( 8½ )(68 ¾)VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2023-04-21 | バーチャルリアリティ解説
Number68 ¾ / パーク VRアトラクションの 品格
                          【( 8½ )総目次
《 本Blogの 今回の頁は引用できます。本頁は近く鋳型化されます。2023.04.xx 鋳型化ここから 》

   本 Blogでは、読者の皆さんを 学生、社会人学生 と想定して、
   A. 「皆さんが IVRCなどの VRコンテストや 海外の国際会議に 独自投稿して 採択され、
   国外の VR技術展示や ポスター展示などの機会に 海外の研究者と接したときに、
   B. 東洋哲学専攻の 素敵な外国人など 文化系の「観客」を含めた 質問者の 誰でもに対して
   そのVR作品の開発者であるゆえに 皆さんから解説できる筈の
   C. その作品が「日本文化の影響の下に成立したことの特徴と意義」つまり、
   ” 日本で VRを開発することのメリット = 奥儀” が 分かり易く説明できるために、
   国宝VRデジタル復元」の技法を詳しく解説しています。

その 一つ前の段階として、 皆さんの VR作品は どんなテーマでも実現できます ので、
「自分が思いついた作品のプロット」を記録に残し、
他の研究者が「善意に基づいて」協力して 社会実装できる公開方法を 併せて考えて下さい。
日本VR学会や 日本感性工学会などの会員になって、
査読論文や 著書の形で公開することも 一案です。論文発表の 具体的な記述内容に関して、
梅棹忠夫著『情報管理論』か学術論文の質の向上のためにを近くご紹介します。

皆さんが VR 作品を発表する舞台は、

   ① フランスの LAVAL VIRTUAL や パリ、或いは また、
   ② 中東から ③ インド にけての大学の、
   VR 国際会議の技術展示などが これからの狙い目で ・・・

特に ② と ③ は、「ヘレニズム文化と 仏教文化」の両方の影響を受けた地域である、という
理由から、今後に お勧めできる と思います。
② と ③ ついては 私も(63 rev.)(66を書いたことで、最近になって 気付きました。

 ※ 裏を返すと、米国と中国の国際会議は 後述する理由で 今後は VRの表舞台になりません。

   フランス ① については 後にして、② → ③ → ① の順に概要を述べます。
   まず、② の中東から。
   BC 6世紀頃に「原ゾロアスター教」(英語名)が ペルシャに登場しました。

光明神の アフラ=マズダを最高神と讃え、その智慧とシンパシーが 全世界に広まることを
黒神アーリマン(我執)が台無しにする、と教えました。そして、これと良く似た話が
③ にも ありました。 
 
「ゾロアスター教」との「直接の」関連は不明ですが、「古代ウパニシャッド」(体系4「インド
集」所収 BC 5世紀頃)を読めば とても似た話が載っています。漫画喫茶の 手塚治虫氏『ブッダ』
⑦巻では、ブッダの「悟った」のが、正に、ウパニシャッドの 梵我一如でした。当時の バラモン
教 ③ では、ブラフマンと アーリマンが 一如だと教えている というのに、ブラフマン階級が 宇宙
根理 the Law を寡占していたので ブッダが怒り、非可触のアウトカーストにも、バラモン僧や
王侯、貴族同様に 智慧とシンパシーがあるので「成仏できる = 覚醒して仏になる」説きました。
僧侶は、家族を捨て(我執を捨て)て 全員「出家」しなさい と ブッダが教えたのは このためで、
僧侶(バラモン教では 高級官僚、国王より上位)全員 托鉢を受け、身分制度を 解消させました。

当然、維摩さんが ブッダを讃えた『維摩経』にも 同じ話が出てきます。ついでに言うと、

   スケッチパッドも iPhone も VRも、動作原理は(我執でなく)梵我一如です。

BC. 4世紀に クサンドロス大王が ペルシャ(ペルシア)に 西からの「ギリシャ哲学」を持ち
込みました。その後に BC.3世紀の インド、アショーカ王の「仏教」が ペルシャに、東からの 影響
与えたことで、イケメンの仏像が ガンダーラに生まれました。(63 rev.
ギリシャ彫刻風の イケメンの仏像が表現したものは、梵我一如を「如来」が悟ったことの喜び
です。どんな悪人も 智慧とシンパシーを他人に施す ブラフマン(根理 the Law)の賛美者となり
改心できます、と 仏像は 参拝客に告げました。


(左)アケメネス朝ペルシア 前550年~前330年、遊牧イラン人が建設し、オリエント一帯をこの帝国が支配しました。全盛期のダレイオス1世は前500年にギリシア遠征を開始(ペルシア戦争)しましたが、ギリシア征服に失敗。逆に アレクサンドロス大王によって 前330年に滅ぼされました。/ (右)仏像誕生の地 ガンダーラの遺跡 Google Map

