※使用させていただいているイラストは、幻想素材サイトFirst Moon様のものです。利用規約を守らず転載or再配布したりされないよう、よろしくお願い致します。
前回の記事で、「サリバン先生の記録」から抜粋したとおり……人というのはどうも、目が見えないほうが実は<悪>から遠く離れていられる、心を清く保って正義を行いやすくなるのでないか、という側面があるように思われるわけですよね。
もちろん、すべての障害のある方が、ヘレンのように恵まれた環境に育つというわけではないと思うので――その点はなんとも難しいところではあるんですけど(^^;)、それでも基本的には<目が見える>ほうが「欲望に惑わされやすい」と言えるのではないかと思います。
ええとですね、わたしが何度か言ってる「心の綺麗な子」っていうのは、わたし個人の私見としては、「純金が服を着て歩いている」といった感じの子でした(笑)
つまり、そのくらいわたしとっては、<魂の目方>が重い子だったんです。
たとえて言うなら、彼らに純金100tの価値があったとしたら、わたしの人間的な価値なんて、まあいいとこいって砂金0.2gみたいな??(^^;)
もちろんいきなり、その子に対して「○○くんのことを、神さまは愛してるよ」なんて言うわけにもいかないし……大体周囲の人にも「子供に変な布教をしないでください!」って言われそうな気がするっていうのもあって、つくづく日本でキリスト教について語ることの難しさを覚えます。
まあ、そんなわけでせめても詩集を作ることにしたんです……が。。。
点字の難しさって、実は漢字がなくてすべて平仮名表記であるっていうところにも少しあるような気がしたり(^^;)
たとえば、
きっと天の御国では
乞食はみんな大会社の社長で
物乞いたちはみな
貴族の子息か御令嬢――
ホームレスたちはみんな
総督か大統領だ
わたしはそんなふうに想像するのが好き――
たとえ地上の富んでいる人々が
わたしのそんな考えを「貧しい」と言って笑ったとしても――
これを点字にすると、読みとしてはこんな感じになります。
きっと てんの みくにでわ
こじきわ みんな だいがいしゃの しゃちょーで
ものごいたちわ みんな
きぞくの しそくか ごれいじょー
ほーむれすたちわ みんな
そーとくか だいとーりょーだ
わたしは そんなふーに そーぞーするのが すき
たとえ ちじょーの とんでいる ひとびとが
わたしの そんなかんがえを 「まずしい」と いって わらったとしても
え~と、この時点ですでに「分かち書き」とか合ってるかな??っていう不安が、わたしにはすごくあったり
「分かち書き」っていうのは、ひとつひとつの語句の最後に「ね」をつけてみて、切れのいいところを一マスあけることをいうんですよね(^^;)
それと、「は」は「わ」で表記、「う」は「ー」って伸ばすという点字の法則が。。。
つまり、「佐藤さん」は「サトーサン」、「郵便局」は「ゆーびんきょく」となるっていう。
そして、平仮名で解体(?)してしまうと、この詩っていい詩なのかなんなのか、自分でもだんだんわからなくなってくるという(笑)
でもヘレンが、「神さま」とか「魂」とか「天国」っていうことに思いを深めていたみたいに……そうしたことを考えるひとつのヒント(?)として、多少はこういう詩っていうのも役に立つんじゃなかろーかとわたしは思ってるわけです(^^;)
>>ヘレンは耳の聞こえる子供とまったく同じように、お話をしてくれとしきりにせがみます。
私は何度も「赤ずきんちゃん」のお話をさせられましたので、その話を終わりから逆に話せるくらいになりました。
誰でもそうだと思いますが、彼女は悲しいお話が好きです。悲しいものが何もないときに、悲しみを感じられるというのは素敵なことです。
今、彼女に小さな詩も教えています。それらの詩は、彼女の心に美しい思い出を残します。
私はまた、詩は子供の心の働きを活発にすると思います。なぜなら、詩は想像力を刺激するからです。
もちろん私は詩の内容を全部説明するつもりはありません。もしそうしてしまったら、想像の働く余地がなくなってしまうでしょう。
あまり説明しすぎると、子供の注意を個々の単語や文章に向けさせてしまい、子供が全体の意味をつかむことに失敗させてしまいます。
私は、単語や文章の述語的な意味を忘れないうちは、誰も全体の意味について読んだり話したりできるとは思いません。
