書くことないので、詩神についてでも軽く説明してみようかと思います(^^:)

 といっても、<詩神>とか<美>とか<不滅>について、わざわざ言葉で説明しようとするのは愚の骨頂だとは思うんですけどね

 もし「それ」を言葉で的確に表現できるとすれば、誰も作曲したり絵を描いたりしなくなるだろうなとも思うので。。。

 なんにしても、【5】のところで「アバドのたのしい音楽会」より、蓄音機から小人が出てきて音楽を奏でるシーンの文章を抜粋しました。

 もちろん、↑でディキンスンが言ってるのは比喩であるにしても、この時アバちゃん(笑)は小さかったから、そういう<見え方>だったのかなあ、なんて思うんですよね♪(^^)

 んで、出典が不正確で申し訳ないんですけど、エミリーは「森へ行って、天使に会いました。でも彼らのほうが、わたしよりずっと恥ずかしそうでした」みたいなことを書簡集かどこかで語っていたと思います。

 そんでもって彼女は、詩作の最盛期は特に――「部屋の中はわたしと<彼の存在>とでいっぱいだった」という精神状態で詩を書いていたと思うんですけど、この状態はモーツァルトにも当てはまりそうだな、なんて思うんですよね。

 つまりは、そういう詩神に憑かれた状態になって詩を書いたり作曲したりするっていうことですけど(^^;)

 まあ、ここからはわたしがアバドに対して持ってる妄想と思って読んでください(笑)小さい頃は小人のように見えた音楽の精って、彼が成長するにつれて、天使とか詩神とか物凄く綺麗な女性であるとか、そういう存在に<見え方>がイメージとして変わっていったんじゃないかなあ、なんて思います。

 小さな子がやって来て、「ぼく、森で天使を見たよ!」なんて言っても、大抵の大人は信じないというか、「子供のいうことだから」で終わるかもしれません。

 でも、それが天使であれ妖精であれ、見える人には彼らが悪戯っぽそうだったり、あるいはディキンスンが言うように「自分たちよりずっと恥ずかしそう」な姿が見えるものなんですよね。

 そんで、子供がそういうことを言った時に、その言葉を「額面どおりに受けとる」ことが出来るというか。

 アバドは現在の御歳、七十九歳だと思うんですけど(笑)、アバちゃんはこういうことについて「言ってる意味がわかる」人だと思うし、モーツァルトは森でそういう存在に出会ったことが、どこか作曲のインスピレーションになってるようなところがあったんじゃないかな~という気がします。

 まあ、詩神というのは<そうした存在>、あるいはそれに近い存在で、これまでたくさんの人が定義しようとして言葉でうまく表現できないにしても――「何かいるのだよ、そうした存在が☆」といったように、多くの人が認めてきた存在だと思うんですよね(^^;) 

 なんにしても次回は、せっかく詩神(ミューズ)がやって来ても、彼/彼女が見えなくなる・いなくなる、<詩神の喪失>ということについて、少し書いてみたいと思います。

 それではまた~!!



       カルテット。-14-

「それで、一体俺になんの用だ?」

 西園寺圭の、現在の仮の住まい――キャンプ場に隣接した場所にある、丸太小屋タイプのバンガローを、要は夜の十時半頃に訪ねていた。

 翼と別れたあと、要は西園寺圭と話をすべく、彼に会いにいったのだが<カルメン>の幕が下りると同時、この世界的指揮者はすぐ帰ってしまったということだった。

「いつも、そうなんですか?あれだけいい舞台だったのに、何かみなさんのことを褒めるとか、打ち上げするといったこともなく?」

「まあ、そういうことも時々ありますけどね」

 要が声をかけた、コンサート・マスターの近藤弓親は、よくいえば体格が良く、悪くいえば少し太り気味の中年男で、チャップリンに似た髭を生やしていた。だが、それが決して滑稽な印象を人に与えることはなく、似合って見えるのが、要には不思議に感じられる。

「先生はようするに気まぐれなんですよ」

 コンマスの近藤の横からそう言ったのは、副コンマスの弥生遊馬だった。彼は薄い頭髪をなるべく豊かに見せようとするように、後ろの長い毛を前のほうに張りつけているといった髪型の、声の細い男である。ついでながら、声だけでなく体のほうも華奢で、背が低かった。