① ② ③ という 古代世界の隊商路の上に 現在ある大学(の文系)と 日本の大学が、夫々の VR
研究室などを通して 共同研究すれば、VRのリアリティの 新しい表現が生まれてくる筈です。
なぜなら、日本の大学には 国風文化を通して『法華経義疏』『源氏物語』などのエッセンスで
ある、古代ウパニシャッドの智慧とシンパシーが 影響していたからでした。インド映画「RRR」
監督ラージャマウリ氏のオフィスの机の上には、手塚治虫氏『ブッダ』全巻が置いてあり
ました。(「日立 世界ふしぎ発見」スタッフが 映画大国インドを取材して、撮影しています。)

   ちなみに、インド映画の製作本数は 米国の約3倍。年間 800本前後です。当然です。
   インドの文芸、つまり 詩、戯曲、小説、神話、民話、カーマスートラなどの カバーして
   いるプロットは、「インド集」一冊を読むだけでも 3500年分あって 豊穣だからです。

   ゲーテや ワーグナーが驚いて 参考にしよう と考えたのも、当然のことでした。

ここでは少し 余談になるのですが『ブッダ』に関しては 浦沢直樹氏の 漫勉 neo「手塚治虫
スペシャル」(初回  2023年2月17日)で、正に 手塚氏が『ブッダ』を連載していた時の 元アシ
スタント 3名の証言で「漫画の神様 手塚治虫」のペンの走らせ方の秘密が明らかになりました。
(Eテレ版に 10分を加えた拡大版。)小指を浮かせる 独特の ペンの持ち方が紹介されるなど、
非常に面白い内容でした。これは 私の解釈ですが、『ブッダ』のキャラクターなどには、読者の
心を 自然に 作品世界に引き込むために「やわらかな 丸みを帯びた線」が使われていたように
感じられました。浦沢氏が「アサヒグラフ」の上に載せた 比較的薄手の 洋白紙に 墨汁で線を
引いて アトムを作り出した時には、私は 大きな衝撃を受けました。手塚氏は 戦争で できた死体
の山を目にしていたことから『火の鳥』『ブッダ』などに 日本人の歴史を、善悪の両面を併せて
描いただと思います。日本の未来も、そこには予見されていました。



   VR作品の 発表の舞台としての、国際会議の VR技術展示の話 に戻ります。

② 中東での VR研究は、「マホメット師が 映画を禁止された」という解釈から まだ 盛んでは
ありませんが、ショーペンハウエルが影響を受けた『ウプネカット』が ペルシャ語を経由した
ラテン語訳(重訳)の『古代ウパニシャッド』だったことを思い出して下さい。
中東の学校が 適切な指導者を得れば、豊穣な 外国向けVRの 名産地になるかも知れません。
また アバターを用いていなくても、黄金分割の「幾何学」が 日本の 四天王寺・法隆寺・仏画・
能面・桂離宮・茶室・浮世絵 などに影響して、活用されていたことと全く同じように、
   日本と中東のコラボは、新しいVRの「表象」が生まれる可能性を 感じさせます。
詳しくは次回以降に。

   ① フランスの LAVAL VIRTUALについては、こちら を参照して下さい。翻訳

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 〇 上宮法皇の維摩経 つづき 日本の国宝とその時代 (13)

 世界の名著2「大乗仏典」付録22 中央公論社 昭和42年(1967年)12月
 「現代人にとって仏教とはなにか」〈対談〉
 梅原猛
 (立命館大学教授)、長尾雅人(第2巻責任編集)

 ・ 『大乗仏典』の意義(一部省略)
 ・ 漢訳仏典とインド原典
 ・ インドの論理とヨーロッパの論理(一部省略)・・・  ここまでは(68 ⅔) に掲載しました。

 ※ 今回の対談の 中心のテーマにあたる「中道」が語られます。TPOに応じた、その場の ベストの選択をすること です。例えば、日本の外貨獲得の目的で 米国に 日本車販売の販売網ができていますが、日本と米国の互いの自動車業界の利益をバランスさせようと政治工作することは「中庸」を採ることなので ベストでは無い政策です。そうではなくて、例えば、ドルの価値(貿易決済価値)が半分になること などの思いがけない事態を想定して、一度、米国の販売網を全部あきらめるといった 化生論的な「中道」の販売戦略(事実上の 米国市場からの 日本車の撤退)も視野に入れては どうでしょう。米国人の「日本車ファンクラブ」が 日本車を輸入すれば 経済摩擦は起きません。(本稿の執筆 2023年4月)

   中道思想について

長尾 翻訳しながら「中道」という思想が やはり重要であるという感じがしました。「中道」というのは、ああでもない、こうでもない、結局なんでもない、そういう「中道」は ほんとうの仏教ではあるまいというようなことをいう学者もいますが、「中道」というのは、やはり相当の比重をもっている。「中道」ということの出だしは、楽にもあらず苦にもあらす、極端な享楽と極端な苦行との両方の否定から出てくるわけですが、龍樹 あたりまでいくと、有(う)でもなく無でもないとか、永遠でもなく刹那(せつな)的でもないとか、そういういろいろなニュアンスを含みながら、「中道」といういい方が出てきます。単に半分がこっちで 半分があっちであるという、つきまぜたような 中庸では ないのです。たとえば、日本の家屋というのは、たいてい貧弱な家屋で、粗末で なにもない、それこそ維摩の方丈みたいなものですが、床の間に この人がもっているのかと思われるようなすばらしい美術品を一つだけ ちらっと置いている。逆に豪奢(ごうしゃ)な家に、やたらといろいろな物が ずらっと並んでいる光景は、あまりいただけません。質素な姿、いわば「空」の中に、ただ一つびかっと光るものが、アクセントのように身についている、それが さんぜんと輝いているという奥ゆかしさ ―、そういうところに「中道」というものがあるような感じがするのですが。
梅原 維摩というのは、市井の人とかわらない。そして どこにでも出かけていく。女郎屋にまで出かけていきながら、しかし遊蕩児ではない。どこかで光る、しかも決しておれはえらいんだぞとはいわない。そこに大乗仏教の非常に深い知恵があるような気がします。先生のおっしやった「中道」というのは、ただ中間ではなくて、実にニュアンスの深いものだと思いますね。これは まちがった解釈かもしれませんが、天台智顗(てんだいちぎ)というような人は、世界は非常に空(むな)しいものと考える。世界を仮のものとみる。しかし、空しいもの、仮のものでありながら、この世界は実在しているのではないか。そこに一種のニヒリズムとリアリズムの中間のような行き方がある。ここに大乗仏教の行き方があると私は思います。金とか地位とかの世俗的な価値に対して否定的であるが、しかし、自分はいつもこの世をよくしていくのだという、そこに私は惹かれるものを感じるのですが。
長尾 私はそれが やはり釈尊という人の生涯から感じとれると思うのです。釈尊は八十歳まで生きていた。いわゆる酸いも甘いもかみわけている人ですが、後半の四十五年間の説法の生活というものは、ずいぶん苦しかったと思います。しかし、その間に釈尊の成長があったと思いますね。それが原始仏典から 大乗仏典へかけて ずっと にじみ出ている感じがします。

   釈迦・キリスト・ソクラテス

梅原 釈尊の話になると、やはり仏教の一つの思想のポイントは、「空」の問題とか、人間の死ということですね。ヨーロッパだと、すぐそれが永生というところに いくんですよ。ところが仏教は、最後まで 死をみつめている。だから、いつも生命を死と関係させて考えている ような気がします。デカルト以後のヨーロッパの近代哲学というものは、考える自我と物質を 絶対的なものとして、人間を死すべきものとしてとらえない。死というものが哲学から喪失していると思いますね。
長尾 そういう点では、インドの考え方はスケールが大きいですね。死と生がいつも同じ比重で考えられている。それも 取扱いによるわけですが、中有(ちゅうう)・生有(しょうう)・本有(ほんう)・死有(しう)の四有ということをいう。死というものが一つの有で、それから中有になり、生有、本有になる。その次にまた死有になるのですが、サイクルという考え方が強いですね。それからもう一つは、仏国土という考え方、― これもスケールが大きい。これは西方に仏国土がある といっても、平面の西ということは あまり考えていない。三千大千世界というようなもの、いわば 多くの宇宙を考えていることは、やはりインドの特色ではないですか。それに比べるとヨーロッパの考え方はもっと現世的、地上的で、金星や月の世界もあるかもしれないが、それよりは もっと身近なものをいつも考えている。
梅原 釈迦とキリストとソクラテスとを比べてみますと、キリストとソクラテスは ともに非業の死にあっているわけですね。しかも、彼らの死が実は不死の思想の証明になるわけです。つまり、ソクラテスは最期に魂の不死ということを証明した。ということは、一種の生命の不滅ということと人間の理性の不減ということ、それが彼の死を契機として証明されている。
(pp.6 - 8)

 ※「付録22」からの引用、今回は ここまで。残りは 次回以降に。お楽しみに。

   《 鋳型化ここまで 》
   フェロー武田 「上宮法皇の維摩経」つづき(VR奥儀皆伝(8½)(68 ¾)、国宝(13))
   Blog TP-VR Attract.のトリビア 2023.04.xx

 【おまけ】インド映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム 』2007年
   Dhoom Taana Full HD Video Song Om Shanti Om | Deepika Padukone, Shahrukh Khan
   スター女優のシャンティプリヤ(Deepika Padukone)は 映画プロデューサーのムケーシュと秘密裏に結婚していたが、疎ましく感じたムケーシュは事故に見せかけて彼女を焼き殺した。彼女を救おうとした脇役俳優のオーム(Rukh Khan インドのブラピ)も命を落とす。それから30年後、ボンベイではオーム・カプールという若手俳優が大人気スターとなっていた。それはオーム・プラカージュの生まれ変わりの姿だった。

   バラモン教で「om」は ブラフマン、「shanti」は 平和・寂静を意味しています。

   最初の話に戻りますが、① フランス ② 中東 ③ インドを強調したのは 消去法からの推測です。
   通常、
   VRの研究については、米国や 中国の 研究機関での 豊富な お金の掛け方が話題になります。

   ところが、VRの社会実装の「工学理論」は、私の理解では化生論です。

一般に 機械論の科学は、研究資金を多く投入すると 欲しい成果が得られます。例えば、携帯の電磁
波の人体への影響についての有名な論文に、携帯会社から研究資金が出ている論文では「無害」が、
携帯会社と 無関係だと「有害」が多く 結論とされていた、というものがありました。
ところが 化生論科学の人工物については、そのユーザの心を「どれほど動かしたか」という「作品の
持つ社会科学的な意味」が 勝負です。日本科学未来館のような「良質の観客が多く集ま台」で
試作機を公開することを通して、作者が自分の方法論を掴んだ作品が有利になるのです。

   ちなみに、この化生論科学は、欧州で ルネサンスの時代に 大流行しました。それゆえに、

   企業や連邦政府からドルを渡れて 主に 機械論の面で成果を出してきた 米国の VR研究は、
   米国の景気衰退の影響を もろに受けます。例えば、VRで訓練された米軍が テロリストに占拠
   された海外の大使館から人質を救出するミッションも、米軍が米本土に回帰し、NATOを始め
   沖縄などの全世界から転進している状況では 実施が不可能で、機械論のVR訓練装置は不要に
   なります。また、人民元は堅調ですが、中国共産党が発行元であることに要注意。ここで、
   ドルの急落に影響されない VR研究の一番良い方法を書いておくと、

   沖縄が「地域通貨の ゆい」を 商店街用の 地域通貨として 1円 =1ゆい で発行することです。

   米国に米ドルの崩壊が起きたら、日本政府は「中古木造住宅の資産価値」が 将来の税制変更
   で高く査定されることを想定して、高く査定された木造の物件から転売が加速され、取引に
   ともなう税収が増えと 予想されること(もちろん 国税、市民の現住所である住宅は、
   2063年頃までは 従前の資産価値のまま 税率変化なしを財源にして 300兆円の小切手を、
   行政府の権限で発行します。この小切手の運用を、政府は 沖縄県に委託します。

   日本円の価値変動に直接には影響されない地域通貨、ゆい が発行できるからです。

   ゆうちょ銀行の預金 300兆円の大部分は、小泉元首相と 竹中さんが 米ドル建ての米国債に
   変えてしまいましたから、トランプ前大統領が予告しているように「バイデン・ドル」
   価値下落すれば その 資産価値の大半が失われます。すると、

   「米ドルの価値が下落した理由は、日本経済が ゆうちょ銀行の投資ミスで混乱したからだ」
   と 自分の我執を他人のせいにするマスコミが ゆうちょ銀行の債務超過をメディアで はやし
   立てますから 世耕さんたちが悪人を取り締まります。同時に「ゆうちょ銀行」に注目が集まり
   ますから、沖縄県が 300兆円相当の ゆいを、ゆうちょ銀行に預けます。ゆいの担保が 有名に
   なりますから、中国にある大学などで 人民元が下落した場合に 資金ショートで倒産しそうな
   負債を沖縄県が裏書き保証して 学生の教育環境を守る ことも あり得るかも知れません。
   トランプ前大統領が、米国の VR研究は「戦争で儲ける人たちを儲けさせている」と判断した
   場合は 米国の VR研究が バブル崩壊となって低迷しますので、血迷った米国企業が「弱って
   いる VR研究機関から 債権を回収できる」と狙いを定め、ステルス特許で AI、VRなどの研究
   所を訴訟するかも知れません。そうした(我執による)混乱から抜け出て、VR研究を守ると
   いう意味からも、大乗仏典が典拠の研究は 今後に 米国でも多く 出てくるのかも知れません。

