( 8½ )(55½ )② VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2022-06-26 | バーチャルリアリティ解説
   〇 日本の国宝と その時代 ② の 工事終了しました。 2024.06.04

「白江戦と日本文学史」第二回(中小路駿逸 論文 pp.376-372
                          【( 8½ )総目次

 ※ 7世紀以前に中国と外交関係にあった 倭国は「博多」の九州王朝です。【(55½ )①②③ は、先に(53)(55)をご覧下さい。】その九州王朝は 663年の白村江の戦いの結果、大和朝廷(そのときまで 中国からは 倭国の別種と認識されていました)から「なかったこと」にされました。( その 第2回 )

全三回(

 【要旨】 663年の「白村江の戦い」は「倭国・百済遺民の連合軍」と「唐・新羅連合軍」との戦争で、倭国が大敗しています。ところで『三国志記』などによれば、倭国Aと倭国Bの船は あわせて 約千艘。唐の船は170艘。戦闘が行なわれて、倭国A(中軍)の約400艘が燃えました。。。。。戦闘のあと、倭国B の約600艘は「帰って宜しい」と放されました。唐も新羅も、倭国に対して「更に攻め寄せよう」とする様子 を全く示しておりません。事前に、倭国Bとの話し合いができていたのです。 (第2回)

 《 追記 2024.06: 唐・新羅軍の代表者 郭務悰 かくむそう らによる 倭国軍事拠点の視察(威圧)は、合計 6度(古田武彦氏説)行なわれました。671年の 2000人での来訪が 第六回でしたが、このとき 8年間 捕虜になっていた 筑紫 薩夜麻の大君が 一緒に帰国され、釈放されました。「薩夜麻」が 日本書紀に天智天皇と書かれている人物ではないかと考える歴史学者がおり、仮にこの説が正しいとすると 釈放後に 抑留生活の無理がたたり、また 親しい葛城王が大和に拉致・そこで軟禁されたり、額田王女や 鏡王女が戦利品で(新庄氏説)大和の天皇の妾にされたりした事実に ショックを受けて、帰国の翌月に死亡したことになります。 話を戻して、ところで、唐・新羅軍の 戦勝後 第一回目 の倭国来訪は なんと「白村江」のあと 9か月もたってのこと でした。》


上記掲載論文:中小路駿逸「白江戦と日本文学史」
追手門学院大学文学部紀要 25号(1991年)pp.384-369
(書籍非掲載論文)「訂正並びに補足」付 →  に続きます。


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 以下の内容は(55)からの続きです。

《 本Blogの 今回の工事終了です。本頁は まもなく鋳型化されます。2022.07.xx 鋳型化ここから 》


 〇 日本の国宝と その時代 ② 「小野小町」「荒神谷遺跡 」の 新解釈

 Google Mapで、バス停「博多ふ頭」を検索して下さい。7世紀より前に「倭国の別種」である 大和の高官が、もし 何かの用事で 瀬戸内を通り、九州の倭国を訪問したら「博多ふ頭」で船を降りました。ちなみに、3世紀に邪馬壹(いち)國は 博多にありました。

 邪馬壹(一)國は、現在の バス停「博多ふ頭」JR「博多駅」「太宰府天満宮」を結ぶ直線 が中心(55)です。中村通敏氏が 魏の一里
(76~77m、谷本茂氏説)から 発見されました。そして、
 ここからが、あっと驚くところです。
 西暦7世紀まで、西日本の王権(九州・四国の大部分、山口県、島根県、鳥取県、広島県、岡山県など)博多(難波・淡海)の大君が 宗主として継承してこられました。中国の歴史書では 扶桑の地からの どの朝貢国に対しても 魏志倭人伝の「倭国」の後継国、として朝貢が記録されました。大和朝廷は 九州王朝の分家の皇子が攻め込んで そこにいた巨大古墳を築いた河内の勢力(王朝?)を打ち倒してできた王朝で、「扶桑の東」と呼ばれ(中小路駿逸著『日本文学の構図』)留学生を中国に送ったのは 隋の時代からです。九州王朝 滅亡後に「日本国」の朝貢を始めました。
 
