VR奥儀皆伝( 8½ ) 『謎解き・テーマパークVR Web版』(14)

2020-10-11 | バーチャルリアリティ解説
第十四回 「テーマパークとは何か」の謎を解きました ③ 
                          【( 8½ )総目次
 「テーマパークとは何か」の謎を解く3つ目の鍵は、③ 16世紀の対抗宗教改革が生んだ 「説得するためのArt」 (プロパガンダとしてのテーマパーク)になります。本Blogでは 和訳の「歪珠」(わいじゅ)を使っていますが、「バロック美術」のことです。

 小松左京氏と高階秀爾(たかしなしゅうじ)氏の対談に、次のような箇所がありました。「真理」というのは 説得ができる技術のことだ、というのです。小松左京×高階秀爾 『絵の言葉』新版、青土社 (オリジナル版の エッソスタンダード広報室 「エナジー対話 第3集 絵の言葉」 1975年、非売品 に加筆したもの)から引用します。
 高階 問答と言うのは一対一の勝負で、相手もその気になっているものだけれども、レトリックというのはその気になっていない者を引きずり込む弁論で、これはギリシャ以来の西洋の伝統で、とくにそれがルネッサンス期に大きく復活してきます。… つまり、美術とは形による雄弁であるという美術論が、キケロあたりの雄弁術を下敷きにして、形を整えてくるわけです。
 小松 真理というものは、「説得」されたときにそれが真理であるという考え方が西洋には強いのだけれども、われわれにはどうもその辺が飲み込めない …。
 高階 その通りですね。… 裁判の形式なんかも、あれは要するにどちらの側が陪審員を説得できるかです。… バロック様式というのはまさに説得の技術で、描くほうもはっきりそれを意識している。


 画像借用元: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A7
  ムリーリョ 無原罪の御宿り 1678年頃 プラド美術館


 ところで、1969年から始まった英国BBCのテレビ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』は、その後のコメディ番組に圧倒的な影響を与えた(聖書に基づく寓意の引用なども しょっちゅう登場する)格調高いカルトコメディでしたが、この番組では、執拗に「スペイン宗教裁判」の不条理を攻撃しました。これは事実に基づいた告発です。実は、「スペイン宗教裁判」では、カトリック教会に対して その堕落を批判した清貧キリスト教徒などが主に処刑されていました。もとは、レコンキスタ(キリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動)の延長として、イスラーム国家という外部の敵と戦っているときに信徒どうしが内輪もめして どうするのだ、という大義名分から、たいていは批判者の舌を抜いてしまって陪審員の前に立たせて裁判をしていたのです。ところが、印刷機が登場したことで、プロテスタントによる聖職者批判が印刷物の存在で隠しようのない政治問題になりました。聖アウグスチノ修道会に属したマルティン・ルターが 『95ヶ条の論題』を書いたのは、1517年のことです。教会としては、ルターの舌を抜いて問題を終息させられれば騒動にならなかったのですが、印刷物があったので言論の弾圧ができません。フランスでは、プロテスタントが増えたことで、イザベル・アジャーニ主演の映画『王妃マルゴ』(1994年)に非常に むごたらしく描かれたようなサン・バルテルミの虐殺が 1572年に起きました。この事件を きっかけに、フランス全土で 3万人くらいの新教徒が虐殺されたそうです。(そんな具合に揉めている最中に、ジョン・ディー博士が 「皆んな同じクリスチャンじゃないですか。仲よくしましょう」と 対立が本来 存在しないことを示して正論を唱えたので、ディー博士は双方から「山師」扱いされてしまったのです。かわいそうに。) ともあれ、ルターを黙らせることができなかったカトリックのローマ法王庁では、「システィーナ礼拝堂天井画(1508年-12年)を描いた直後のミケランジェロたちに命じて、文字を知らない農民たちにも、ここに来ただけで 「あな、ありがたや」「神の栄光が、目の前に実際に見えます」という IMAX 3D方式による サン・ピエトロ大聖堂の改築などを させたわけでした。VR技術の活用です。ですから、1994年の小倉の NICOGRAPH北九州'94でのパネルディスカッション 「テーマパークにおけるエンタティメントの世界」で 私は 「テーマパークにおけるCGの役割は、教会建築のステンドグラスと正確に同じです」と 講演しました。ローマ・カトリックは、教会の内装を清貧にした新教徒の逆を張ったのです。そうした手法が16世紀末からのバロック美術では特に強調されました。美術史上では、ミケランジェロたちのルネッサンス美術 → マニエリスム美術 → バロック美術が区分されていますが、マニエリスム (マンネリズム)は、「迫力のあるルネッサンス美術品」の模造品、量産した みやげもの(みうらじゅん氏が定義した「いやげもの」)のコピー商品が、プロテスタントに対抗する文盲の農民説得用プロパガンダ軍事物資という位置づけで大量に製作された、ということではないでしょうか。
( というお話をパネラーとして披露しましたところ、同じ 94年の NICOGRAPHにパネラーで出席されていた北九州の格式あるテーマパークの部長さんが「今日の武田さんのお話で初めて、テーマパークが何なのか分かりました」と言って下さいました。それまで 米国から「テーマパークの専門家」を招いて講演を聞いても「観覧車や新しいジェットコースターを導入すれば集客効果がある」とばかり言ってテーマパークとは何かを説明してくれなかった、そうです。)