(「ヘレン・ケラーはどう教育されたか~サリバン先生の記録~」、槇恭子さん訳/明治図書刊)
他に、サリバン先生は「(わたしはヘレンに)言語のために言語を教えたのではない」とも言っていますね。
つまり、言い換えるなら、「教育のために教育したのではない」とも言えると思います。
日本の教育のダメなところは間違いなくそこだと思うんですけど、先生たちもとても大変だと思うので、そんなこと言っても仕方ないといえば、仕方ないですよね(^^;)
なんにしても、わたしも点字の詩集を作って、それを誰かに(添削がてら・笑)読んでもらいたいな~と思ったりしています。
大体人は、赤ん坊の時には純金100tくらいの純度で生まれても、その後成長していくにしたがって、それが「純金50%、鉛30%、金メッキ20%、その他なんかよくわからないの10%」……みたいに、魂の価値が変わってしまうのかもしれません。
でも神さまが求めてるのは、この純金の部分だけだっていうの、つくづく感じました(^^;)
まあ、純金が50%も残っていればまだいいほうで――鉛65%、金メッキ25%、純金2%、その他8%とか、それが一般でよくいう「普通の人」だったりしたら、どうでしょうか。。。
それでも、純金の値を0.01%ほども持ってないという人はどこにもいないので、神さまは必ずその0.01%を回収しにくるという方でもあるんですよね。
それがその人にとって「審き」のように感じられるか、それとも「救い」となるのかは、その時のその方の心(魂)の状況次第なのかもしれません。
なんにしても、自分的にあんなに魂の目方の重い子に会ったのは初めてだったので……神さまが彼らを守ってくださって、神さまの元にまで導いてくださるよう、今はただ毎日のように祈っています。
もしもわたしたちが天国へ行けたとしたら
わたしたちは魂の目でものを見
魂の耳でものを聴くことができるのでしょうね
そこでは富める者も貧しい者もなく
健常者も障害者もなく
能力の高い者も低い者もいない
天国ではすべての民に
<永遠>という名の市民権が与えられ
人はみな平等に暮らしているのに違いない――
でもだからこそ神は
天国の有難みがわかるようにと
人のこの世における<迫害>と<困難>とを
お許しになられるのでしょうか
前回の記事で、「サリバン先生の記録」から抜粋したとおり……人というのはどうも、目が見えないほうが実は<悪>から遠く離れていられる、心を清く保って正義を行いやすくなるのでないか、という側面があるように思われるわけですよね。
もちろん、すべての障害のある方が、ヘレンのように恵まれた環境に育つというわけではないと思うので――その点はなんとも難しいところではあるんですけど(^^;)、それでも基本的には<目が見える>ほうが「欲望に惑わされやすい」と言えるのではないかと思います。
ええとですね、わたしが何度か言ってる「心の綺麗な子」っていうのは、わたし個人の私見としては、「純金が服を着て歩いている」といった感じの子でした(笑)
つまり、そのくらいわたしとっては、<魂の目方>が重い子だったんです。
たとえて言うなら、彼らに純金100tの価値があったとしたら、わたしの人間的な価値なんて、まあいいとこいって砂金0.2gみたいな??(^^;)
もちろんいきなり、その子に対して「○○くんのことを、神さまは愛してるよ」なんて言うわけにもいかないし……大体周囲の人にも「子供に変な布教をしないでください!」って言われそうな気がするっていうのもあって、つくづく日本でキリスト教について語ることの難しさを覚えます。
まあ、そんなわけでせめても詩集を作ることにしたんです……が。。。
点字の難しさって、実は漢字がなくてすべて平仮名表記であるっていうところにも少しあるような気がしたり(^^;)
たとえば、
きっと天の御国では
乞食はみんな大会社の社長で
物乞いたちはみな
貴族の子息か御令嬢――
ホームレスたちはみんな
総督か大統領だ
わたしはそんなふうに想像するのが好き――
たとえ地上の富んでいる人々が
わたしのそんな考えを「貧しい」と言って笑ったとしても――
これを点字にすると、読みとしてはこんな感じになります。
きっと てんの みくにでわ
こじきわ みんな だいがいしゃの しゃちょーで
ものごいたちわ みんな
きぞくの しそくか ごれいじょー
ほーむれすたちわ みんな
そーとくか だいとーりょーだ
わたしは そんなふーに そーぞーするのが すき