 そして、奈良の平城京の遷都は 710年 でした。(トライアルの 藤原京は、694年。)
 すると、関西の 奈良・大阪・京都には、それ以前に
 外国にまで知られる「天子」の 都は なかった のです(「扶桑の東」でした)から、

 『万葉集』で「都」としての 賑わいが 詠われているのは、
 難波(現在の博多 と 新都心の大宰府)そして 高良(久留米)だったことになります。
 『万葉集』は 九州王朝の名歌を 九州で編纂した、と考えられているからです。

 九州において都として『万葉集』に歌われるのは 大まかにいって二カ所、博多と高良です。ならの字の付く都は、高良玉垂宮を中心としたところでしよう。(注:福岡県久留米市の高良大社です。)この都(なら)は、北は筑後川まで、西は有明の海を擁し、筑後川を自然の要害となして栄えたと思われる都です。今の久留米です。南へ広く栄えていたものと想像いたします。この都が『万葉集』では「あをによし」といわれているのではないか。(略)筑後川は始め東から西へ、九州横断の形で流れて佐賀県境で突き当たり、川の大きな曲がり角に抱かれるように位置する都会が 今の久留米市です。
 (新庄智恵子著『謡曲のなかの九州王朝』p.137「あをによしならのみやこ は 筑後川讃歌」)

 これは、新庄智恵子氏が『謡曲のなかの九州王朝』2004年 に さりげなく記されている個所ですが、私は改めて 頭を強打されたショックを感じました。倭人伝の奴国が室見平野でしたので、『万葉集』の 寧楽 なら は 必然的に「襖 あお によし」の久留米でした。
 Google Map(福岡県) この地図で、「鴻臚館」や、新都心「大宰府」SINCE 618の条坊、商業で賑わった「ナラ」の都(高良大社周辺)、信仰の中心 基山(葛城山)、3世紀に女王国と敵対した佐賀県「吉野」の防衛拠点(天武天皇が アンチ大和軍の レジスタンス臨時政府拠点として「壬申の乱」で勝利された可能性があります)などを観ておけば、ここからの話が分かりやすくなります。

 さて 本Blogでは、7世紀以前の 九州王朝の日常をうかがい知るために、新庄智恵子著『謡曲のなかの九州王朝』から 名探偵「小野小町」の活躍(p.60)をご紹介します。謡曲『草子洗小町』の 小野小町は 九州王朝の宮中で 華やかに 和歌を詠みました。

 ※ 優雅に 天皇の御前での「歌合せ」などが 博多 長生殿で 行なわれていたのは、663年以前です。

 ※ 宝生流・金剛流では『草紙洗』、金春流・喜多流では『草紙洗小町』、観世流で『草子洗小町』。
 本Blogでは『草紙洗小町』の題で 紹介します。
 (謡曲『草紙洗』解説 https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_109.html

 実は、古今和歌集の挙げる「六歌仙」の全員が「九州王朝」の宮廷での和歌の名人だった(新庄氏 p.131)うです。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町大友黒主の六人です。ちょっと 信じられない ようですが、良く考えると 否定できません。

 ※ 江戸時代にも 九州年号 は 良く知られており、研究する人も多かったようです。それで、水戸藩の公式日本史に関与する研究者が、九州王朝を否定してきた という歴史がありました。(713年に藤原不比等が そう決めました。)邪馬壹國の場所が特定されなかったのも、九州と知っていて否定した学者が いたからです。「義」に もとる行為 なので、やめて下さい。まじめな研究者が、本当に迷惑しました。そもそも、713年に そう路線を定めた理由は 対唐政策でしたから、唐が滅亡したときに 公式の日本史の見直しが必要だった、のに 歴史家がサボっていたのが原因です。(専門家は 猛省して下さい。2018年に 米国の軍事方針が変わったので、特に 保険調剤薬局に アジア古来の医薬品を充実させるチャンスなのに 医学界が変化を起こさないことにも これと似たものがあります。)古今和歌集も、これは 九州王朝の歌だから こう解釈するのが正しい、という「裏マニュアル」が 江戸時代には 伝わっていたそうです。その出版が 期待されます。

