( 8½ )(19)VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2020-12-22 | バーチャルリアリティ解説
 Number19  / 本家テーマパーク(DL)の設計思想 DLの地獄 (VR之極意 ①-1-3)
                          【( 8½ )総目次
 テーマパーク構築技法の序論を (11)~(16)に書いておきました。そして、
 (18)には、VR之極意 ① 「ディズニーランドが10倍楽しくなる」のうち ①-1 本家 テーマパーク( DL、1955年)の設計思想の ①-1-1 と ①-1-2について書きました。カリフォルニアにある DLの、①-1-1『1939年のNY万国博 フューチュラマ』と ①-1-2『ヴィーナスの洞窟』について考察しました。
 ちなみに、DLのオープニング当初のアトラクションは、次の通りでした。


 □ Opening Day Attractions (July 17, 1955)

 Autopia
 Disneyland Band
 Disneyland Railroad Main Street Station
 Disneyland Railroad New Orleans Square Station
 Jungle Cruise
 King Arthur Carrousel
 Mad Tea Party
 Main Entrance
 Main Street Cinema
 Mark Twain Riverboat
 Mr. Toad's Wild Ride
 Peter Pan's Flight
 
Snow White's Scary Adventures
 Storybook Land Canal Boats


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 フロリダのディズニー・ワールドにあるエプコット・センターに典型的に見られるような美しい「未来社会」の構築を、各国の政府が 2050年を目標に試み始めています。ところで、私は「追いつき追い抜け」の行政指導型開発、つまり、海外の新規 AIシステムなどの華々しい事例を 誰か(例えば、行政のアドバイザー)が いち早く見つけて、その成功を目標に「追いつき追い抜け」の行政指導によって 特許に抵触しない製造方法を工夫して 2050年に製品化するという行政の目標設定の方法を「1960年代高度成長期の機械論」と名付けて、(80年代に通産省の研究会で成功しなかった事例を多く見てきた経験から)「そんなやり方では画期的なVR製品は、この国から生まれない」と批判しています。

 それは、機械論というアプローチが、既存の試作品のモデルがあって初めて着手できる(オリジナリティに欠ける)方法論だからです。改善方法を見つける F・ベーコン型の「学習」と、新規のシステム開発(化生論、ジョン・ディー博士の方法論)は 担当者を分けるべきだと私は考えています。
 1955年の Disneylandは、化生論で建てられて成功しました。
 ただし、機械論は、機器の維持・安全管理には必須です。そのための要員は、けちってはいけません。
 ですから、エプコットのように そこに住む住民全てが満足できる「未来社会」を各国政府が 2050年を目標に造るのであれば、エプコットが どのような「開発手法」で造られたのかを推測して、ウォルトと同じように造れば 余分な手間が省ける、というのが 本『謎解き』の方法論です。

 ※ また、国民性の違いというのも大きいので、他国で商品化されたシステムが そのままで日本人に歓迎される可能性も、ケースバイケースです。これはまた、別に論じます。

 前回の 第十八回には、ディズニーランド(DL)の作り方 (①-1)のうち、①-1-1『1939年のNY万国博』と ①-1-2『ヴィーナスの洞窟』を考察しました。ウォルト自身が、しあわせウサギの「オズワルド効果」第16回の ふしあわせな結末にこりたので、テーマパークの最も貴重な開発ノウハウを(インタビューなどでも)隠していたことが障害になっていますけれど、(ですから、各国のテーマパーク開発者も政府もウォルトの方法を真似ることができなかったのですが)彼の開発技法についての推測を今回も続けます。

 ※ Epcot Centerのウォルトや来場客にとっての意義も、現時点のディズニー社の経営層に余り理解されていないようです。

 ところで、今回は「19」回という凶数なので、テーマパーク序論「① 入場口・地獄・天国」のうちの 地獄を特集 することにしました。(極意 ①-1-3)
 映画美術に興味を感じる人は、バロック美術の地獄の「照明技法」から勉強を始めると良いかも知れません。


 この絵は ルーベンスの『最後の審判』(1615-18年)ですが、画面の照明設計が抜群だと思いませんか。上半分の透明感のある天国と比較して絵の右下の地獄の使者の姿は 暗く、じめじめ~とした嫌な感じです。もしこれが、映画の撮影現場の映像でしたら、照明器具をフレームの外のどこに置いて どちらを照らせば こういう絵柄になるか、と想像して下さい。また、これだけの人数をワンフレームに納めて写そうとすると普通はレンズの収差でボケますから、収差の少ない高級レンズを使い、また 近くに身体の大きな人、遠くには小さな人を立たせるなどして遠近感を稼ぐことになります。