 そして、映画が誕生(1895年)してから、劇映画のジャンルでは 聖書や使徒行伝に題材をとった作品が量産されました。文字の読めない農民でも、聖書などの物語だったら神父の説教を聞いて知っているからです。映画のテーマを印象深く表現するために、映画美術の世界にバロック美術のテクニックが取り込まれて行きました。カリフォルニアの元祖ディズニーランドの「白雪姫の恐ろしい冒険」や「オーロラ城」で見られる彫像には、バロック美術の教会の彫像に似た迫力が感じられたのではありませんでしたか。 ところで、例えば、西部開拓時代に集まってきた米国の無教養の荒くれ者なんかも、聖書の物語を知っていたのでしょうか?
 よくぞ聞いて下さいました。
 ニューヨークのメトロポリタン オペラ劇場がプッチーニに依頼した新作オペラ『西部の娘(1910年)の脚本は、タランティーノ監督が自分の映画のシナリオにアイデアを借用したほどの傑作です。その曲は、アンドルー・ロイド・ウェーバー氏が『オペラ座の怪人』(1986年)の作曲の参考にしました。隠れた名作オペラです。この中に、ヒロインのミニーが、いつも通り聖書を荒くれ者たちに読み聞かせてやる場面が出てきます。「子曰(のたま)わく、学びて時に之を習う、亦説(よろこ)ばしからずや」が日本の寺子屋でしたが、西部の初等教育は聖書から始まりました。「荒くれ者」からは 保安官や成功者が生まれました。その子孫たちが DLに大挙して訪れたのです。

 小松左京×高階秀爾 『絵の言葉』に戻りましょう。小松さんの指摘は まことに鋭くて、「説得」されたときに それが真理だったのだ という考え方が西洋には強いのです。テーマパークの、あんな演出も、こんな演出も、起源は 教会のバロック美術だったので説得力に富んでいたのではないでしょうか。例えば、テレビ朝日の宗教バラエティ番組『ぶっちゃけ寺』では、僧侶のお一人が「キリスト教の讃美歌(のような親しみやすい歌の存在)が、信徒の心を一つにさせるので、非常に うらやましい」と語って、宗派を超えて僧侶の皆さんが うなづいておられました。『イッツ・ア・スモールワールド』で、ビジターの皆さんの心は歌で一つになりました。

 以上に、テーマパークの特徴を列挙しました。① 「一つだけの入り口」と「地獄・天国」、② 「入場料」(アトラクションの思い出)と 「(その場所での)飲食」・「物販」(おみやげ、記憶のよすが)、そして、③ 「説得するためのArt」 (プロパガンダとしてのテーマパーク)が、その特徴でした。

 ちなみに 「一つだけの入り口で周囲を囲われた場所」 というのは、Park 一般の特徴です。

 パーク(Park)の起源については、面白いヒントを教えてくれる映画があります。それは、アルフレッド・ヒッチコック監督の 1964年の 『マーニー』という映画です。興行収入は、前作の『鳥』(1963年)の6割位で、公開当時の評判は余り良くありませんでしたが、良く味わって観ると面白い映画です。
 『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』(2014年)という秀作映画の冒頭には、モナコ公妃になったばかりの変わらず美しいグレース・ケリーを監督が訪問して、この『マーニー』への出演交渉をする場面が描かれています。勤めた会社の金庫からお金を盗む女性の話なのですが、ヒッチ監督の発言が秀逸でした。

