( 8½ )(26)VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2021-03-24 | バーチャルリアリティ解説
 Number26 / パーク VRアトラクションを実作します 〈後編 ②〉
                          【( 8½ )総目次
 「桃山再現VR」で 2050年を創る   VR之極意:③ 

 【『起雲閣』のVR化で 自分でも納得の展開を思いつき、後半を書き直しました。】( 2021.4.12)

 ( 8½ )(20)で、私たちは ウォルト・ディズニー・ワールド(WDW)EPCOT 1939年の NY万国博のTrylon  Perisphereの発展形だったことを確認しました。この施設は、「ディズニーが考えた 近未来のアメリカにおける進歩のシンボル」でした。「1966年に ウォルトが EPCOTの将来像を解説しているビデオ」を観た私は、その説明に「SDGs のために TWI2050が取り組んでいる研究姿勢・開発姿勢」に 大変 近いものを感じました。(横幹ニュースレター 62号Column を参照して下さい。)それで、例えばのサンプルとして、EPCOTの日本館に VRアトラクションの『飛雲閣』を 日本の「桃山文化」(国際交流文化)の代表として VRで再現する方法を、(24) (25)から説明しています。SDGsの 2050年を目標の一つに VRシステムを開発している研究者に「まだ誰も見たことのない VR作品」を開発する際のヒントにして頂くのが目的です。

 今回の(26)では、「ゲゼル型地域通貨」から発想(通常とは 逆発想)した マーケティングがどういうものか、という説明を含めて、VRの『飛雲閣』を、とりあえず 完成させてしまいましょう。

 (21) (22)の説明の中に書けば良かったのですが、例えば、SWI2050のための VRシステムを開発中の研究室が、その VR作品は(特定の)外国で開発者の意図の通りに使われるどうかに確信を持ちたいときには、試作段階で そのキャラクターなどを外国人の知っているものに変えてみるのが良いと思います。そして、公的な博物館、例えば(もし、できれば)ですが、東京国立博物館や 東京藝術大学大学美術館などで そのキャラクターに関連する展示が行なわれて、特に 外国人の観客が多数期待できるというときに、そのミュージアムショップに VR作品を設置して 説明なしに使って貰います。
 これは、私たちの造っているVR作品に、初音ミクちゃんと「握手する」とか Unityちゃんと「なになにする」といったように、何かのキャラクターを付けたほうが観客が没入しやすい作品が多いので、そうした場合の検証方法です。また、新しい VRシステムの機能を シナリオの形で諸外国に宣伝したいときには「使用方法」が理解できる双六(時間経過を表現できるボードゲーム)を作って、サイコロ付きで販売する。または、折り紙の意匠にデザインするなどして、美術館のミュージアムショップに英字解説つきで置くのも良いかも知れません。

 それで、とにかく VR『飛雲閣』の全体のシステム・デザインを  「どう まとめようか」と考えていたのですが、『スターツアーズ』(1987年)なら乗ったことがある、という読者も多いでしょう。また、『BODY WARS』(1989年)も それと同じシステムでした。ですから、ここでは この機構を、ほぼそのまま使わせて貰おうと思います。(スクリーンサイズは、没入感を高めるために変更します。)


 画像借用元:https://castel.jp/p/1965

 ここからバーチャル『起雲閣』の概要です

 プレショー(キューライン)については、前回に紹介しましたが、観客が舟で『飛雲閣』に近づく映像を 10インチ画面の iPadで観て頂くつもりです。それで、そこの床だけは、動く歩道になっています。 あるいは、1939年の『フューチュラマ』 のようなムービング・チェアで前へ進み、観客は 椅子に付けられたタブレットの映像を覗き込むような仕様でも良いかも知れません。


 画像借用元: https://www.hongwanji.kyoto/see/hiunkaku.html

 体感劇場の座席に座った観客が観ているスクリーンと 投影装置は、IMAX社製を使おうと思います。従来の体感劇場には無いハイブリッドの、最強の揺動アトラクション機構になると思います。(結果的に、ダグラス・トランブルさんがシネコンの映画館一つのリプレースとして1991年に提案した体感劇場の「大規模版」になりそうです。改めて 詳しく説明します。なお、トランブルさんがライドフィルム用に作った「体感劇場」のプラン映像を、ライドフィルム・ジャパンの沢木建治社長から宣伝用にお預かりしています。)
 観客は iPadを手に持っていた場合には、それと交換して 3D用の劇場メガネを受け取ります。iPad、そして 3Dのメガネには、観客がうっかり持ち帰らないようにセキュリティ・チップを付けておきます。IMAX 3D 体感劇場に着席すると、間もなく椅子が揺れ始め、観客は 自分が舟で『飛雲閣』の船着き場に近づいて行くのを感じます。なお、前回の(25)に説明しましたが、今回のアトラクションの設定として、こんなシナリオが用意されています。