「僕たちが、今日は一体感のあるいい演奏をして、終わったあとに褒めてもらえるかと思えば、そういう時に限って先生はすぐ帰ってしまわれる。まあ、西園寺先生の場合、何も言わないのが最上の褒め言葉みたいなところがありますけどね」

「そうなんだよなあ」と、近藤もまた長年の相棒に相槌を打つ。「逆に駄目出しをしたいと思った時には、みんなが打ち上げをするラウンジまでやって来るんですよ。そして先生が来られた途端、場がシーンとなるんですな。それまでの酔いもどこへやらといった感じで」 

 音楽祭のスタッフたちが、譜面台や椅子を片付けたり、あるいは芝生の上のゴミ拾いをする姿を眺めながら――要はこのふたりなら大丈夫ではないかと感じ、思いきって首藤朱鷺子のことを訊ねてみることにした。

「あの、話は変わりますが、先日お亡くなりになった首藤朱鷺子さんをご存知ですか?」

「首藤朱鷺子?」と、近藤と弥生は、まるで初めて聞く名だ、とでもいうように、顔を見合わせている。

「ああ、そうだ。思いだしたよ、弓親。先日飛び下り自殺したらしいとかって噂の……」

「やっぱり、本当に死んだんですか、彼女」

 ふたりとも、この時になって初めてサッと顔を青くしたようだった。一応、小さいながらもニュースで報じられたとはいえ――彼らが知らないのも無理はないと要は感じる。何故といえば、要自身が<絵の世界>に夢中になっている間、テレビなど一切見ないように(さらには外部と一切関係を断つことさえあるように)、彼らもおそらく今は、音楽祭の成功のことしか頭にないのだろうと思ったからである。

「すみません。おふたりの心を乱すような、不用意なことを言ってしまって……ただ、僕は彼女の著作のファンでしてね。お亡くなりになったと聞いた時、昔読んだ本や彼女のクラシックについての評論のことなどを思いだしたんです。首藤さんはここのオーケストラの楽団員を辞めて、フリーのジャーナリストに転向されたわけですが、東京オーケストラの定期公演については、常に辛口の評論ばかりお書きになっていたと思います。それで、以前から何かあったのかなあと思ったりしてたものですから……」

「僕も、彼女の本やクラシックの評論集は読んでますよ」と、声は細いながらも、どうやらおしゃべりな質らしい弥生が言った。「首藤さんはね――西園寺先生のファンだったんです。それで、先生がうちの楽団の監督に就任するって時には、人一倍はしゃいでましたよ。ところが、厳しいというのは噂に聞いていたんですが、先生の場合はそれが尋常じゃないでしょう」

 近藤が、ここで相の手を入れるように「ははっ」と渇いた声で笑う。

「そうなんですよ。俺も遊馬もあの頃のことは、今振り返ってみても地獄だったって、いまだに笑い話として時々言いますね。朱鷺子は、ジュリアードを出てるだけあって、技術的なことは文句のつけようがなかったんです。にも関わらず、第一ヴァイオリンからセカンド・ヴァイオリンに変えられたんですよ」

「うん、まあ誤解があっちゃいけないけど、セカンド・ヴァイオリンより第一ヴァイオリンが偉いってことではないんですよ。でもやっぱり、第一は主旋律弾くでしょう?で、第二は曲にもよりますが、第一に付随するパートを弾くことが多いわけで……プライドの高い首藤さんとしては、<格下げ>にされたっていうのかなあ。そういう思いがどうやらあったみたい」

「当時コンマスだった駿河さんがね、思いきって西園寺先生に抗議したんですよ。首藤を第一に戻してくださいって。でも先生のほうでは、けんもほろろだったらしい。『このオーケストラの音楽監督は俺だ!』って、ピシャッと言われて終わりだったって話。で、まあもしここまでだけなら――朱鷺子もうちを辞めることはなかったでしょう。けどねえ、そのあと……」

 近藤が言いにくそうに頭をかいていると、弥生がそのあとを引き取った。

「あれ、なんの曲の練習中だったっけね、弓親。突然先生が譜面台にピシャッと指揮棒を叩きつけたあと、首藤さんにこう言ったんですよ。『おまえは違う。外れろ』って」

「俺の覚えてる限り、モーツァルトの交響曲40番だったんじゃないかな。まさに<疾走する悲しみ>といった感じでね、朱鷺子はワッと泣きだすと、その場から出ていって――「もう辞めてやるわ、こんな楽団!」って言って、本当に二度と戻って来なかったんですよ」