 ヒッチ監督は、シナリオをグレースに渡して、特有の もごもごした口調で こう言ったのです。「映画の『マーニー』は、性的な強迫神経症で盗癖のある女の話なのだけれど、… 『グレース・ケリー』の代表作になるだろうよ。」 確かに、私は 『マーニー』を観ている時に、主役のティッピ・ヘドレンを頭の中でグレース・ケリーと時々置き換えるのですけれど、主演女優が変われば全く違う印象の作品になったと思います。 ヒッチ監督は 『めまい』(1958年)でもグレースを主役に使うつもりだったので、出演したキム・ノヴァクは、「お前は どうしてグレースじゃないんだ」とばかりに、ずいぶん辛く当たられたようすでした。 グレース・ケリーの出演については、モナコ公国内の敵対勢力が「大公殿下も賛成している」と わざとリークして話が潰れたように説明されましたが、真相は分かりません。さて、映画『マーニ―』には狩りのシーンが登場します。フィラデルフィアに実家がある成金の息子マーク(ショーン・コネリー)は、自身は洗練された実業家なのですが「野獣を飼い馴らす」ような興味から女泥棒のマーニーを愛してしまい自分の妻に選びます。それまで彼女が各地で泥棒したお金もマークが自分の財産から返却して、彼女の犯罪を隠ぺいしました。それで、彼女は「刑務所送りと引き換えに 彼の妻になった」ような境遇になったので性的な神経症を示すのですけれど、そこはグレース・ケリーで見てみたかった場面です。ところで女泥棒のマーニーにとって唯一の息抜きは、義父が住むフィラデルフィアの家で催される狩猟のイベントでした。
 「パーク」というのは、周囲が囲われた場所で行なわれる狩りの「猟場」のことなのです。


 貴族の「狩猟」(乗馬遊び) が行なわれる広大な敷地は、その中に森を一つ含むくらいの広さがありますが、「ここまで行ったら敷地の外」という目印が必要です。それで周囲が石垣などで囲われていて、その内側がパーク(囲われた猟場、遊技場)と呼ばれました。また、例えば、近所の子供が「枯れ枝を集めておいで」と言われて 間違って猟場に侵入してしまい、きつねだと思われて狩られてしまっても大変です。それを避けるためにも、周囲の囲いは必要でした。管理人も、パークの境あたりを定期的に見回っていたようすです。
 ところで、現在のペルシア語では、英語の「パラダイス」(楽園)が意味する場所のことをパルディスと呼んでいて、「周囲を(日干しレンガなどで)囲われた場所」という意味の古代ペルシャ語の宮苑=パイリダエーザがその語源だったそうです。そして、この古代ペルシャ語「パイリダエーザ」の もともとの意味が、貴族が獲物の多い土地を自分たちの楽しみのために囲い込んだ狩猟の場所、つまり猟園を意味していたというのです。これで、Park=猟園が、言語学的につながったと思いませんか。そして、古代ペルシャ語の「囲われた広大な猟園」パイリダエーザは、後に西洋のキリスト教の教義に輸入されて「天国」を意味する言葉、パラダイスの語源になりました。一方で、西洋の貴族たちが狩猟(ハンティング・ゲーム)のために囲い込んだ場所のことは、やがてParkと呼ばれます。(ゲルマン語のparc囲われた場所が語源だそうです。)そして、
 かつては村の中に 村人と混じって住んでいた「貴族たち」ですが、16~17世紀ごろになると広大な猟園 Parkの中に立派な館を建て、そこに住むことが流行したそうです。広いParkに館を建てたのですから、狩猟のイベントは、しょっちゅう催されました。
 以前に英国のエリザベス女王は「キツネ狩りは貴族の伝統の遊びなので、動物愛護だけで禁止するのは おかしい」と発言されましたが、その気持ちも理解できるので、実際、多くの映画やテレビドラマ『ダウントン・アビー』の狩猟シーンなどを見ると、確かに 狩猟は大変楽しそうに行なわれました。ちなみに、狩猟のイベントが催されるときは、貴族たちは馬車で会場まで乗り付けて、そこで運んできた自慢の馬に乗り換えました。そのための駐車場が、
   パーキング parking、でした。


 ところで、上に紹介したエリザベス女王の言葉に味方する訳ではありませんが、キツネ狩りやうさぎ狩りは貴族層には大変に重要視された 格式の高いイベントです。ここからは私の想像ですが、10世紀の十字軍以降に こうした遊び方が(イスラム圏から伝わって)欧州に知られるようになったのですが、そのころ戦争は騎馬と歩兵による白兵戦が主流でした。ということは、異民族が攻めてきたとか 隣の領主が攻め込んできた、といった争いが起きたとき、味方の集合場所は 猟園だったはずで、つまり ハンティング・ゲームは平時の軍事訓練ではなかったか と思います。ですから、狩猟はゲームではあっても、馬の扱いに長けた働きをした貴族が注目されましたし、映画『マーニー』でも、主人公のマーニーが「乗馬に詳しい」と聞いてマークのお父さん(恰好が成金)は「息子の嫁に申し分ない娘だ」と大層喜んだのでした。今も貴族は名誉職だと考えて競馬の馬主になりますし、エリザベス女王も 馬主として有名で「多額の賞金を獲得できる名馬の持ち主」である事を誇りにしておられるそうです。Park(囲われた猟場)には、そんな背景がありました。
 ※ 映画『マイフェアレディ』(1964年)の一場面、王室所有の伝統あるアスコット競馬場の雰囲気も思い出して下さい。