   ただし、仏典を典拠にする VRは 化生論になり、儲かる儲からないは 二の次 になります。

   余談ですが、テレビの何かのバラエティで、「彼氏と別れたばかりで、しくしく泣いている
   少女と その友達」が 中川翔子さんに人生相談して、どうすれば良いかを聞きました。翔子さん
   の回答です。「こういう時は、猫を飼う人が多いんだけれど」と 一息あって「でも、猫を飼う
   と もう彼氏(自体が)いらなくなるよ」と。私は 名回答 に思えました。その お友達と 番組
   のプロデューサは、ニュースショーのコメンテータのような 中庸の回答を期待して質問した
   のですが、翔子さんは 直球で 中道を回答したからです。

   米国のVR研究も、最初から 米ドルを あてにしなければよかった のでした。大学など公共の
   CAVE型VRの研究が世界中で諜報機関の出先機関に脅されて、優秀な研究が影響を受けたこと
   については CAVE研究自体の技術的発展を完全に停滞させ、本社のCAVE売り上げ利益も大きく
   損ないました。私はできる範囲で、その脅しが コンピュータ科学を阻害すると機会あるごと
   に述べてきました。邪魔が入らなければ CAVEの 経営工学などへの応用も 見られた筈です。
   米軍が世界から撤退を始めたので、CAVE研究は 元も子も失う結果になりました。海外の
   諸々の研究が続けられていれば、CAVEによる 米国の景気回復も 誰かが提案してくれていた
   かも。CAV会社の当時の役員は、現在の執行部から訴追されているのではないでしょうか?

   (中国の VR研究の先行きについては、今回は省略します。中国の文人が尊重した文芸は、
   今後も VRのコンテンツとして人気が出ると思います。維摩経の天女も その一つです。しかし、
   岩井克人氏の研究から見れば、中国共産主義経済は ソ連邦と同じく 危機を迎えるからです。)

 VR奥儀皆伝( 8½ )(68)(68½)(68 ⅔
 ( 8½ )「暫定総目次」/ サイトマップ(57)
 VR奥儀皆伝( 8½ )(68 ⅘)に続きます。      

( 8½ )(68 ⅔ rev.)VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2023-04-08 | バーチャルリアリティ解説
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《 本Blogの 今回の頁は引用できます。本頁は近く鋳型化されます。2023.05.xx 鋳型化ここから 》

 〇 上宮法皇の維摩経 つづき 日本の国宝とその時代 (12)

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 世界の名著2「大乗仏典」
「付録22」 
中央公論社 昭和42年(1967年)12月
 「現代人にとって仏教とはなにか」〈対談〉
 梅原猛
 (立命館大学教授)、長尾雅人(第2巻責任編集) 図書館や 古書では 通常 読めません。


   対談は、京都の老舗 懐石「美濃幸」でした。

 『大乗仏典』の意義 
((68½)に初出しました。ここは再掲です。)

梅原 こんど先生の出されます『大乗仏典』を読ませていただいたのですが、たいへん勉強になりました。ふつう日本では、原始仏教は わりあいよく知られている。同時に、われわれに近い禅や 浄土教も知られている。ところが 原始仏教と禅・浄土教を結ぶところの、こんど訳されたいわゆる大乗仏典、それに中国の古い仏典など、そこらへんの研究が まあずいぶんされてはいるのでしょうが、まだ一般の人にわかるようなものができていなかった。それがこんどのお仕事で、埋められたということを感じたのですが。
長尾 
実は そういう ねらいをわれわれも最初から考えておりました。大乗仏教は、仏教の中で主流になっていくものでしようし、本巻ではその中心になるものをねらっているわけです。そういう意味からも、本邦初訳が だいぶ はいっているわけです。
梅原 その点で、この「世界の名著」全体を見渡しますと、すでに古くから訳のある巻が比較的多いんですよ。本邦初訳 というのは、おそらくこの巻がいちばん多いのではないですか。その意味で、これは 全体の中でも最も文化的な意義をもった巻 だと思います。龍樹・世親 というのは、名まえだけは われわれも知っているし、日本の どの宗派でも、龍樹・世親というのは、だいたい自分たちの教派の系譜におくわけですが、実際に龍樹・世親の思想がどういうものであるかということは、仏教学者以外のインテリには 知られていなかった。
(このあと『大乗仏典』の意義 の章の、後半を少し省略。)

 漢訳仏典とインド原典 
新たに 本Blog(68 ⅔)に掲載 ここから)

