旧(58)の内容を →(58 rev.)(59)の上半分、に分け、夫々に注釈を加えました。
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〇 「日本の国宝と その時代 ③」 大宰府 条坊に建った 観世音寺(現在の 奈良 法隆寺)の VR デジタル復元 (観世音寺の全伽藍は 618年頃に完成しました。)
(上図:米田良三著『法隆寺は移築された』1998年 p.57より)
上の図は、大宰府の 条坊に建っていた時の 観世音寺 です。創建(棟上げ)は 607年(米田良三氏説)でした。翌年 608年に、隋の 裴世清 は 煬帝の使者として 倭国(俀 たい 国と表記)の首都 博多に やって来ました。
※ 裴世清の 九州上陸後の行程は、(55)の地図を参照して下さい。後述します。
常識から考えると、裴世清は 歓迎され、建設中の 大宰府の条坊を案内され、
新築の このお寺の金堂を見学したと思われます。 (全伽藍の完成を 618年頃 と
米田氏は推定されています。ハレー彗星 617年のスケッチが、屋根裏にあるからです。)
※ この 観世音寺が 飛鳥に移築され「法隆寺」になった ことを、米田良三氏が 解明しています。(1989年と1998年に移築に関する著書 旧版 新版 を出版。)現在 大宰府にある観世音寺は 二代目で、創建当時の建物ではありません。元のは 移築されました。法隆寺は、礎石を近くの若草伽藍の焼け跡から持ってきて据えた以外は、建物、壁画、内装、敷石まで、大宰府の観世音寺から材料を運びました。解体は 壬申の乱 の後 10年くらいに行なわれ、川伝いに搬送され、約20年、斑鳩の「興留」に留め置かれました。そして、現在の場所に組み上げられました(米田氏説)。8世紀 初め のことでした。
博多(難波)の上宮法皇のもとに「隋の使者」(裴世清)を伴って 遣隋使 小野妹子が対馬あたりまで 戻って来たという嬉しい知らせが 608年6月 に 届きました。一行は、首都、博多に向けて進んでいます。 (魏志倭人伝の 倭国の首都は 博多です。)
上宮法皇は 彼らの歓迎を、お命じになりました。彼らが 本土に上陸したときには、数百人の鼓角(つつみや 角笛)が出迎えました。俀国の首都に入るときには 馬200騎のパレードが先導し、一行は 博多の 迎賓館「鴻臚館」に到着しました。
※ 壱岐国からは 船で 唐津湾に至り、本土に上陸してから 虹ノ松原を通って 博多に向かいました(55)。(中村氏説)
虹の松原 唐津観光協会
「倭国」九州王朝の大君 おおきみ である 上宮法皇は、591年(法興元年)- 622年の治世でした。大宰府に中国と同様の「条坊」の新都心や 観世音寺を造ろう、とお命じになったのは、かなり確実に この大君です。
※ 「上宮法皇」「聖徳太子」は おくりなです。ご生前は「大君」と呼ばれました。(例えば、昭和天皇は おくりな。ご生前は「天皇陛下」。)上宮法皇の似姿が、没後 釈迦三尊像の釈迦に再現されました(古田武彦氏説)。ちなみに 救世観音も似姿で、博多湾岸(難波津)四天王寺のご本尊でした(新庄氏説。)
裴世清のパレードの前年 607年 に、上宮法皇が 小野妹子を隋に派遣したのには、大きな理由がありました。妹子 本人が それを皇帝に 説明しています。遣隋使 小野妹子 は「中国皇帝に宛てた 多利思北孤(上宮法皇)からの国書」を持って博多を出発しました。数十名の僧侶が一緒です。長安(大興)に到着して、皇帝にお会いした妹子は 名乗ってこう言いました。
「海西の(倭国から見た中国は西です)菩薩のような天子が、手厚く仏法を興隆させておられる と聞いています。朝拝に(私が)派遣されて参りました。それと共に、出家した僧侶 数十人が 仏法を学びに来ました」と皇帝に伝えました。
皇帝へのお世辞でなく、数十人の学僧に 仏教学習の便宜を図って下さい、というお願いです。
大宰府に 観世音寺が 建ち始めています。(607年に 棟上げが済みました。)数十人の僧侶は、そのことで養成が決まり、留学の費用は国家持ちで「最新の仏教哲学」を学びに中国に来た 大変 優秀な出家者たちだった、と考えなくては つじつまが合いません。倭国で最初の戒壇院も、大宰府の観世音寺にできました。だから、607年の 小野妹子の派隋は、日本の仏教史の非常に大きな出来事です。上宮法皇が 仏教を国教にした平和立国(中村元氏の言う 普遍的な国家)を目指していたからです。僧侶は、倭国の重要な官僚です。彼らを、誰に託せば良いでしょう。600年(開皇二十年)に 使者が隋に派遣された時、隋で「始祖 楊堅(文帝)」に とても歓待されたことを 上宮法皇は 思い出しました。
