( 8½ )(55½ )③ VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2022-06-27 | バーチャルリアリティ解説
「白江戦と日本文学史」第三回(中小路駿逸 論文 pp.371-369
                          【( 8½ )総目次

 ※ 7世紀以前に 中国と外交していた 倭国は「博多」の九州王朝です。【(55½ )①②③ は、先に(53)(55)をご覧下さい。】その九州王朝は 白村江の戦いの結果、大和朝廷(そのときまで 中国からは 倭国の別種と認識されていました)から「なかったこと」にされました。( その 第3回 )

全三回(  ③)

 ※【おまけ】の 中小路 紀要論文「一元通念の誤解、もしくは 曲解」について
 論文本文の 抜き書きと
 「Google翻訳」へのリンクを追記しました。(2022.07.15)

 【「白江戦と日本文学史」要旨】 663年の「白村江の戦い」は「倭国・百済遺民 連合軍」と「唐・新羅 連合軍」との戦いで、倭国が大敗しました。『三国志記』などでは、倭国Aと倭国Bの船は あわせて 約千艘。唐の船は170艘。倭国A(中軍)の約400艘が燃えました。。。。。倭国B の約600艘は(事前の 唐・新羅との約束で)倭国A の全軍が壊滅するのを見ていました。半島の百済に傀儡政権が置かれ、新羅に味方した 倭国Bの 600艘は帰途につきました。
 歴史書には、戦闘で 火矢に射られて海上が真っ赤に染まった、とあります。
 亡くなった 400艘の水兵は、何を想って死んだのでしょう。

上記掲載論文:中小路駿逸「白江戦と日本文学史」
追手門学院大学文学部紀要 25号(1991年)pp.384-369
(書籍非掲載論文)「訂正並びに補足」付

 【雑誌やその他メディアの編集担当者へのお願い】 中小路駿逸氏の上記 論文についてのコメントを古代史の専門家に依頼される方は、大変にお忙しいと思いますが、上の中小路氏の論文を依頼前にお読み頂けませんか。15分もあれば読めます。どなたかに依頼された原稿を受け取る時は、必ず目を見て 冗談を言うように「ご家族や子孫の方々に 恥じない内容ですね」と一言添えて下さい。宜しくお願いします。
 (意見の違いは、バス停「博多ふ頭」が 奴国だと誤解されている方が まだ多いせいです。(55)

 ※ まことに恐縮ですが 6月15日から 7月6日まで、海上の「丹」の色を血液の赤だと思い込んで Blogに書いてしまいました。そもそも水死兵の血液は 水面に浮きません。これは二手に分かれた唐軍から射られた「火矢」の勢いを示した描写でしたので(55)以降を訂正しました。(2022.07.06)

 【本Blogによる解説】 なお「九州王朝説」が いま一つ「決定打に欠けた」理由は 結局「九州王朝がどこにあったか」の決め手を欠いていたからで、これは 九州説・大和説が共に「奴国」を バス停「博多ふ頭」の場所にあった、と考えていたからでした。しかし、中村通敏氏が「奴国は室見平野」「邪馬壹國の敵は吉野ヶ里を含む狗奴国」であった、と魏志倭人伝を根拠に 2022年に論証されたことで、バス停「博多ふ頭」は 邪馬壹國に復帰できました。従って、バス停「博多ふ頭」JR「博多駅」「太宰府天満宮」を結ぶ直線邪馬壹國の中心線でした。(中村氏説。今後の教科書に 掲載されすはずです。)


 □■□■□■□■□■□■□■□■

 【おまけ】大和(日本)王権の対唐政策「一元通念」の源流と文学史 ―(冒頭)
   追手門学院大学文学部紀要35号(1999年)
   中小路駿逸 著(遺稿集)『九州王権と大和王権』海鳥社 に所収

◇ 【抜き書き】「驚かれるほどの明らかさで告げられている、先祖を同じくする同系異統の複数王権の存在について。『日本書紀』と『続日本紀』に示される大和の朝廷自身によるみずからの歴史の記述についての要点」(上掲紀要 p.183)

日本文学史について、調べていた。必然的に、古代の部分についても調べはじめた。
すると、思いもよらず、現存する最古層の諸史料には、特定の古代史像がしるされていることを知った。
そして、その古代史像が、通念とあい反するものであることが知られた。(略)
端的に言えば、「日本書紀」および『続日本紀』には、一見して明らかに、ただし、より正確に言えば、
いったん気づけば、なぜこれほど一見して明らかなことがらが間違えられたのだろう、と驚かれるほど
の明らかさで、先祖を同じくする同系異統の複数王権の存在が 告げられているのである。

すなわち、そこには次のようにしるされている。

伊弉諾尊・伊弉冉尊、共議曰「吾已生大八洲國及山川草木。
何不生天下之主者歟。於是、共生日神、號大日孁貴。
(〈中略〉
一書云、天照大神。)(日本書紀巻第一神代上第五段、本文、
注)
天照大神
(中略)高皇産靈尊(中略)遂欲立皇孫天津彥彥火
瓊瓊杵尊、以爲葦原中國之主。
(同巻第二神代下第九段、本文)
天照大神
(中略)因勅皇孫曰、葦原千五百秋之瑞穗國、是吾
子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。
(同、一書第一)
辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮
(中略)初、天皇草
創天基之日也、
(同巻第三神武紀)