  「一つだけの入り口で周囲を囲われた場所」である遊戯施設は、やがて 17世紀のプレジャー・ガーデンや 19世紀の万国博覧会場のアトラクション施設といった特徴的な形態を経由してテーマパークの起源となりました。これらについては、追ってまた述べたいと考えています。

 VR奥儀皆伝( 8½ ) 『謎解き・テーマパークVR』
 第十一回「テーマパークとは何か」という謎を解きます
 第十二回 解きました ①  第十三回 解きました ② 第十四回 解きました ③
 第十五回 DL以外の「テーマパーク」の テーマは何 ? 【補講】 ジョン・ディー博士は「制御工学」者でした。「薔薇十字団」は、数理科学者の同好会です。

( 8½ )(9)「暫定総目次

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VR奥儀皆伝( 8½ ) 『謎解き・テーマパークVR Web版』(13)

2020-10-08 | バーチャルリアリティ解説
第十三回 「テーマパークとは何か」の謎を解きました ② 仁川「地すべり資料館」の紹介
                          【( 8½ )総目次
 さて、話をテーマパークに戻します。ここからは、テーマパークでの「アトラクションの思い出」の強化と「飲食」「おみやげ、記憶のよすが」について述べてみます。ところで、テーマパーク活性化の手法は、そのままで Society5.0などの社会システムの実装にも使えるように思います。

 それで、一つの社会実装のアイデアを書いておきます。「仁川百合野町 地すべり資料館」という施設が兵庫県西宮市に あります。阪神・淡路大震災(1995年)で起きた地すべりの一つでは 西宮市仁川百合野町と仁川6丁目の家屋13戸が押しつぶされて、住民34名が亡くなりました。その災害事故の資料館として、この施設は その 2年後に建てられました。母の友人が地元のボランティアを組織され資料館の斜面にシバザクラを植えて庭園を整備されたので、私は見学に伺いました。

 この施設では、当時の被害の説明と併せて、その後の対策工事、全国で記録された土砂災害の怖さ、そして防災対策の仕組みなどを展示物から学ぶことができます。1995年の 大震災で起きた この場所の「地すべり」の規模は、幅約100m、長さ約100m、深さ15m、移動土塊約10万㎥という大規模なものでした。特筆すべきは、展示されている全国で起きた土砂災害のフィルム映像の(迫力の有りすぎる)恐ろしさで、適切な対策が事前に必要だということが良く分かりました。
 この「地すべり資料館」は展示内容が素晴らしいので、私は何度か 友人を誘って資料館を案内しています。皆さんも近くまでお越しの折は、ぜひ一訪をお勧めします。ただ、最寄りの駅から遠い(1.6㎞)ので その距離を歩くと着いた時に足が疲れてしまって、立ったままの見学が少し辛いという難点が ありました。アクセスが不便なままでは 来館者数に影響があると考えたので、その資料館についての告知方法をボランティアの皆さんには 次のように提言しました。

 地すべり資料館は入場無料ですが、最寄りの駅(阪急線「仁川」駅)のタクシー乗り場から資料館までのタクシー代金 690円(中型車)を資料館の「入場料」と考えて頂こうと最初に考えました。約5分で到着しますが、3人で相乗りすれば バス代程度です。タクシー代をけちって 30分歩いて到着時に疲れているというのはディズニーランドなら入り口で足が疲れてしまっているのと同じで、見学どころではありません。幸い、資料館の展示物が充実していますので、気にならない金額ではないでしょうか。なお、資料館に駐車場などは、ありません。
 さて、館内を見学してみます。域内のハザードマップが 六甲山の立体地図を中央に掲示されていますので、もし危険地帯に知人が住んでいるという方であれば、資料館の無料パンフレットをお知りあいの分も持ち帰って宣伝して下さるかも知れません。来館者がこの施設を訪問した「記憶のよすが」になりますので、無料パンフレットは切らさないように お勧めしておきました。常駐して説明して下さる方に お金の管理はご負担だと思いますので、DVDなどの高額の資料については、阪急線の乗換駅である「西宮北口駅」構内の書店などで扱って貰えないか相談してみてはいかがでしょう。災害のDVDなどを観れば、再訪時に新しい気付きがあります。しかし、無料パンフレットだけでも置いてあれば、なにも無い時と比べて「リピーター」の数に違いが出てくると思います。

 ただ、資料館のリピーター対策をそれだけで済ませてしまうと、稲元さんが近著で指摘されている通り「アトラクションの追加が無い施設は自然減で、入場者数が対前年の 0.9掛け以下」に必ず減りますから来館者がどんどん減り、数年後には「閉館」してしまおうという話になりかねません。仮に、対前年比 0.9の入場者数までしか減らない自然減を仮定しても 6乗すると、0.53。つまり、テーマパークのアトラクションを 何一つ更新せず に 6年間過ぎると、入場客は半数以下 になって経営が維持できなくなるのです。