 もう十年も昔のことであるにも関わらず、それがまるでつい最近起きたことだとでもいうように、ふたりは顔を見合わせ、どこか沈痛な溜息を着いている。

「あの、出すぎたことを聞くようですが……西園寺先生の息子さんのことをきっかけにして、一時期マスコミが騒いでいたことがあったでしょう?あの噂の火の元を大きくしたのは、もしかして……」

 要は含みをもたせる言い方をしただけだったが、近藤と弥生は「誰もが知っていること」でも話すように、互いにただ頷いていた。

「そうですよ。先生のスパルタ式の稽古についていけなくて、辞めたのは朱鷺子ひとりじゃありませんからね――駿河さんもコンマス辞めて、別の楽団のほうへ移っていかれました。でも彼は堪忍袋の緒が切れるまで、三年以上耐えたという人でしたから、恨みも一潮だったと思いますよ。それに、コンマスとして三年も西園寺先生とつきあっていれば……相手のプライヴェートなことに関しても、多少何かしら掴んでいたかもしれません。当時、うちの楽団員のほとんど全員にそうした筋からの電話というのはかかってきてましたから」

「そうした筋、というのは?」

 要の問いに対し、今度は弥生が続きを答えた。

「首藤さんが直接電話をしたのは、楽団の中でも仲の良かったほんの数名です。流石に全員に彼女が電話をしたのでは、怪しまれたでしょうからね……でも、総合して鑑みるに、首藤さんがネタを売った週刊誌の筋からそうした電話はかかってきていたということなんですよ」

「じゃあ、練習の終わった頃を見計らって、「ちょっとお話を聞かせてください」みたいなことが……」

「ありました、ありました」

 要がすべて言い終わる前に、近藤が何度も頷いて言う。

「俺や遊馬は、先生のことは一切口外しませんでしたよ。でも、中にはきっとぺろっとしゃべっちゃった奴もいたでしょうね。まあ、その頃には俺たちも先生がしごいてくださったお陰で、楽団としてかなり力がついてきていましたし……ただ厳しいってだけじゃね、確かに人はついてこないんですよ。けど、西園寺先生には不思議と逆らえない強烈なカリスマ性と、有無を言わせぬ指導力がありましたから。それに、練習も最終段階になると「ああ、これが先生のされたかったことなんだな」っていうことが見えてくる。で、最初からそれが俺たちにも見えていれば、あんなにブツブツ不満を洩らさなかったのに……みたいなところもあって、その頃にはすっかり、西園寺マジックの虜になっているわけですよ」

「西園寺マジック?」

 要は笑うことはせず、あくまで真顔で聞いた。

「そうですよ。西園寺先生が手に持っている指揮棒は、楽団員を魔法にかけるためのものだってことです。先生の指揮法っていうのは、派手じゃなくてむしろ地味なんですよね。まあ、ああいうルックスの方だから、格好つけてどうこうとか言う輩もいますけど、先生は実際の公演では必要最低限の指示しか出されません。そこまで行く練習の段階ではね――激しい身振り手振りがあるにしても」

「時々、物が飛んでくるし、総譜を破ったり、僕たちのうちのひとりからヴァイオリンを取り上げて、自分で弾いたりもしますけどね」

 話がここまで来ると、近藤と弥生はくすくすと笑いはじめた。その様子を見ていて要は、彼らが西園寺圭を指揮者として尊敬するだけでなく、人間としても敬愛の情を抱いているらしいということに、初めて気づいた。

「まあ、不器用といえば、不器用な人ですよね。それに音楽に対しては、若い頃から一貫して熱い情熱があるんですよ。僕たちなんてもう、同じ曲を練習含めて何百回も弾いてきてるわけじゃないですか。まあ、そうなると全体としてちょっとだれることもあるんですよ。でも先生はそういう時、僕たちの脇腹あたりにピシャッと容赦なく愛の鞭をくださるんですな。本当に、不思議な人ですよ――何度同じ曲をやろうと、一番最初の頃の新鮮な感じっていうんですかね、そういうものを失わない方なんです。もちろん、それと同時に年をとるに従って円熟味が増してくるという部分もあって……」