梅原 こんど訳されたのには、経典と論書と二つありますが、経典のほうで『維摩経』の訳を拝見しまして、漢訳仏典の『維摩経』と印象が たいへんちがうような気がするのです。漢訳仏典より もっとイマジネーションが豊かで、きらびやかで、壮大な感じがします。実にみごとな ドラマをもった経典だ という気がしました。漢訳仏典というのは、文学的には なかなかみごとなものと思いますが、やはりあの当時の名文家が書いた文だと思うんです。それに反して、インド = チベットからの訳のほうが非常に読みにくいという印象を いままで私はもっていたのですが、漢訳仏典以上に これはたいへん明快で、インド原典からの直接の訳としては 画期的な進歩ではないかと思います。
長尾 『維摩経』は ほとんど省略しておりません。ほとんど全部です。そういう意味では 翻訳に相当苦心した。日本語になりうるように、同時にインド的な いいまわしも保つように。
梅原 ただ、漢訳仏典には、中国語の簡潔さで押してくるような強みがあるでしよう。インド原典からの直接の訳ですと、なかなかそれが出にくいでしようね。
長尾 もとの文章は まだいいのですよ。文章の構造が簡潔ですから。しかしその短い表現を日本語にするとだらだらして、押していけないのです。最後に はいっている『タルカバーシャー 』(注:「法称」の 認識論、論理学、弁証論の要約)は、いままでは まったくなじみのなかったもので たいへん むずかしいのですが、これはインド仏教末期のものとしては、それこそ学間の進歩を示すものですね。(注:「付録22」からの引用のあとに『タルカバーシャー』の解説を「世界の名著2」p.62から引用します。)
梅原 そうですね。これはたいへん哲学的なもので、インドにも、こういう西洋の古代末期から中世にかけての議論のしかたと同じようなものがあったわけですね。龍樹の、たとえば「廻諍論』(えじょうろん、注:龍樹が「実在論」からの批判に答えて「中観」のメリットを説いた論書)でも、こんどの訳で 論理の構造が非常にはっきり理解できます。やはり漢文に訳した場合に、こういう忠実な論理構造は出ないものでしようか。
長尾 訳した人は わかっていたと思うんです。玄奘
げんじようなら玄奘 というような人には。しかし、表現できないんでしようね。インドから中国に行く過程において、いわゆる認識の問題とか、存在の問題とか、そういう精密な論理が ほとんど落ちてしまうのではないかと思います。それは一つには、漢文という言語の構造が精密な論理をうまく表現できるかどうか。受身か能動か、名詞か動詞か、きつばりわからない というようなところがありますからね。
梅原
 日本語のほうが、そういう徴妙な論理を表現することはまだ可能だと思います。
長尾 中国語と比べるとですね。しかし、翻訳してみますと、いかに日本語の語彙が貧弱かということを痛切に感じました。
梅原 サンスクリットというのは、ヨーロッパ語には翻訳しやすいものをそなえていると思うんですよ。だから、インドというのは、ヨーロッパとつないで考えるほうが よくわかるんですね。ところが、中国へくると、そこでちがってくるんですよ。
長尾 思想としては 儒家、さらに老荘の思想ですね。老荘を通じているから、いわゆるシナ仏教(注:「シナ仏教」は仏教学の正式表現)というものが できあがってくるわけでしよう。(注:「中国、中華思想」は、その昔は インドと その思想のことでした。「中国仏教」という表現は ありません。)
梅原 たとえていうと、天台では「空」ということをいう。あれは 龍樹からくると同時に、老荘からもくる。
長尾 禅宗もそうですね。禅は ことに老荘に近いのではないですか。
(注:ジョブズと禅の話に後で少しだけ触れます。)
梅原 仏教は中国で、論理がすっかり落ちて、実践的な生命の教えみたいなものになってくる。それがまた日本へくるわけですね。この『大乗仏典』には、インドのいちばん論理的なものが翻訳されている。これは仏教を見なおす一つのチャンスだと思いますね。