 ここで、地元ボランティアの「ゆりの会」が シバザクラを、資料館の斜面で育てていることの効果が出てくるように思います。ここは「桜見物の名所」として、県の広報誌や新聞などで宣伝されてもいますので、毎年4月下旬には約千人の見物客を周囲に集めています。皆さんも、桜見物でお出かけになっては いかがでしょう。シバザクラの季節に もし新規に入手した映像を常設映像と併せて上映できれば、出入りが自由なので、見物客にも歓迎されると思います。また、ボランティアの方々の高齢化も懸念され、行政による支援が望ましいことも感じました。

 ところで、行きも帰りもタクシーでは芸が無いですね。帰りは ゆるい下り坂なので、同行された皆さんで一緒に駅まで歩きましょう。駅の近くには、関学の皆さん御用達の チーズケーキがおいしい喫茶店などもあります。

 ※ 直ぐに帰宅するよりイベント内容が記憶に残りやすい、と稲元さんが近著で解説しています。


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 さて「地すべり資料館」は(当たり前の話ですが)テーマパークではありません。
 でも、そのように「見立て」て来場者の「学術的な難しい説明が多いのでは ?」という心理的な しきい値を下げたほうが良いに決まっていると思います。例えば、東京ディズニーランド(TDL)が安定した経営を続けていて新しいパレードにも お金が掛けられるというのも、来場者の 9割が(関東圏を中心とする)リピーターだという事実に支えられているのです。ですから 高度な研究展示施設であることを強調するよりも「災害の展示/桜・飲食・パンフレット」のセットだ として展開を考えることで、来館者数の深刻な落ち込みが回避できる のではないかと考えました。これだけ貴重な資料を集めた優れた資料館ですので、
 アクセスが不便なので「来館者数減のため」に閉館 という流れだけは避けたいと思ったのです。

 ですから、テーマパークという「見立て」は誤解を招く可能性もあるかも知れませんが、効率の良い再訪者の獲得方法として様々な場面で生かせるやり方ではないかと思います。ちなみに、潜在的に地すべりの可能性がある場所で、兵庫県の県土整備部などが行なっている先進の地すべりを起こさせない 効果的な対策って何だと思いますか。答えは すごく明解です。地下に太いパイプを埋め込んで、地下水を定期的に(センサーで監視しながら)抜いてやるのです。資料館には、土中のパイプを示した詳しい模型も大きく飾られています。「仁川地区」は この方法で、地すべりが起きにくい土地に改良されており、専門家の定期的な監視も受けているので 安心して住める住宅地に生まれ変わりました。兵庫県が誇る防災設備だと思います。

 ここまでで、 「一つだけの入り口」と「地獄・天国」、 「入場料」(アトラクション)「飲食」「物販」(記憶のよすが)について説明してみました。次回は、「説得するための Art」(プロパガンダとしてのテーマパーク)を解説します。映画や絵画では、テーマによって「歓喜・爆笑から慟哭(どうこく)まで」が誘発されることと同じように、メディアとしてのテーマパークでは プラスとマイナス両極端の感動が表現できると思います。

VR奥儀皆伝( 8½ )(12)「テーマパークとは何か」の謎を解きました ① → こちら
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VR奥儀皆伝( 8½ ) 『謎解き・テーマパークVR Web版』(12)

2020-10-07 | バーチャルリアリティ解説
第十二回 「テーマパークとは何か」の謎を解きました  ①
                          【( 8½ )総目次
 ここからは、次の ①と ②について順に論証します。

 ① 「一つだけの入り口」と「地獄・天国」
 ② 「入場料(アトラクションの思い出) と 「(その場所での) 飲食」・「物販(おみやげ、記憶のよすが)
 なお、番号は 第十一回の 付番に対応しています。ちなみに、③は 「説得するためのArt」 (プロパガンダとしてのテーマパーク)でした。