「そうそう。初めの頃の新鮮さと、年を経るにつれての円熟味が、絶妙なラインでブレンドされている感じとでも言いますか。だから、よく評論家たちが言っているように、<西園寺圭はいつでも新しい>のだと思いますよ」

「長年連れそった女房を、最初の頃の愛情でずっと愛し続けるっていうのは、ほとんど不可能だと思いますが――先生の場合、音楽ではそれをやっておられると思いますね」

 燕尾服を着たふたりの男は、そこまで話し終えたところで、「はて、俺たちはそもそもなんの話をしていたのだっけ?」というように、再び顔を見合わせている。そこで要は、そもそもの本題へ立ち戻ることにした。

「貴重なお話を、ありがとうございました。じゃあ西園寺さんは、音楽祭の間自宅にしているバンガローのほうへ、すでに戻られたということですよね?」

「だと思いますよ」と、近藤が答える。「先生はとんでもないスピード狂だから、マッハの勢いで車に乗って帰られたんじゃないですかね」

「まったくだね。昔、ドイツに行った時なんか、助手席に乗ってて死ぬかと思ったものな。しかも、そういう相手の様子を見て楽しんでるあたり――あの人はまったく悪魔だと思ったよ」

「ドイツのアウトバーンは速度制限がないものなあ」

「だからって、何も二百キロだすことはないだろう。あの人はまったく気が狂ってるよ」

 コンマスと副コンマスが、それぞれの名器を手にしてその場を立ち去る姿を見送ったのち――要はホテルの駐車場へと急いで向かった。こんなことならそもそも、翼と一緒にホテルまで戻るべきだったろうかと、今さらながら考えないでもない。とはいえ、東京オーケストラの近藤弓親と弥生遊馬に貴重な話を聞けてよかったとの思いもあり、要は少しばかり複雑な感情を抱きつつ、フェラーリに乗り、キャンプ場方面へと向かった。

 南沢湖のキャンプ場は、以前要と翼が白鳥型のボートに乗っていた場所と、ほぼ隣接している。そこから濃い林に囲まれた場所を隔てたところにキャンプ場の駐車場があり、西園寺圭が仮の住まいとしている丸太小屋へ辿り着くには、少し歩いていかねばならないのだった。

<キャンプ場を御利用でない方は、駐車券をお取りください>との表示があるため、要は機械の音声ガイダンスに従い、黄色い駐車券を取った。ちなみに、この時刻まれた時刻は、22時17分である。

 近藤弓親と弥生遊馬のふたりから、西園寺圭のいる丸太小屋の位置について、一応聞いてはいたものの――キャンプ場へやって来るまでの道路もそうだったのだが、キャンプ場内はさらに、思ったよりも周囲の闇が濃かった。

 それでも時折、細い道沿いに電灯があり、そこには膨大な数の蛾がたくさん舞っていた。見ると、緑の斜面一面に蛾が大量に張りついている場所もあり、その特異な不気味さに、要は思わず総毛立つものを感じてしまう。

(駄目だ。ここから先の道は、蛾を踏まないことには進めないじゃないか)

 要の中で、(一体これはなんなんだ)という思いと、(こんなことならホテルへ大人しく戻るべきだった)との思いが交錯する。だがその時、自分の目の前に掲示板があることに気づき、要は鈍い光の中で、別荘タイプのバンガローがある位置を確認することが出来た。そして、どうにか道のへりに蛾の止まっていないスペースを見つけだすと、その上を歩いていくことにしたわけである。

 だが、結局のところ最後には、蛾が一面に道路にも、その脇の雑草地帯にも群がっている地点へと出――要は(嘘だろ……)と目眩すら覚えた。

 ここまで来るだけでも、すでに結構歩いたのだ。目的を達せずに今さら戻るというのも、なんだか間抜けな気がして、要は最後にはもう可哀想な蛾たちの羽をムシャムシャ踏みつけて歩く以外にはなかったのである。

(僕を恨むなよ)

 足裏の感触を最初は気味悪く感じたものの、ようやく西園寺圭がいるであろう丸太小屋へ辿り着いた頃には――要はすでにもう気の毒な蛾どもになんの感慨も抱かなくなっていたといってよい。

「それで、一体俺になんの用だ?」

 要自身が驚いたことには、彼が実際にドアをノックしようとする前に、玄関の扉が目の前で開いたということだった。無論、時司要という存在は自分の目の中に入っていない、という態度を夕方取られたことを考えた場合――西園寺圭は、彼がドアをノックしても出ないということも出来たはずである。