 ところで、バロック美術に「闇」を持ち込んだのは、画家のカラヴァッジョでした。映画『カラヴァッジョ 天才画家の光と影』(2007年)を観ると、彼の破天荒な生涯から生まれた作品が どれだけ映画美術に貢献しているかが良く分かります。映画の予告編を「撮影時の照明のポジション」を意識しながら観て下さい。

 画像借用元:https://bijutsufan.com/baroque/pic-caravaggio/malta_baptist/

 ちなみに、テーマパークのアトラクションに「闇」の効果を持ち込んだのはウォルトでした。『白雪姫と七人のこびと』(1955年)の重要性(これがウォルト流の「地獄」表現だったこと)については、この後で論じます。

 煉獄や地獄の闇があることで、天国の崇高さが より高まるのです。

 地獄に対比される天国については、バロックのベルニーニの建築が多用した遠近法が映画美術に影響を与えました。1955年のDLでは、Main Street USAについて、2階より上の建物の大きさを だんだん小さくすることで遠近感を稼ぎました。1階も少し小さめですが、2階は 5分の3くらいの大きさです。
 東京ディズニーランドの「お城」も、ワールドバザールを出てお城までは 2町ほどなのに、途中の地面をえぐってあるので 遠くに見えることに気がつきます。日本のお城が、お堀があるので天守閣が遠くに見えるのと同じ理屈です。


 そして、ローマのサン・ピエトロ広場では、信徒の入口が一箇所に誘導されて、信徒は受難の道を通って広場に入ると天使たちの歓迎を受けるのです。訪れた信徒の目からは遠近法で造られた大聖堂が より天国的に崇高に見えました。
 バロック美術の遠近技法を活用すれば、VR作品で広大な地獄も天国も 自由に空間として描けることを覚えておいて下さい。例えば、観客の身体の一部が機械に置き換えられて「体感映画の一部に観客が参加している」という没入感を観客が感じている時には、背景のCG映像に(気にならない程度の)「自然らしさと重厚感」が求められます。

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 本家 テーマ―パークの設計思想
 『白雪姫と七人のこびと』 VR之極意 ①-1-3

 黒澤明の『天国と地獄』(1963年)には、犯人が高濃度の麻薬を横浜、伊勢佐木町の酒場で入手しようとする場面が出てきます。(リバイバル公開1977年の予告編) 今だったら どんな時代の背景でもCGで造れますが、この映画における煉獄・地獄に相当する伊勢佐木町の酒場や黄金町私娼窟の町並みは、実物をモデルにして東宝スタジオに実物大で建てたものだそうです。刑事たちが伊勢佐木町に張り込む有名な場面も、銀座のセットを造り直して伊勢佐木町の路上に変えたものだとか。多数のエキストラと俳優たちの真に迫った演技が、真冬のセットの撮影を酷暑の横浜の路上に変えました。予告編の画面を、照明の当て方を意識して観て下さい。
 この映画では、スラムである港町を見下ろす丘の上の天国の権藤邸(大企業の役員の豪邸)が、地獄を際立たせる背景として使われています。

(菅井きんさん = 麻薬患者役、三船さん、刑事たち)

 VR作品にはCGが使えるという とてつもない利点があるのですから、照明の当て方を工夫してみて下さい。
 画面の印象は、照明ひとつで全く異なってくるはずです。

 ともあれ、地獄の深みが描かれて、天国は より高く感じられます。『白雪姫と七人のこびと』Snow White's Scary Adventuresも、ウォルトは「これは、お化け屋敷」ですと明確に宣言しました。(だって、Scaryな Adventuresなのですから。)
 2021年に公開が予定されている『白雪姫』アトラクションのリニューアルでは「より怖くなくする」改変が予定されているそうです。しかし、それはウォルトの意向にかなった改変なのでしょうか。本当は怖いグリム童話の中の白雪姫は、ホラーでした。個人的な意見ですが、このアトラクションでは、小さな子供は恐怖に「ママ!ママ!」と泣き叫び、そのお姉ちゃんは泣くのを我慢して出口で母親に抱き着くという反応が、ウォルトの狙いではなかったかと思います。例えば、名作『高慢と偏見とゾンビ』のバー・スティアーズ監督などに依頼をして、もっと怖くして貰う改変の方が適切ではなかったでしょうか。
 ファミリーやカップルが、お化け屋敷で肝を冷やしてから 「アリスのティーパーティー」(Mad Tea Party) などに乗れば、ゲストの気持ちは高揚します。ちなみに、1955年の DLで インタラクティブ性があるアトラクションは、このティーカップだけでした。ティーカップの真ん中のハンドルを廻すと、ゲストは より早く回転して高揚します。地獄と天国の対比です。直前の地獄が暗いという効果で、当たり前の日常が 照明を当てたように輝き始めるのです。
 小松左京氏原作の映画『日本沈没』(1973年、森谷司郎 / 中野昭慶 監督、橋本忍 脚本)では、日本人が故郷を失うまでのパニック特撮が大ヒットしました。観客は 映画館から帰れば ご自宅があったので、ほっとしたことでしょう。