   〇 近々に 老中を(内装豪華な)『飛雲閣』に お招きすることになった。
   〇 それで、今日は 若年寄が 当日の段取りの打ち合わせに来られた。
   〇 その打ち合わせに 観客の同席が、特別に 許されています。

 ということで、スクリーン上では10数名の観客が船着き場から石の階段を上って、ぞろぞろと1層目の室内に入ってきたところから物語が始まる、という設定にしてあります。 (前回の説明を、読み直して頂けると有難いです。)

 画面には、MCの(司会役の)お坊さま、若年寄、そして、
   10数名の観客の後頭部
が見えています。

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 室内や庭園についての、いろいろな説明が行なわれました。そして、

 若年寄が MCのお坊様に尋ねます。この『起雲閣』には、豊臣秀吉の建てた『聚楽第』の一部が移築されたという説と、後代の 良く似た楼閣を移築したという説がありますが、どちらでしょうか。
 お坊様が、それに答えようとしている時に、どろどろどろどろ と(このお囃子は 歌舞伎ですが) 華麗な能装束に身を包んだ 豊臣秀吉が、けむりの中から登場しました。

 スクリーンの映像の背景は 西本願寺の重要文化財の 南能舞台に変わり、画面上の観客も 実際の観客も、それを観客席から眺めています。地謡方が 秀吉の業績の主なものを観客に伝えるのと同時に、『聚楽第』に後陽成天皇が行幸されるという 秀吉にとっての とても誇らしく晴れがましい 一世一代の 場面の再現VTRが 挿入されます。
 謡の内容は よく聞きとれませんが、映画『アバター 3D』(2009年)のように 空中に 観客に合わせた 多言語の字幕が浮かびました。実は、日本語の活舌の多少 悪い俳優さんが出演している映画(黒沢作品とか)でも、海外の映画祭で入賞している理由は、字幕で映画を観ると活舌の悪さよりシナリオの完成度が際立つからです。字幕のメリットを活用して日本人観客用にも字幕を付けます。 能舞台の秀吉は、刀狩令によって平和な国土が誕生したのは自分のお陰なので感謝して欲しい と 観客に語り、舞台上で華麗に舞いました。

 そして、家康が 英国のエリザベス女王から 秘密裏に 購入した大砲が 大阪城「夏の陣」で使われて落城し、子孫や 家来たちが大勢 死んだことを 秀吉は嘆きます。その間に、観客のメガネを向けた方向が トリガーになって、シナリオが分岐しました。参考までに書いておきますと、世阿弥のあみだした「能」の新しいシナリオ・パターンは、旅の僧侶が「平家物語」などで有名な場所にさしかかると、誰かが立っていて、僧侶が「ここは武将の誰々さんが命を落としたところではありませんか」と尋ねると、「私がその誰々の亡霊です」と その人が答えます。そして、テレビドラマ『タイムレス』の過去の歴史の再現場面のように、舞踏で詳しく 亡霊が その時の情景を説明します。平家琵琶 = 人気シンガーソングライターの原作がある時には、歌詞が そのまま謡になって舞われます。最後は、その武将が「あなたは僧侶なので、私を ねんごろに弔って下さい」と頼んで、橋掛かりから退場します。聞けば、実際に かわいそうな話なので、お能の観客も感動します。 そして、「能」のシナリオと同じように 最後に VRの『飛雲閣』で 秀吉が MCのお坊様に 回向を乞うと けむりが立って、橋掛り(はしがかり)に その姿は消えました。お囃子の静まる中で、お坊様の唱える念仏が 観客を体感劇場に 連れ戻します。

 ※ 私は山形県で 黒川能を観せて頂く機会がありましたが、事前に筋書を覚えていたので、本当に感動しました。そもそも「能」では地謡(じうたい)の 8人コーラスの歌詞(謡)が素人には聞き取りにくいのです。能では 多少の予備知識と字幕があれば、退屈しないと思います。

 結果的には 観客は、この楼閣が どこからの移築だったかについては、能装束の秀吉に「はぐらかされた」ことになりますけれど、学問的に結論が出ていないので悪く思わないで下さい。ところで、私たちの造っているVR作品には 主人公のキャラクターがあることで没入しやすいものも多いのですから、秀吉さんとか 平家物語の亡霊に登場して頂くとプレショーの説明が短くて済みます。それで、主役が「平敦盛」だと事前に分かってさえいれば、観客も「ああ、一の谷で 首を切り落とした武将と 切り落とされた若者が、戦後に 出家した僧侶と亡霊として出会って 仲直りしている場面だな」と理解できますので、能の 雰囲気にひたることができるのです。(ですから『新・平家物語』とか 吉川『三国志』とか『源氏物語』を事前に読んでおけば、VR作品の作家が キャラクターを選ぶ時の持ち駒が増えることになります。日本人観客の一部や 外国人が そのキャラクターを全く知らなくても、字幕を読めば話の流れは分かりますし、観客の日本人の誰か 一人くらいは筋を知っていて「平家物語を読んだ人だったら、必ず覚えているキャラクターですよ」と周囲の人に説明してくれる筈だからです。)
 また、『飛雲閣』の 2階の『歌仙の間』では 三十六歌仙 を素材に ストーリーを作ることができますから、シテ(主役)の踊りの素材は、いくらでも広がります。これを フェロー武田の「VR構成要素図」でも確認しておきましょう。多くの観客の視線を向けた方向が、入力のトリガーになります。