たとえ ちじょーの とんでいる ひとびとが
わたしの そんなかんがえを 「まずしい」と いって わらったとしても
え~と、この時点ですでに「分かち書き」とか合ってるかな??っていう不安が、わたしにはすごくあったり
「分かち書き」っていうのは、ひとつひとつの語句の最後に「ね」をつけてみて、切れのいいところを一マスあけることをいうんですよね(^^;)
それと、「は」は「わ」で表記、「う」は「ー」って伸ばすという点字の法則が。。。
つまり、「佐藤さん」は「サトーサン」、「郵便局」は「ゆーびんきょく」となるっていう。
そして、平仮名で解体(?)してしまうと、この詩っていい詩なのかなんなのか、自分でもだんだんわからなくなってくるという(笑)
でもヘレンが、「神さま」とか「魂」とか「天国」っていうことに思いを深めていたみたいに……そうしたことを考えるひとつのヒント(?)として、多少はこういう詩っていうのも役に立つんじゃなかろーかとわたしは思ってるわけです(^^;)
>>ヘレンは耳の聞こえる子供とまったく同じように、お話をしてくれとしきりにせがみます。
私は何度も「赤ずきんちゃん」のお話をさせられましたので、その話を終わりから逆に話せるくらいになりました。
誰でもそうだと思いますが、彼女は悲しいお話が好きです。悲しいものが何もないときに、悲しみを感じられるというのは素敵なことです。
今、彼女に小さな詩も教えています。それらの詩は、彼女の心に美しい思い出を残します。
私はまた、詩は子供の心の働きを活発にすると思います。なぜなら、詩は想像力を刺激するからです。
もちろん私は詩の内容を全部説明するつもりはありません。もしそうしてしまったら、想像の働く余地がなくなってしまうでしょう。
あまり説明しすぎると、子供の注意を個々の単語や文章に向けさせてしまい、子供が全体の意味をつかむことに失敗させてしまいます。
私は、単語や文章の述語的な意味を忘れないうちは、誰も全体の意味について読んだり話したりできるとは思いません。
(「ヘレン・ケラーはどう教育されたか~サリバン先生の記録~」、槇恭子さん訳/明治図書刊)
他に、サリバン先生は「(わたしはヘレンに)言語のために言語を教えたのではない」とも言っていますね。
つまり、言い換えるなら、「教育のために教育したのではない」とも言えると思います。
日本の教育のダメなところは間違いなくそこだと思うんですけど、先生たちもとても大変だと思うので、そんなこと言っても仕方ないといえば、仕方ないですよね(^^;)
なんにしても、わたしも点字の詩集を作って、それを誰かに(添削がてら・笑)読んでもらいたいな~と思ったりしています。
大体人は、赤ん坊の時には純金100tくらいの純度で生まれても、その後成長していくにしたがって、それが「純金50%、鉛30%、金メッキ20%、その他なんかよくわからないの10%」……みたいに、魂の価値が変わってしまうのかもしれません。
でも神さまが求めてるのは、この純金の部分だけだっていうの、つくづく感じました(^^;)
まあ、純金が50%も残っていればまだいいほうで――鉛65%、金メッキ25%、純金2%、その他8%とか、それが一般でよくいう「普通の人」だったりしたら、どうでしょうか。。。
それでも、純金の値を0.01%ほども持ってないという人はどこにもいないので、神さまは必ずその0.01%を回収しにくるという方でもあるんですよね。
それがその人にとって「審き」のように感じられるか、それとも「救い」となるのかは、その時のその方の心(魂)の状況次第なのかもしれません。
なんにしても、自分的にあんなに魂の目方の重い子に会ったのは初めてだったので……神さまが彼らを守ってくださって、神さまの元にまで導いてくださるよう、今はただ毎日のように祈っています。
もしもわたしたちが天国へ行けたとしたら
わたしたちは魂の目でものを見
魂の耳でものを聴くことができるのでしょうね
そこでは富める者も貧しい者もなく
健常者も障害者もなく
能力の高い者も低い者もいない
天国ではすべての民に
<永遠>という名の市民権が与えられ
人はみな平等に暮らしているのに違いない――
でもだからこそ神は
天国の有難みがわかるようにと
人のこの世における<迫害>と<困難>とを
お許しになられるのでしょうか
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます