( 8½ )(56)rev. VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2022-07-21 | バーチャルリアリティ解説
Number56 rev. / パーク VRアトラクションの 品格
                          【( 8½ )総目次

《 本Blogは引用できます。本頁は 鋳型化されました。2022.07.21公開 2024.06.15 鋳型化ここから 》

(旧「VR 白村江」を改題しました)
 「高松塚古墳の被葬者」
 薔薇十字団物語(12)そして 「家紋つき自動車」 ⑦


 白村江               香椎宮


 鳳輦 ほうれん

 〇 和製「家紋つき自動車」の 乗り心地は・・・

 九州王朝の 天皇の行幸 には 牛車でなく、(れん)が使われました。行幸は、訪れた土地に「幸」をもたらすことが信じられていました。霊感を お持ちだからです。プラトンやダンテ、ユングの近親者に見霊能力者がいて、彼らから聞いた話が 作品に生かされたことが知られています。天皇については、近親者(女性)が占いで来年の収穫を口走るとき、その憑依が 先祖神か 近所の狸の地縛霊の なりすましかを判別する「審神者 さにわ」になることが 男性天皇の役割でした。狸は 遊んで貰いたいので、適当なことを言うのです。ですから、天皇には霊感があり、それゆえに 行幸が 歓迎されました。上図のような 鳳輦が、美しく国を行きました。

 博多の 九州王朝の天皇は、お正月に「廟」(びょう、先祖をお祀りする宗廟)を お参りしておられます。廟は 香椎宮でした。その南に 駕輿丁 かよちょう が あります。天皇の れんを担ぐ官人たちは 香椎宮の帰路に この池で足を速め、天皇は 近くの長生殿にご還御なさいました。「廟」で、天皇は 冴え行く雪の たもと を翻し、絹の白衣に 薄紫の袴との対比のご装束で 大変に美しく 舞われました。薄く羽織られた白羽二重の上着で、清楚で優美な 舞を ご先祖に奉納されたのです。 ( 新庄智恵子著『謡曲のなかの九州王朝』pp.14-17)

 ※ 博多の「長生殿」は 長く使用されました。奴国に 長生殿が あるわけない、で 埋め戻されていないかが心配です。

 れんを簡素にしたのが 貴族の輿(こし)、神様を お乗せするのが 祭の神輿(みこし)です。
 日本車には、こうした前史がありました。
 日本車の性能が「外国の真似」だと 非難するのは、設計の ABCを知らない人です。
 運命のその日も、九州王朝の「筑紫 薩夜麻 さちやま」の大君 は 輦(れん)で 軍港まで向かわれました。 白村江の戦への出立に際し「額田王女」が 港で有名な歌を詠み、全軍を鼓舞しました。

 「熟田津(にぎたつ)に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」(『万葉集』8番)

 ※ 熟田津の軍港が「九州」のどこか であることは、疑う余地が ありません。しかし まだ、場所が特定できません。博多を外敵から守る 水軍の拠点です。額田王女の この歌は 道後温泉の舟遊び などである訳が無く、国文学への 裂帛の気迫で書かれた『壬申大乱』のなかで 古田武彦氏は、『万葉集』の編者が「筑紫 薩夜麻 さちやま」を襲った 悲劇 や その妻の 深い嘆き、戦利品にとられた 王女たちの 過酷すぎる運命 を この歌集に選ばれた 歌自体から 後世の読者が発見することができるように、わざと 無難な詞書や 的外れの注釈に書き換えて、鏡王女や額田王女、明日香皇女、そして 人麿などの 哀切な歌 が 後世に 確実に伝わるよう 意図して編集した と推定しました。『万葉集』には 7千首が収められていたそうですから、2千5百首の ” もし唐に聞こえれば 不快にさせる ” と 忖度された歌 が 削除されています。(新庄氏 p.95)

 「e 白村江」をデジタル復元することは、苦心して残された『万葉集』の歌と編者の思いに応える ことでもあります。

 663年の白村江では、倭国B(大和軍)が 事前の新羅との談合で参戦せず、倭国A(九州王朝軍)は 400隻が炎上して大敗しました。大君が 唐の捕虜にされて 九州に戻れなかった 8年の間、大和朝廷 と 九州の親唐勢力は(おそらく)国富の簒奪や 国税の横取りなどをしています。九州の貴族は、困窮しました。このあとの 壬申の乱(佐賀県 吉野での戦闘)などを経て、やがて、国家の中枢は(唐軍が中国から監視し、唐の進駐軍と大和軍が 大宰府近くのベースキャンプで 威圧する中で )大和に その都を移します。新都心の「平城京」が、九州王朝の財産で 大和の藤原京近くに築かれました。公卿たちが相談して、九州王朝は なかったことにされました。 【(55½) 、中小路氏論文「倭国B の600隻」】

 ※ 高松塚の葛城王 は 九州王朝の名家ですが、その子は 大和で 臣籍降下して「橘姓」を名乗りました。(新庄氏 p.143)

 ※ ところで「壬申の乱」で 急襲され 一時 劣勢になった 天武天皇は、佐賀県の 吉野から 筑後川を さかのぼり その支流の(日田市の)玖珠 くず川づたいに 落ち延びました。土地の「くず 国栖」と呼ばれる首長の翁が 咄嗟の機転で舟を伏せて 追手から 辛くも逃れた 天武天皇の(吉野の)朝廷では、正月の度に その翁が喜びの舞を舞ったそうです (新庄氏 pp.54-59)。さて、663年に 天智天皇が唐の捕虜にされたことで、後継の天武天皇が 九州外に逃れて 亡命政府となった、という新説が 評判になっています。天智天皇は おそらく病いを得て 671年に捕囚を解かれて 大宰府に お戻りになりましたが、すぐに お亡くなりになりました。お気の毒です。天武天皇は、672年、密かに 佐賀県「吉野」からの支援を受けて(虎に翼)吉野に お入になりました。大和軍が 天武天皇を急襲して 捕虜にしようとします。壬申の乱です。しかし 追い返された大和の勢力が 遠巻きにする膠着状態で、やがて 天武天皇は 686年に 佐賀県の浄御原で崩御され、後継の 息子 草壁皇子も 689年に早世されました。妻の持統天皇が 幼い孫、後の文武天皇を お守りしていますが、大和勢とは 和解の道が見えません。このとき、不比等と おそらく 風水の達人(定慧 = 貞恵和尚か?)が びっくり仰天案を提案しました。文武天皇が「大和朝廷の天皇として」大和の地で政務をおとりになれば、というのです。中小路駿逸氏が見破った「対唐」の ものすごく苦しいレトリック((55½) ③ )を 不比等が 持統天皇に ご説明しました。このままでは 膠着状態。しかし、文武天皇が「持統天皇(九州の王統)を継承した」ことにして、儀式では「分家」の皇統を継ぎました。高祖 神武天皇から数えて 42代です。これで 天智天皇シンパの貴族の顔も立ち、唐・新羅軍に協力した大和の貴族も、藤原氏のような親唐の九州の貴族も「正統の文武天皇によって 本家の格を大和が引き継いだ」のですから 納得しました。そもそもは、600艘が 400艘を見殺しにして始まった内乱でしたが、これにて 一件落着。新たに 傷つく人もありません。確かに 400艘の見殺しのような不幸な戦さや 天智天皇の息子 志貴皇子と鏡王女の悲恋のような多くの物語が生まれましたが、それらを詠った哀切な歌は 詞書を変えて ひっそりと『万葉集』に収められました。

 ※ そういうことだったので、奈良 藤原京(694年-)以前の『万葉集』に 倭国の「都」、として詠まれている場所は、全部が 九州の内部ですから、と「和京」大宰府(618年-) そして 高良大社のある 久留米のことでした。VRデジタル復元の 格好の素材です。

 697年までの 大和朝廷は「傍流」の家柄です。” 倭種の国 ”でした。【(55½)③「一元通念」】

 ※ 大和朝廷で 皇位継承の儀式を行なったのは、初めてのことだった かも知れません。

 そして、697年の皇統の継承後、701年の大宝律令へと 大和では 歴史が大きく動きました。
 続 日本紀(大和朝廷の時代)が 公式に 始まります。710年が、平城京の街びらきです。
 『古事記』 成立 712年
 『風土記』 成立 713年
 「諸国の郡郷の名を改正する」 713年 【(55½)② 新庄氏 p.147 】
 『日本書紀』成立 720年。 九州王朝の出ない日本史が完成しました。忙しかったことでしょう。

 ※ 中国の史書に 九州の倭国が登場するのは 西暦57年に 後漢から 冊封 さくほう を受け 金印を受け取った時からです(東夷倭奴國、奉貢朝賀す)。倭国の朝貢は「後漢」から「梁」までで、漢・魏・南朝と国交のあったことが 中国の史書に書かれました。【(55½)③「一元通念」 】 ところで、漢から金印を受けた「倭奴國」は「倭国大乱」の前なので、後の(小野小町らが仕えた)九州王朝とは また別の王族だったのではないか、という説もありました。しかし、どの王朝(例えば、隋代の俀国)も 中国から一貫して「昔から朝貢している(九州の)倭国だ」と認識されています。倭の王族が 結婚して 互いに その軍勢が協力しあう「親族国家群」だったから かも知れません。ちなみに、大和朝廷も その末席に つらなりました。大宝律令が 完成したので(律令国家です、と 唐に宣言できるので)日本国の 遣唐使は 喜び勇んで 唐への朝貢に出掛けました。一度 難破して、702年に はじめての朝貢は 成功しました。

 話を (れん)に戻します。

 九州王朝を崩壊させた敗戦の悲劇と その教訓については、(58)以降に続けます。
 王女たちを襲った悪夢も、そちらに移すことにしました。結論を先に書いておくと、
 上宮法皇の お選びになった「三経義疏」を典拠に 政治をすれば、そうした悲劇は避けられました。

 ここでは、(れん)が、それを見る住人からも歓迎されていたことを、重要な事実として 指摘します。そして、は、乗り心地が非常に良かったようです。人力によるサスペンションが 多人数により平均化されました。
 日本の霊柩車が 一時期、高級なアメ車ばかりだった(井上章一著『霊柩車の誕生』など )ことの理由は、比較して 乗り心地の一番良かった車体が それだからでした。イタリアで未来派が「科学」を 人類の希望だと宣言した時代に、自動車は 科学の 一番素敵な 乗り物でした。高速で視線の移動するスピード感、そして 乗り心地も改善されました。馬車は外部の馬というエンジンに引きずり回されましたが、自動車はエンジンがシャーシの内にあって 改善できる余地が大いにありました。日本車は(エンジンが シャーシの内にある)輿の乗り心地や カーラジオを聴ける 静けさ などで 外国車に 大きく差をつけました。更に、米国では 新車に乗れば、郊外の住宅に美人の奥さんと住めて 仕事も良いポストが得られると 流行の雑誌の広告が告げました。しかし、やがて 世界中 どこの電気自動車も同じデザインで、走行距離にしかプレミアム感が無く 給電所の少ないこと などで頭打ちです。

 いまこそ、日本製の 高級自動車は、(れん)の栄光を見習うべきだ、
 というのが、VR奥儀皆伝の主張です。なぜなら、日本には 快適さを重んじる 伝統が
 昔から あり、その 乗り物 そのもの が 通行する人からも 歓迎されていたからです。

 〇 高松塚古墳 の被葬者

   ここでは、小林泰三氏(デジタル修復師)の『日本の国宝、最初はこんな色だった』について 再び ご紹介したいと思います。同書には「東大寺大仏殿」『地獄草紙』『平治物語絵巻』『檜図屏風』『花下遊楽図屏風』の デジタル復元が取り上げられました。そして、

   そこには 掲載されていないのですが、小林氏は こんな面白い話を書いておられます。

   小林氏が 高松塚古墳 石室 の デジタル復元をされて、原寸大のレプリカが作られた時のことです。当初は、石室の内部は白い漆喰塗で、絵画が 本当に綺麗だったそうです。石室の中の、死体が横たわっていた場所に 自分も寝てみると、
   「あまりの居心地の良さに、本当に寝てしまいそう」になった
   のだそうです。(51) 
   とても良く 分かります。
 

 
   ご遺体を納める お棺も、製作者は 一番 寝心地が良くなる ように 作っておられるそうです。霊柩車にアメ車が採用されたのも サスペンションが決め手でした。高松塚古墳 絵画の 異例のビジュアルも、寝心地が重視された結果です。