 『バーチャルリアリティ学』コロナ社、2011年の 7.2.4.「エンタテインメント」を参照して下さい。
 ( 初版第一刷の VRの構成要素図の矢印に誤植がありますので、ご注意下さい。)

 それで、どこが「ゲゼル型地域通貨」なのか、という話に進みます。

 EPCOTに来場された数万人が『飛雲閣』のVRを体験して下さった、という状態を想定します。その中には 外国人観光客も多いので、EPCOTの日本館を訪れた彼らは、次の旅行先として日本を選ぶかも知れません。
 クラブ・ツーリスムなどの旅行会社と提携して、京都にバスツアーを準備します。先ず、宇治『平等院鳳凰堂』の拝観と『平等院ミュージアム鳳翔館の内装CG復元映像を巡って頂きます。昼食を はさんで、西本願寺で飛雲閣の外観拝見です。でも、国宝なので 内部は非公開。それで、京都の EPCOTスポンサー会社(25)参照)が 自社内に VR『飛雲閣』展示の小型版展示室を用意しておきます。サイズは小さいでしょうが 8Kテレビや HMDを占有して、観客一人一人の自由な操作で時間を掛けて EPCOTと同じアトラクションを観たり、『飛雲閣』の見学ができると良いですね。(二人同時使用の VRも歓迎されるでしょう。)

 翌日は、奈良東大寺大仏殿をバスで拝観した後に、奈良のスポンサー会社が社内の『大仏殿』VR復元展示室にご案内する予定です。そのあとで、京都と奈良のスポンサー企業は、自社が TWI2050 の趣旨に賛同して開発中のVR製品を、参加して下さっている外国人に説明します。ここで、もし逆に、従来のように「機械論的な企業協賛」が行なわれていた、という場合であれば、

 ① TWI2050の製品を開発・販売して 利益を出した会社が、
 ② その儲けの一部で EPCOTにアトラクションを寄贈する、従って、
 ③ 自社製品と EPCOTの来場客には関連が生じません。

 しかし、ここでは「ゲゼル型地域通貨」に似たマーケティング案ですから、

 ① EPCOTでの VR展示に関心を持った来場客の一部が、
 ② 日本での 個人仕様の VR展示を見学しに来られていますので、
 ③ 彼らに、TWI 2050仕様の 試作VR製品のモニターになって頂くことで、

 通常であれば、日本国内での推測だけに基づいて SDGs対応の VR製品の開発が行われ、それが次に 海外での実証テストを経て、現地海外での日常生活・風習の中での改良点が発見される、という流れになるところなのですが、

 ここでは外国人が自費で来日されて、VR製品に興味を持って、その自国での使用に関するモニターに ボランティアで なって下さっている、という状況ですので、京都や奈良の会社にとって 「EPCOTのスポンサー企業になった」というチャンスが、そのまま自社製品の試作段階での製品改良につながった、ことになります。そういった仕組み(化生論科学です)をどう作るか、と考えた時に、

 EOPCTでのバーチャル『飛雲閣』の展示を思いついた次第です。



 画像借用元:EPCOT 日本館 https://dpost.jp/2019/05/16/wp-48160/【日本館紹介ビデオ付き】/ 1982 EPCOT Center Opening Day Booklet 1982 EPCOT Center Opening Day Booklet - ID: novdisneyland17067 | Van Eaton Galleries (vegalleries.com) / https://slate.com/human-interest/2014/08/epcot-food-memories-of-eating-at-disney-worlds-international-showcase.html 

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 (17) (25)に続いて、九州王朝の話を もう少し書いておきます。1945年に日本は、第二次世界大戦の敗戦国になりました。それで、戦勝国であるアメリカの様々な制度を導入したのですけれど、これは「白村江の戦い」(663年)の顛末に良く似ていました。昭和天皇も、敗戦の翌年 1946年8月に「朝鮮半島に於ける敗戦の後に、国内体制を整備する為、天智天皇は大化の改新を断行され、その際思い切った唐制の採用があった。これを範として(前例として)今後大いに努力してもらいたし」と お話になり(出典Wiki)、再び敗戦国の国民になった日本人を励ましておられます。つまり、皇室で ご進講されていた日本史では、「白村江の敗戦を契機に 日本で唐風が採用された」と講じられたご様子です。
 何が言いたいのかと言うと、752年の日本人が着ていた唐風ファッションは、白村江の敗戦というインパクトから復興する際に(大和朝廷自体は 敗戦していないのですが)日本文化に接ぎ木された色調でした。この色調は、時間の経過で「国風」に変化します。

 それで、こうした九州王朝の 余り知られていない話を、ここで皆さんにお話ししている理由は、次回に 哲学者の上山春平さんの、日本には600年毎と20年毎の「開 → 閉 → 開 → 閉」の大小の波があって、外国文化の意匠を有難くそのまま受け容れる時期と「閉じて」そこから国風文化を醸す時期が交代しているという日本文化の性質をご紹介しようと考えているからです。
 その過程として、例えば、私たち自身が 海外の知り合いに「おみやげ」として何かを持参しようとするときに、東京国立博物館のミュージアムショップの 派手なミニ「金屏風」と 横山大観の水墨画の A4クリアファイルの間で悩むという事態が起こります。

 そもそも、私たち日本人が、TWI2050のためのVR製品を開発して世界に貢献するという場面では、海外にどんな「おみやげ」を届けることになるのでしょう。結論を少しだけ前倒ししておくと、荒削りのキンキラの安土桃山文化も、時間の経過で 比較的洗練された元禄期の尾形光琳などのようなデザインに変化したことを私たちは知っています。752年の「大仏開眼」のセレモニーにおける唐風の原色衣装も、時間の経過によって、豪華で繊細な能装束の色調、つまり「唐風→能装束」という色調に国風化されました。

 ですから、TWI2050を納品する際に「唐風」の衣装を着て出かける日本人はいないのですから、戦前の和装のような、豪華さと繊細さが「能衣装」に通じるような色調の訪問着を着て納品に出向きませんか、というのが私の提案です。詳しくは、次回に続けます。

 ※ 「海のシルクロードを経由して 鉄砲・宣教師(海外情報)が入ってきたから、安土桃山文化が誕生した ⁉」を次回に述べます。日本人の美意識のアイデンティティは、どこにあったのか、が大きなテーマです。


 2020年の NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では 尾野真千子さんが阿国を少し想像させる旅芸人の座長を好演しました。

VR奥儀皆伝( 8½ )(25)パーク・アトラクションを造ります 「VRの桃山再現CGで 2050年を」 VR之極意:③ 〈後編 ①〉こちら

( 8½ )(9)「暫定総目次

VR奥儀皆伝( 8½ )(30)に続きます → こちら

( 8½ )(27)は こちら → こちら

( 8½ )(25)VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2021-03-12 | バーチャルリアリティ解説
 Number25 / パーク VRアトラクションを実作します 〈後編 ①〉
                          【( 8½ )総目次
 「桃山再現VR」で 2050年を創る VR之極意:③

 【私たちが 今いる場所を、確認しておきましょう】
 (23) (24で、私たちは テーマパークの体感劇場(『BODY WARS』『BTFR』)を見学しました。同時に、開発者が観客と共有した「一体感」について考察して EPCOTや TWI2050の開発で 注意すべきことが「何なのか」に 気づくための準備を済ませました。現時点の私たちは、例えば「VRシアター製作コース」を勉強中の 学生・社会人学生が、どういうVR技法で観客を驚かせようかと計画を練っている所だ、と思ってみて下さい。そういえば、次回作のアシスタントを探しているロジャー・コーマン監督に良く似た方が、学生課に来て、壁に何か貼って帰りました。
 【私たちは どこに向かっているのか】
 その紙には「優秀な学生アルバイト募集」と書いてあります。次回作として、EPCOT2032に向けて『飛雲閣』の VR体感アトラクションを開発するようです。採用されたらラッキーです。もしコーマン監督だったら、昔のキャメロン監督、昔のスピルバーグ監督などの学生アルバイトに続くことが できるかも知れません。
 【しかし、私たちは どこから来たのでしょうか】
 ただ、立ち止まって考えると、EPCOTで「世界の中の日本」を象徴する日本館に展示する作品が、いきなり派手仕立ての桃山文化で良いでしょうか。「陰翳礼讃」という言葉などから考えると、千利休の茶室とか バーチャル芭蕉の旅行に同行して 五月雨の「最上川」などを公開した方が もっと和風文化っぽく見えませんか。桃山文化の展示は、私たちの感性を育てた日本文化について 外国人を誤解させないでしょうか。

 しかし、・・・ その「日本文化」には、多様さを認める大きな幅があったのです。


 画像借用元: NHK大阪放送局ドラマ『大仏開眼』(初回放送2010年)で時代考証された752年の奈良の装束。奈良新聞 撮影風景紹介記事 https://www.nara-np.co.jp/news/20091125111312.html 【参考動画】【大仏の開眼式】(NHK) 
 東大寺大仏開眼1250年慶讃大法要(2002年)https://www.sachio-yoshioka.com/blog/2002/10/d20/

 画像借用元:宇治平等院鳳凰堂(1053年)堂内彩色のCG復元 https://www.byodoin.or.jp/learn/picture/
 朝日新聞デジタル 2012年4月19日 「きらめく平等院鳳凰堂、今に デジタル技術で内部再現」
http://www.asahi.com/travel/aviation/OSK201204180236.html

 画像借用元:鹿苑寺(金閣寺)1397年 https://skyticket.jp/guide/341873
 西本願寺『飛雲閣』二層目歌仙の間(伝16世紀)https://www.hongwanji.kyoto/see/hiunkaku.html

 画像借用元:日光東照宮(三代徳川家光の寛永の大造替(だいぞうたい)1634年)で整備された陽明門 https://www.touken-world.jp/tips/44043/ 
 パリ万国博で大人気の陶磁器 横山美術館 https://www.yokoyama-art-museum.or.jp/about/ 

 上から「752年大仏開眼」「1053年平等院鳳凰堂」「1397年金閣寺」「伝16世紀飛雲閣」「1634年日光東照宮陽明門」の復元と、19世紀欧州の日本ブームで大人気だった陶磁器です。
どれも 仏教文化などを経由した 日本美術の至宝です。

 ※ 写真で観るより、現地や展覧会などで 実物の精巧な細工を見たほうが より納得できます。

 古寺の創建時には、大工の棟梁も仏師も 別段、陰翳を礼賛していた訳では ありませんでした。例えば、世界遺産の 白鷺城も、平成の大修理前は 時を経て落ち付いた陰りがありましたが、大修理で しっくいを 昔と同じに塗り直したところ「白すぎ城」だと地元 姫路の人からも呼ばれました。しかし、そちらが元の姿です。鎌倉大仏の創建当初の派手派手しい金箔塗も、仏の教えが広大で無辺に輝いている、という仏教的な表現でした。東大 池内研究室/キャドセンター

 谷崎潤一郎の『陰翳礼讃(1933年、昭和8年=谷崎47歳、『春琴抄』を書いた直後)には、大変 重要な指摘が書かれていました。昔の世界は、室内が せいぜい蝋燭の明かりで薄暗かったので、床の間に置かれた金屏風が 適度な明かりで綺麗に映えた、というのです。その通りだと思います。日光の陽明門も、曇りの日や 雨の「陰翳の中でこそ」美しく輝いて見えたのです。大谷崎は、厠を模範にして家を建てろ、などとは言いません。否定したのは、白色ランプの大燭光で、金ぴかの財宝を見せびらかした 大正バブルの東京の成金趣味でした。白色の大燭光を否定して、彼は陰翳を礼賛しました。
 谷崎は王朝物語の『源氏物語』現代語訳がベストセラーになると、関西に家を買いました。関西の ほうが 住み心地が良かったのかも知れません。例えば、一般の会社の重役にも、美術館の顧問になれるほどの美術品の目利きが おりました。関東大震災から避難した谷崎の、最初に落ち付いた所が「芦屋川駅」近くの その重役のお宅です。(すぐそばに『細雪』の碑があります。)また、関西の格式あるお家では、お習字(古典の臨書)を蓮月尼の使った机で練習している奥様もいました。大正モダニズムの旗手として有名で、映画製作にも手を染め、シモーヌ・シニョレが大好きな谷崎が「陰翳」と言っても、厠の植え込みばかり珍重している筈がありません。そして、千利休の 2畳の茶席も、簡素ではありましたが「質素の陰翳」では決してありません。一輪だけ残された朝顔は、近隣の朝顔すべてを人海戦術で摘み取らせた結果の一輪です。手間のものすごく掛かったミニマリズム。そこまでして秀吉の黄金の茶室(帝国軍のデス・スター)を徹底して否定したことで、利休の 2畳の茶席の美学は「スターウォーズの反乱軍拠点」になったのです。このように、大谷崎は「贅沢仕立て」の 陰翳を礼賛していました。


 シモーヌ・シニョレ 【画像借用元

 ですから、CGを勉強されている皆さんは、既成概念にとらわれず、いろいろなアプローチを勉強されては どうでしょう。金ぴか ばかり狙う必要は、もうとうありませんが、海外にアピールできる VR作品の表現技法に話を限った場合、粗削りな「安土桃山文化」は その出発点として ちょうど良いように 私には思えます。それは、織田信長が「黄金の国、ジパング」というキーワードを当時の日本を西欧に宣伝するイメージとして選んだことから始まったようなのですけれど、その解説を次回以降に予定しています。しかし創建当初の『飛雲閣』を VRで再現して「それで完了」と 終わるのでなく、ほの明かりの室内や 年月を経た室内を VRで同時に見て頂いて、鑑賞者に 荒削りの 美意識が 時間と共に 落ち着いた「和風の たたずまい」に 変化して行くことの「移り変わりについてのヒント」を差し上げるのも重要ではないでしょうか。

 それで、以下は《 本Blog の独自 》です。

 シルビオ・ゲゼルという18世紀のドイツ人経済学者は、スタンプ貨幣(老化する通貨)を発明して、通貨の退蔵を防ぎ、流通を促進させ、貸出金利を下げる政策を提唱しました。期限までに使用できなかった通貨は、金利を払ってスタンプを押して貰わなければ 使えません。それで、通貨は先を争って循環しました。(次回に、もう少し説明します。)


 【参考図書 河邑厚徳著『エンデの遺言』】https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000804962000.html

 この「ゲゼル型地域通貨」から発想(通常とは 逆発想)した マーケティング案を、以下に記します。もし仮に、TWI2050のために開発した VR製品が「大歓迎」されて、大儲けした企業が日本にあった、とします。すると、その会社は、その利益の一部を公益のために社会還元することでしょう。
 例えば、次の万国博に資金を提供して どこかのパビリオンのスポンサーになり、「私の会社は、この製作費を負担しました」と宣伝する訳です。しかし、万国博は期間限定です。いずれ、どこかに移築するのであれば、いっそ EPCOTの日本館にアトラクションを作って、そこで公開することを最初から計画してみませんか?

 それで、京都と奈良の企業が共同出資で、例えば『飛雲閣』の内装復元VRアトラクションを EPCOT日本館に寄贈してみては どうでしょう。私には、トッパンVRからの何の見返りもありませんが、実製作は 専門会社に請け負って貰うことも検討してみましょう。この会社は、これまでに「東京国立博物館」でのVR展示を何度も成功させています。世界の観客に 一流のVR技術による『飛雲閣』を観て頂くので、一流の会社に発注するのです。
 (VRに実績のある会社が伸びることで、IVRC卒業生の活躍場所の広がりも期待できます。)

 ※【参考資料】「トッパンVR・デジタルアーカイブ」http://www.toppan-vr.jp/bunka/

 ただし、米国人への見せ方は 米国人に任せろ、という EPCOTからの意見も出るかも知れません。ロジャー・コーマン監督は、映画『日本沈没』(1973年)の米国配給を任されたとき、編集し直して アメリカ人が日本人を助ける映画にしました。日本人には無い発想です。コーマン監督は、予算と納期を重視して「これまでに撮った映画で 10セントも損をしなかった」と仰っていますが、もしも『飛雲閣』の開発に乗り出して来られた場合には 手ごわいライバルになるでしょう。平気で 外国人に大人気の「忍者」を出してくると思います。ともあれ、私の開発案を書いておきます。

【参考資料】LITTLE SHOP OF HORRORS(1960)TRAILER(人工着色。元は白黒)ロジャー・コーマン監督最高傑作

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 さて、このアトラクションのポイントは、『飛雲閣』に 客人が到着して、石の階段を上って、舟入りの間に 観客の頭が出たところです。( 8½ )(24)を参照して下さい。
 薄暗い階段 明るい大広間、の びっくりしたなぁ 感については、観客がよそ見をしないよう BGMで視線を誘導して、感激して貰いましょう。それから、一番奥に見える「中段」(7畳半の 框(かまち)でせりあがった場所)は、おそらく VIPが案内された場所ではないでしょうか。
 ( NHK 2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、正親町天皇(おおぎまちてんのう)が 御簾(みす、すだれ)の奥に立って 勅(ちょく)を述べておられました。)
 VIPの方に、こちらをお勧めすることも、話の筋に含めましょう。


 画像借用元:https://www.hongwanji.kyoto/see/hiunkaku.html

 以下は、例えば の設定ですが、

   〇 近々に 老中を『飛雲閣』にお招きすることになりました。
   〇 それで、今日は 若年寄が 当日の段取りの打ち合わせに来られます。
   〇 その打ち合わせに 観客の同席が許された、という設定で どうでしょう。

 客人の舟が『飛雲閣』に到着するところについては、キューラインで 観客に iPadを渡して 10インチの画面で眺めて貰うのが良いかも知れません。没入感の高い VRの画面で 楼閣の外観を観て貰っても「実際に京都で 楼閣を拝観する」のと同等の印象しか与えないからです。それこそ ネットの写真で観られますので、大画面のシアターでは 楼閣内部の感動に集中しましょう。ところで、iPadを観ながらの通路の前進では 危ないので、そこだけ 動く歩道にしておきます。

 また、欧米人は 人前で靴を脱ぎませんから(映画でも「このあとのシーンは風紀上 割愛します」の隠喩ですから)スクリーン上の客人が履物を脱ぐこと自体に、外国人は興味を持つと思います。

 それから座敷では、「ご老中がお越しになったら、あちらにお座り頂きます」などの説明によって、観客と若年寄が 当日の段取りを説明される事になります。お茶を少しご存じでしたら、「茶道の お・も・て・な・し の基本の流れは決まっているので、事前に若年寄への説明があるなんて変だ」と思われるかもしれませんが、映画版『ダウントン・アビー』(2019年)では 英国王ジョージ5世が 1920年代に グランサム伯爵夫妻の邸宅に宿泊される様子が細かく描かれ、観客には事前準備での 召使たちへの 説明が大変に良い勉強になりました。こういうのと同じ歴史映画の手法です。
 そして、安土桃山時代に「金屏風」や「美しく整備された 庭園」「茶室」による おもてなし(アトラクション)が登場したこと。戦における鉄砲の使用、お城に立派な石垣天守閣が備わるようになったこと。同時に、世界で最も鉄砲の数が多かった日本で、豊臣秀吉の刀狩令 などを通じて 鉄砲を含む武器の総数を急速に国内から減らして行ったこと。信長が好んだエンタメの「茶道」「幸若舞」「源氏物語屏風」などが(「幸若舞」を自分で踊るよりは「阿国歌舞伎」の鑑賞、「茶道」だけでなく芸事全般の流行などとして)次世代の江戸文化の基層となって行くことなどが、会話の中で説明されます。

 なお、外国人に茶道を説明することになった方は、次の映画を観ておくと良いと思います。
 【参考資料】映画『日日是好日』(にちにちこれこうじつ)https://eiga.com/movie/88063/
 じゃらんニュース 茶道とは?初心者向けの基礎知識をご紹介!体験教室に必要な持ち物やお茶のお点前など https://www.jalan.net/news/article/500132/ 


 画像借用元:https://www.youtube.com/watch?v=J3uAQccDUO0

 そして、暗視カメラで 上映中の観客の視線の方向や 画面への関心度を判断し、ふすま絵などに 観客が どのくらい興味を持つか、外の庭園に関心がありそうか、などを シナリオに添ってチェックして 話の展開の参考にします。
 暗い観客席で 短い時間 靴を脱いで正座して貰い、観客に お茶の所作を真似して頂くというやり方も、日本なら ありなのですが、私が 半年通った英国の大学では 講師の工学系の先生が(靴を脱ぐ機会が無いので)慌てたので 穴あきの靴下を履いてきました」と仰った実例もありました。この方 お一人だけの特異な事例ですが、こういうことも無いとは言えないので覚えておきましょう。

 IVRCの作品も、海外展示は できれば靴のままが望ましいのかも。

 ※ 逆に売店で1ドルで靴下や地下足袋を販売し、オプションで 非日常の体験をする演出もあります。

 若年寄が お茶をふるまわれ ここを辞する時は、『飛雲閣』が夜陰に浮かびます。ということで、季節は秋です。四季が無く、主に夏、主に冬だけという外国も多いので、EPCOTでの VR展示には 考えることが山ほどあると思います。

 【次回に続きます】

 ※ 今回は「ゲゼル型地域通貨」的なマーケティングをメインに書きたかったのですが、『陰翳礼讃』などに言及して 長くなりました。やむを得ず、後編を ① ② ③ に分割させて頂きます。
 (2021.03.12)

《 752年の「大仏開眼」》
 752年の奈良の「大仏開眼」は、8世紀の冒頭から「日本」を国号として使い始めていた この国の、国際政治における 一大セレモニーとなりました。日本は 戦争をしない 平和国家(仏教国)だ、と国内外 (特に軍事大国の「唐」) に対して宣言をしたのです。
 後で また説明しますが、この大セレモニーの行なわれた理由は、九州王朝を 大宰府そばの「横田基地」から 20年間 見張っていた「唐」の進駐軍に、大和にいた中臣鎌足が 自分の妹を人質に出して 唐に帰って貰ったこと。そして、唐との約束通り、九州王朝が西暦700年(太陰暦)いっぱいで ソヴィエト連邦の解散の時と同じように「解散」して全国から税金を集めなくなったこと。そして、701年から大和朝廷が代わって集め始めた 全国の税金を、軍事増強ではなく 仏像建立や 正倉院御物の購入などの平和目的に 使い始めていた大和朝廷(その「日本」の国号使用は 702年から?)が、インドから わざわざ高僧を招いて、特に「唐」に見せるための一大イベントとして「大仏開眼」をする必要があったから、というのが私の考えです。
 かつて 九州王朝(倭国)の大君は、西暦57年に「漢」の国から冊封(さくほう)を受けて金印を貰ったのを起点に 中国に朝貢して、「梁」の時代まで 「漢」「魏」「南朝」との国交がありました。そうした歴史ある(冊封を受けた、この地域の正式な支配者だと中国に認定された)国家の首長でしたから、「南朝」より格下だと倭国が見做していた「隋」(北朝系)の天子が高句麗攻撃の前に 九州王朝の態度を打診してきたときには、「日出処(東)の天子が、日の没する処(西)の天子に挨拶するよ。元気かね」という手紙を書いて、煬帝を むっとさせました。隋を、九州王朝と対等の立場の国である と考えていたからでした。その隋が高句麗攻撃で疲弊して、内乱で自壊した後に建国されたのが「唐」でした。
 663年の「白村江の戦い」では、九州王朝の大君は百済の亡命政府に味方して、更に 唐・新羅連合軍に敵対する行動をとりました。しかし、その少し前に 唐の高宗は この国の親新羅派に命じて、新羅と連合して百済を討伐する軍隊を出兵するように要請してきたのです。そして、その結果は、・・・。

 「白村江」の戦いで、もしも 分家の「大和地方の首長」から派遣された 600艘(助っ人)が、九州王朝の 400艘(中核軍)と一緒に戦っていたという場合には、相手は唐から派兵された わずか 170艘でしたから、九州王朝の大勝利に間違い なかったことでしょう。しかし、それは、この国が強大な唐という国を敵にまわす、長くつらい戦いの出発点になった筈でした。九州での本土決戦は悲惨なものになったでしょう。それで、この後に大和朝廷と呼ばれる地方の首長は 600に 積極的な戦闘参加命令を与えず、初戦の小競り合いの後は遠巻きにして 勝負がどちらに転ぶかの推移を見守らせていたようです。( 九州王朝側が優勢だった場合には、どうしていたでしょう。大義名分からは、九州王朝を加勢したはずですが。)

 その戦いの結果は、以前に(17)にも書きました。九州王朝の 400艘は大炎上。大君の 薩夜麻さんは、8年間も 唐軍の捕虜に されました。九州の大宰府には 唐の進駐軍がやって来て、長きに亙って駐留します。その結果、倭国の対外政策の窓口は(分家の)大和朝廷が担当することになり、(おそらく)藤原不比等が中心になって、日本歴史の大きな書き直しが行なわれました。『日本書紀』は、おそらく 唐から「見せろ」と言われた時のための、一冊だけ作った「公式(日本人には原則非公開)の日本の歴史書」だったと思います。歴史を改定した大きな目的は、「新生日本 は、かつて中国から冊封を受けたこと(や、将軍号などの 公的な役職を貰った)なんて一度もありません」(それは、それなりに事実でした)と唐に対して主張することです。実際に、大和朝廷は『日本書紀』に そう書かれている通りの「分家」の王族です。その先祖をいくらたどっても、中国の王朝から冊封を受けた大君の名前は『書紀』の中には 出て来ません。出てきては困る、のです。同時に(おそらく不比等が)旧記九州王朝の歴史書を国内から全部廃棄させました。そこには逆に、中国から金印を受けた時の朝貢の内容や、どのようなセレモニーだったとかが詳細に載っていたからです。第2次世界大戦後に歴史の教科書に墨を塗ったのと同じことでした。そして、まずいことに「白村江の戦い」の後で 唐と新羅が仲たがいしましたから、親百済とか親新羅の貴族が山のようにいた日本国(大和朝廷)の内部では「唐に対して 親善外交する」(敗戦国なので)という立場を固めている以上、九州王朝の歴史書は「絶対に(唐には)見られてはいけない危険な歴史書」になったのです。九州王朝復活の 不穏な動きがあれば、進駐軍が 今度は大和王朝に派遣されたことでしょう。
 ※ 『万葉集』の詠み人知らずの歌も「君が代」を含め、ほとんど九州王朝の匿名の作者のようです。

 ※ 日本政府の対唐重視政策は、唐滅亡の年(907年)あるいは、影響が無くなった年(979年)までは続いたと想像され、九州王朝の歴史書はこの期間に見つかり次第、廃棄されました。中国では、その後、日本は魏から冊封を受けた国(の後継)だという歴史書が書かれるようになりましたが、日本の水戸光圀さんの歴史書などが『日本書紀』を典拠に「神武天皇即位紀元2600年」(正しくは、対中国の窓口として 701年から正式に名乗りを上げた王朝で その起源は あいまいですが、それでも1300年以上の歴史があるギネスブック級の皇室です)と教えてしまったことから、21世紀まで錯覚が続きました。
 一方、民間では 九州王朝の年号などについて、江戸時代から研究されていたそうです。
 そして、「白村江」の敗戦の後に 遣唐使が 大量に 日本から唐に派遣されて、我が国は「唐風文化」を 積極的に吸収しました。上に述べた通り、政府の予算も戦争準備の水軍ではなく、かつて 九州王朝の 日出処の天子が 目指していた「仏教中心の平和国家」に日本を転身させます、とばかりに 世界にアピールできる 奈良の大仏を建立しました。同時に、今後 二度と「白村江」のような戦争に巻き込まれることがないよう、東大寺を「国家鎮護」の祈りをささげる お寺としたのです。
 ある意味、その平和日本への転身の象徴が、カラフルな唐風のファッションでした。


 画像借用元:https://www.sachio-yoshioka.com/blog/2002/10/d20/

 【参考資料】「日本は中国からの冊封を一度も受けたことが無い」と使者が唐に伝えた、という日中交流史上の重要な契機の解説については http://kaichosha-f.co.jp/books/history-and-folk/4546.html、それから「白村江」での 600艘の様子見については 中小路駿逸著「白江戦と日本文学史」(追手門学院大学紀要、1991年)が参考資料です。

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