( 8½ )(55½ )① VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2022-06-23 | バーチャルリアリティ解説
「白江戦と日本文学史」第一回(中小路駿逸 論文 pp.384-377
                          【( 8½ )総目次
ということで、中小路先生の論文を載せることにしました。

 ※ 7世紀以前に 中国と外交していた 倭国は「博多」の九州王朝です。【(55½ )①②③ は、先に(53)(55)をご覧下さい。】その九州王朝は 白村江の戦いの結果、大和朝廷(そのときまで 中国からは 倭国の別種と認識されていました)から「なかったこと」にされました。

全三回(①  ② 

 【要旨】 663年の「白村江の戦い」は「倭国・百済遺民 連合軍」と「唐・新羅連合軍」との戦いで、倭国が大敗したとされています。ところで『三国志記』などによれば、倭国Aと倭国Bの船は 合わせて 約千艘。唐の船は170艘。戦闘は2回、ないし4回行なわれて、倭国A(中軍)の約400艘が燃えてしまった そうです。。。。。ん?それなら、倭国B の約600艘は、なぜ ほぼ無傷で「王に報告するため帰って宜しい」と唐軍に捕縛もされず帰れたのでしょう。倭国Bは 新羅と通じていた、と 中小路氏が見破りました。








上記掲載論文:中小路駿逸「白江戦と日本文学史」
追手門学院大学文学部紀要 25号(1991年)pp.384-369
(書籍非掲載論文)「訂正並びに補足」付 →   ③ に続きます。

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 上の掲載論文も、大変に重要な画期的な論文です。が、中小路駿逸氏の最も注目された論文は「大和(日本)王権の対唐政策 ー 「一元通念」の源流と文学史 ―」でした。こちらの論文では、7世紀以前から日本の王権は 唯一大和にしかなかった、と多くの古代史家が論じてきたのは 事実に基づかない「通念」思い込みである と論証されました。中小路氏は「一元通念」が事実に反し、そのように「日本史」が誤読された 原因を『続日本紀』『日本書紀』を証拠にして 見事に論証されました。実にスリリングな内容です。遺稿集『九州王権と大和王権』p.161~に掲載されています。

 

 ところで「一元通念」については、その考えを最も喜んだのが博多の中心地を開発した業者でした。専門家が大和の出土品について「卑弥呼の時代だ」と一言いったら、雑誌やメディアは「邪馬台国は やっぱり大和でした」と狂ったかのように報じました。「重要な遺跡は 博多から出る筈がない」とされ、調査しようとする教育委員会が困ったようです。

 しかし、2022年に中村通敏氏が、魏志倭人伝の奴国は室見平野にあって 佐賀県の狗奴国と敵対していた、とする説を「魏志倭人伝」の本文 を証拠に新たに指摘されました。このことから、現在の バス停「博多ふ頭」JR「博多駅」「太宰府天満宮」を結ぶ直線が 奴国ではなく「邪馬壹國」の中心線だったことが明らかになりました。(だから、例えば、須玖岡本遺跡も奴国の、ではなく邪馬壹國の遺跡だったことになります。)結論として、中小路氏の考える「大和朝廷の本流」のあった場所は、白村江の戦いに敗北したことで 海上の大勢の焼け焦げた遺体が誰にも弔われずに むなしく朽ちた水軍の出航地である「九州」にあった、ことが論証されたのです。

 博多の開発事業で、白村江に出征した夫を むなしく待ち続けていた家族の生活の痕跡も 埋められたかも知れません。

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