 ヘルメス科学では、死後に魂が 太陽系の惑星を通過して 星々の音を聴きながら 天国に向かうと伝えられてきました。このときの、魂が 心地よく引かれる方向と 天体の音楽がギリシャに伝わっています。木星に ガリレオが小惑星を見つけた時、あそこがギリシャ以来考えられてきた 死者の通過点で そこから「スターゲイト」を通って 滞りなく 魂はあの世に行くんだ、という説があらわれます。映画『2001年 宇宙の旅』と 映画『スターゲイト』が その仮説をシナリオにしました。ダグラス・トランブル氏は「2001年」で 木星の小惑星から始まるスターゲイトの光跡 と『ブレインストーム』では その入口で 天使が おいでおいでしているところを 映像にしました。「2001年」の終幕で 飯を食っていたホテルは 宇宙人がボーマン船長を安心させるために用意した小部屋で あのあと ボーマン船長はスターチャイルドに進化して 勃発した核戦争のミサイルを宇宙で 手づかみにして破壊し、人類の滅亡をくいとめました。(クラーク氏による 公式ノベライズ。嘘だと思ったなら 読んで ご覧なさい。) ともあれ、人間は、世界中で死んでいますから、それぞれの土地で 最も心地よい臨終の迎え方が 神話などで伝えられていたのでしょう。というか、占星術では 自分の死にそうな日時が いくつか予見できるそうです。例えば、松下幸之助氏が ご高齢になってからの ある訪米予定を直前に取りやめた理由は、東洋占星術に「海外で客死する」という ぶっそうな星回りがあって、それを避けたそうです。星回りです。自分の仕事に有利に働く星回りの日時や、不利な日時があって、平安貴族は普通に方違え かたたがえ を繰り返しました。何が言いたいのかというと、占星術などの「化生論」科学の助けで、私たちは自分に快適な「働き方改革」を選べる、ということなのです。化生論科学は、西欧ではルネサンスの時代に カンパネッラ師の得意とした占星術を中心に、社会に広く受け入れられました。それでは、私たち VRの研究者は 自分の働き方 などの 生き方 に際して 何を どうすれば良いのでしょう・・・?

 【おまけ】Sphärenklänge, Walzer, Op. 235 ワルツ「天体の音楽」 Daniel Barenboim

 上宮法皇のチョイスされた「法華経」の功徳によって 安心安全な未来が選べそうだ という「出口」が 国宝VRデジタル復元の先に、ようやく見えてきています【注釈O】。いろいろの分野で 方法として 国宝 VRデジタル復元を 繰り返せば、「諸行無常で 無明の闇をさまよう」私たちにも 快適な魂の出口が見えてくるのでは ないでしょうか。少なくとも、白村江では「武力で勝てる」と過信して 法華経を棄てた 九州王朝の天子が、とんでもない事態になりました。これに似た悲劇は、自民党の安倍派、そして 三菱グループの代金回収にも降りかかっているようです。満州の核化再占領構想をあきらめていない 日本の一部の人たちへの 北朝鮮のミサイルによる威嚇も、繰り返されています。
 
 話がそれましたが、高松塚古墳 の被葬者は 白村江の敗戦処理で 大和に(おそらく)捕囚として拉致された「葛城 かつらぎ 王」でした。もし九州で亡くなられていたら、事代主を お祀りした「葛城山」(現在の 福岡の「基山」久留米大宰府鎮守の 霊山)に 丁重に葬られたはずでした(新庄氏説。基山は、713年以前は 葛城山と呼ばれていたようです。)久留米は 国内交易・経済が 大いに賑わう物流の拠点でした。権勢を誇った 葛城王は、おそらく 白村江の戦いで、九州王朝 薩夜麻 の大君の 最大のスポンサーだった と思われます。ちなみに、高良大社は、全国の 八幡大神の源流です。

 このように、高松塚古墳の壁画をデジタル復元する 作業は、VR研究室の学生実習の素材として非常に好適です。トレースをしながら その(壁画の)意味を考えること、誰が誰に どんな思いを伝える意図で 持てる技量(マニエラ)を 最大に駆使したのか を考えることが、VR製作の 基本中の基本です。
 こうした、VR 工芸品の品格、高級感は、小林美術科学 方式の「デジタル復元の基本」を 業界の標準として使用することで 実現できます。『日本の国宝、最初はこんな色だった』の冒頭に記されている 「データ化する」「大きさ、天地左右を整える」「ゴミを取る」「剥落を埋める」「全体の色を整える」「全体のトーンを合わせ、仕上げる」「求められる形(媒体)に変換する」という基本用語が それにあたりますが、また 改めて解説します。ここまでの(53)(55)(55½ )①②③ (56)をふまえて、