 「狭義の」テーマパークは、カリフォルニア州アナハイムに ウォルト・ディズニーが1955年に開園した「ディズニーランド(DL)」と、当時は まだ計画中だった 「フロリダ・プロジェクト」の 2か所だけでした。ウォルトは開園の告知と資金調達のために米国 abcテレビとタイアップしたので、「ディズニーランド」という 1時間の番組のホストとして出演しています。日本では日本テレビ系列で 1958年から 72年まで放送され、その中から 6巻を選んだ「Disneyland ANTHOLOGY」( VHS BOX 懐かしのTV番組「ディズニーランド」特別保存版 )が発売されています。 そのテレビ番組で紹介された DLのテーマランドは、「未来の国」「お伽の国」「冒険の国」「開拓の国」の4つでした。
 ウォルトが逝去した後は、兄ロイたちが遺志を継いで、1971年に「Walt Disney World Magic Kingdom」(通称、フロリダ・ディズニーワールド)が開業しました。このときのテーマランドは、「メインストリートUSA」「アドベンチャーランド」「フロンティアランド」「リバティー・スクエア」「ファンタジーランド」「トゥモローランド」の6つでした。ですから、ウォルト自身は(1966年に)亡くなるまで、「テーマパーク」というのは「ディズニーランド」(と ディズニーワールド)だけのことだ、と思っていたのに間違いは ありません。
 それで、その「テーマ」も、ウォルトが映画製作を通して観客に訴えていた「映画のテーマ」のことで、それを各テーマランドにアトラクションとして立体化して展開し、観客がその中を まるで ディズニー映画の主人公やエキストラにでもなったかのように見学できる施設が、彼にとっての「テーマパーク」だったと思います。
 私は、DLの4つのテーマを、NICOGRAPH北九州’94のパネルディスカッション「テーマパークにおけるエンタテインメントの世界」で 次のように紹介しました。「密林などへ勇敢に出かける冒険心(冒険の国)」「19世紀中ごろの金鉱の街(開拓の国)」「シンデレラなど西洋のファンタジー(おとぎの国)」そして 「人類の輝かしい未来(未来の国)」です。いずれもディズニー映画では お馴染みのテーマでした。そして、DLの座席が 2人掛けである事にも意味がありました。2人掛けは、父親であるウォルトが溺愛する娘と一緒にアトラクションを楽しむための工夫でした。また、ウォルトは自宅の裏庭にミニ蒸気機関車を走らせており、機関手として娘たちとその友人たちを楽しませていました。「ディズニーランド鉄道」は、その延長として作られました。
 ただし、DLの「未来の国」と フロリダ・ディズニーワールドに併設された「エプコット・センター」の構築物は、1939年のニューヨーク万国博覧会(ウォルトが 37歳の時に見学した万国博)がモデルです。このときの体験は強烈だったと思われ、ウォルトは 1964年のニューヨーク万国博の会場に、多くのアトラクションを開発・公開しました。DLと万国博覧会の関係については、改めて説明する場所を設けます。ちなみに、東京ディズニーランド(TDL)は、フロリダ・ディズニーワールドをモデルに 1983年に開園しました。

 そして、ウォルトが亡くなった後で(因縁のある)ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドが「うちもテーマパークだ」と、びっくりするような名乗りを上げました。その園内には、ディズニー映画を本歌取りしたアトラクションは一つもありません。ですから、テーマパークと名乗ったのは本来、おかしいのです。ところで、ユニバーサル映画では映画撮影現場の一般客向け「スタジオツアー」を、ずっと昔の1915年から行なっていました。このツアーは、1930年頃に音声の同時録音が映画撮影現場に普及したことで仕事の邪魔になって長く中止されていたのですが、チャールトン・ヘストン主演の『The War Lord(邦題『大将軍』、1965年)が公開されて大ヒットしたのをきっかけに、実際の撮影に使われた十字軍の「見張り台」(Crusades Tower) を見学の目玉にして、スタジオを巡回するバスによるツアーが再開されました。(大株主が少し前に変わったことも再開された理由でした。)70年代になると、スタントマンによる撮影現場の再現(ライブショー)などもツアーに追加されました。スタジオツアー用の巡回バス GlamorTramsも新しくキャンディー・ストライプの明るいデザインに彩色され、そのデザインは 有名なディズニー・アーティストの Harper Goffに依頼したものだったこともあって、この頃から ユニバーサル・スタジオは「テーマパーク」を自称し始めます。しかし、繰り返して指摘しますが、ディズニー映画では「眠れる森の美女の城」(オーロラ城)を舞台背景の撮影用に使ってアニメ映画を撮った訳ではありませんでした。厳密にいえば、1955年にオーロラ城が公開され、そのお城を宣伝する目的も兼ねて1959年にアニメ版『眠れる森の美女』が米国で公開されたのです。ですから、私はユニバーサル・スタジオを嚆矢とする「 DLとは別のテーマパーク」、つまり ウォルトが知らなかったテーマパークには「広義の」と付けて、オリジナルと区別しています。なお、ユニバーサル・スタジオが「テーマパーク」を名乗っても、観客に違和感が あまり感じられなかった理由については別述します。