 『草子洗小町』は、こういう筋書です。小野小町さんは歌の名手として、天皇の御前で和歌を披露しておりました。ところで、悪漢 大友黒主は、天皇の御前での歌合せに小野小町が相手と決まり、彼女とでは到底、勝ち目がないので、前日、あろうことか、彼女の家に忍び込んで下書きから翌日の歌を知りました。そして当日、これは 残念ですが 万葉集の古歌です。こちらが証拠でございます、と万葉集を差し出しました。(大友黒主さんが 悪漢になる歌物語のシリーズが、もしかすると ですが、他にもあったかも知れません。)

 窮地に陥った小町。

 しかし、許しを得て 歌集を水で洗うと、その歌だけが とけて流れて消えました。

 草子を洗った小町の話、が その題名になりました。自害しようとする黒主を、これも和歌への情熱の故と小町は許し、帝も黒主を呼び止められました。九州王朝の帝です。
 めでたい雰囲気となり、

 小町は御代を寿ぎ、和歌の徳をたたえて 舞を舞いました。めでたしめでたし。

 考えてみると、「分流」の大和王朝でも 天皇の御前の歌合せは盛んでした。ですから、本流の九州王朝では、昔から 歌合わせが こう行なわれていましたよ、という伝承が残ったのだと考えると、非常に良くできた謡曲です。

 ※ 謡曲の専門家は、これをフィクションだ と考えておられます。事実なら、めでたし で 済まない可能性もありましたが、もしかすると、色好みの「業平」の逸話と同様に、悪漢 黒主が 和歌の名手 小町らに いろいろな 悪さを仕掛ける 歌物語のエンタメ・シリーズが 九州に あったのかも知れません。と 想像されるのも、『伊勢物語』に こんな話が 載っているからです。例えば、斎宮が妊娠しちゃう不祥事は 九州王朝でも起こりそうで、高樹のぶ子氏の『業平』では、伊勢の斎宮と業平は 朝までお話ししていただけでした。しかも 妊娠は事実で 出入り禁止になった宮家まで あったのですから「(お子を孕ませた)犯人は『伊勢物語』の主人公だと噂されている 業平 とは 別にいました」と匂わせる 告発エンタメが 同書の書かれた目的だったかも 知れません。池井戸潤氏の小説のようです。 『草子洗小町』も 黒主などが犯人の(探偵もの)シリーズの一つだったと考えると、「狂言」の元型で 太郎冠者の へまをしたのが ばれて「やるまいぞ」と取り押さえられた後には 天皇のご英断で すべてが丸く収まる という、まるで エリザベス朝頃までの 西欧の舞台で 神様がすべてを許しておられた ような展開が もしかすると こうした話の元 であったかもしれません。すると、六条御息所や 弘徽殿の女御が『源氏物語』で暴走しても 周囲が非難したり あまり驚いていない理由は(これは 証拠に乏しいのが 難です が)そうした 悪漢ロマン小説が 歌物語の定型として 他にもあった可能性が 考えられないでしょうか。

   余談ですが、俵万智氏によれば、紫式部の すごいところは、
   この位の和歌を詠める実力があったら、この状況で、こんな本歌取りの歌を詠む、
   といった とても ”らしい歌”、を 光の君などが詠んだ、というところ、だそうです。
   現代語訳の 与謝野源氏が、和歌に 全く手を付けず そのまま載せた のは このためです。
   徳川家康を はじめとする武士たちは、句会の教科書 として「源氏」を読みました。

 ということで 想像ですが、九州王朝の エンタメ・ジャンルが、たまたま この謡曲に残った、のかも知れません。大正期の作品でも モダニズムのベストセラー 龍胆寺雄や 川端の『浅草紅団』という浅草ブームを作った小説も 今では 知られていないので、同じように 忘れられたジャンルであったのかも。

 ※ 小野小町は 関西の王朝に 記録がありません。VR奥儀皆伝では 業平の「VR 月やあらぬ」を 取り上げましたが、業平の場合は 九州で詠まれた歌を、歌物語では 業平が京都にいたことにして 舞台を書き改めていました。ですから、VRデジタル復元に関連して、小野小町も 検討する必要がありました。

   魏志倭人伝 = 九州の、和人の王朝の歴史。(和をもって尊しとなす。)
   和歌 = 九州和国の歌。(『万葉集』『古今和歌集』に多数 掲載。)
   和服 = 九州和国の晴れ着。