 ようやく「高松塚古墳」デジタル復元 の奥儀まで 話を進める準備 ができました。

 ※ 博多(713年以前の 難波淡海 おうみに王朝をひらいたのは(九州の)仁徳天皇でしたが、その奥方の「磐の姫」は 葛城家のご出身で、大変 高い家柄でした。仁徳天皇が恋をした吉備の黒姫を追い返し、祭祀用の柏の葉を 能古島までとりに出かけた留守に 天皇が 宮中で 八田若郎女(やたの わかいらつめ)と昼夜戯れて仲よくされていると聞くと柏の葉を ぶち撒けて怒り、港から川をさかのぼり、実家(基山市?)に 帰って 仁徳天皇がわびを入れても宮中にお戻りになりません。事代主をお祀りする実家の家の格が、仁徳天皇より高かったからでした。(新庄氏 p.149)このエピソードは、夫婦が別財産で、妻の財産のほうが多い家が 普通だった可能性も示唆します。育児は 母親と その母親が行ない、父親には定住の義務がなく、そのとき 結婚式をあげて 家にいる男の人が「お父さん」でした。お母さんから お小遣いを貰うので、一般男性の 父親に 親権は ありません。(男性)天皇の相聞歌、ご自身と奥さんの なれそめの歌が 特筆 大書されている理由も、裕福な娘さんと結婚できて嬉しい(大勢の兵隊が雇えるし)、という意味が大きかったからでしょう。経済振興策で「女性社員の多い企業」が 65-74歳を雇用すると 年金と給与の合計制限が緩和される 税制特区が 北海道や 九州などに つくられて、そうした企業ばかりが 目立って業績をあげる、ことも これからは 大いに考えられます。

   《 鋳型化ここまで 》
   フェロー武田 「VR 白村江」(物語(12)「家紋つき自動車」⑦)(
VR奥儀皆伝(8½)(56))
   Blog TP-VR Attract.のトリビア 2022.7.21公開 2024.06.15 鋳型化

 【おまけ】映画『会議は踊る1831年 リリアン・ハーヴェイ (タイトルバックに ワルツ「天体の音楽」)

 ※ 2024.05末に 鋳型化のために 内容を整理しました。特に「e 白村江」の参考になる IVRC作品は、2024.06以降に執筆する新しい頁に移して詳述します。『走れ!走れ!走れ!』2017年(立教池袋高等学校)『渡し舟教習所 始めました』2019年(立教池袋高等学校 数理研究部)2019年(筑波大学 システム情報工学研究科)の 3作品です。/ ところで、化生論科学の重要な一部に ピタゴラスの「天体の音楽」があります。臨死体験の音楽です。「天球」を(55)で 扱ったときから ずっと気になっていたのですが、音楽のマニエリスムを考え続けていて、これが「風水」の脈(魂を活性する振動)と同じ効果だ と気が付きました。「天体の音楽」は、死んだばかりで ぼおっとしている魂に「迷わずに 浄土に成仏しろ」、あ 違った、天国に行って先祖神の一部になれ、と活性化して 魂を「あの世」に送り届けます。そうすると、697年の 大和への政権禅譲にも  別の解釈が出てきます。不比等の兄の定慧(貞恵)和尚が 唐で「風水」の最奥儀を究めて帰国し、その効能を不比等に伝えているからです。定慧和尚の没年を もし『元亨釈書』の記す 714年が正しいと考えれば、奈良 多武峰の「談山神社」を 701年に改装して「後の聖武天皇が 上宮法皇と同じ普遍的国家を目指すよう仕組んだ」のは 定慧和尚 あるいは 風水の達人のアイデアです。713年に九州の地名を変えさせたことも 同じです。不比等が 実施させました。697年の 九州 → 大和の政権禅譲の目的は それからの 日本国+旧倭国 の対唐基本政策を(父 鎌足の定めた)善隣外交に定着させるもので、唐軍の代表者 郭務悰 かくむそう の 第6回 671年の 2000人での 倭国軍事視察(威圧)のときなどに 風水の達人が 唐と交渉して、唐の軍隊が 畿内に進駐しなくても 大和が統率力を持った「親唐」国家として運営できると認めさせ(600艘の味方したことが証拠)、そして 大和朝廷には「唐の意向である」として 親唐化を進めさせたのだと思います。日本書紀には、大和は 中国南朝系などではありませんでした ! という歴史が 旧記などからの引用で編纂され、香椎宮や 高良大社は 唐の敵の国主の墓所である、として 破壊されるところ をおそらく  不比等らの説得(と 正倉院の宝物)で 目こぼしされて、『万葉集』の やばい歌の詞書を書き換えるなどを施して 文化遺産で残されました。