 「テーマパーク」の本質は、映画の「スタジオツアー」ができることでは、ありませんでした。第十一回に 遊園地の有力興行主たちが「Disneyland will fail because it has only one entrance.」(ディズニーランドは失敗するだろう。なぜなら、入場口が一つしかないためだ)と言った言葉をご紹介しました。実際のところ、テーマパークでは、太古の信仰が備えていた「説得力」が再現されているのだと私は思います。NICOGRAPH北九州’94の パネルディスカッション「テーマパークにおけるエンタテインメントの世界」のパネラーとして講演を依頼された私は、その準備をしている時に、高名な宗教学者の山折哲雄氏(国際日本文化研究センター名誉教授)が あるエッセイに、次のような内容を書いておられることに気が付きました。そこには、
   「日本と西洋の山岳宗教では、一つの入り口、地獄、天国(極楽)が共通している」
と指摘されていたのです。

 その少し前に、私は山形県の教育委員会から「VRとは何か」についての講演を依頼されて(行動科学研究所の鈴木智子所長に同行させて頂いて)山形で講演して 黒川能や羽黒山五重塔を観せて頂いたり、そばを頂戴したりの「余得」のほうが多い出張をさせて頂いたことがありました。実は、この時から私も、漠然と山折氏の指摘と同じことを感じていたのです。出羽三山は、もとは(朝廷でのクーデターから難を逃れた)蜂子皇子が開山した由緒ある修験道の道場です。ところで、江戸時代に入って出羽三山が観光地化したとき、(これは私の直感ですが)修行ではなく「観光で」訪れた善男善女にも仏様との結縁を感じて貰おうと、羽黒山五重塔の周囲のスギ並木を整備した方が、どなたかおられたように思えたのです。
 これは、是非、皆さんにも自分の足で確かめて頂きたいのですけれど、羽黒山では入山が「三途の川」である祓川からと決められており、ここで俗世を離れて、急こう配の山道をひたすら登って行くのが順路でした。ひたすら登ると「屏風のようなスギ並木」から突然、五重塔が見えて「あな、ありがたや」と神々しさを感じます。私は、面白くて、3、4回行き来をして五重塔を「突然に」眺めました。注意して頂きたいことは、おそらく江戸時代にスギを植樹した方は、その屏風の効果が100年くらい待たなければ確かめられないのが分かっていた、ということです。
 そして、DLでは、入場口からメインストリートUSAまでが三途の川だと私は考えています。ここで観客は俗世から離れました。入場口から少し歩くと「オーロラ城」に行きつき、その四方にテーマランドが広がります。羽黒山と同じ演出ではなかったでしょうか。「オーロラ城」に行きついて夢見心地の観客には、アニメ映画のスクリーン上の存在(2Dのミッキー)が3Dのミッキーになってエレクトリカルパレードで行進している筈がない、などという俗世間の常識がウォルトのマジックで消え去ってしまっているのです。
 ちなみに、羽黒山と同様の、参詣のための辛い山道(大門口)を抜けると、突然、立派な山門が見え「あな、ありがたや」と感じる演出は、高野山の大門(だいもん)で平安時代までには社会実装されていて、修験道の道場関係者の間で話題になっていただろうと思います。修験道は、お山を誕生以前の胎内だと考える化生論でしたので そうした工夫が似つかわしかったのかも知れません。

 映画『メリーポピンズ』(1964年)に、煙突掃除夫(で 大道芸人)のバートが歩道に描いたチョークの絵をメリーポピンズが踏むと、あら不思議、原作の絵本には登場しないエピソードですが、バート、そして、散歩の途中だったジェーンとマイケル、メリーポピンズが(実写の3Dの人間のまま)アニメの2Dの世界に飛び込む場面がありました。この場面についての分析は、改めて別述します。


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 ともあれ、出羽三山の「祓川」「修験のための山道」「五重塔」に気付いていた私は、DLの「メインストリートUSA」「白雪姫の恐ろしい冒険 Snow White's Scary Adventures」「オーロラ城」との対応関係にも直ぐ気付きました。つまり「三途の川・地獄・天国」ということです。

 ところで、「三途の川・地獄・天国」という遍歴が有名な作品には14世紀初頭に書かれたダンテの『神曲』がありますが、これは原題を「(神界の)コメディ」といって天上のテーマパークの順路マップになっています。天国の感動を『神曲』の冒頭から神々しく描いても、チコちゃんの言う「ぼっとして生きている読者」たちは、そんなものか、と感動しません。ですから、三途の川を越えた地獄で、職権を悪用して利益を得た汚吏(不正をした官僚)や国会議員たちが、煮えたぎる瀝青に漬けられたり、政府の行なう行政に行き過ぎた阿諛追従をする者が、糞尿の海に漬けられたりと、当時の政界の裏側を知る人たちには「爆笑必至」の 思いつく限りの政敵への「おぞましい地獄の責め苦」が『神曲』の地獄篇で述べられました。お化け屋敷が最初に体験される事で、その試練を一緒に乗り越えた仲間たちの絆(愛の尊さ)が強まるのです。秘密結社の入会儀礼も、これと同じ趣旨だったのかも知れませんね。ダンテの『神曲』に描かれている天界の分析は、今後に何度も予定しています。