 もしかすると、ウォルトは 中央にある お城を(映画美術的に)遠近法で より遠くに崇高に演出するために「たまたま」、一つの入り口(三途の川)という宗教施設と同じ効果を手に入れたのだったかも知れません。ともあれ、ウォルトは、DLのアトラクション開発を通して、
   「三途の川」「地獄」「天国」
という山岳宗教の験徳を得る構成という鉱脈を掘り当てたのでした。

 ダンテが『神曲』(14世紀初頭)の中で、三途の川(一つだけの入り口)、地獄・煉獄・天国の順に神界の旅を続けていることは先に記しました。西欧の地獄のイメージには『神曲』の記述からイメージされたものが多いようです。例えば、「フランチェスカ・ダ・リミニ」の悲恋には チャイコフスキー(全曲 / 後半はじめ多くの作曲家が霊感をかきたてられました。地獄の炎の表現が、迫力です。


 画像借用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB
 シェフェール画『パオロとフランチェスカ』(1855年) ルーヴル美術館
 ※ ザンドナイ作曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』あらすじ 


 『神曲』は、全体が天界テーマパークの順路マップになっています。この作品はイタリア語の文法を確立した作品でもあるので、誰でも学校で習いますから、イタリア人の恋人ができた人は読んでおくと必ず良いことがあります。Nel mezzo del cammin di nostra vita / mi ritrovai per una selva oscura (人生の歩みの半ばで、進むべき道を見失い、気がつくと私は暗い森のなかにいた)などは暗唱しておくと良いでしょう。
 この本の日本語訳は「格調高く」翻訳するのが伝統ですが、私は 河出の文学全集「ダンテ 神曲」カラー版(平川祐弘訳)が家にあったので、この本は すらすらと読めました。完読に挑戦する人には、河出文庫版 の平川氏訳が 私はお勧めです。無料サンプル の試し読み。)できれば 図書館で、ギュスターヴ・ドレ(19世紀のフランスの画家)の大きな挿絵が付いた「神曲【完全版】」(平川氏訳)も眺めてみて下さい。

 ※ ダンテが『神曲』を書き終えたのは、1321年。2021年は700年祭です。

 ※ 河出書房の『神曲』新装版(平川訳)は、文学全集カラー版の評判が良くて単行本になったものでした。挿絵も全く同じです。中世には書籍が高価だったので一冊の本を何度も読み返す人が多く、そんな人のためにダンテが配慮したという その配慮が、美しい訳文に生きています。聖フランチェスコの有名な『創造讃歌』の詩篇も、おまけで載っていました。現生の旅日記よりも、読んでいて ずっと楽しい内容です。ただ、同訳者が 訳文・注釈の見直しをした 河出文庫版が 2008 - 09年に出版されたことから、『神曲』新装版の古書価格は下がっています。

 また、ドレの絵については googleで「divine comedy dore」を検索しても有名な絵が出てきます。


 画像借用元:http://eclectic-indulgence.blogspot.com/2012/06/review-purgatory-by-dante-alighieri.html

 ドレの『神曲』の美術展もあったようです。MUSEE企画展 ギュスターブ・ドレの『神曲』※ ドレの挿絵の代表作がホームページの下の方に載っています。

 地獄に限定しなければ、宗教施設から引用して展開できそうなパーク・アトラクションのアイデアを いろいろ紹介できるのですが、今回は 地獄に限定しましたので、有名な地獄を下に挙げておきます。


 オーギュスト・ロダン 地獄の門 1880-90年 / 1917年(原型)国立西洋美術館(庭に立っています。)

 ※ 本稿を書き終えてから気付いたことですが、1955年の DL開園時のアトラクションでは、「Snow White's Scary Adventures」と「Toad's Wild Ride」の二つが「ライド型」のアトラクションで(ゲストがベルトでくくられて逃げられずに怖い体験を無理やり感じさせられる)恐怖もの。他のアトラクションの、船によるクルージングなどは、自分が船長になって「航海という未知の経験にチャレンジして幸せを獲得する」アトラクション、という大きな区別が、もしかするとウォルトの中には あったかも知れません。これは まだ、仮説ですので、また後で論じてみようと考えています。(2021.01.06追記)