 ※ キューブリック監督の『2001年 宇宙の旅』のことを もう 少々。登場人物は 軍事機密に関わる軍人ばかりで、機械的に 命令が遂行されました。ところで 軍の極秘調査の目的は、宇宙人が 地球人の知性を進化させるため 月面に残したモノリス = 地球人向け ラーニング・システムの働きを知ることです。モノリスの電波を送った方向が 木星の惑星だったので、ボーマン船長らは 惑星まで 調査用の機材を運ぶ(だけの)目的で「精虫型宇宙船 ディスカバリー号」で 向かいます。このとき、人工知能の HALが 神経衰弱になりました。モノリスは 地球外生命体、つまり UFOの実在を証明します。これが外部に漏れると 政府の権威が失墜すると考えられたので、HALには この機材運搬の目的を ディスカバリー号の乗組員には 秘密にしておくよう 命じられました。あわせて、もし乗組員が全員死亡した場合は HALだけで 機材が運搬できるプログラムも搭載されました。ところで、乗組員は HALが故障したと考えて、停止させよう としたのです。それでは 乗務員が死亡した場合の、届ける手段が 無くなります。HALは 合理的に考えて 乗組員を全員 殺そうと決めました。しかし、HALに殺されそうになった ボーマン船長が 宇宙船を取り戻し HALの基盤を取り外して(ここ、面白かったです)一人で木星まで向かいました。それで、地球外の優れた生命体は、彼を勝手に「進化」させました。めでたしめでたし。


 リン・チーリンさん / レッドクリフ Part Ⅰ(2008年)赤壁の寸法は 魏の短里です / 能古島 国生みの オノコロ島

 九州 で、新庄氏が 特定された『万葉集』の「地名」を あげておきます。(p.19)
 いずれも、7世紀以前には(確実に)現地で(筑紫などで)この名前が つかわれました。
 紀の国   :佐賀県の北岸
 伊勢・志摩 :筑紫の糸島
 日向 ひなた:筑紫の日向 (福岡県、天孫降臨の地。高祖山、日向川あり。)
 淡路島   :お能古呂島

   新庄氏は、とてもさりげなく 重要なことを書いておられます。

 7世紀以前に 現在の和歌山県のことを この地が『書紀』に書かれた「紀ノ國」でございます、と
 言った人は、誰も おりません。紀の国は、佐賀北端にありました。
 伊勢・志摩、しかり、淡路島しかり。NHK「タイムスクープハンター」の 要潤さんに
 なったつもりで、7世紀以前の日本にワープしますと ・・・。
 赤福餅や「志摩スペイン村」で有名な 現在の伊勢・志摩には、

 『書紀』に書かれた 伊勢も 志摩も、7世紀以前の 三重県には 存在していません。
 歴史書に出てくる 伊勢・志摩は 九州のことでした。「難波」も そうです。
 「瀬戸内の」大きな島も、淡路島「以外の名前」で 呼ばれていたと思われます。

 じつは、上の地名は 九州に、
 伊弉諾 イザナギと 伊弉冉 イザナミの「国生み」で生まれた、とされる土地でした。
 上の四か所とそれに付属する「海」の合計八か所が、九州では
 「国生み」で 伝承されていた 神話の「大八洲 おおやしま」です。 (新庄氏 p.18 謡曲『淡路』)
 7世紀以前の 筑紫の子供たちは、「淡路島」と聞けば「お能古呂島」をイメージしました。
 瀬戸内に、別の 淡路島 なんて なかったからです。

 しかし、唐の滅亡で『書紀』による旧記の 換骨奪胎は 意味を失いました
 
 【VR奥儀皆伝の提言】VR奥儀皆伝は こう考えます。2063年を「白村江 水死兵 慰霊の年」と定めます。それまでは 日本史A、日本史Bの どちらを解答しても まる。そして 水戸藩の「日本史B」に基づく 倭国の 2 - 7世紀像は、唐の滅亡 以降には 不必要ですから、2063年以降の検定教科書では 新しい日本史の「日本史A」だけを まる にします、と、閣議決定すれば良いと思います。逆に考えると、713年以前について書かれた 国内 全ての出版物を書き換えることになるので、九州王朝に関しては 巨額の 人文科学の補助金が拠出されます。そのベースが「三経義疏」ですから「文理融合」に合致します。

 水戸藩は 知っていました。不比等がそう決めたから と言い訳しても、「義」を欠きました。

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