 インドの論理とヨーロッパの論理

梅原 本巻でその精密な論理、龍樹・世親の論理が非常に明らかになりましたけれども、もう一つ知りたいことは、インドの論理というか、仏教の論理というか、それとヨーロッパの論理とはどうちがうか ということです。これは、今後 仏教学者を含めていろんな思想家、学者が問わなければならない問題です。というのは、ただ論理の問題だけではなくて、いまヨーロッパを支配しているギリシア的な生き方と、インド的な生き方、あるいは仏教的、東洋的な生き方とのちがい というものが、その背後にあらわれていると思いますね。(注、下線は VR奥儀皆伝)
長尾 われわれ学者は、狭いところでうじゃうじゃしていて、それを越えて考えなければならないということは よく承知しているのですが、なかなかそこまでいけませんね。学問というものは、比較しなければ学問にならない。たとえば、この『中辺分別論』(注:中道と辺=極端とを唯識説に基づいて弁別し明確にしようとする論書)に出てくる三性説(さんしょうせつ。注:法の性質を宗教倫理的な価値で分類したもので、善・悪・無記=善でも悪でもないもの、に分類する)という考え方(注:Fellow 武田は 例えば VRのモーションデザイン=揺動の効果と スクリーンの映像の関係について、優れて効果的・酔う・ふつう、に分類しています)が、いったい どういう位置にあるのかということも考えてみなければならないのですが、なかなかそこまではいかない。それがやはり、これからの仕事だと思いますね。いろいろな人が集まって協力していかなけば、これはできないと思います。
梅原 私はこの「世界の名著」の中で、東洋の思想の巻が もう少しふくらんでもいいのではないかと思います。現代の日本では東洋の思想がだんだん知られなくなると同時に、ヨーロッパの思想だけでもいけない という気持ちが、だんだん強くなってきているような気がします。ヨーロッパでも 十九世紀には、ヨーロッパ万能という思想が強い。たとえばへーゲルは、歴史が発展すれば 世界は すべてヨーロッパ的になるのだ、東洋から学ぶ必要はない といっています。ところが二十世紀のヨーロッパの思想家、ハイデッガーや ヤスパースは、西洋の原理は このままではいけない、東洋から学ぶものがあるんだという。西洋自体が変わってきていると思います。
長尾 
とくにアメリカ人(注:の仏教学者)は、そういう点が正直ですね。このまま自動車を走らせているだけでは困るんだという感覚が、むしろ非常に強い感じがしますね。
梅原 
ヨーロッパ人には、学んでも最後はこっちなんだという自信がある。トインビーにしてもヤスパースにしても、そういう考え方がある。しかし、アメリカはそういう伝統もないでしようからね。だから、東洋から学ばなければならないという気持ちが強いと思います。私は、日本人のほうが 逆にヨーロッパを向いているので、それは非常によいことだと思うのですが、同時にもう一つ、東洋とくに 仏教 に目を向けないと、ヨーロッパ人やアメリカ人の知的欲求についていけない ということになると思います。

 「付録22」からの引用は、今回(pp.1 - 5)はここまで。残りは 次回以降に。

 ※「付録22」は このあと 更に「中道思想について」「釈迦・キリスト・ソクラテス」「仏教の将来」と話が核心に迫ります。中村元先生の注力された「比較思想史」の議論です。「付録22」は「日本の思想」に収録しても良いくらい深い内容でした。

 ※ ところで 中村元先生が、東大の最終講義(1973年)で こんな発言をされていました(『日本の最終講義』角川版 2020年 の p.251 )私の言葉で 要約します。「日本では、仏教哲学、イスラーム思想などの論文について 歴史的に 宗門単位や 学会単位での用語選択・書き方がされており、高度な研究であっても読んで腑に落ちないものが多い。一般の哲学者や思想家が感心し得ない論文を書いて、どこが ”思想研究”と呼べるだろう。欧州に目を転じると、エジプト学の講座の先生が 大乗仏典の古典語であるパーリ語も読めるので(オリエンタル、つまり東方由来の思想を ひとからげにして)仏教も講義されたり 研究発表もされている。」つまり、世界の名著2 で長尾先生が「漢訳仏典の定訳語」を採用されなかった理由は、英語訳による仏典の新訳が、欧米の思想界で「現代思想」としての反響を学問的に得ていることへの日本の仏教思想研究者としての対応でした。今後、VRの研究者が VR開発の参考書として『維摩経』を利用するとき フランス語訳を活用するのか、英語から 或いは 日本語翻訳で理解しようとするのか という問題で、日本人は「世界の名著2」を読めば 日本語で理解できる のですから、この大乗仏典を日本人に「VR研究の参考書」として使って貰う目的で、文科省が高校生に無償で配ると良いだろう、というのが私の考えです。

 実は、

 千年たったら少子化で「日本人が 200人位になる」という人口推計は「似非科学による大嘘」です。なぜ、文科省が 間違いを指摘しない のでしょう。他省の報復による 予算カットを恐れているのでしょうか。江戸時代にも 人口は、自然や人為で 増減しました今後の日本の人口減少について、人口波動の専門家 古田隆彦氏は 2086年に 人口 約7000万人で底を打つが、その後 人口は増加に転じる とされています。長期蓄積エネルギーの育成に成功すれば 22世紀の日本列島には、2億人以上が居住している可能性もある、と古田氏は著書「日本人はどこまで減るか」2008年 に書きました。平均余命が延びているのに、定年が動いていないから「年金の原資」が減っている「だけ」に 過ぎません。
 人口減少の対策は、60歳から 74歳までの高齢者を「VR技術のアシスト」によって 生産可能年齢人口に組み込む以外に ありません。「25歳-74歳が 生産年齢人口だ」と正しく再定義されて仕事が得られれば「年金の原資不足」は無くなります。高齢者は 年金以上の所得を受け取り、企業からの法人税も増加します。VRによる就業ですから、若手社員も壮年社員も、ベテランに批評されているみたいな意識を感じず 仕事ができます。こうした品格のある VR製品を新開発して 高齢者の活力を引き出すために、上宮法皇の選抜された三経義疏を 国宝VRデジタル復元して活用しよう、というのが 私の考えです。 将来の社会保障のための 今の徴税は、ぜいたく税 で十分です。