 ※ 倭国というのは、宗主国から金印を貰うとき「和国です」と自称したら「え、倭国?チビ助の国?」と わざと間違えられ、「字が違うけど 嫌なら 金印は置いて帰っていいよ」と いじわるされたからです。上宮法皇が ”倭国” は字づらが卑しく ”日本” に変える と提唱された、とする伝承があります。

 ということで、小野小町ら「六歌仙」が和歌を披露した天皇は、九州王朝の天皇であった可能性が 非常に高いそうです。ところで、これは 私の予想ですが、
 古代史では、「古代出雲」の 50mの巨大神殿は、誰が どういう目的で建立したのか、


 https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_27_idea.html

などが、これからの話題の中心になると予想しています。

 ※ 九州王朝に関しては、博多では 遺跡が ほとんど建物の下で 見られません。また、大和の箸墓は 卑彌呼と同時代の鏡があって、九州王朝との何かの関係が推測されただけです。現在の時点で、観光バスで 博多や関西に向かっても 古代の社会は土の下です。観光資源が ありません。一方、「出雲大社」では、大社参拝 と「足立美術館」庭園見学 特別コースが、実際の クラブツーリズムの 人気バス旅行でも 外国人観光客を含めた代表コースで大盛況です。ですから、九州と関西にそうした観光施設ができるまでは、どこか出雲の企業が、古代の ピカピカの銅剣 358本レプリカや 正倉院御物の アナログ復元+デジタル復元模型を作って 観光客に さわらせてくれる、などで 出雲観光に協力して頂けないでしょうか。

   また、VR 因幡の白兎 は、保育園の人気キャラに なると思います。自己治癒力 の 医療教材です。

 ※ 現在「島根県立 
代出雲歴史博物館」に常設展示されている 荒神谷遺跡 出土の大量の銅剣(358本、国宝)の出土は九州王朝説を勢いづけると分かった途端、誰がいつ、どんな状況で使用したかの研究が止まりました。「荒神谷遺跡」を 高度なVRでデジタル復元することで、新たな発見があるでしょう。

   出雲 vs. アマテラス軍(?)の 国譲りの戦闘では、傷ついた出雲の戦士が 有馬温泉で湯治したと思われます。
   一部の 敗走した出雲の勢力は、信濃の国まで逃げたそうです。
   通説の「畿内の王権」が出雲を攻めた、とすれば、いくらなんでも 有馬温泉では 湯治しません。

 ところで、新庄智恵子氏『謡曲のなかの九州王朝』の優れた推理で、大和朝廷の「九州王朝 隠し」の「 ”なかったこと” にしよう大作戦」は 713年から本格的に始まったことが分かりました(p.147)「諸国の郡郷の名を改正する」・・・。この年から『万葉集』に登場する有名な地名が 博多や大分で 別の名前に言い換えられ、大和に 旧名を移しかえるという「プロジェクト」が、本格始動しました。聖徳太子の大和の生誕地も、このころ創作されたのです。ともあれ、九州王朝の それまでの歴史書は すべて焚書にされ、

 このときから、大和の「海の見えない田んぼ」に かもめが飛び交い始めました。

 「平城京」遷都 710年。藤原京 694年~。
 それ以前の都は 博多「和京」と呼ばれた大宰府、そして 高良大社の周辺でした。
 博多は『万葉集』には 難波 と書かれており、そこに かもめの飛び交う海が ありました。(新庄氏 P.62 )

 『古事記』      成立 712年
 『風土記』      成立 713年
 『日本書紀』     成立 720年   ・・・ 
九州王朝の出てこない日本史が完成しました。

 ※ 博多ふ頭は、713年以前には 難波津 でした淡海の海 夕波千鳥 ながなけば、は 博多湾です。

 ※ 九州王朝隠しの目的は、これまで日本は 南朝を宗主国にして おりません、と明言するためでした。
 「倭の五王」については、もしも書紀に書かれていたら とても困る 唐には見せられない事実です。しかし、
 唐が滅亡した時点で、日本書紀が それを別の歴史で 覆い隠す 役割は、終了しています。

 九州王朝の旧記については、本当に 残しておいて欲しかった と思います。繰り返しますが、

 『魏志倭人伝』で 女王国が戦った相手は、狗奴国でした。(55
 狗奴国に来ていた 呉の軍事顧問も、呉軍は 魏を通れないからこの戦争は負けです、と言ったことでしょう。
 日本史の試験は 2069年までを 両論併記の期間。以降を、難波(713以前)寧楽(713以前)の復権にしませんか。