この 隋の文帝は、質素倹約で民衆からも慕われた 菩薩のような天子です。手厚く仏法を興隆させた方、でした。とにかく 300年 乱れていた中国を統一して、安定させちゃったので、民衆に 絶大な人気がありました。
自らも 民衆に慕われていた 九州王朝の上宮法皇は、おそらく 倭国の統一では「文帝を真似しよう」と考えていたのです。上宮法皇は、和をもって尊しと爲す。篤 あつ く三寶を敬え。三寶とは佛法僧 也、と教えて民を導きました。
観世音寺が、そのシンボルだった と考えなくては、話が かみあいません。
このときに トラブルが ありました。日本史の教科書では、このトラブルのほうが有名です。残念ながら 600年に遣隋使がお目に掛かった「隋の文帝」は、604年に崩御されていました。後を継いだ二代目 煬帝は 奢侈に走り、没後には 父 文帝を暗殺して皇帝になったのではないか、という悪い噂まで出ています。仏教に関しては、若い時に南朝の仏教の高僧を知って感銘を受けたようですが、皇帝になって特に仏法を興隆させては おりません。小野妹子が 何も知らず 父「文帝」宛ての国書を読み上げたので、治世のまずさが 先帝に比べられたようで 皮肉に聞こえて、煬帝は 大変に 不機嫌になりました。
607年に持参した 国書が 日出処の天子 の「皇帝、おかわりありませんか」という挨拶です。
※ 上宮法皇は 皆さんも ご存じの通り、隋への朝貢の後に 仏教経典(維摩経、法華経など)の注釈書を学んでおられます。(おそらく 中国で書かれた最高の注釈書を筆写し、その筆写の下書きに この教えを日本に社会実装する上での ご自身の感想を追記されたのでしょう。)多利思北孤の目指す 仏教立国は 「隋の文帝」に 高く評価されたことでしょう。なお、この国書における「天子」の自称と(中国皇帝への礼を失わない)対等の口上は、隣国南朝の滅亡で倭国の宗主国がなくなり、隋と対等の立場である、という大義名分からで、そのことは隋も理解していました。(新庄氏 p.6)
だから、正直言って、煬帝との話は どーでもいい話 です。裴世清は、倭国に 仏教を伝授しに来たわけではなく、隋の煬帝の関心事が高句麗との戦争で、もしも倭国が敵対したら、何日で軍隊を倭国まで送れるかとか、そーいう軍事面のことを調べに来たのです。隋書俀国伝の行程が、博多を目的地と考えると「やけに正確」に書いてある理由は、そのためです。その行程は、3世紀の 魏の使者が 魏の援軍 を(必要な場合に)直ちに 博多まで進軍させるための日程を知らせた軍事情報でした。(55)に(中村通敏氏の発見した)魏の使者が 卑彌呼 に会うために 3世紀に通った 博多湾岸のルートを載せてあります。同じルートを裴世清が通りました。上宮法皇が 裴世清 大歓迎のパレードを行なった理由は 有難い 仏教を国内に普及させることの先触れ でした。が、しかし それはフライングでした。
ところで 607年の隋への朝貢 は、隋では カウントされていません。戻った 小野妹子は 半年を置かずに 慌てて 隋に 再出張です。次の 608年の朝貢は(間違えず 煬帝宛ての国書で)俀国からの朝貢があった ことが 正式に 隋に認められました。(607年には、煬帝の返書が貰えてなかったのです。)
数十名の留学僧たちも 608年に 皇帝の口利きで、立派なお寺に紹介されたことでしょう。
裴世清も、長くいても 仕方がないので、妹子と一緒に 隋に戻りました。
※ 観世音寺の伽藍の完成と 条坊のお披露目は、618年でした。寺の金堂の彩色中に、ハレー彗星が 出現(617年)しています。そして、その 4年ばかり後の 622年に、上宮法皇は逝去されました。観世音寺の職人たちは、その須弥山を上宮法皇を悼む内容にバージョン・アップさせました。(米田氏説)
そんな話、日本の 検定教科書に載っていなかった ぞ、って仰るのですか。
そうなんです。こちらが 日本史の真実でした ってことを 教科書に載せないと、
大変な騒ぎになる かも知れません。私は 親切心から、これを書いているのです。
それで、VRをこれから学ぶ学生さんには 実習で、上の 観世音寺の CGデジタル復元、そして、高松塚古墳の壁画の CGデジタル復元 をやって貰い、
VRの デジタル復元を 身体で覚えて貰おう、というのが(58)の時点の 私の考えです。幸い「法隆寺」には 大宰府の観世音寺創建のときに 大工のつけた 符牒が残っており、当時とは 建っていた方角が 違うと はっきり分かっているのです。