 日本の地獄は、恵心僧都 源信 えしんそうず げんしん(942~1017)が 984年に著した『往生要集』が中国も含めたベストセラーになっていて、その地獄の表現の方向を決めました。源信は、比叡山延暦寺のお坊さんでした。宇治平等院の鳳凰堂は、地獄ではなく極楽の表現ですけれど『往生要集』からの引用です。『往生要集』も 地獄 → 極楽の順に記述されていますから、怖い思いをしてから極楽で ほっとするという DLの『白雪姫』と同じ効果で記述されています。『往生要集』については、「だから お念仏しなさい」というのが結論です。ダンテもベアトリーチェたちの案内によって、無事に 天国を見学できました。

 『往生要集』については、名著『インド思想史』の中村元先生の書かれた、源信が典拠にしたお経を原典のサンスクリット語とパーリ語で読んで、源信が要約した箇所を指摘するといった「源信も びっくり」の『古典を読む 往生要集』という著作があって、これが秀抜の内容です。今 勉強していますが、改めて、源信の地獄と極楽が日本の美術史にどんな影響を与えたか、とかについて紹介しようと考えています。
 例えば、九品仏にある焔魔堂 https://twitter.com/m_hosokawa0207/status/1332839678291140614 などは中に入れますから、彼女がデートコースに選んでいれば 焔魔堂では 嘘がつけないので 別れ話を切り出されるのかも知れません。まさに、男の地獄です。

 ※ 前回にタンホイザー大行進曲の一部だけしか載せませんでした。こちらが全曲です。 対訳(幕の なかほど)     

VR奥儀皆伝( 8½ )(18)本家テーマパーク(DL)の設計思想『フューチュラマ』『ヴィーナスの洞窟』→ こちら

( 8½ )(9)「暫定総目次

VR奥儀皆伝( 8½ )(20)に続きます。→ こちら

( 8½ )(18)VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2020-12-13 | バーチャルリアリティ解説
 Number18 / 本家テーマパーク(DL)の設計思想 『フューチュラマ』の展示(VR之極意①-1-1)『ヴィーナスの洞窟』(①-1-2)
                          【( 8½ )総目次
 最初に サイトマップを示しておきます。なお、今回から「武田倫招(みちあき)」名での連載です。


 VR之極意: ① 「ディズニーランドが10倍楽しくなる」では、これ以降に、
 ①-1 本家テーマパークの設計思想 DL、1955年)と、
 ①-2 東京ディズニーランドの設計思想( TDL、1983年)、そして、
 ①-3 DL以外のテーマパーク の設計思想、さらに
そこから導かれる将来像を整理します。


 テーマパーク構築技法の序論は、これまでの(11)~(16)に書きました。

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 本家 テーマ―パークの設計思想  VR之極意 ①-1

 ディズニーランドの起源については、専門家でも頭の中が混乱する話題です。

 スパイク・ジョーンズ監督の傑作映画『マルコヴィッチの穴』(1999年)では、私たちは 俳優のジョン・マルコヴィッチ氏の頭の中に自由に出入りできました。が、あんな感じで 1955年のDL開園直前のウォルトの頭の中に入ったら、何が見えたのでしょう。

 『フューチュラマ』の展示 VR之極意①-1-1)

 彼の記憶に一番強く残っていた体験は、1939年のニューヨーク万国博覧会でした。( 極意①-1-1 )

 ゼネラルモーターズ(GM)社の出展したジオラマ展示によるライド・アトラクション『フューチュラマ』(Futurama)を、この万国博の期間中、来場者のうち2500万人が体験しました。GM社の造った近未来のジオラマの圧倒されるほどの強い印象から、50年代のアメリカにはモータリゼーション社会が実際に誕生し、郊外の住宅地の(例えば、2002年の映画『エデンより彼方に』に描かれたような典型的な1950年代の)生活、ライフスタイルが実際に生まれました。このことは、ドクトロウ著の小説『紐育万国博覧会』(1985年)などに詳しく紹介されていますので、それについては、また改めて紹介したいと思います。

 ※ ともあれ、アメリカ社会の近未来像は「XXラマ」と名付けられたメディアによって、この後に注目されました。SF小説の流行も、『フューチュラマ』がきっかけです。



 そして、万国博の当時37歳だったウォルトが『フューチュラマ』のジオラマなどのアメリカの近未来像から受けた感動は、ものすごいものだったと想像されます。この1939年の万国博の感動が おそらく 起源となって、ウォルトは 次の1964年のニューヨーク世界博覧会のアトラクション開発に積極的にかかわりました。ペプシコーラが提供してユニセフのパビリオンとして公開された『イッツ・ア・スモールワールド』を始め、『Great Moments with Mr.Lincoln』『Progressland』『Ford Magic Skyway』をウォルトが新しく開発しました。そして、64年の世界博で公開された後に、これらはディズニーランドに移設されたのです。『Great Moments with Mr.Lincoln』は、リンカーン大統領の感動の演説の再現(The Hall of Presidents)、そして『Progressland』(Carousel of Progress)は、現代の暮らしの中の科学進歩を6つのステージで見せるアトラクションで 観客席が移動することで見物できました。そして、『Ford Magic Skyway』(PeopleMover)は、園内を循環する無人操縦の新交通でした。

 ですから、DLを開発中のウォルトの頭の中で、一番大きなエリアを占めていたのは万国博覧会でした。そして、『フューチュラマ』の感動は、やがて『エプコットセンター』の巨大な未来都市のライフスタイルの実験に結実します。

 ちなみに、ウォルトの没後に エプコットで公開された『Body Wars(1989年)という体感劇場アトラクションは、『バックトゥザフューチャー・ザ・ライド』(1991年)の開発スタッフが口を揃えて「あの揺動は、ひどい。絶対に酔うから参考のために体感しておくべきだ」と言われたので、わざわざ私は そのためにエプコットを訪れて体感した、いわくつきの作品でした。『Body Wars』の観客は ボランティアの乗組員になって車両Bravo 229と一緒にミニチュア化され、2063年に設立された「小型化探査技術株式会社」(MET、Miniaturized Exploration Tech-nologies Corporation)の医師として患者を治療中だった美人のシンシア・レア博士を救い出し、無事に実寸大の世界に戻ってくるという作品です。映画『ミクロの決死圏』(1966年)を元に、ライドにした作品でした。

 『Body Wars』のような試行錯誤もありましたが、『エプコットセンター』の狙いは明確でした。『フューチュラマ』が 50年代アメリカのライフスタイルを準備したように、21世紀の(世界の人々が民族性を尊重したまま融和する)ライフスタイルが エプコットを通して予見できる とウォルトは考えたのでしょう。

 参考までに記しておきますが、映画『トゥモローランド』(2015年)には ウォルトの万国博関連の遺品が映されていました。

 万国博覧会とテーマパークの関連については、また書くつもりです。

 ※ The world of tomorrow「明日の世界」がテーマだった1939年のニューヨーク万国博覧会に ゼネラルモーターズ (GM) 社の出展したジオラマ展示によるパビリオン『フューチュラマ』(Futurama)は、次のようなライド・アトラクションの傑作でした。ここには「20年後の米国の未来像」が精密にジオラマで描かれ、観客は「ムーヴィング・チェア」と呼ばれる座席に腰かけて横に移動しながら広大なジオラマを(ヘリコプタ―くらいの高さから)眺めました。この機構はテーマパーク的には回転率が非常に良い展示方法で、1939年の万国博4500万人の来場者のうち2500万人がこのジオラマを観たそうです。『フューチュラマ』は、テーマパークにおけるトロッコ移動型(ライド)アトラクションの起源になったと言われています。模型の道路が交差する街角を最後にショーが終わり、観客が屋外に出ると「あっ!」、そこは実寸大の道路が交差する街角でした。観客は未来の街の ただなかに出てきたという演出が されていたのです。


 画像借用元:https://www.sjsu.edu/faculty/wooda/149/149syllabus11summary.html

 そして、『フューチュラマ』の展示が(信じられないかも知れませんが)実際に50年代、60年代の米国社会の姿になりました。このとき展示されていたのは「超高層ビルが 立ち並んでいる都心」と、そして「郊外の明るい大規模な住宅地」、さらに その未来的な両者を「高速道路によるネットワーク」が結んでいるという(1939年に想像された)1960年頃の米国の姿でした。『フューチュラマ』で提案された「郊外の住宅地」のイメージは、その後の雑誌の広告デザインにそのまま採用され、実際に建築された住居デザインや そこでのライフスタイルに反映されました。このパビリオンのアトラクションが、米国の将来像を いわば「決定づけ」たのです。

 ※ おそらくウォルトは「XXラマ」というアトラクションを体験したことで、アメリカだけでなく「世界の民族の融和」という近未来を『 It's a Small World 』で示そうとしたのだろうと思います。フランスの哲学者ディドロが1772年に書いた『ブーガンヴィル航海記補遺』には、世界の国々が民族性を尊重したままで融和できる未来がある、というウォルトと同じ構想が先取りして示されていました。実は、20世紀まで西欧の教会からのお墨付きで、「植民地の原住民は自然に属する野生動物と同じなのだから、未開の植民地を発見した西欧人は、彼らを自然の一部とみなして奴隷(家畜)にしても良いし、殺しても構わない」と思われていたのです。南米のある植民地では一つの町の現地人の男性が全員殺されて女性だけが残され、彼女たちと西欧人男性の子孫がその町の住人になったことが遺伝子検査から分かっているそうです。ですから、化生論者のディドロは、そうした西欧人の おちいった「自然 対 文明」という対立を乗り越えるための方策を示していたのですが、18世紀当時は「なんで奴隷にしては いけないの?『風と共に去りぬ』のメイドは黒人奴隷が当たり前でしょ?」という風潮ですから全く理解されませんでした。ウォルトも、断固として「世界の民族が互いに敬意を払いながら融和できる」という理想をエプコットに示しました。厳密に言えば、万国博会場に並ぶ世界のパビリオンの個性あふれる姿 → ウォルト流の『フューチュラマ』構想 → エプコット・センター だったのかも知れません。世界は広く、互いに違っていて理解が難しいように見えても友人になれるのだ、というウォルトの確信は、エプコットという実験都市を生んだのです。「この世界は、喜び、そして、涙。この世界は、希望、そして、恐怖。僕たちが共有できることは、たくさんある。今 その事に気がつくべきだ。この世界は、結局、小さな世界なのだから、」It's a world of laughter, a world of tears. It's a world of hopes, a world of fear. There's so much that we share. That it's time we're aware. It's a small world after all.

 ヴィーナスの洞窟(極意①-1-2 )

 次にウォルトが大きな影響を受けたのは、ルートヴィヒ2世(1845年-1886年)の「リンダーホーフ城」(1878年)だったと私は思います。ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク監督の映画『ルートヴィヒⅡ世のためのレクイエム』(1972年)では、当時の国家官僚から「狂王」と評されて「際限なく国庫の財産を妙なお城の建築に費やした」と非難された この国王の「お城」が、現在のドイツ、バイエルン地方の観光収入の柱になっているので、狂王と呼ぶのは余りにも この国王に失礼だ、というジーバーベルク監督の怒りが134分の映画にさく裂しました。



 もしかすると、「狂った王が国庫財政を破産させる」と心配した周囲の官僚の危惧が、この国王の謎の死を招いたのかも知れません。久生十蘭氏(小説家、ひさおじゅうらん 1902年-1957年)が この国王の死について精査した『泡沫の記 (ルウドイヒ二世と人工楽園)』が青空文庫に入っていて、大変に参考になります。ヴィスコンティ監督の傑作映画『ルートヴィヒ(1972年、237分)を観れば、遺体発見現場の「湖畔の あんな浅瀬で、溺死するはずなんて ないよなぁ」ということも良く分かりました。そして、ルートヴィヒ2世の生前の唯一の理解者が、映画『ルートヴィヒ』でロミー・シュナイダーの演じたオーストリア皇后エリーザベト(シシー)でした。(宝塚歌劇団による 1996年の『エリザベート -愛と死の輪舞-』の主人公です。)皇后エリーザベトが 1873年のウィーン万国博の会場で、神社を建てている大工の「かんなくず」を女官に拾わせたエピソードについては、また改めて考察します。

 19世紀の後半には万国博覧会を開催できる、ということが国威の発揚でした。つまり、産業振興策の貿易を通じての発達と観光の拡大を共に可能にした展示会が万国博だったのです。万国博の開かれたパリには、百貨店という業態が(万国博の即売会場をモデルに)新しくパリに開店し、万国博の「水族館」に使われていたガラスの水槽が百貨店の商品の陳列ケースとして初めて使用されました。洋服屋や靴屋も それまでの訪問採寸・縫製・お宅への持参納品という業態をやめて、百貨店での店頭販売によって財を成しました。国際的な勧業博覧会としての万国博は、購買者の生活習慣や産業構造を変えてしまったのです。
 事実、パリ万国博覧会を通じてフランスは、世界のファッションや香水、美術品、料理などのトレンドリーダーになりました。ウィーン万国博覧会は、「音楽の都」を世界に告知しました。ついでに、ジャポニズムが19世紀後半から20世紀初頭の欧州の最先端の流行になった理由も書いておくと、パリ万国博(特に1867年78年89年1900年)や ウィーン万国博覧会(1873年)で日本の工芸品の優秀さが評判になって争うように購入された お陰でした。フランスの印象派(モネ、マネ、ドガなど)やウィーンの分離派(クリムトなど)は、万国博に展示された日本の工芸品が生んだと言って良いでしょう。葛飾北斎の『神奈川沖浪』は、ダビンチの『モナリザ』と並んで 世界で一番知られている絵画になっています。


 画像借用元:https://www.mbc.co.jp/event/satsumayaki/ 黎明館
 http://girlsartalk.com/feature/24504.html 東京都庭園美術館
 https://www.koransha.co.jp/news/2015/post_237.html

 【参考】セーヴル陶磁器美術館「薩摩焼パリ伝統美展」(会期 2007.11 - 2008.2)

 それでは、万国博を開催するだけの財力が無いバイエルンのような小国は?

 ルウドイヒ二世が考えたのは、「デザイナー」がデザインした「おとぎ話のような瀟洒 しょうしゃ な形のお城」を建てて観光の目玉にすることと、そのお城にワグナーの傑作オペラ『タンホイザー』などをテーマにしたライド・アトラクションを用意することでした。また、新機軸のバイロイト祝祭劇場を世界一のオペラ劇場として開場させることでした。バイロイト祝祭劇場は人気作曲家のワグナーによって設計され、バイエルンの国費が費やされています。
 それまでの欧州のオペラハウスは、公演のスポンサーである国王や貴族の姿が観客から良く見えるように設計がされていました。彼らがボックス席を高額で借りているので、庶民は安く鑑賞できたのです。ですから、値段の高い舞台すぐ横のボックス席 - リンカーン大統領は そこで殺されました – からは舞台の半分ほどしか観られませんでした。)
 しかし、バイロイト祝祭大劇場では貴族のボックス席を無くしました。全ての観客が舞台に視線を集中させる平土間の座席に変えたのです。作曲家は、国王や貴族のために(注文を受けて)作曲することをやめて、観客に支持される音楽を作曲するトレンドリーダーに変わろうとしていました。
 それでは、ルートヴィヒ2世(国王)の役割は? 彼が目指したのは、おそらく ワグナーのオペラがアトラクションになったテーマパーク「ワグナーランド」のオーナーになることでした。ですから、ウォルトは「船で遊覧するアトラクションのアイデア」をそこから拝借できたのです。



 話が あちこちしていますが、おそらくウォルトは「「リンダ―ホーフ城」の『ヴィーナスの洞窟』を観て、DLの『ピーターパン空の旅」などの演出を考えたのだろうと私は想像しています。オペラ『タンホイザー』の筋書は こうでした。
 人気のあるシンガーソングライター(吟遊詩人)の騎士タンホイザーは、権威ある声楽コンクール(歌合戦)の場で(最近まで入り浸っていた) 天国の至福を与えてくれる「ヴィーナスの山」に住む全裸の美神ヴィーナスや 格式ある半裸の女性たちの色香を、ついうっかり歌で礼賛してしまいました。さあ、歌合戦は大混乱。大スキャンダルを非難されたタンホイザーは ローマまで巡礼に行って法皇の赦しが得られるまでは出入り禁止(テレビなどから干されること)に相なりました。しかし、法王はヴィーナスが異教の神なので「罪は あまりに重い」と赦してくれません。結局、タンホイザーの許嫁のエリーザベト(オーストリア皇后と同じ名前であることに注意)がタンホイザーのために死んでくれたので、彼女の魂の救済によって 彼の魂も救われるという、「なんだっ!『ファウスト』と同じの結末じゃん」という筋書が オペラ『タンホイザー』だったのです。

 16世紀のファウスト博士が、ヘルメス科学の知識を身につけたことで ある錬金術ファンの男爵に雇われ、安定した身分と生活を手に入れたこと。そして あるとき(おそらく)化学実験の失敗で その五体が ばらばらになった( 地獄に落ちた? )という伝説(第七回)を思い出して下さい。そして、ルネサンスの絵画で一番人気のキャラクターが、異教神のヴィーナスだったことも重要です。おそらく、ヘルメス科学やヴィーナスが民衆に絶大な人気だったことで、教会や官僚組織は(プロテスタントを屈服させられなかった失敗に こりて)これらのサブカルの 17世紀の新しい動きを抑圧して叩いて見せることが「権威」の誇示につながる、と考えたのかも知れません。

 19世紀の ルートヴィヒ2世は、オカルト(ヘルメス科学)や異教をテーマにしたパークアトラクションが民衆の心を確実に掴んでいる 21世紀を、200年も昔に予見していたのだと私は考えています。ですから、化生論の歴史は、私には非常に重要だと感じられているのです。

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 このほかに、ディズニーランドの設計に影響を与えていたとされているのは デンマークのチボリ公園なのですが、ここは 東京ディズニーシーに直接の影響を与えた施設でもありますので VR之極意 ①-3 で改めて解説したいと思います。次回は、「東京ディズニーランド」の起源(VR之極意 ①-2)から続けます。( → ちょっと変えて「地獄」を特集することにしました。)

 ※ ディズニーの伝記を読んでも 『フューチュラマ』や「ルートヴィヒ2世」は出てきません。私は 「オズワルド効果」(第十六回)の悲しい経験をしたウォルトが黙っていたからだと考えています。でも、ディズニー関係者も ご存じない重要な開発ヒントではないか、と思ったので、ここに書きました。しかし、ルートヴィヒ2世については、分からないほうがどうかしています。ディズニーランドの真ん中に、ノイシュバンシュタイン城に良く似たお城が建っているからです。

 全くの余談ですが、パリ・オペラ座(ガルニエ宮)の「ファントム」の専用ボックスは 2階の5番ボックスでした。現在は3番に番号が変わり、ここでの鑑賞予約もできるそうです。パリ・オペラ座はナポレオン三世を施主として、1875年に竣工しています。ナポレオン三世のために用意されていたボックスから舞台の全部は見えないそうで、割引価格のボックスになっているようです。
 青山昌文先生の「舞台芸術への招待」(放送大学 2011年)のビデオを昔、繰り返し見ましたが、青山先生によれば、貴族にとってはオペラを平土間で平民のように「全曲を」鑑賞するのは野暮だと思われていた時代だったそうで、ボックス席に簡易コンロを持ち込ませて演奏の途中に料理人に料理を温めさせたり飲み物を飲んだり新聞を読んで、オペラの途中で退出する貴族が大勢いたそうです。もったいないとも思いますが、公演期間を通しての予約席でした。ワグナーは自作の上演では、座のボックス席の販売をやめさせ、貴族も平土間にしか座れないようにして、切れ目のない音楽で途中で席を立ちづらくして、通しで全曲を聴くという習慣を聴衆に強いました。バイロイトでは、レストランもバーも作らせず社交を排して、ひたすらワグナーのオペラに詣でて ただそれだけを聴く「オーディオ道場」みたいな演奏会にしたので、その意味で画期的でした。ただし 経営的には、バイロイト祝祭劇場には「年間ボックス席」が無く「飲食」の収入も無いのでキャッシュフローに乏しく、舞台装置が極端に簡素になるとか、鎧兜のはずの騎士がタキシードで出てくるとかの新演出が多い弊害(?)も見られます。ルートヴィヒ2世が「リンダーホーフ城」に船でオペラを鑑賞するアトラクションを造ったのも、乗船中だったら 飽きっぽい観客でも おとなしくワグナーの音楽を聴いているだろうという目論見があったのかも知れません。

 ※ 武田倫招という名前についてですが、私の会社での体験を書くときに、上田純美礼著「総合アミューズメント企業 セガ」(1995年)ですとか「セガにおけるアミューズメント事業の展開について」(社団法人大阪工業会「新商品・新事業開発研究会」での1993年の社外講演の記録で、講演後に印刷されて会社の内外に広く配布されました)のような公開情報を元に、セガ・エンタープライゼスでの出来事を書くための新しい名前です。 公開済み情報を元に書きますので、本名で書いていた時のように、もしかすると今の会社にとって不利益になるような内容を勢いで書かれるのじゃないかですとか、余計な心配をお掛けすることがなくなるだろうと考えて筆名にしました。
 lemon6868というのは、私の奥さんに「日本のテレビドラマ評」ですとか「フランスの政治家のスピーチの上手下手」とかを喋って貰って(これが的確で可笑しいのです)それを Blogに載せて稼ごうと考えたので goo blogに登録したのですが、賛同されなくて私が使い始めた名前でした。彼女は、唐十郎とか(有名になる前の)三谷幸喜とか三代目市川猿之助とかを多く生で見ていますし、昔のマリ・クレール誌にジャンヌ・モローさんのエッセイを翻訳したりしていたので、彼女をご存じの方なら私の企画にうなづいて貰えたと思います。もっとも、ウォルトが「ウォルトと呼んでくれたまえ。なぜなら、Mr. Disneyと呼ばれると私の父親のことになってしまうからね」と言っていたのと同様に、「武田レモンさん」と呼ばれると、昔、家にいた しっぽの長いキジ猫が動物病院で呼ばれた名前になるのです。それで、改名の必要を つねづね感じていました。しかしながら、女性の武田 lemonさんの登場については、あきらめた訳ではありません。

VR奥儀皆伝( 8½ ) 『謎解き・テーマパークVR』(17) 数理モデルへの薔薇十字団の愛が「科学の未来」です。他に「バックキャスト」「逆工場」「 テーマパーク運営の公式」「バーチャルは仮想にあらず」「神武天皇は九州王朝分家の大和王朝の建国者」こちら

( 8½ )(9)「暫定総目次

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