 だが、要が思うに、大量の蛾を踏みつけてここまでやって来ただろう自分に対し、西園寺圭は顔の表情には見せないまでも、内心面白がっていたのではないかという気がした。

「もちろん、勘の鋭い貴方のことだから、僕がなんの用でやって来たのかなど、言うまでもなくご存知でしょう」

「まあ、とりあえずは中に入れ。じゃないと蛾がすぐ室内へ入ってくるんでな」

(ふん。この青二才の若造が)といったように、西園寺圭が自分をせせら笑う気配を要は感じたが、なんにしても彼の言うとおり、早く玄関のドアを閉める必要があった。それでも室内の光を求めるように、中へ迷いこんできた二匹の白い蛾を、西園寺圭は情け容赦なく素手で叩き殺している。

「ニュースで見て、知らないのか。今年、南沢湖一帯では、蛾が大量発生してるらしい」

「その割に、ホテルのほうや音楽ホール、野外音楽堂のあたりはなんともないんじゃないですか?」

(そんなくだらん説明を、俺に求めるな)といったように、西園寺圭はじろりと要のほうを一睨みしてくる。そして、この話はこれで終わりだ、とでもいうように背を向け、丸太小屋内に備えつけのキッチンで、コーヒーを淹れはじめる。

 玄関を入ったところがすぐ居間になっており、その左手に小さな台所がある。そして二十畳程度の広さのリビングには、右手に本物の暖炉が、その手前に黒革のソファと椅子、それにテーブルとがあった。

 上にはロフトがあり、見たところ西園寺圭は木の階段をのぼって、そこで寝起きしているに違いなかった。

「それで、おまえの話というのは美音のことか」

「ええ。もちろん貴方にとっては余計なことでしょうが……彼女は貴方との関係で苦しんでいると思ったものですから。美音さんにとって西園寺先生は神にも等しい存在なんでしょうね。それに、ヴァイオリンを続ける限りは、決して貴方の元を離れることが出来ない。違いますか?」

 要は特に勧められもしないのに、黒革のソファの前に並ぶ、椅子の片方に腰かけていた。ちょうどエアコンの風が吹きつけてくる場所なので、背中に涼しい風が当たって心地好い。

「さて、どうかな。ヴァイオリンに関して言うなら、美音はいまだに俺の指導が必要だと、自分でそう思いこんでいるにすぎない。その気になればあれは、俺などいなくてもひとりで十分やっていけるだろうよ」

 時司要という、プロの画家がわざわざやって来たので――それでコーヒーを淹れたのかと思いきや、西園寺圭は自分専用のカップにだけコーヒーを注いでいた。要はそのことについては特に何も思わず、西園寺圭の今の言葉を意外だと感じると同時に、彼がどこか自分に対し相好を崩していることが、むしろ嬉しく感じられていた。

「じゃあ、もし美音さんが貴方の手を離しても、西園寺さんのほうでは特に異論はないということですか?」

「異論はある。当然な。べつに俺は、あれがおまえのような男とつきあいたいというのなら――本当に本気でそうするというのなら、それでいいとは思っている。だが、俺には結局のところ先が見えているのでな。おまえのような男は俺と同じで、ひとりの女で満足するような器ではない。違うか?」

 あまりに痛いところを突かれるあまり、要は一瞬黙りこんだ。そこで、他の話の切り口へ即座に逃げることにする。

「でも、それを言うなら西園寺さん、貴方も同じなんじゃないですか?貴方には長年連れ添った奥さんがいる……失礼ながら、貴方と奥さんが口論する声を、僕と友人は何度か耳にしました。もっとも、なんのことでそんなに言い争っているのかまでは、まったく聞き取れませんでしたが」

「やれやれ。近ごろの画家というのは、盗み聞きが趣味なのか。まあ、べつに構わん。俺のほうではいくら紗江子との口論を聞かれようと、気にすることはないのでな。単に、紗江子のほうがそうした体面を異常なまでに気にするという、それだけの話だ。俺が離婚しない、できない理由がおまえにわかるか?もっとも去年あたり、今度こそ本気だということを俺は伝えてあるんだが、本人はそれを現実のことだとは認識してないらしい」

「立ち入ったことを聞くようですが……西園寺さんは奥さんと離婚し、美音さんと一緒になるつもりがあるということですか?しかしながら、奥さんの紗江子さんが頑として承知しないので、そのことで絶えず言い争いになっていると……」

「まあ、あれと喧嘩になるのは、そのことが原因とばかりは言えないな。俺は単に紗江子が、俺に他に女がいるのを見て、自分もその真似事をしているのが気に食わんというそれだけだ。あれがどこか病的なのは、それが歪んだ嫉妬に起因しているからだろうな。本人はそのことにまったく気づいていないようだが。だったら、さっさと離婚して俺と離れればいいと思うんだが、自分がこれまでに味わった苦労やつらい気持ち、そうしたものを俺が同程度に味わわない限りは、絶対に別れる気はない――話せば長いが、短くまとめるとすれば、そんなところなんだろう」

 ここで要は、少しばかり不思議な気持ちになった。西園寺圭が、まさかここまで心の内を曝けだすとは思わなかっただけに、夕方とはまったく別の意味で、肩すかしを喰らったような気持ちになる。

「どうした?俺はこれでもまあ、人を見る目はあるほうだと思うぞ。それに、美音が何故おまえに惹かれるのか、その理由もある程度のところは想像できる。もっとも、あれは他の若い男の手をとって俺に嫉妬させたいとか、そんなことは考えてもみないだろう。そこが美音と紗江子の違うところだな。さっきのおまえの質問に戻るとすれば、俺には美音と結婚するだけの用意はある。だが、実質的には無理だという事情があるわけだ」

「そのこと、美音さんは知っているんですか?」

 知るわけがない、というように、西園寺圭はコーヒーを飲みながら肩を竦めている。

「『いつか妻とは別れる』なんていう話、いつ離婚できるかもわからないのに、してどうなる?だが一応、それなりの準備は俺なりに去年からしてきたつもりだ。いや、正確には美音と今のような関係になってから、といったほうが正しいかもしれんな。離婚調停というのは、別居の期間が長ければ長いほど成立しやすいものらしい。だが、それだってもちろん俺に言わせれば泥沼だがな。紗江子は離婚調停の過程で出来うる限り俺を苦しめようとするだろうし、俺は紗江子を大人しくさせるために、むしろマスコミに自分からこのことを公表しようかと考えるくらいだ。そうすれば、異常なまでに体面を気にする紗江子は、かなりのところ静かになるだろうからな。なんにしても、俺はその頃から実質的に別居している状況を作ろうとしてきたわけだが、そんな時に息子の事件が起きて、紗江子のことを支えてやらねばならないような状態になった。あれはたぶん、俺がそのまま自分の元にいてくれるだろうと思ったかもしれないが、俺自身の気持ちというのはとっくに決まっていた。それで去年、離婚調停も辞さないといったことを紗江子に伝えたんだが――これまであんまり離婚について長く話してるんでな、あれは今回もまた嵐を耐え忍ぶように、通りすぎるのを待っているのかもしれん」

「でも、あなたは……今回こそは本気だということですね?たとえば、あくまでもたとえばですが、西園寺さんがベルリン・フィルの音楽監督に就任したような場合、あなたの本拠地はドイツへ移るということになる。もし仮にそこへ美音さんを連れていって、二人で暮らしはじめた場合――離婚していなくても、実質的には夫婦のような暮らしを送れると思います。そして僕も、叶うことであるのなら、それが美音さんにとって最上の幸せではないかというように想像しますし……」

 ここで西園寺圭は(おや)といったように、革のソファの背もたれから、若干体を起こしていた。彼にしては珍しく、自分の思惑といったものが少しばかり外れたらしい。

「それで結局、おまえのほうでは美音をどうしたいと考えてるんだ?」

「僕はただの、美音さんの一ファンみたいなものですよ。僕にも、画家として詩神を感じる心がありますから、彼女がそこに抵触する女性だということくらいはわかる。でも、僕には貴方のように音楽のことで美音さんのことを支えきるということは出来ないと思います。もちろん、<支える>くらいのことは努力次第で出来るでしょうが――<支えきる>ということまでは絶対に出来ない。そして彼女が真から求めているのは、それが出来る男だということです。美音さんが少しばかり僕と親しくしようとしたのは、これもまた単に詩神の問題ですよ。そうしたある種の、<魂の高みで合一に至るもの>と同じ匂いを僕に感じて、「これはどういうことなんだろう?」と一瞬感じたというだけの話です。まあ、そんなわけで僕としては、美音さんをモデルにして一枚か二枚、いい絵を描ければと思っているということですね」