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 ※ ちなみに、本Blogタイトル画面の右端の女性が『神曲』の ベアトリーチェさんです。

 ここまでの説明で、①「一つだけの入り口」と「地獄・天国」が論証できたことにします。

 それでは、「入り口が一つだけの囲われた土地」が どこかにあり、そこに「地獄のような怖い場所と天国のような、例えば、ご来光が拝める山頂」があれば、その場所に何日か滞在しただけで修験の神秘体験が得られて「得度」ができるのでしょうか。「馬鹿にしているのか」って修験者に叱られます。それは「機械論」だからです。化生論である山岳宗教の道場には、別の分析方法が必要です。稿を改めて、別述させて下さい。
 結論を先取りすると、テーマパークでは、リピーターが いなくなるとパークは廃墟になりますから その共同体(テーマパーク)の構成員を増やすことや、盆暮れの休暇に また必ず遊びに来て貰うための有効な「リピーター獲得の方策」が必要になるのです。ちなみに、共同体がリピーターを獲得するために、②入場料(イベントの思い出)と「(その場所での) 飲食」・「物販 (おみやげ、記憶のよすが)(の売上)を伸ばそうと努力すること自体は、珍しい方法ではありません。例えば、結婚式というイベントでは、その二人の結婚を印象に残すため、出席者が互いに殴りあうという記憶法が西洋にあったと伝えられています。殴り合わなくても、(披露)宴を併催して飲食することでイベントの記憶は強化されます。引き出物のお皿があれば、帰宅してそのお皿を使う都度、披露宴の記憶が戻ります。
 同様に、国際学会でも、講演発表の大会に参加した記憶の強化のためにバンケット(晩さん会)が必ず開催されますし、予稿集という印刷物が研究室の本棚にあれば背表紙を見るだけで その学会で聞いた講演が思い出されます。
 IVRCの展示も、今後の国際学会でポスター展示などの発表をする際の予行演習になりますから、IVRCの懇親会が予告されていたら参加学生は できるだけ出席するほうが国際学会に気後れなく登壇する心の準備ができると思います。また、IVRCの予選に来られた観客の皆さんに、決勝にも再び来場して成果を評価して頂くには、観客にできるだけ予選ちらしを持って帰って頂くことが 意外に効果的です。IVRCの岐阜時代(1997年から2008年まで)に、予選→決勝の期間に作品のインパクトを強めるための余計なゲームなどを付け加えてしまい、却って作品の主題を ぼやけさせる展示が目立った時期がありました。こうした失敗の解決策については開発者が自分たちでは気付かないので、予選を見た観客に決勝で間違いを指摘して貰うしか改善方法がありません。

 さて、話をテーマパークに戻します。ここからは、テーマパークでの「アトラクションの思い出」の強化と「飲食」「おみやげ、記憶のよすが」について述べてみます。ところで、テーマパーク活性化の手法は、そのままで Society5.0などの社会システムの実装にも使えるように思います。

 それで、一つの社会実装のアイデアを書いておきます。「仁川百合野町 地すべり資料館」という施設が兵庫県西宮市に あります。阪神・淡路大震災(1995年)で起きた地すべりの一つでは 西宮市仁川百合野町と仁川6丁目の家屋13戸が押しつぶされて、住民34名が亡くなりました。その災害事故の資料館として、この施設は その 2年後に建てられました。母の友人が地元のボランティアを組織され資料館の斜面にシバザクラを植えて庭園を整備されたので、私は見学に伺いました。
 【 第十三回に続きます 】

 余談ですが、眠れる森の美女の城のモデルは ‎ルートヴィヒ2世の「ノイシュヴァンシュタイン城」です。お城というと戦争場面のイメージが強いのですが、お城は元々 教会建築を真似てデザインされました。行政の中心が、教会からお城に移ったことを象徴したのです。しかも「ノイシュヴァンシュタイン城」自体は、ルートヴィヒ2世がバイエルン王国の観光の目玉の一つにすることを目的に築城家ではなくデザイナーに設計させたものでした。そこでは、おとぎ話に出てくるお城の「シンボル性」が強調されました。今では彼の狙い通り、ドイツ、バイエルン州の経済はこの城などの観光収入で持っています。ちなみに、もう一つの観光の目玉がバイロイト祝祭劇場でした。VR奥儀皆伝( 8½ )では、テーマパークの起源の一つとしてのルートヴィヒ2世論を予定しています。

VR奥儀皆伝( 8½ ) 『謎解き・テーマパークVR』(11)「テーマパークとは何か」という謎を解きます こちら

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VR奥儀皆伝( 8½ )(13)に続きます。→ こちら