※ 符牒は、部材を組み上げた時の組み上りが どちらの方角かを示します。(米田氏 pp.52-53)
また、VRデジタル復元を 身体で覚える一環で、高松塚古墳の復元も そのうち試みて、被葬者の位置に自分が寝る 心地よさも味わって貰うつもりです。その時代の人たちが誇らしく感じた気持ち の再現を目指します。
※ 大宰府にあった観世音寺を考えると、白村江で 400艘の水兵が見殺しにされた理由も推測できるように思います。663年の 白村江の戦いの当事者、筑紫の「薩夜麻」大君は 主戦派でした。わずか 400艘の水軍で、巨大な「唐」を相手に戦争を始めました。もしかすると、倭国は 大和軍の加勢があるから、と甘く考えて白村江に向かったのではないでしょうか。しかし、中臣(藤原)鎌足たちの判断は 違いました。一時は 唐に戦勝できたとしても、唐(と新羅)が 幾万の軍隊で本気で攻め寄せたら 博多は 本土決戦で焦土と化す でしょう。
それで 大和の 600艘は 戦いを離れて、遠巻きに 400艘が 火炎に包まれるのを見ていました。
(2024.06.07追記:第2次大戦でも 日本の大本営に 米軍に軍事機密を流して 早く日本の敗戦を決着させようとした人たちのいたこと、が 噂されています。鎌足と 同じ心境だったのでしょう。大本営の主戦派は 奇襲攻撃で緒戦に勝利し、半年くらいで日米交渉に進めると 都合良く考え 突っ走ったのですが、米国参戦の目的は ドイツ軍の討伐です。日本は 戦争が長引けば不利になると読まれていたので、長期戦にされました。しかも 日中戦争が関東軍の鉄道爆破で始められたのを 国際連盟が認定しており、大義が 日本にありません。それで、大本営の中に 日本の軍事情報を流した人が もし いたとすれば、戦艦大和などが撃沈されることで 大本営の主戦派を一掃しようと 敵国を利用したクーデターを考えたのかも知れません。残念ながら その行動は、沖縄戦など東アジアでの完敗と 本土空襲、海上交通路の遮断による本土の飢餓の原因に なりました。停戦のために ” 良かれ ” と考えて 彼らのやった弥縫策が、米国の目標が日本を無条件降伏させて海外領土を放棄させることだったので 裏目に出たのです。余談ですが、しかし、そもそも 敵国基地を攻撃する戦力を保持していたので こうなったのだ、と 昭和天皇がマッカーサー元帥との会談で ” 新しい 日本国憲法での戦争放棄 ” を提案され、しかし、天皇のご発案ということは「天皇からの政治への干渉」にあたるので 米国の発案だったことにして下さい、とご依頼されたそうです。国際政治評論家 中丸薫氏が著書に記しました。話を戻して、663年に 鎌足が 600艘については 参戦しない、と決めて、博多が焦土になるのは避けられました。しかし、大君と貴族は 唐の捕虜になり、葛城王は大和に拉致されました。額田王女と鏡王女は 戦利品として 大和朝廷で 妾にされました。今の岸田政権でも、何か やばいぞ、俺のせいにされて幕引きかも、と思っておられる政治家が おられるのではないでしょうか。)
※ 日本政府が 米国から 追加で、急遽 戦艦を買うことになった「東南アジア海域の緊張」でしたが、
中国と東南アジア某国の秘密条約を 某国が破ったためで、その威嚇のために 中国が艦隊を出した、と
最近 明らかになりました。日本は無関係でした。
『日本書紀』には 上宮法皇をモデルにした 聖徳太子 のお姿が、名君として描かれました。
聖武天皇は「大仏開眼」を 派手にアピールすることで、戦意の無いことを中国に示しました。
藤原鎌足が もしも 東大寺をご覧になれれば、観世音寺の泰平路線と同じ印象を感じたでしょう。
東大寺の大仏様です。14.7mあります。ただし、創建当時のままは台座だけ。焼失により、胴体は 鎌倉時代、
首から上は江戸時代の再建です。 創建当初は 全身が金色でした。
ここから、観世音寺の デジタル復元を なぜやるのか、について説明します。
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〇 アフガニスタンのバーミヤン石仏 の VRデジタル復元
→(59)に移しました。
旧(58)では 観客が 玄奘三蔵になって、アフガニスタンのバーミヤンの石仏 2体を確認し、歴史の証人になる VRシアター(または プレステVR)の VRデジタル復元を体感しました。VRの開発者は、バーミヤンの石仏を、思いきり金色 で塗って下さい。55mと 38mです。 住民は誇らしく感じたことでしょう。その誇らしい気持ちは、大宰府の住民が 観世音寺に感じた誇らしさと 全く 同じでした。