「なるほどな。つまり俺はそうしたおまえの思惑に嵌められたということか」

 西園寺圭は、くっくと少しばかり自虐的に笑いだし、最後にはそれはどこか愉快そうな調子に変わっていた。

「俺もまったく、もうろくしたものだな。正直俺は、これはおそらく美音と一緒になるための、最後のテストのようなものなのだろうと感じていた。あれと今のような関係になってから、俺は身辺整理をはじめていたから――今ではどうにも始末できない大きな荷物がひとつだけ残っているという状態になった。だが、そこまでのことをしたにも関わらず、今度は美音のほうにそれらしき若い男が現れ、最後の最後でやはりどうにもならなくなるのかと思ったりしたわけだ。自分がこれまで行ってきた人生のツケというのは、こうした形で支払うことになるのかと思ったほどだ。それが……」

 西園寺圭は、またひとしきり笑ったあと、キッチンの脇にあるワインセラーの中から、ワインを一本取りだしてきた。そしてそれをワイングラスに注ぎ、今度は要に対しても熱心に勧める。

「本当は、音楽祭の終わる最終日に飲もうと思って取っておいたものだ。まあ、一杯飲んでいくといい。それと、音楽ホールの絵については、明日の朝にでも村雨館長に電話しておくことにしよう。それでいいか?」

「いえ、べつに音楽ホールの絵のことは、僕はどうでもいいんですよ。それより、今年限りで西園寺さんが南沢湖の音楽祭から身を引かれるというのは本当ですか?」

「まあな。俺は自分の後継者にギレンスキーを推しているが、音楽祭の主催者側は、ラインハルト・ヘルトヴィッヒを推している。ギレンスキーは俺と同じく、野心家で自己中心的な男だから、主催者連は温厚で人をまとめあげるのを得意としているヘルトヴィッヒのほうが扱いやすいと考えているんだろう。何しろ、俺がここの音楽祭の監督に就任して以来――ここはこうしろとかああしろとか、音楽のこと以外でも俺は随分うるさかったからな。他に、音響関係のことでも相当金を使わせたし、そこまでさせておきながら今放りだすのかと、向こうが言いたい気持ちもわからないではない。だがまあ、俺が思うにはな、ここの音楽祭には俺などいなくてもある程度人がやって来るだろう。一応俺も、そのあたりの根回しについては、来年からも責任を持ってするつもりでいるからな。だが、彼らは俺が口先だけでそう言っておいて、結局何もしないんじゃないかと疑ってるのかもしれん」

「……………」

 要は、どこか上機嫌にワインを飲む西園寺圭の姿を眺め――もうこれ以上、彼と話すことは何もないといったように感じていた。彼は要が想像していた以上に川原美音のことを愛していた。だが、そのことを彼女自身に口で伝えるようなことはしていないのだろう。それでも、もし仮にドイツの首都ででも、ふたりが暮らしはじめるというのなら、その時にこそ美音にも、自分がどれほど愛されているのかがわかるに違いない。

「それじゃあ、僕はそろそろこれで」

 アポロンというのは、全能神ゼウスの息子のひとりだが、結局のところ彼は父親と戦っても勝てぬのだろうなと、要はぼんやり感じはじめる。ほんの短い時間の対話だったが、自分が手のひらに汗をかき、脇の下が濡れていることを感じると――何かより強い敗北感を、要としては感じざるをえない。

 要自身にもうまく言えないが、魂の圧倒的な容量とでもいうのだろうか。人間としても男としても、自分はもう十数年人生修行でも積まないことには、彼には太刀打ち出来ないだろうと要は確信した。そしてそうした男に愛されるということは、果たして女にとって幸せなことだろうかと、少しばかり疑問にもなる。

(いや、美音さんはともかくとして――やはり不幸なのは、西園寺紗江子のような女なのだろうな。たとえとしてどうかと思うが、美音さんは元は蛾のように目立たない存在だったのが、西園寺氏に目をかけられたことで蝶に変身したのだろう。そして西園寺紗江子は……もとは美しい蝶だったものが、結婚生活における醜い情愛に溺れるあまり、夫の目には蛾のようにしか映らなくなったのかもしれない。当然、西園寺圭にも彼女がそうなったことの原因は自分にあるとわかってるんだろうが、これはどちらが悪いという話ではない。弥生さんが言っていたように、彼の音楽に対する<最初の愛>というのは、最初にして死ぬまで永遠に続くものだ。そしてその愛と同じものを注げるだけの対象を彼が見つけてしまった以上――おそらく、西園寺紗江子は身を引くしかないのだろう。羽をもがれて踏みつけにされた苦しみを、僅かなりとも夫に思い知らせたいといくら彼女が願ったところで、彼のほうでは意にも介していない。むしろ逆にもがけばもがくほど、彼女にとっても苦しみがそれだけ長引くという、これはそういう話なんだろうな)

 要は駐車場までの帰り道を、どこかうんざりとした気持ちで戻りはじめた。細い道をかなり離れた間隔で街路灯が照らしているのだが、そこも蛾だらけなら、本来人が歩くべきスペースも、その両脇の緑もすべて、灰色の蛾で覆い尽くされている。

(やれやれ。なんだかまるで、今の僕のこの<うんざり感>は、西園寺圭の気持ちを代弁してるかのようじゃないか)

 そんなことを思いながら要は、空中に舞う蛾たちを時折両手で払いのけながら、道なき道を歩いていかねばならなかった。足の裏でどこを踏もうが結局、蛾の命を犠牲にせずには前へ進むことが出来ない以上――これはやむをえないことなのだと、自分の心に言い聞かせつつ。

(といっても無論、西園寺紗江子にしてみれば、「真に哀れまれるべきは自分なのに、何故おまえたち男は夫の味方をするのか」といったところなんだろうな……なんにしても僕にはもう、この問題はあまり関係ないか。西園寺圭の心がまさかあれほど堅く定まっているとは思わなかったし、僕としてはただ美音さんに、西園寺氏の愛をそれとなくほのめかすことくらいしか、出来ることはないな)

<蛾の地獄ロード>とでも言うべき道を、要が十分ほど歩いて駐車場まで戻ってきた時――その入口付近のところで、何かの亡霊でも見たように、要は一瞬ギクリとした。

 足の裏の蛾の死骸をコンクリートブロックにこすりつけて落としていると、ふと人の視線を感じて振り返ったのである。するとそこには、黒のジャガーのフロントガラス越しに、こちらを見返す黒ずくめの女の姿があった。

(なんでまた、彼女がこんなところにいるんだ?)

 要は一応礼儀として、何も見なかったという振りをしながら、奥のほうに止めた赤のフェラーリまで戻っていった。このあたりまで来ると、ようやく蛾どもの姿もまばらとなり、彼らの羽を踏みつけにしなくても余裕をもって歩くことが出来る。

 西園寺紗江子はどこか、オードリー・ヘップバーンを気取ったような仕種で、ハンドルに手をかけていたのだが――黒ずくめにサングラスといったスタイルでも、要は彼女が西園寺紗江子であることがすぐにわかった。というのも、ちょうど西園寺家がマスコミに叩かれどおしだった一時期、彼女は今と同じシャネルのスーツに身を包み、車へ乗りこむことが多かったからである。

 要は駐車料金を支払うと、白と橙の蛍光色のバーが上がってのち、キャンプ場から出た。そして黒々とした樹影越しに湖が満月に不気味に光る姿を見ながらホテルへ戻ったのだが、彼の中では何かが釈然としなかった。といってもそれは、西園寺圭との会話に不満足感を覚えてのことではなく……西園寺紗江子という女の醸しだす、ある種ストーカー的雰囲気に起因するものだった。

 もちろん、別れた夫が妻のことをストーカーするといった話は、誰もが聞いたことがあるだろう。だがこの場合は、珍しくも妻のほうが夫をストーカーしているのではないかと、要にはそう思われてならなかった。

 最初、要は彼女が、夫と話をするためにキャンプ場までやって来たものの、大量の蛾に阻まれるあまり目的を達することが出来なかったのだろうと<好意的>に解していた。だがこの翌日――世界的指揮者として有名な西園寺圭が何者かによって殺されたと知ってからは、自分もその容疑者のリストに名前が上がるだろうと心配する以前に、隣の部屋にいる女性のことが真っ先に疑われてならなかったのである。



 >>続く……。





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