 ※ VR奥儀皆伝では、小林美術科学の『日本の国宝、最初はこんな色だった(光文社新書)を、修士コースの学生実習の教科書として 使うことを提言しています。その pp.3-6 に説明されている「デジタル復元の基本」に使われている用語「データ化する」「大きさ、天地左右を整える」「ゴミを取る」「剥落を埋める」・・・なども、業界標準の用語にできると思います。ということで、ここまでの(53)(55)(55½ )①②③ をふまえて、近く 「高松塚古墳」の VRデジタル復元に話を進めます。

 また、白村江の水死兵の慰霊祭を 2063年に行なうことも 提言しておきます。

 ※ 713年の「九州王朝 ”なかったこと” にしよう 大作戦」の ある意味での結末は、京都に起きた天変地異や 疫病の流行だったかも知れません。藤原氏も 大勢が死にました。高松塚古墳 に ヌーヴェルヴァーグの斬新な壁画つきで埋葬されたのは 葛城王(事代主をお祀りする王族)でした(新庄氏 p.140)ので、その ご遺体の首を取って 隠してしまったと噂される 藤原氏 あるいは 実行犯に 天帝が お怒りになったのかも知れません。やがて、明治政府は 満州を植民地にするために 国民を戦争に向かわせましたが、東京大空襲、全国の空襲、沖縄戦、海上封鎖などで 国民に大きな犠牲を強いました。原爆被爆者の内部被ばくや 後遺症を 国内外に隠し続けてきたことが、米国が バイデンドル 0円化で日本経済を棄損しても 日本政府は されるがままになっているだろうという予測を生んでいます。岸田首相が、なめられているのです。

 日本が 胸を張って 東アジアの「普遍的国家」を目指すために、村江の水死兵 の慰霊祭、そして、高松塚古墳では 被葬者の子孫が力を持たないようにと 呪詛で首を盗まれた 葛城王 の慰霊祭を執り行なうことにすれば、卑弥呼(アマテラスのモデル)以来の王統のご先祖や 天満宮(天祖神)八幡大菩薩(高良の神)などが 応援してくれるかも知れません。

 なお、出雲大社の 50m神殿の ミニチュア模型は、万国博クラスに展示したいほど 見事です。

   《 鋳型化ここまで 》
   フェロー武田「日本の国宝と その時代 ②」( VR奥儀皆伝(8½)( 55½ )② )
   Blog TP-VR Attract.のトリビア 2022.7.xx

 【おまけ】 童謡・唱歌: ♪大黒さま
 作詞者:石原和三郎、作曲者:田村虎蔵、1905年「尋常小学唱歌 第二学年 上」に掲載の文部省唱歌。出演:「大国主命」「因幡の白兎」。作詞者 作曲者は、『大黒様』のほか『金太郎』『花咲爺』などのゴールデンコンビです。
 【おまけのおまけ】倍賞千恵子/あざみの歌
 横山弘作詞・八洲秀章作曲(1949年、伊藤久男さんで大ヒットしました。横山氏は、疎開で二度と会えなくなった女性を「あざみの花」に例えました。)あざみは スコットランド国花。花言葉は「独立」「触れないで」。13世紀に攻め込んできた デンマーク軍を、あざみの「とげ」が撃退しました。

 【おまけのおまけのおまけ】さよならはダンスの後に · 倍賞千恵子
 横井弘作詞・小川寛興作曲(1965年) 倍賞さんは、松竹歌劇団の 首席入団生。イタリアの 東アジア映画祭(2023年)で生涯功労賞。さくらさん役 の他に「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)「PLAN75」(2022年)など名演多数。

   ※ 本Blog頁のいくつかを《鋳型化》しています。が、(32)以前の《鋳型化》宣言のない頁や 鋳型化の予告のみの頁でも、修正は校正を主として 論旨を書き換えることをしていません。字数がいっぱいで書き直せない場合には(鋳型化する前に)他の頁に移動させている 場合が あります。


 古今名婦傳「小野小町」豊国三代 山田書店旧蔵

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