 【 Google 翻訳 】
中国語→日本語 

「大八洲国」の「主」たるべき存在として生まれた天照大神に
よって「葦原中国」の「主」また「王」として「治」せよと命じ
られて九州の一角に降臨した存在の子孫の一人が、大和に来て
「天基を草創」した。この人がわが王権の初代王である、としるさ
れているわけである。王の子孫が初代王になれるのは、王の分流、
傍流の子孫の場合である。
この王権は、自身が九州の王権の一つ
の分流ないし傍流の格であったことを、みずから告げているので
ある。これは同時に、九州に本流の王権が存在し、かっ継続した
ことを告げたにひとしい。
では右の状態は、いつまで続いたのか。当然『日本書紀』の末
尾の時点まで、すなわち持続天皇の孫への褝位まで続いたのであ
る。

 ((55½ )  ③)(55)

   「一元通念」というのは 次のような内容です、
と この論文で 中小路氏は説明しておられます。
   「大和にある天皇家の王権は 七世紀よりも前から、
   日本列島内で卓越して尊賁な、唯一の中心的権力であった」・・・。

しかしながら、氏は『続日本紀』『日本書紀』の本文と注釈を正確に読むことで、
この一元通念は「間違い」です、と断じました。

 (「一元通念」が 間違いですので、教科書に間違いを載せ続けているのは、いかがなものでしょう。例えば「倭の五王」が大和朝廷のご先祖であったかもしれないという仮説は、この下の理由を読めば「あり得ない」ことであるのが明らかです。)

なぜなら、大和王権の初代王 神武以来、持統譲位(697年)までの大和では、
   大和王権が 分流であるという家柄、つまり、
   大和王権の「分流・傍流の格」が(切れ目なく)続いていました。
   それが「史実」でした。
大和は分流でしたから、持統譲位までは「本流」が 別に存在していました。

しかし、

   その次代の 文武即位(697年)によって、

   (高天原以来の)神授の「正統王権の名分の継承」が宣言され
   ました。そのこと(大宝元年 701年の事績、元旦の儀式の文物
   整備、令の頒布、そして 建元など)によって、
   神武以前からの(九州の)「本流」の格を継承した 大和王権の
   「諸制度整備」は、大むね完了した。
とされています。

   そのことを説明したのが、文中の A図です。

つまり、
   文中の A図が示す「九州王朝」という点線(史実)は、
   697年に、文武天皇が「本流」の格を継承したことによって、
   点線部分を 歴史書から 抹消できるようになりました。
   例えば、唐に対しても
   「近畿大和の日本国が、以前の倭国の正統な後継者です」と名乗れて、

   B図のような書き方で、『日本書紀』を記述することができました。

ところで、
   『続日本紀』『日本書紀』が、あたかも B図 が事実であったかのように
   「大和なる天皇家の王権は 七世紀よりも前から、
   日本列島内で卓越して尊賁な、唯一の中心的権力であった」

   と誤解させるように日本史を記述し始めたことによって、
   副次的な、そして何より重要な効果が生じました。それは、

   日本国は 3世紀頃から 7世紀まで、ずっと「中国から封冊を受けたこと
   は ございません」とする「それなりの真実」を主張できたのです。
   もちろん嘘も嘘、真っ赤な嘘八百です。

   大和王朝が 本流の格を そこから継承した「九州王朝、倭国」は、

   「前漢の武帝の代から唐代まで中国と通交し、後漢代から南朝代にかけて冊封を受けた
   ことのある国だった」という史実は、分流の大和王朝も十分に知っていました。
   唐だって、それを知っていましたから、
   もしかすると「白村江」に唐軍の出兵してきた理由も、九州王朝が 昔、敵国のグループ
   国家であったことから、そこから叩いて「半島の百済」を壊滅させようと 策をねったの
   が(おそらく)新羅の計画した あの戦いであったのかも知れません。

それが分かっていた上で、あえて、大和王朝は、
   「いえいえ。近畿大和の王家は、九州の王家から後漢代の金印授与以前
   (あるいは、さらに前漢の武帝の代以前)に分かれた(枝分かれした)
   傍流に属しておりますので、
中国との通交は隋代からであり、ましてや 中国からの冊封を受けたことはなく

更に重要なこととして

   唐代に起きた "主流の座についての交替”は「易姓革命」に相当しません、
   と、「それなりの真実」を外交の名分として(唐などに)主張することが
   できました。そういう事ですので、

   「以降の 同盟関係につきましては、宜しく願います」ということです。

つまり、です。
   中小路氏の ここに述べられた史実は、私たちの先入観とは異なるものの、
   「王権の史実と名分」として『日本書紀』と『続日本紀』に明確に漢文で
   書かれています。
本文と注釈を 普通に読むと、自明に分かる内容でした。
それ故に、

   従来の一元通念は、朝廷の告げている史実と名分とを誤解もしくは曲解し、名分を
   そのまま 史実として、大和王権中心の幻想を描いたものにすぎなかった。つまり、
   「間違い」だったのです、と 中小路氏は本論文で断じました。

   (中小路駿逸 遺稿集『九州王権と大和王権』海鳥社 から、ここでは引用しています。)

   ※ 倭の五王は、「え? そんな天皇 おられましたっけ?」が『日本書紀』の立場です。

 全三回(  ③)
( 8½ )(55)に戻る → こちら (56)に進む → こちら