 2070年代には 人口減少も ゆるやかで、人口 200人説は 笑い話になっています。

 さて、ここから、
 ◇『タルカバーシャー 』(「法称」の 認識論、論理学、弁証論の要約)
 の 長尾先生による解説世界の名著2「大乗仏典」p.62)に移るのですが、

 疲れていませんか?
 『シャイニング』の ジャック・トーランスは発狂して All work and no play makes Jack a dull boy. とタイプを打ち続けました。dull boy は「粗野な」「薄情な」「狂気の」男です。
 ここらで、一息入れましょう。

   《 鋳型化ここまで 》
   Fellow 武田 「国宝 (12) 上宮法皇の維摩経 つづき」(VR奥儀皆伝(8½)(68 ⅔))
   Blog TP-VR Attract.のトリビア 2023.04.xx
 

 ◇ ドミノ(ドミニク) は フランスの人名。日本名の博美 と同じで、男女どちらにも使えます。

 Lucienne DELYLE - Domino

ドミノ ドミノ / 春が私の中で歌っている / ドミニーク / あなたは私に欠かせない /
でも 私は あなたを許しすぎたの / あなたが くれた夜よりも 多くの夜を 私は失った /
あなたの腕の中の、私の場所を誰かが盗むかも知れない / たとえあなたを殺しても、
あなたを手放さない /
ああ、でも / ドミノ ドミノ /
あなたの浮気ごころを あなたは 変えられない / ドミノ ドミノ /
わたしは許すから いつでも帰って来て / ドミノ ドミノ・・・ / もう何も言わないから

 Domino, Domino, Et je ne te dirai plus rien. (最後の一行)

「わたしは許すから いつでも帰って来て」は 切ないです。 東洋の文芸との関係は、また改めて。

 ******

 それではここから、

『タルカバーシャー 』の長尾先生による解説(世界の名著2「大乗仏典」本文 p.62)
 抜粋します。「法称 ほっしょう(ダルマキールティ」による 認識論、論理学、弁証論の要約です。

 「『タルカバーシャー』(認識と論理)は、インド仏教の掉尾をかざる著述である。(略)七世紀以降のインド哲学は、法称を知らなくては理解できない といってよいほどである。(略)この系統の思想の全貌は、まだ明らかになってはいない。『タルカバーシャー』は、あまり大部の書ではないが、後期仏教思想を体系的に論述したものとして大きな価値を持っている。ここに収録した翻訳は、日本で最初であるのはいうまでもなく、現代語訳として世界最初のものである。」(p.62)

   【2023.05.10 追記】
龍樹(ナーガールジュナ)コトバンク
   150-250年頃の人。大乗仏教の大成者。竜宮に行ったという伝説がある。万物には不変の実体の
   ないこと(空 くう)を明らかにし,有と無の両端を排して中観を立て,大乗仏教の理論的開拓
   者となった。(「世界の名著2」論争の超越(廻諍論)の著者)
世親(ヴァスバンドゥ)コトバンク
   400-480年頃(または 320-400年頃)の中期仏教の大学者。『倶舎論』を書いた。
法称(ダルマキールティコトバンク
   7世紀中葉のインド仏教最大の知識論学僧。認識論、論理学入門書などで「ネタ本」にされているのでは?
【禅の参考資料】中村元禅の世界思想史的位置づけ(1975)太祖瑩山弾師六百五十回大遠忌奉讃<特輯> 禅研究所紀要 (4・5), p321-335, 1975-03 愛知学院大学 ジョブズ氏は Apple Ⅲ、Lisa(NEXT)での失敗を教訓に、永平寺(曹洞宗)が米国で開いた禅の道場に参加したとき ウォズニアック氏が最初に気付いた「ユーザが育てる市場」という発想を得度。これを再認識して、ユーザーが育てる iPhone市場を確立しました。



 『十七条憲法』第四条第五条の一部 中村元著『聖徳太子』 1990年 pp.230-231 )の紹介については、次号以降に移しました(2023.05.10)。中村氏の『聖徳太子』1990年は、大和王朝の聖徳太子の伝記として書かれていますが、中村氏の 太子思想の分析は痛快で見事です。また、米田良三氏が「オリジナル」の「九州王朝を舞台にした『源氏物語』光源氏の物語」があったと主張されており、「法隆寺移築説」と併せて読むと納得できます。この話題も次号以降に。

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