「VRの技術」に しかできない 没入体験です。
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バーミヤンの石仏と同様に、「法隆寺」を大宰府の条坊の中に戻し、金堂と塔を入れ替えて それぞれ 90度回転させ、昔の姿を偲びましょう。それができるのは、VRデジタル復元のできる VR開発者の特権です。
そして(紆余曲折は ありましたが)大和に併合された九州の倭国と そして 大和朝廷は、最終的には、東大寺(25)に「観世音寺の未来」を重ねることができました。九州王朝を隠すことで、国家は 非戦の未来を選びました。
※ 漢方薬の基本 は、未病を治すこと。病気になる前に、その原因を除くこと = 化生論 が主軸です。病気が悪化して治療するより、はるかに安く治療できます。保険調剤薬局に「未病」向けの漢方薬が並べば、高齢者むけの医療費が目に見えて減り、その予算を更に「住むだけで病気にならない街づくり」に まわせます。自衛隊もリスクに備えて保持される効率の良い戦力(化生論)で、演習を拝見しましたが 高い国防意識を感じて感銘を受けました。ちなみに、米国では 日本が高性能の武器を大量に外国から購入して保持していることが 一部の議員に恐怖を生んでいる そうです。米国の研究所では、日本では 全く使う必要のなかったドイツ製原爆2個の性能実験だったことがバレたときなどに「日本人が怒って 米国を現在保有する軍事力で 奇襲・逆襲してくるのではないか」と 心配する議員を安心させるための調査・研究が行なわれているそうです。例えば、日米共同軍事訓練で使用する自衛隊のパソコンのOSにBugを混ぜれば どのくらい混乱が起きるか、などが実験されている噂も ありました。米国の議員の一部は、何を考えているのでしょう。ちなみに、日本の古武道の基本的な考え方も、漢方薬と同じ 化生論です。 ” 争いを避けるための護身術 ” が基本の体術を学べば、昭和天皇のご発案にも矛盾しない自衛隊になると思います。米国で道場を開いた ある空手の師範は、道場やぶりが 米国では やたらに多く 数人に暗がりで囲まれることもあって、護身術の「蹴り」が役に立ったそうです。自衛隊のパソコンのOSにBugを混ぜた、あるいは OSを動かなくするコマンドを潜ませた などの噂も、ある意味 自衛隊という国防の道場に対する 道場やぶりでは無いでしょうか。でも、愉快犯に近くて 下劣です。
画像借用元:https://www.sachio-yoshioka.com/blog/2002/10/d20/
※ ところで、日本建築の「移築」の概念は、世界遺産 関係者に理解されません。例えば、フランク・ロイド・ライトの建築は 世界中で世界遺産ですが、博物館明治村の「帝国ホテル」は移築だからだめ、だそうです。しかし、日本では、ころに乗せて家一軒を丸ごと移動させたり 戦国時代の茶室をそのまま移築することが、珍しいことでは ありません。そもそも英国などの石造りの建築は 森を乱獲して良い建材が得られなくなった結果だったので、移築が難しいそちらを基準にするのは 歴史の逆行ではないでしょうか。「帝国ホテル中央玄関」は、世界遺産級の文化遺産です。
博物館明治村 帝国ホテル中央玄関
※ 経済力や政治力による 他国の移築強要の恐れがあり、世界遺産で移築を認めないことは理解できるのですが。
《 鋳型化ここまで 》
フェロー武田 「日本の国宝と その時代 ③」(VR奥儀皆伝(8½)(58))
Blog TP-VR Attract.のトリビア 2022.9.xx
フェロー武田 「日本の国宝と その時代 ③」(VR奥儀皆伝(8½)(58))
Blog TP-VR Attract.のトリビア 2022.9.xx
図-21 の「観世音寺」の塔と金堂を入れ替えて、それぞれ 90度回転させると「法隆寺」になります。
図-21 に比べて 図-20 は だいぶ見劣りがします。
移築の理由も、なぜ 90度回転させたかも、現時点での定説はありません。
紙幣の 伝 聖徳太子 像(別人の画像だったという説が 有力)
『源氏物語』(11世紀冒頭)では 光の君がこんなこと を言っています。「日本紀(にほんぎ)などは、ただ かたそばぞかし」(日本の正史に書かれていることは 世の中の ほんの一面なのだよ)。25帖 蛍。御息所の生霊に殺された夕顔の娘、美女の 玉鬘 たまかずら は 筑紫で育ちました。
タグチメソッド、自動運転車の日本の未来(「家紋つき自動車」)も 次回以降に。
日本の品格 は「四書五経」が作りました (Ⅶ)VR之極意:③
VR奥儀皆伝( 8½ )(56)→ こちら